【咲-Saki-】 竹井久×福路美穂子 【隔離スレ】

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335名無しさん@秘密の花園
 予備校の場所の駅とは比べ物にならない、というほどでもないが、やはりこの駅は小さい。
駅のホームに対して地下道も高架もなく、そのままの高さで改札を道が続く。疲れている時に
はありがたいが、なにか身体に力が有り余っている時は、もう少し何とかならないか、と感じて
しまったりもする。
 予備校にいる間に、こちらでは雪が降ったようだ。地面にうっすらと白いものが積もっている。
今はやんでいるが、いつまた降り出すか分からない。なにせ夜は冷える。雪とか霜とか、そう
いう冬の備えは備えすぎてしすぎることはない。
「明日はモモに会おうと思う」
 別れ際。不意にとしか言えないタイミングで、彼女はぽつりと呟いた。街とは違い、人は影
も見当たらない。気温も、風が吹くと震えが来るほどに低い。
「3学期に自由登校になってから、一度も行ってなかったんだ。何を話せばいいのか、何を
 すればいいのか、わからなくなっていた」
 多分、私にではない。私の向こうの、自分の中の東横桃子について、彼女はぽつりぽつりと
話している。
「センターが近いから、しばらく会わなかった。連絡もしなかった。それだけで、ただそれだけで
 私は、どうしようもなく雁字搦めになっていたようだ。いつでも会えていた、ということも、よくない
 ことないかもしれん」
 だからな。彼女はようやく、焦点に私を捉えた。
「明日会って、喋って、抱きしめる。好きだと言う。好きだと言わせる」
 宣言するように言った。決然とした、何か少年が誓いを立てるような表情だった。それが実
によく彼女に似合っていたので、私も微笑み返した。
「しっかりね」
「何言ってる。竹井もだぞ」
「え?」
 彼女の表情が、今度はいたずらっぽいものへと変化する。訝しむ私に、彼女は煽るように告げた。
「今度の講義に報告だからな。私はモモに。竹井は福路にだ。事情はわからんが、竹井も福
 路も、そんな顔のままじゃ、ちゃんと春は迎えられないぞ」
 じゃあな。私の返事を待たず、彼女は身を翻した。あっけにとられたまま、私は後ろ姿を見
送った。別れの返事もできなかった。また彼女もそれを待たず、すたすたと惚れ惚れとするよ
うな速度で、ぐんぐん遠ざかっていく。もしかしたら、見えない頬をまたも赤くしているのかもし
れない。しばらく、彼女の吐く息の白さだけが、煙突からの煙のように見えていた。

 ほう、と私も息を吐いた。自分の中のもやもやも一緒に吐き出そうと思ったが、上手くはいか
なかった。それはまだ胎内に、数式やら文法やらと一緒に、ぐるぐると渦巻いていた。
 もしかしたら加治木ゆみに心配されるくらいには、私も美穂子も、酷い顔をしていたのかもし
れない。それに気づいて、また息を吐いた。寒さが歯茎に染みた。鋭い痛みが頭を刺した。
 私、貴女の大学を受けようと思うの。彼女がそう言った時、私の胸に去来した感情は、嬉しさ
よりもむしろ別のものが強かった。ある種の戸惑いが心にあった。それは罪悪感に似た氷塊
だった。自分のせいで彼女の人生を狂わせてしまったのではないか。その思いに怖くなった。
 私が美穂子に何と言ったのか、私自身は何も覚えていない。ただ、美穂子の意志の強い瞳に、
穏やかさや優しさの中に隠れた何かに、鋭く胸を抉られていた。そのことだけは、はっきりと覚えている。
 美穂子に最後に会ったのは、きらびやかなクリスマスの次の夜だった。そのときの美穂子は
少し痩せて、ひどく疲れているように見えた。美穂子の強さを知りながら、しかしそれはあまり
にも痛々しく私に映った。だから私は、予定通り神社に合格祈願のお参りをした後、そろそろ帰
ろうかと早急に提案した。美穂子はふわりと笑った。普段通りの笑顔だった。そうしましょうか。
美穂子は言った。そしてす、と私の正面に立った。訝しむ私を窘めるように眉を寄せて、美穂子
はぎゅっ、と私の両手を握りしめた。久。笑顔のままだった。久。好きよ。ずっとずっと、好きよ。
これから1000年会えなくても、これから1000年、ずっと好きよ。こつん。そのまま、美穂子は
額と額を合わせた。唇だと、肌が荒れちゃうかもしれないから。呟くように言うと、鼻先だけでくす
りと笑った。そして来た時と同じくらいの唐突さで、美穂子はまた私から離れた。
 そしてそれ以来、私と美穂子は同じ空気を吸えていなかった。
336名無しさん@秘密の花園:2010/01/28(木) 22:33:30 ID:2+2tOvtv
 滑りそうになる脚を無視して、私は走り続けた。胸の中の情動が、灰の底に埋まっていた
私自身に、ようやく火がついたようだった。あの夏の感覚が、まだ何枚かの膜に包まれては
いるが、やっと右手に戻ってきた。今度、加治木ゆみには例の缶コーヒーを奢ろう。そう決
める。彼女の言葉で、火がついた。自分の中の、大事な何か返ってきた。自分がどれだけ
駄目だったかに、今やっと気がついた。
 息が荒い。それでもいい。肉体的な痛みなら、むしろ歓迎できる。精神的に停滞している
よりも、何倍もいい。そう。春を待つのは、趣味じゃなかった。忘れていたかもしれない。春
を迎え撃つことを。攻めることを。何も考えずに、ただ悪い待ちにしていたわけではない。
すべての可能性を考えて、その待ちにしただけだ。だから、今回もそうするべきだ。
 息が上がる。関係ない。地面が滑る。知らない。私が知っていることは、美穂子が今多く
のものを犠牲にして努力しているということと、2人で生きようと約束したことだけだ。だから、
走る。伝え切れていない想いを伝えるために。抱き締め切れていないものを抱きしめるために。

 ぜえ、ぜえとまことに品のない呼吸をしながら、私は壁に手をついた。一軒家が数十ほど密
集している場所の一角に、私はへとへとになって到着した。ぜえ、ぜえ。痰交じりの息を吐きな
がら、私は軽く笑ってみた。いくら彼女との会話で火がついたとはいえ、まだバスもある時間
帯なのに、駅から美穂子の家まで30分も走るなんてどうかしている。本当に、どうかしている。
座り込みたいという欲求が身体全体から出ていたが、私はそれをすべて黙殺した。どうかしな
ければ、恋なんて出来ない。女の子にキスしたりしない。壁を這うように進む。美穂子の家は
目の前に見えていた。2階の美穂子の部屋には、まだ明かりがついている。ぜえ、ぜえ。息が
定まらない。このままだとインターホンも押せそうにない。ふう、と大きく息をつく。危うく下半身
がずるりと滑りそうになり、慌てて踏ん張った。
 その瞬間。がらり、とどこからか音がした。うるさかったかな。首をすくめて、その音の方へ
と目線だけを向かわせた。
「……久?」
 私を久と呼ぶのは幾人かいる。しかしこんな声で私を呼ぶのは、世界で一人しかいない。
その声でまた気が抜けた。既にかくかくと笑っている膝が、致命的な打撃を受ける。ずるず
ると滑りそうになる身体を、私は両腕で必死に支えた。さすがに雪の上に座り込むのは避け
たいところだ。
 私が何を言おうか、そもそもこの体勢をどうしようかと回らない頭を回しているその20秒
ほどで、玄関の扉が開いた。上から私を見て、状況を察してくれたのだろう。美穂子はまさ
に着の身着のまま、といった風情で、私の右腕をとってくれた。
「久。どうして」
「まって。ちょっとまって」
 私はふらふらと美穂子に抱きついた。首にタオル、上半身は鼠色の半纏、下半身は学校指
定であろう赤いジャージの美穂子は、戸惑ったように私を支えた。
「息、切れてて。やっぱり、急に走っちゃ、駄目だね」
 ともかく、呼吸を整えなければ話にならない。あー、とわけのわからない音を出しながら、
それでも私の喉はなんとか通常を取り戻しつつあった。美穂子は何も言わずに、私の背中を
とんとんと叩いてくれた。
 数分ほどで息が戻ってくれたので、ふう、と息を吐き、美穂子から離れた。そのまま塀に凭
れかかる。
「ありがと。助かったよ」
 お礼のつもりで軽く右手を挙げる。
「美穂子が出てきてくれなかったら、ずぶ濡れになるところだったよ。ほんと、助かった」
 心配げな美穂子の表情が、その言葉でようやく和らいでくれた。
「なんだか久がいるような気がしたの」
「ナイス勘」
 息を大きく吐いた。これで、最後だ。このまま汗が冷えるのを待つ時間はないし、そもそも、
私の燃え上がった気持ちが、身体が治った途端にむくむくと姿を表してきている。なにせ美穂
子が目の前にいるのだ。1月あまり会っていなかった美穂子が。匂いもたっぷり吸い込んだ。
これで気分が乗らない方がおかしいだろう。
337名無しさん@秘密の花園:2010/01/28(木) 22:37:07 ID:2+2tOvtv
「それより久。今日はどうして」
「好きだ」
 へ。美穂子の口から、珍しく吐息のような呟きが漏れた。少し笑って、私はずるずると塀をず
り上がった。
「好きだ、って言いたくて。来ちゃった」 
 ははは。そこまで言って、私はようやく塀から離れた。2本の足で立って、正面から美穂子を
見据える。美穂子の半分くらい開いた口から、白い息がふらふらと漏れている。
 首に白いタオルを巻き、ぽかんとした赤い顔の美穂子は、やはり壮絶に可愛らしかった。頭
の中がぼうっとしてくるのを感じた。
「他にも沢山。まだ私の言いたいこと、全然言えてない気がしたんだ」
「……久」
「寒いからすぐに言うよ」
 まだまだ身体が熱い。逆に冷えだしたら危ない。本当に後先を考えていなかったと今更なが
らに思う。でもいい。なにせ美穂子に会えただけで、昨日の部屋の中での暗い思考は、糸の
切れた風船のようにどこかへ飛んでいってしまったのだから。
「入試終わったら、一緒に敦賀の加治木と徹夜麻雀するから」
「えっ?」
「絶対勝つから。美穂子も負けちゃ駄目だよ」
 一気に言った。美穂子はさらに困惑した表情を浮かべる。構わず、一歩近づく。
「次はラブホテル行こ。大きくて広くて綺麗なところ。そこで1日中裸で、抱き合おう」
 ぶわっと美穂子の顔に朱が散った。それを視界の端に収め、私は美穂子の手をとった。
冷たかったので、ぎゅっと握った。風邪を引かせるわけにはいかなかった。私の体温を忘れ
られるわけにもいかなかった。
「ずっとだから。ずっとだよ。二人でおばあちゃんになって、二人で老人ホーム行って、二人で
 じいちゃんばあちゃん麻雀のカモにして、二人で死ぬんだよ」
 こつん、と額と額をつける。あの夜に美穂子が私にしたように。そして頬と頬をすり合わせた。
冷たいかと思っていたのに、熱かったので、少し安心した。
「それ言わなきゃって思ってたら、走ってた。伝えられてないって思ったら、たまんなくなった。
 私が美穂子を、死んでも離さないってことを」
 耳の向こうに、力を込めて注ぎ込んだ。

 美穂子の入試の話を聞いてから、なぜこの一言を言えなかったのか。私はきっと、怖かった。
美穂子が落ちるのが。美穂子に疑われるのが。私には自信がある。落ちても麻雀で食べていく
と覚悟している。そもそも、家にお金がないので大学は国立にしか進学できない。しかし、美穂
子は違う。彼女は私立でもどこでも行ける人だ。だから付属の大学に行くことが自然だったの
に。もしかしたらここから、悪い方へと転がってしまうかもしれない。だからといってやめろとい
うのは、私の気持ちに対する不信を生むかもしれない。そのふたつに挟まれて、私は怯えてい
たのだ。彼女の人生と私の人生、両方に対する怯えが、受験という状況の中で私を雁字搦め
にしていた。
 美穂子の、決めたことには真っ直ぐ殉じる強さも、その実力も、そして私を愛してくれていると
いうことも。私はきっと、知ってはいたけど、信じてはいなかったのだ。美穂子のことを。もしか
したら自分のことも。全国大会が終わり、次は大学に受かることを一番に考えないと、と思った
時点で、美穂子という存在のことをきちんと考えられなくなっていたのかもしれない。美穂子と
向き合えていなかった。理由を付けて放っておいた。少なくとも、解凍した時にばらばらになって
しまうような凍らせ方は、大学に受かったとしてもそれからぎくしゃくしてしまうような付き合い方は、
何かしら間違っているというのに。
 美穂子の入試について、もっと話を聞けば良かった。もっと話し合えば良かった。もっと一緒
に頑張れば良かった。もっと。もっと、一緒に。その後悔にも似た想いが、私をここまで突き動
かしていた。
338名無しさん@秘密の花園:2010/01/28(木) 22:40:34 ID:2+2tOvtv
「……久はかっこいいから」
 呟きが、私の耳に届いた。いつの間にか、美穂子の両腕が、しっかりと私の背中に回されていた。
「私は久も悩んだりするんだ、ってことを、時々忘れてしまうの」
「……美穂子」
 私も、手を背中に回した。以前よりも弾力の減った感触が、それでも手の中に収まってくれた。
 かすかに美穂子は笑ったようだった。
「私、貴女みたいになりたくて」
「私に?」
「きっと久はそんな声になると思ったわ。だから言えなかったのだったかしら」
 思わず離れようとした私の身体を、さらに美穂子は抱きしめた。極寒に一人きりでいる旅人
のようだった。離れそうになった手を、だから私は元に戻した。
 美穂子はゆっくりと、呟くように言った。
「部長の引き継ぎをして、部活に行かなくなって、そしたら私、何もなくなってた。空っぽに
 なっちゃってた。麻雀ばかりやっていたものね、時間の潰し方も、なんだかよくわからなくて」
「なにもないことなんてないじゃない」
「そのときはそう思ったの。本気で、そう思えたの」
 ちょっとおかしくなってたのかしら。僅かに笑う気配がした。
 夜半の住宅地は、誰も通らなかったし、生き物の気配もなかった。空も晴れる気配がなかった。
私の耳に聞こえるのは、美穂子の声と、僅かに早くなった美穂子の鼓動と、どこかを走る車の音
だけだった。
 ゆっくりと美穂子は続けた。
「これが本当の私なんだ、って思ったら。怖くなっちゃった。このまま死ぬまでこうなのかなって」
 でもね。密やかな声が、よく聞こえた。くっついている場所から、美穂子の成分が私の中に
入ってくるようだった。
「目の前に久がいてくれたの。真っ直ぐ走る久が。かっこいい久が。だから、私も久みたいにな
 ろうって、久みたいに生きたいなって」
「それで同じ大学に?」
「ええ。色々と、試してみたくて」
 私はほとんど溜息混じりに、美穂子の耳にゆっくりと言った。
「そんなよくわからない理由で、こんな辛いことしなくてもよかったと思うけど」
「ええ、甘くなかった。受験勉強って、こんなに辛いものなのね。知らなかったわ」
 淡々とした声だった。だから、美穂子の顔が見えないのが不安になった。美穂子は何か普通で
なくなると、声も表情も淡々としたものになる。無理矢理にでも離れようかと思ったけど、美穂子の
腕の力は強かった。
「でも、決めたもの。だから、いいの。行けるところまで、行ってみる。走れるところまで、走ってみる。
 最後まで、やってみるわ」
「……うん」
「だって、私は知ってるもの。私が転んだり、挫けたり、止まったりしたときは、絶対に久が側に
 いてくれるって。それでも久は、私を好きでいてくれるって」
「いるよ。美穂子が嫌がっても、いる」
「だからね。だから、だから久……」
 淡々とした声が、ぼやけた。何かが、溢れたようだった。感じていた体温が一気に上がる。
同時に腕に力が込められた。顔が見えなくて良かったかもしれない。きっと、罪悪感で心臓
が止まってしまいそうなほどに、美穂子はぼろぼろの顔になっているだろう。
「だからね、久。今は、ちょっとだけ。ちょっとだけ……」
 美穂子は泣き虫で傷つきやすいけど、でも普通よりよほどは強い人だ。でなければ名門校
の部長なんて務められない。エースを張ったり出来ない。一人でも、頑張れる。結果が出なく
ても、簡単にへこたれたりしない。負けても、挫けたりしない。でも、だからこそ辛い時に、溜め
込んだりしてしまう。その感情を出せなくなってしまう。人に言えなくなってしまう。並のもので
ない、受験の辛さを。だから今、強いからこそぴんと張りつめてしまう心の糸が、ぷつりと切れ
てしまったのだろう。強いからといって、辛さを感じないわけじゃないのだ。
 美穂子の涙は、聞いたこともないほどに静かなもので、また聞いたことのないほどに苦しげ
だった。きっと、例えば池田ちゃんや先生や両親には、見せたことのない涙のはずだ。泣き虫
の美穂子が、だからこそ見せられない涙のはずだ。だから、これは私が受け止めなければな
らない涙だった。
339名無しさん@秘密の花園:2010/01/28(木) 22:42:41 ID:2+2tOvtv
 真冬に降りしきる雨のような涙は、私の肩にじわりじわりと広がっていった。美穂子は私にし
がみつきながら、二度と離さないとでも言うように、私の背中に力を込め続けた。
「……もっと一緒にいればよかったね」
 呟いた。美穂子越しに、家の明かりが見えた。それはいかにも暖かそうに、いかにも幸福そ
うに映るものだった。でも私にとっては、美穂子の小さな肩と、髪の毛の生の匂いと、少し肉の
落ちた背中が、何よりも愛しいものだった。
 ぽんぽん、と軽く、私は美穂子の背中を叩いた。
「私、かっこよくなんかないよ。いつだって自信ないし、美穂子の気持ちを聞くのが怖くて、ねえ、
 怖いって理由だけで、2ヶ月も聞けないままだったし」
 大学に受からなければという想いが、他の視野を狭めていた。そこまでしなければ駄目だと
勝手に思っていた。それは多分事実ではある。事実ではあるが、それと両立させなければなら
ないものが、確実にあるはずなのだ。
「だから美穂子。一緒にいてよ。それで、私を助けて。私を叱って。私も美穂子の傍にいるから。
 美穂子が泣きたくなったら、そうだね、タオル代わりにくらいならなれるから」
 最後は少し冗談めかした。笑ってくれるかなとも思ったけど、美穂子の涙は止まらなかった。
まるで本当にタオルにするように、美穂子は私をきつく抱きしめた。
「……久」
「うん」
「この久は、夢じゃないよね。消えたりしないよね」
「消えたりしない。離れもしないよ。ずっと一緒だよ、美穂子」
 美穂子は私の夢を見ていたのだろうか。それで、寂しい想いをしていたのだろうか。そう考え
ると私もたまらなくなった。目の裏に熱い何かが登ってくる。まるで幼子が母親にしがみつくよ
うに、私も腕にありったけの力をこめた。
「……久ぁ。寂しかったよぅ。しんどかったよぅ。不安だったよぅ……」
「ごめんね。本当に、ごめんね……」
 崩れかけの美穂子の声が、私の涙声と混じりながら、寒さで凍りそうな空気に溶けていった。





 美穂子が真っ赤な顔を上げるまで、その道には猫一匹も通らなかったし、空からは雨も雪
も降ってこなかった。微笑み合い、唇のかわりに額と頬を擦りつけ合い、そして名残惜しさを
隠そうともしないで別れるまで、私たちふたりだけがそこにいた。誰にも、何にも邪魔はされな
かった。美穂子が扉を閉めてから、急に寒さが襲ってきたが、それでも急いで帰宅してお風呂
にゆっくりと浸かったおかげか、風邪を引くこともなかった。
 いちばん暗くていちばん寒い時期は終わったのだろうと、寝る前に布団の中でぼんやりと思った。
 美穂子と私は似てるということを、ようやく私は思い出していた。弱音にしろ苦痛にしろ、そう
いうことは表に出さないことで、生きてきた人間だということを。まわりには既に、心の奥底の
感情を出せる人間がいないということを。だから、互いを求めたのだと。
 大学に受かることは大事だ。そして美穂子の心のことだって、私には大事なことだ。どちらか
ひとつに偏ってはいけなかった。それを、忘れていた。どうせやるのならば、どちらも手に入れ
てみせるという覚悟が必要だということを、失念していた。
 加治木ゆみには、コーヒーを10本以上は贈らなければならないかもしれない。ちらりと頭の
隅で思った。私がそれに気付けたのは、雁字搦めになった、と言ったときの彼女の顔なのだ
から。彼女ももしかしたら、私や美穂子を見て何かに気づいたのかもしれない。ただ、彼女の
ことだ。そうであっても何も言わないだろうし、私や美穂子に感謝はしても、その気持ちを私た
ちに示さないに違いない。だから、奢るコーヒーは1本でいいか。久しぶりにすっきりとした眠り
に落ちる直前、私は瞼の向こうにいる不機嫌そうな彼女の顔に向けて、軽く舌を出してみた。
340名無しさん@秘密の花園:2010/01/28(木) 22:44:18 ID:2+2tOvtv
 学校の教室以上に見慣れてしまった講義室には、先に彼女が座っていた。なんとなく負けた
ような気分になりながら、ずかずかとわざと彼女の座っている場所を通って、逆側に出た。彼
女は露骨に嫌そうな顔で、こちらを睨み付ける。切れ長の目が恐ろしさを増している。おお怖い。
とはいえ仕掛けたのは私なので、気にせず隣にどしんと座った。
「やあゆみちん」
 無言で睨まれたので、今後はこの呼び名は使わないことに決めた。やれやれ、と首を振って、
私はゆっくりと鞄を開ける。この講義は夕方の中休みの次なので、まだ時間に余裕はある。
 溜息混じりに、彼女は握っていたペンを置いた。
「随分と楽しそうだな」
 皮肉っぽい口調に、私は笑って返した。
「色々とすっきりしたからね」
 そうか。彼女は無表情に言うと、ぐぐっと背を伸ばした。骨の鳴る音がここまで聞こえた。
 十数列並んだ木の机は、最終的には半分くらいが埋まるが、今は両手の指で足りるくらい
の人間しか講義室にはいない。パートのおばさんが、ごしごしと黒板を拭いている。暖房機
がフル回転しているおかげで、部屋はTシャツ1枚でいられるほどに暖かいが、空気の乾燥度
は屋外の比ではない。
 私はどさりと分厚い参考書を置いた。
「美穂子Dだってさ。この時期にそれだと、やっぱ厳しいかも」
 参考書を買うお金がもったいなかったので、私は図書室で借りたものを使用している。すっか
りとよれよれになってしまったそれには、小さく他所の予備校の名前が印字されていた。
「厳しいだろうが、しかし福路だ。案外、私も竹井も簡単にひっくりかえされてしまうかもしれないな」
 自分自身に言い聞かせるような調子もあったので、彼女がある程度は本気でそう言っている
のがよくわかった。私はもっと楽観的だったので、少し不満ではある。とはいえ、判定は11月
頃の模試とセンター試験との合計で決まるものであり、美穂子の場合は、前者のDと後者の
Bの合計でのDプラスだった。よろしくは全くない。もう1ランク下げるのが常道ではある。しかし。
でも、と美穂子は言った。今は11月に解けなかった問題も、少しはわかるようになってきたから。
まだまだ頑張ってみるわね。その言葉を、私も信じるだけだ。少なくとも、これは麻雀の話で
はあるが、私の知っている美穂子のこういうときの「少し」は、決して「少し」ではなかったのだ
から。信じる価値は大いにある、勿論、その可能性があるからこそ、人間は苦しまなければ
ならないのであるが。希望が残っている方が、辛いこともある。
 美穂子の涙を思い浮かべて、私は軽く溜息をついた。
「だから私らも頑張らないとね。本末転倒だけは避けないと」
「まったくだ」
 シャーペンを取り出して、私は明るくくるりと回した。
「まあ美穂子は、私立の1つは受かったって言ってたから。その辺は大丈夫だよ」
「そうか。入試会場で出会ったんだが、受かっていたか。良かったな」
「え、あんたたち一緒のところ受けてたの?」
「国立専願でなければ、学力的にも妥当な選択のはずだ」
 あそこが受かったのなら、こっちが受かる可能性も高いだろうな。彼女の言葉は、しかし私
の頭上を素通りした。これで私が受かり、彼女と美穂子が落ちたらどうしようか。めちゃくちゃ
切ない結果になるんだけど。と考えて、私は頭を振った。一瞬、彼女と美穂子が微笑み合って
いる姿が浮かんだのである。また冷たげな彼女と暖かい美穂子の対比がよく似合っていた。
その雑念は実にリアルで、夢にでも出てきそうだった。頭を振っても消えてくれそうになかった
ので、とりあえず私はシャーペンの芯を少し出して、左手の甲に突き立ててみる。
「竹井、何してる」
「やな絵が浮かんだの。こうでもしなきゃ消えない。みっともないけど」
 鈍い痛みが身体を貫いて、後悔が私を支配する。しまった、とは思っても言ったりはしない。
 彼女はそんな私を冷ややかに眺めると、そうか、と小さく言った。
341名無しさん@秘密の花園:2010/01/28(木) 22:45:18 ID:2+2tOvtv
「その絵はどうせ実現しない。安心しろ」
「当たり前よ。私がさせないわ」
「それにモモがさせないよ」
 一度瞬きをした後、彼女は笑った。どことなくシニカルに見える笑みだった。
「えらい自信だね」
「あいつ、高校卒業したら私と結婚する気でいるから。驚いたよ。あんなこと普通に言われるとは、
 本当に思わなかった」
 嬉しいと怖いが両立している奇妙な表情で、彼女は言った。目は黒板の奥の素粒子あたりを
見ているのであろうか、妙に遠い。私はそののろけ話らしきものをからかおうとして、少しため
らってしまった。なにやら面白い、というよりは怖そうな話になりそうだったからだ。
 ちらりと時計を見る。あと数分で講義が始まる。そろそろ人も増えてきたようだ。彼女を横目で
見て、私は結局溜息混じりに言った。
「あんた受験やめなよ。卒業したら麻雀プロになって、東横さん養ってあげなさい」
 そしたら美穂子の席が空くから。言葉を切って、また横目で彼女を観察する。ゆうに三瞬は動
きを止めて、彼女はふうう、と長い溜息をついた。なにか内蔵に近いものをはき出すような溜息
だった。
「竹井。私もペンを刺したくなってきた」
「実現しそうな絵でも出ちゃった?」
 深刻な顔で、彼女は頷いた。彼女もまた、私とは別の領域でせっぱ詰まっているようだ。
 彼女にはコーヒー一杯分の恩もあるし、何か慰めようか。そう思ったけれど、適当な言葉は
すぐには出てくれそうになかった。それに出てきても、美穂子に使いたくなる類のものだろう。
しばらく首を捻っていると、にわかに講義室に人が増えてきた。時間はすぐそこだ。そして適
当な言葉も浮かびそうにはない。一度首をぐるりと回して、結局私は、数日前のあの言葉を贈
ることにした。
「まあ春の直前がいちばん寒いって言うしさ。頑張ろうよ、お互い」
 彼女の肩を叩いて、努めて明るく言ってみる。その手を眺めることもせずに、彼女はもう一度、
今度は顔を覆って溜息をついた。そしてその1秒後、狙ったようなタイミングで、講義の始業ベル
が高らかに鳴り響いた。