双葉町の役場ごと埼玉に移転ってどうなの?★25

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109コピペ(茸)
中央仏教学院通信教育部のサイトより

●東北教区相馬組について
--略--
相馬中村藩の移民政策

江戸時代末期(今から220年ほど前)に起こった天明の飢饉によって東北地方は大打撃を受けますが、特に海沿いの相
馬中村藩では農民がほとんどいなくなるほどの壊滅的な被害を受けます(藩の人口が半分以下になったといわれていま
す)。そこで、相馬中村藩では移民政策がとられますが、当時の藩制度のもとでは農民は自由に動くことができず、藩
と本願寺が結託して、他藩から農民を脱藩させて移民を行いました。これが相馬中村藩の移民政策です。移民してきた
農民が真宗の門徒だったので、「真宗移民」とも呼ばれています。
--略--
農民は北陸・越中あたりから集めました。例えば現在の富山県の五箇山地方からの人などです。他域からも時期を分け
て入っていますが、当時加賀前田藩の所領地だった五箇山では、農家の次男坊、三男坊たち(当時は農家は長男が継い
で、次男三男は農地は分けてもらえなかった)を募って、脱藩をさせました。その際には真宗僧侶が脱藩の手引きをし
たようです。脱藩者をだした農家は、その者の戸籍を消して脱藩の事実を隠したりもしたようです。
--略--
110コピペ(茸):2011/10/06(木) 15:25:37.82 ID:Px555vws0
良く聞くのは、真宗移民は地元の農家では土間までしか入れさせてもらえなかった、とかです。また結婚も当然ながら
地元の方とはできませんでしたので、真宗移民同士で行われました。よってお同行内での結束力が更に強まり、真宗寺
院を中心として皆がまとまっているのが相双地区の真宗集団であり、これが相馬組の念仏集団となっています。今でも
地域の古い真宗門徒には農家の方が多数おられます。

地元にいた半農半士の家が、神事などを活発に行うのに対して、真宗移民の農民は「門徒もの知らず」でひたすら農業
に従事してました。勤勉に勤めた結果、いまでは地域でも大きい農家として成功している家が多数あります。また自由
恋愛の時代になった昨今では特に宗派を超えての所帯も多くなったので、ひと時代前にあった差別意識はかなり薄らい
できている、と聞いています。

ttp://www.narisu.net/2011/04/post_11.html
111コピペ(茸):2011/10/06(木) 15:27:42.78 ID:Px555vws0
RT @soraigh: 双葉町は、天命の大飢饉で人口の激減した相馬中村藩が、越中、加賀、能登、 因幡などから農民の集団移民を受け入れて出来た町だった。
苦労して田畑を拓いた入植者たちは、多くは浄土真宗大谷派の信徒で、アカシンタチ(垢新立)と差別的に呼ばれたという。「津波と原発」(佐野眞一、講談社)。
112コピペ(茸):2011/10/06(木) 15:30:29.14 ID:Px555vws0
相馬から双葉、大熊一帯は相双地区と総称されるが、その相双地区への集団入植は、相馬中村藩によって積極的に進められた。
それは天明の飢饉で藩内に大量の餓死者を出したためで、これにより人出不足による農地の荒廃が進んだ。

 これを打開するため、中村藩は北陸などの領外に労働力を求め、移民を集団で導入する政策をとった。
移住民は加賀、越中、越後、能登、因幡までおよんだ。
 当時、移民は幕府からきつく禁じられていたため、移住民たちは、人目につきやすい日中は山林に隠れて夜歩き、
赤ん坊のおむつは笠にのせて干しながら歩いた。僧侶に化けて歩く者もいた。

 因幡から福島の「浜通り」までは相当の距離がある。
だが、平野が少なく耕地面積が狭かった因幡の農民は、新しい土地に行けば田んぼがもらえるという話に飛びついた。
113コピペ(茸):2011/10/06(木) 15:37:49.62 ID:Px555vws0
 道筋は多く海路をとった。なかには、日本海沿いを越後まで歩き通す者もいた。
彼らは、越後から会津に出て、「中通り」を通って相馬に、そして「浜通り」に抜けた。

「他藩からの移民は、シンタチと呼ばれた。祖父たちに聞くと、"アカシンタチ"って言われて、ずいぶん差別されたようです」

―"アカシンタチ"?

「アカは垢のことだ。垢だらけの乞食みたいな連中という意味だろう。
祖父たちは、だから、ここに住んだ人たちは、それぞれ歯を食いしばって頑張ってきたんだと、言ってました」

「親たちがそう言って頑張ってきた集落が、いま消え去ろうとしている。
ここまで苦労してきた先祖のためにも、自分の生まれ故郷を何とか復興しなきゃなんねえなんて思っていたけんどもよ・・・」

(佐野眞一が書く福島第一原発の罪と罰 封印された土地の「記憶」)
114コピペ(茸):2011/10/06(木) 15:39:57.96 ID:Px555vws0
「津波と原発」より抜粋_______________

相馬への移民の大半を占めた北陸地方は、親鸞の教えを固く守って出生児の間引きがほとんど行われていなかった。
このため人口は増加する一方だった。そのことも、双方の利害を一致させた。
だが、大半の移民が浄土真宗の信徒だっただけに、浄土真宗の寺がなかった相馬中村藩の先住者との婚姻は困難だった。

そこで、相馬中村藩では加賀、越中、越後などから若い女を買ってきて移民の嫁にした。
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115地震雷火事名無し(茸):2011/10/06(木) 16:00:20.05 ID:Px555vws0
> 民友新聞連載「原発と国家」始まる。双葉町出身の国会議員、天野光晴と
>梁川町(伊達市)出身、川木田一隆東電社長のコンビが福島県への原発誘致の原動力。
>二人は、天野が県会議員、川木田が常務時代からの同県人として意気投合、「通訳の要らない付き合いだった」。4ヶ月前 aizujin_k

天野光晴 Wikipedia
日本の政治家 天野光晴 あまの こうせい
生年月日 1907年3月26日 没年月日 1995年3月24日

第4代 国土庁長官 内閣 三木内閣 任期 1976年9月15日 -1976年12月24日

第50代 建設大臣 内閣 第3次中曽根内閣 任期 1986年7月22日-1987年11月6日

>福島県双葉郡双葉町に、農業・天野辰記の二男として生まれる。



誘致した天野光晴も農家出身だが、差別されてきた移民?
歯を食いしばって頑張って、最後は原発に頼ったのか