そもそもなぜ行政書士で開業したのですか?6

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22名無し検定1級さん
おしとおる 本名星亨の 生涯
江戸の左官屋として生まれる。父が行方不明となり、母が星泰順と結婚し、
星姓を名乗る。当初は医学を志していたが、英学に転向し、英語教師とし
て身を立てる。明治維新の後には横浜税関長となるがすぐにイギリス公使
パークスと争ったことから免職される。法律研究のためイギリスに渡り、
日本人初の弁護士資格を取得した。帰国後は国内で司法省付属代言人(弁護
士)の第1号となって活躍し、1881年には自由党の代議士(代議員)となり、
政党政治の基礎作りの一翼を担った。

藩閥政治を批判し、1887年の三大事件建白運動に参加し、保安条例で東京
を追われ、出版条例違反で投獄される。釈放後の1892年には衆議院議員に
当選、2代目衆議院議長を努める。1893年に収賄疑惑によって議長不信任案
が可決される。しかし、議長を不信任となったにも関わらず議長席への着席
に固執したため、衆議院から除名された。次回選挙で当選し、政界に復帰する。

朝鮮政府の法律顧問やアメリカ公使を務め、第4次伊藤内閣において逓信大臣
などを務めた。1900年発足の立憲政友会にも参加、かつての政敵であった伊藤
博文からも信頼を受けるようになる。その逞しい政治手腕から「おしとおる」
とあだ名された位だった。だが一方で収賄などの噂も絶えず、金権型政党政治
を築いたともされる。

日本裏面史より見れば、三多摩の村野常右衛門、森久保作蔵など「大阪事件」
以降の自由党右派の壮士たちを暴力団として政界に引き入れたことで、たとえ
星自身が金銭的に潔白であるとしても、東京市政の疑獄の数々には彼の責も大
きいと言われる。また現代日本における、地域への利益誘導による支持獲得の
技法は、彼が築いたとも指摘される。

東京市議会議長であった1901年、伊庭想太郎により市庁参事会室内で暗殺され
た。享年51。