雰囲気はどうして放射能のことについて話をしにくい雰囲気になってしまったのかを問う
ています。しかし、当時の雰囲気がそれに尽きていたとは思われません。当時の雰囲気の全
貌はどういうものだったのでしょうか。放射能のことについて話をしにくい雰囲気があっ
たにしても、それは全体の雰囲気の中でどのような位置を占めていたのでしょうか。
地震当初は日本全体が一体感に包まれていたようです。大塚栄志は、《「これで日本経済復興
するぞ」っていう震災後の高揚感なんて、富が空から降ってくるっていう「カーゴ・カルト」
でしょう》(「愚民社会」)と揶揄していますが、それでもそれは自生的なものでした。
雰囲気は本音に由来する雰囲気と建前に由来する雰囲気に区別できます。地震当初の雰囲
気は本音に由来する雰囲気であったといっていいでしょう。「これで日本経済復興するぞ」
という高揚感でしかなかったとしても。
しかし、原発事故の後は、建前に由来する雰囲気が作り上げられました。政府により希釈政
策とドイツ人の命名した政策が行われました。食べて応援というキャッチフレーズや瓦礫
焼却に象徴される被曝を強いる政策が行われたのです。これにより東北との分断が生じま
した。これより先、東北への同情は消え失せたといっていいでしょう。また、被曝を受け入
れるか否かでも分断が生じました。被曝を受け入れないということは言い出しにくいです
が、そこに分断線があったことは否定できません。こうした分断を生じされることは雰囲気
的支配の要諦です。このような分断を生じさせることにより、権益を危うくする方向でのま
とまりができることが防がれました。つまり、脱原発という方向でのまとまりができること
が防がれました。
もっとも、一億総被曝したうえで脱原発することは、一億総懺悔したうえで戦争放棄するこ
とと平行しており、これは雰囲気的支配のもとでも、ありうる選択肢です。脱原発は国民の
大半から支持されています。しかし、脱被曝で一致していないと、被曝を受け入れるか否か
で脱原発は分断されていることになり、まとまりが損なわれます。
このように脱被曝で一致しない理由は、痛みを分け合うというのがこの社会の建前だから
です。このことは脱原発を掲げるデモはそれなりに盛り上がったものの、脱被曝を掲げるデ
モはほとんど行われていないことにも表れています。脱被曝を掲げるデモが表立って支持
されるのであれば、大きなデモは事故の年に起きていたはずです。しかし、大きなデモは脱原発を掲げることで実現したものの、それは事故の翌年のことであり、しかも、デモ主催者
である首都圏反原発連合はシングルイシューであることが大切であると称して、脱被曝を
掲げないことを求めていました。おそらく、《首都圏反原発連合は、敵が設計したガス抜き
のための組織だ。いわゆるバランサー。間違っても米国大使館前でデモが過激化しないよう
に、そして、被曝のことを言わないように、反原発運動を抑制している》(@Fibrodysplasia)
ということなのでしょう。
痛みを分かち合うという建前がこの社会にないのであれば、官僚がいくら被曝を強いよう
としても、断固として拒否されていたでしょう。しかし、こうした建前があるのであれば、
官僚としては、これを用いない手はありません。このような建前を掲げることで国民を分断
しつつ、自分たちの権益を守ればいいわけです。
政治による福島放棄という決断があれば、このような事態に陥らずに済んだでしょうが、そ
のような決断には抵抗が予想されます。痛みを分かち合うという建前に訴えられることも
あるでしょう。そのようなものに直面するくらいであれば、建前の通りに対処すればいいわ
けです。健康被害は隠蔽できますので、責任を問われることはありません。そうせずに福島
放棄を決断すれば、職を追われるおそれがあります。非常事態における決断は政治の仕事で
あるはずですが、このような決断を国民が嫌っていることは事実です。その代わりに雰囲気
的支配が行われることになります。