【咲-Saki-】 竹井久×福路美穂子 【隔離スレ】

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323名無しさん@秘密の花園
 夜明けの直前がいちばん暗い。春の直前がいちばん寒い。ええと、これって誰が言った言
葉だっけなあ。想いながらふうと息を吐くと、にわかに身体の感覚が戻ってきた。随分と集中
していたらしい。うん、と休憩のつもりで首を回す。途端にいやに大きな音が鳴った。
 英語の文法を書き綴ったノートは、先ほどの休憩から数えても10ページはめくっているは
ずだ。2、3の重要とされた構文を頭の中で再生しつつ、私は自らの身体に休憩を命じた。途
端に、まるで体重が三倍にも上昇したように、どっと疲れを感じる。少し無理をしていたようだ。
 でもなあ。体重を後ろにかけて、身体を僅かに伸ばした。数年は使用している椅子が、ぎり
ぎりと不吉な音を鳴らした。だからもうすぐに楽しい時間が来る、と信じられるほどに、私は
真っ直ぐな人間ではない。そしてだからといって、今の私を楽しませてくれるのは、そのよう
な妄想以外にはないことも理解している。耐えるしかない。外の天気と同じような寒々しい現
実は、ここ数週間変化がないし、これから数週間先でも変化はないのだ。そのような、昔か
らある誰が言ったかどうかもわからない言葉を、気休めにするしかないだろう。それが本当
に気休めにしかならないことも、よくわかっているのだけれども。
 私は溜息まじりに、シャーペンの裏をとんとんと机で叩いた。上げた目線の先で、デジタル
の電波時計が淡々と秒を刻んでいる。ちりちりと右手が悲鳴を上げていた。ここ数時間ほど
酷使していたことを、声高に抗議しているようだ。ごめんごめん。と独りで小さく呟いてみる。
返ってくる返事もない。せめて幽霊でも出てくれれば、こちらも張りが出るというのに。人間
以外がいたこともないこの部屋は、電灯の明かりに照らされて、相変わらず白っぽい姿でそ
こにあった。
 ふと、ポケットに入れていた携帯電話を引き抜く。着信と受信を確認する際に、わずかに甘
い疼きが走った。しかしそれも一瞬だけだ。ずっと身につけていたのだから、それらがないこ
とくらいはわかっている。わかっているのに一瞬でも疼かずにはいられない胸は、貪欲なの
か単に打たれ弱いのかどちらだろうか。そんな取り止めのない思考をしている中でも、指は
勝手にボタンを弄っていた。ここ数日ほど、何度も刻んだ動きだ。予想通りに出てくるその画
面に、私はまたため息をついた。
「……美穂子」
 福路美穂子の自宅の電話番号、住所が記されたその画面を、私はほとんど涙交じりの目で、
ぼんやりと眺めた。白っぽくて暖かい何かが、私の身体をちらりと走った。






“春よ、来い”




 
 
「や」
 いつも通りの場所にいつも通りの人間を見つけて、私はいつも通りの言葉をかけた。講義の
終了直後の廊下は、講義の途中のしんとした静けさとはうってかわって、何かしらの音で溢れ
ている。冬も深まってきた今では、そこには一生が決まるかもしれない数ヶ月を過ごした奇妙
な連帯感とともに、妙な暗さと浮ついた明るさが同居している。
 加治木ゆみはそのどちらに呑まれることもなく、淡々とそこに立ち、静かに缶コーヒーを口に
含んでいた。
「それいっつも飲んでるねえ」 
「趣味だ」
 ぼそり、というにはいささか険のある口調にも、随分と慣れてしまった。私はふうんと言いな
がら、ズボンのポケットから硬貨を取り出す。それを彼女の隣に立っている機械にねじ込もう
と脚を進めると、それを察した彼女はわずかに身を隅に寄せてくれた。
「ありがと」
 その仕草と同じくらいのわずかさで、彼女はこくりと頷いた。私もそのくらいの調子で、かす
かに笑ってみる。かつん。硬貨が機械に沈む音が、ざわめきのなかでもしっかりと聞こえた。
 ホットカフェオレの缶を手で弄びながら、首をぐるぐると回す。ぐきぐき、と派手な音が、身
体の中を通っていく。身体が固まっているし、頭も渦巻き状になっている。飲料の甘さが、ま
た随分と効きそうだ。
324名無しさん@秘密の花園:2010/01/27(水) 22:35:08 ID:Hbig5qm5
 幾人かが自販機に向かってきたので、私と彼女は講義室に入ることにした。2,3人の顔見知
りに手を振って、埃の舞う部屋へと歩く。
 彼女とはこの時間、同じ講義を受けることになる。初めての講義の時には、知った顔があるこ
とに随分と驚いたものだが、今ではもうすっかりと慣れてしまった。そもそもこの地域に予備校
は数えるほどしかない。気づいてみれば、周りにも見たような顔はいくつかあった。清澄の生徒
もいるし、彼女の鶴賀の生徒もいるようだ。世間は狭いものである。
 私にとっての幸運をふたつ挙げるとすれば、加治木ゆみがいかにも私に「負けたくない」と思
わせるタイプの人間だったことと、その彼女が私の志望校と同じだったことだ。そのことは私に
めらめらと向上心を起こさせ、成績の低空飛行を防ぐとともに、内心の情熱を退屈でしんどい
受験勉強へと駆り立てた。場合によっては、カッコをつけたがる自分の性格と、周辺に国立大
学が少ない立地条件に感謝してもいい。ともかく、学部は違えど、同じ文系で同じ志望校の私
と彼女は、実に健全なライバル同士となっていたのである。
 特に会話もせずに、私と彼女は最前列に並んで座った。
「調子はどうだ?」
「ぼちぼちでんなー」
 彼女が眉を上げるのを見ると、少しは楽しい気分になる。私がにやにやと笑うのを見て、彼女
はもともと渋い顔をさらに渋くさせた。
「まあ現状維持ってとこだよ。そっちは?」
「同じようなものだ」
 ぶすりと言いながら、彼女は鞄から本の束を出した。私もそれに倣う。と同時に、声を出すの
が昨日以来であることも思い出した。なんだかねえ。思わずくすりと笑ってしまった私を、彼女
は妙な顔で覗き込んだ。
「どうした?」
「や、なんでもないよ」
 顔の下半分を抑えながら、私は片目をつぶって見せた。
「そういえば、模試とセンターの組み合わせ返って来るの今日じゃない。どうだった?」
 センター試験の結果に一喜一憂する間もなく、国立組は二次対策を完成させなければなら
ない。それ以前に、センター試験の結果如何によっては、そこで志望校をあきらめなければな
らなくなる場合もある。少し上目遣いで眺めてみても、しかし加治木ゆみの表情は変わること
はなかった。
 潮の満ち引きのように、一旦空になった講義室に、また人が入ってくる。同じ年頃の同じよう
な服装の人間たちが、同じようで微妙に違う心を弄びながら、開始のベルに怯えている。
 ひょいと出された紙を見て、逆に私の眉が寄ってしまった。
「……可愛げないね」
「お前はどうなんだ」
 目論見は外れてしまったが、しかし人のものを見てしまった以上、自分のものを出さないわ
けにはいかない。のろのろと必要以上に鞄を漁ってみたが、残念ながら講義が始まるまでは
少々時間が残っている。唸りながら、私もその薄い紙を投げ出すように差し出した。
 それでも、同じように彼女の眉も寄ってしまった。
「……Aか」
「なによ。あんたもじゃない」 
 自慢してやろうと思ったのに。そう言うと、多分同じような考えがあったらしい彼女も、不満げ
に腕を組んだ。
「竹井は私よりも勉強してないと思っていた」
「ていうかあんたの方が順位は上じゃない」
 何か言葉を飲み込む風情で、彼女は溜息をついた。もっと上だと思っていた、とか思ってい
るのだろうか。その仕草に腹が立ったが、ともあれ私がダメージを負ったのと同様に、彼女の
方も負ったのは事実らしい。それなら彼女に一撃くれたのに満足すべきなのかもしれない。
2人共に合格圏内なのだから。ふう、と私も溜息をついて、鞄から最後の参考書を出した。
あと1分ほどで講義が始まる。彼女も同じように、鞄を横においた。2人で同時に正面を向く。
殺風景な黒板が、鈍い緑色の光を放っている。
「……あのさ」
 あと30秒。私の胸のある部分が、くいっと前に押し出された。
325名無しさん@秘密の花園:2010/01/27(水) 22:37:27 ID:Hbig5qm5
 もしかしたらそれは、その薄っぺらい、そのくせちかちかと目につくその紙を、消しゴムのカス
ほども愛想のない事務員にずいと突きつけられた時から、ずっと私の胸で悲鳴を上げていた
部分かもしれなかった。
「なんだ?」
 少しゆっくりと彼女は言った。私の心の中まで見透かしたような響きだった。だから私は、
彼女の方は見なかった。見ることが出来なかった。
「なんでもないよ」
「そうか」
 ベルが鳴る。同時に講師が入ってくる。途端に消える会話と、起こる咳払いの声に、私たち
も姿勢を正した。何よりもまず優先されるのは、ここで知識を詰め込むことだ。軽く首を振って、
私も参考書を開く。同じように、彼女も本を開いていた。
 もしかして美穂子の事、何か知ってるかな。飲み込んだ言葉は、暫く空中を漂った後、泡に
なってどこかに消えた。




 予備校の近所にあるそのそば屋は、早くも安くも美味くもない店だったが、それでも私と彼女
がちょくちょく利用する場所になっていた。理由は私たち自身にもよくはわからない。萎びた雰
囲気が案外合っていたのかもしれない。
 私はカレーや丼ものにも挑戦するが、彼女はいつも天ぷらうどんを食べている。それも趣味
らしい。麻雀のあの柔軟さと、こういうことは違うようだ。
「最近麻雀打ってる?」
 親子丼を口に運びながら聞いてみると、彼女は麺を啜りながら首を振った。
「牌に触れてもいないな。最後に部活に顔を出したのも、そういえば去年だ」
 ふうん。卵混じりの白米が、ぐるぐると口の中で回っている。ぱさついていて濃い味だった。
これもはずれかなあ。頭の中でぼんりと考えていると、きつい目で彼女が私を促しているのを感じた。
 口の中のものを飲み下して、私も首を振った。
「こっちもだねえ。センター終わってからしようかとも思ったけど、全然余裕なかったよ」
 目の前に彼女がいるにも関わらず、言葉と共に郷愁の波が押し寄せてきた。咀嚼をやめて、
私は軽く目を閉じる。夏前からの、いや宮永咲が現れてからの、あの怒涛のような日々。合宿、
地区大会、練習、また合宿、そして全国。血液の温度が10度も上がったかと思うほどの、熱く
て充実した日々だった。それに。
 それに、美穂子がいた。
 まだ温くはなっていないが美味しくもない丼を、無言で口に運ぶ。戻ってきた現実は、このぱ
さぱさした舌触りのように、味気ないものだ。ふと正面を見ると、彼女もぼんやりとうどんのつゆ
を眺めていた。
 似たようなことを考えているんだろうなと思うと、たまに感じる妙な親近感が沸いてくる。美穂
子とは違う意味で、彼女とも似ているのだろうとはよく感じることだ。弱小の部を率い、3年目に
ようやく出場できた。その気持ちを共有できるのは、私には彼女くらいしかいないし、おそらく彼
女もそうなのだろう。性格は違えど、腕は認めるところだ。
 彼女はわずかに首を振ると、箸で器用に溶けかかった天ぷらを掴んだ。
「懐かしいな。まるで10年も昔のようだ」
「うん」
 彼女はそれをつるりと吸い込む。私も鶏肉を噛みしめた。煮すぎて固くなっていた。
「いい大会だったな」
「うん。いくつになっても思い出すよ、きっと」
 深く木目が入った机は、年期を感じさせるほどに黒ずんでいる。20人くらいしか入れないだろ
う狭い店内には、室外機の音が大きく響いていた。店の奥にある小さなテレビの向こう側では、
髪を振り乱した真っ赤な口紅の女が、大きな包丁を振り回していた。それを暇そうな店主が面白
くなさそうに見ている。店内にはこの3人しかいないようだ。そして立て付けの悪い扉の向こうを、
甲高い笑い声が通り過ぎていった。
 おもむろに彼女は器を両手で持つと、ずるずる、とつゆを啜った。
「おかしいな。私たちはまだ18だ。それなのに、なにか老人みたいな話ばかりだな」
 ぐいと口元をふくと、彼女は僅かに笑った。自嘲にも郷愁にも見える、微笑みだった。
「もしかして燃え尽きた?」
 同意したかったが、私が彼女に是と答えてはいけないような気もして、私はわざとからかい口
調で言った。そしてまずい丼を掻き込む。彼女はぴくりと身体を震わせると、今度は口元だけで
ふふと笑った。
326名無しさん@秘密の花園:2010/01/27(水) 22:39:19 ID:Hbig5qm5
「そういえば、竹井とはちゃんと勝負したことがあったかな」
 丼を置くと、私も笑った。
「個人戦のことも忘れちゃったの?」
「いいや、覚えてるよ。だがまあ、色々とな」
 修羅場が終わったのか、テレビからは今度はにぎやかな声が聞こえてきた。何かリゾート地
の紹介でもしているようだ。ますます興味なさそうに、ねじりはちまき姿の店主は大きくあくびを
した。透明な冷蔵庫の向こうで、ビール瓶が所在なく立っていた。
「わかった。じゃあ入試が終わって竹井久がいちばん最初に打つ麻雀は、加治木ゆみとのも
 のってことにするよ」
「そう願いたいな」
 ほとんど同時に、私と彼女はコップを手に取った。濃い味とぱさぱさの具材で酷使したからか、
それはやけに爽やかに喉を通っていった。




 冷たい風が容赦なく吹き付けてくるので、店を出た途端、私も彼女も思わずコートの前に手が
伸びた。空を大きく覆った暗闇が、寒さをより激しくしている。首のマフラーを突き抜けるように、
寒気が体中を刺してきた。この風さえなければ、少しは過ごしやすいのだろうに。自然と体勢が
前のめりに、足早になる。日本でこうなら、シベリアはいったいどんなものだろうか。頭の隅で、
ちらりとそんなことを思った。よくはわからないけど、きっと人が住むには厳しすぎるものには違
いなさそうだ。
「竹井」
「なに?」
「福路がな」
 思わず私は彼女へと向き直った。彼女は真っ直ぐに前を向いている。
「私は元気だから心配しないでと伝えてくれ、だそうだ」
 彼女を通じて、美穂子の姿が浮かんだ。少し小さくなったような背、さらに細くなった腰。そし
て僅かに厳しげな顔。あの夜のときの美穂子が、私に寂しげに言う。心配しないで。いかにも
美穂子が私に言いそうな言葉だった。だから、聞いてもいないその声が、私の耳に響いた。
 首を振って、俯く。一瞬忘れた寒さが、身体に染み込んできた。
「……どこで?」
 不明瞭な私の言葉にも、彼女は正面を向いたままだった。
「偶然だ」
 短くて彼女らしい答えだった。そう。私は呟いて、コートの真ん中をぐっと握った。
 私と同じ大学を受験することについて、家や学校でどのような反対があったのかを、私は
まったく聞いていない。また3年の夏から、エスカレーター式の学校でわざわざ国立大学を
受験しようとする美穂子がどのように見られているのか、それも私は知らない。
 私が知っていることは、私のように1年の頃からある程度の準備をしてきたわけでなく、さら
に成績も付属校で少し上くらいの人間が、夏も終わりに近い時期にいきなり受験勉強を本気
で始めるということは、とてつもなくしんどいだろうということだけだ。
 雨も雪も降りそうになかったが、空は綺麗に雲で覆われているらしかった。夜の闇の向こう
に、星の光はひとつも見えない。
「そういや貴女のことも話したっけ。負けたくない奴がいるって」
 少し上の方を見ながら、呟くように言った。駅までの道は、人通りはそれほどでもない。そも
そも、人混みを外れるために、そば屋で時間を潰したようなものだ。
 彼女は何も言わず、しっかりと前を向いて歩いている。
「元気だから心配しないでって、はは、いちばん心配しちゃう言葉だよねえ」
 だから、一人で喋った。一人だと、自然に言葉に自嘲が混じる。美穂子の内に秘めた意志
の強さは、よく知っている。だからこそ、私は。
 ふ、と隣の彼女が足を止めた。
327名無しさん@秘密の花園:2010/01/27(水) 22:43:22 ID:Hbig5qm5
「私も心配するなと言った」
「え?」
 1歩遅く、私もそれに気づいた。振り返る直前に、呟きにも似た彼女の声が、私の耳を叩いた。
あまり表情の変化は見えないが、それははじめて見る顔だと感じた。彼女の、きっと恥ずかしげ
にしている顔なんだろう、と思う。彼女はらしくもなく、僅かに俯き加減で言葉を続ける。
「先輩は思い詰めるタイプだから心配だ、と言われたからそう答えた。そしたら、じゃあ心配し
 ないでいいですね、とえらく笑われた。だからいいかと思っていた」
 私もきょとんとした顔をしていたのだろう。彼女は今度は顔をはっきりとわかるくらいに紅潮さ
せた。それで、私は思わず微笑んでしまった。その誰かの口調を真似ようとして、少し考えて
真似なかったような仕草が、なんだかひどく可笑しかった。
 笑い出した私を見て、彼女は拗ねたようにポケットに手を突っ込んだ。
「ともかく、私もそうなんだ。福路だって、同じ気持ちだろう」
 どうやら私を慰めようとしているのだろう、ということに私はここでようやく気づいた。普通なら
そういうことはすぐに気づくものなのに。やはり加治木ゆみはこういうところで損をしているよう
だ。目線は彼女の太股あたりに寄せたまま、それでも私は別のことを口にする。
「明るい人なんだね、その人」
「……明るくは、ないな」
「じゃあ前向きな人?」
「まあ、極端な言い方をすれば」
 なぜだか苦しげに彼女は答えた。あらあら。微笑がさらに大きな笑いに変化しつつあった
ので、慌ててかみ殺した。本気で拗ねだしそうな気がしたのだ。それに、彼女の気遣いを感
じていない、と思われるのも少し癪なところだ。
「寒いよ。歩こう」
 くるりと向きを変えると、ほっとした気配と共に、彼女の足音も続いてきた。舗装された道
路が、靴をするすると滑っていく。地元とは違って歩きやすいし、光だって多い。人も多いか
ら、煩わしくは感じるけど、何か暴力的なものはなさそうだという安心感がある。
 駅が近づく。周囲は暗い。それでだろうか。ふと、なんでも喋りたくなる衝動に襲われた。
一瞬迷って、結局私は口を開いた。加治木ゆみになら、何を喋ってもいいような気がしたのだ。
それが錯覚でも後悔しないだろうと、なんとはなしに思った。思ってしまった。
「付き合ってるんだ、私と美穂子。恋人的な意味でね」
 後ろに変化はなかった。あっても気にはしなかっただろう。
「今とは正反対の、綺麗で暖かくて素敵な夜だった。星が眩しいくらいだった。それでこうやって
 歩いてて、あー、何話したっけな。覚えてないけど、そう。こんな風に、言われたんだ」
 振り返る。彼女の真剣な目が、私の目を凝視している。呪いみたいに。祝福みたいに。運命
みたいに。すう、と彼女の顔が、美穂子にだぶった。あのときの美穂子の、聖者のような表情
を感じる。
「貴女が好きなの、って」
 ざ、と風が吹いた。彼女のフードが、ばたばたと音を立てて逆立った。私たちの方を見ようと
もしない誰かが、すたすたと通り過ぎていった。かばんを右手に持ち、左手をポケットに入れた
まま、彼女はじっと私の目を見ていた。
 私はまた、向きを変えた。その目が、少し痛かった。自然、いじけたような口調になる。
「……今は寒いし、ここにいるのあなただし、もうまる1月くらい会ってないけど、さ」
 また、俯いた。アスファルトが闇夜のように暗かった。今の私の目もそのように見えているだろう。

はあ、とため息が出る。先ほどの暖かさの残滓が、そこから漏れていった。駄目だなあ。
そう思った、瞬間。
 私は思い切りたたらを踏んだ。ポケットとかばんに支配された両手が、幸いにも敏感に反応
した。腕を伸ばし、それでなんとかバランスを取り、数歩をよたよたと進む。なんとかこけずに
すんだ、というところで、ようやく頭がたたらの理由を突き止めた。
「何すんのよ」
 睨み付けると、私を蹴り飛ばした張本人は、いかにも不愉快げに私を見下ろしていた。数秒
ほど見合う。そしてまた今度も予想外に、彼女は軽く頭を下げた。
「今のは悪かった」
「へ?」
「だが、私だってモモとは1月会ってないんだ。自分だけが不幸のような顔をするな」
328名無しさん@秘密の花園:2010/01/27(水) 22:45:55 ID:Hbig5qm5
 真剣そのものの顔だった。自分だけが不幸、と言われて、一瞬頭が凍る。しかし次の瞬間、
凍った私の頭のどこか奥の方で、情報が自動的に攪拌された。モモ、と彼女が呼ぶのは、
確か鶴賀のあの副将だったはずだ。そう、あの1年の娘。顔は、あー、思い出せないか。
でもなんで今、彼女の名前なんだろう。とそこで、先ほどの恋人の話で彼女が「先輩」と呼ばれ
ていたことに思い至った。そしてこのタイミング。
 私の表情が怒りから驚きへと変化していくのと同じ時間で、彼女の表情は不愉快から羞恥
へと変化した。
「……忘れろっ!」
 走り出す寸前の速度で横を擦り抜けようとした彼女を、先ほどよりも10倍は本気の反射神経で、
左腕の中に捕らえる。すれ違った人が何事かという目線をこちらに送ってくるが、それらはすべ
て黙殺する。
 身体のつくりが同じくらいの彼女の耳元が、ちょうど私の口元に来る。まるで美穂子だ。その
発想をとりあえずは横において、微笑みそうになりながら、そこに確認の言葉を送り込んだ。
「東横桃子?」
「……!!」
「付き合ってんの?」
「知らん!!」
「もう寝た?」
 思い切り身体が弾かれる。顔を本当に真っ赤にした彼女が、噛みつくような視線を私に送って
いた。でも、どれほど睨み付けられても、もしくは本当に噛みつかれていたとしても、今の彼女
の頬の様子では、それは深刻なものにはなりそうになかった。普段の彼女からは信じられない
ほどの可愛らしさだ。東横桃子という人間の印象は、その麻雀の実力から考えれば驚くほど低
いが、なるほど、いい目をしているのだろうなということは理解できた。きっとほとんどの人間が
知らない彼女のそういう姿を、一人でこっそりたっぷり堪能しているのだろう。
 とはいえ、これほどに分かり易い反応をされると、恋人ではないこちらとしては困ってしまう。
それに私も、下世話と思われるのも気が引ける。
 なぜだかコートの首のあたりをきつく抑えている彼女に、私は曖昧に笑いかけた。
「いや、まあ、そういうのはプライベートなことだしね」
「……当たり前だ!」
「でも想像しちゃった。ごめん」
 うっすらと涙を溜めた目が、つかつかと近寄ってきた。頬でも張られるかなと思ったが、数回ほど
秒を旅させた後、結局彼女は大げさ目に溜息をついただけで、その話を切り上げてしまった。
「まあいい。さっきの話よりは、18歳らしい」
 行こう。寒い。短く言って、彼女はすたすたと歩き始めた。私もどこか安心しながら、無言でそれに続く。
 数分ぶりに、隣り合う。駅は間近に迫っている。いつもそのくらいで、寒さに慣れてくるのだ。駅の
明かりが強くなり、比例して人の通りも多くなってくる。それは私たちと同じ年頃の、大きめの鞄を
持った男女が多かった。
 私立の受験が終わったらちょっとは人も減るかな。そんなことを先週、彼女と会話したことを
ふと思い出した。
 彼女の歩く速度は、じわじわと速くなっていくようだった。
「……肌が触れあうと、どうしようもなくなるんだな」
 ぽつり、と彼女は呟いた。胃の奥から食べ物を吐き出すような声だった。
「ゆみ?」
「人の温もりは、よくない。あるのが当然という気になる」
 横目で彼女を盗み見る。さらに胃から出るものを、堪え忍ぶ顔で彼女は続ける。
「モモがいることが当然ということは、モモがいないことを苦痛に感じるということだ。それが、
 消せない。麻雀でも、勉強でも、何をしても、消えない。どうしようもないんだ」
329名無しさん@秘密の花園:2010/01/27(水) 22:48:47 ID:Hbig5qm5
 駅に着いた。言葉を切ったまま、私たちは改札を通った。夕方のラッシュを外れた駅構内に、
人はまばらにしかいない。閉じられた売店とシャッターのかかった商店街は、いつも私に物寂
しさを与える。
 たっぷり5分。無言のままで私たちは歩いた。その間、色々なことが頭に浮かんだ。一度、
美穂子とこの駅で降りて、買い物に行ったときのことも。特に何を買うでもなく、2人でふらふ
らと町を歩いた。適当に入った喫茶店で食べたケーキが美味しかった。いつも行儀のいい
美穂子が、はしゃいでいたのか珍しく口元にクリームを付けていたので、私はそれを指です
くって舐め取った。美穂子はカップの紅茶と同じ色に、その白い肌を染めていた。
 階段を登る時に見えた空は、やはり真っ暗だった。はあ。吐いた息が白く、まるで魂のよう
な痕を空気に作った。階段の一歩ごとに、美穂子の一挙手一投足が思い出された。
「……消えないね」
 発車時間が近いホームは、人でごった返している。そこを隙間を縫うように移動する。降り
る駅で、改札の近い場所になるように、今から移動しておくのだ。その先回りは、いい大学に
入りいい企業に行く、というような私たちの人生のように私には感じられた。なんだか落ち着
かない気分になるね。私は前に彼女に言った。考えすぎだ。彼女はにべもなく答えた。
「今でもさ。道ですれ違った人を、あ、美穂子だ、って目で追っちゃうんだ。でもいつも全然違う。
 美穂子と同じ香水とか、美穂子と同じ髪型とかさ」
「……わかる」
「ちょっとだけ美穂子なんだよ。ちょっとだけ、美穂子を感じちゃうんだ。良くないよね。お腹
 へってる時に、ご馳走の写真見るようなものだよね、あれってさ」
 考えすぎだと私に言った時よりは険しい表情で、彼女は唸るように言った。
「私は眠るときの枕が嫌だ。モモの匂いがついてる気がする。そういうのは、苦手だ」
 言葉の内容と表情のギャップに、私は思わず吹き出してしまった。彼女は先ほどのように
過剰な反応はしないで、ただ顔を赤くしただけだった。酷く低い音量のアナウンスが、ちろち
ろと鼓膜を擽った。
 大きな音を鳴らして、電車がホームに侵入する。ぐにゃりと、集団がアメーバのような動きで、
横に行ったり縦に行ったりを繰り返す。
 人間よりは機械に近い動きで、扉から人がはき出された。そして私たちが詰め込まれ、どこ
かのスタートボタンが押される。警笛。アナウンス。閉じる扉。機械的すぎて、逆に人間性を感
じてしまうような、妙な連続性がそこにはある。
 狭い空間で、人の熱気に包まれる。一気に頬に熱が籠もった。
「……春になったらさ」
 呟いた。窓の外で、光の点が滑るように流れていく。列の後ろの方だったので、私たちは必
然窓際に立つことになる。押さえつけられはしないが狭い車内では、呟くくらいがちょうどいい。
 間近で、彼女と視線が合う。相変わらず強めの視線だった。
「今度はのろけ話しなきゃね。こんな話じゃなくて、もっと、こう、溺れるみたいな」
「そうだな」
 間近だったからか、それとも付き合いが半年を超えたからか。ほとんど変わらない表情が、
しかし穏やかなものになったことを、私は直感的に悟った。それはきっと、初対面の相手では
確実にわからない変化に違いなかった。
「もっと10代らしい話をするべきだろうな、私たちは」
「そうそう。ダブルデートの予定とかね」
「……そういうのはいいんだが」
 そのまま、彼女は窓の外を眺めた。私もそれに倣う。駅までは十数分。それまではこの姿
勢のままだ。
「春が来たらな」
「うん。春が来たらね」
 籠もった声で、スピーカーが次の駅が近づいたことを告げた。