【咲-Saki-】 竹井久×福路美穂子 【隔離スレ】

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309名無しさん@秘密の花園
 夏と呼ぶには風に氷を感じてしまう、夏祭りというには空気に寂寥感が多すぎる、そのよう
な夜だったと思う。勿論冬ほどに寒い日であるわけはなかったし、多くの人が寂しいと感じて
しまうような事象はなかった。もしかしたら寒さも寂しさも感じたのは私だけで、他の人は全く
そんなことはなかったのかもしれない。
 きっと、逆なんだ。福路美穂子という、私にとっての強烈な熱量を感じたせいで、あの夏の
夜が涼しく思えてしまったのだ。それほど、美穂子は熱かった。凄かった。愛しかった。それ
以外のものに、寂しさを覚えてしまう程に。まるで気温が10度も低かったように感じられる程に。
 つまりは、私は美穂子が好きなんだな、と多分心底腑に落ちた、そんな夜だったのだと思う。





“夏の終わり”





 Gパンに目立たない白いカーディガン、5分もかからなかったであろう化粧姿の美穂子が目
に入ったのは、私と彼女の役割が同じだったからだと思う。はしゃぎ回る部員を後方で眺め
ながら、気を配りつつも匂いつきの雰囲気を楽しむ。そのようなことをしている人間は、必然、
周囲の異常のようなものには敏感になるのである。普段心の底にいる人が周囲にいると、
自然に目がいってしまうように。
 田舎にしては大勢の人間がそこにはいたので、風越の麻雀部のメンバー十数人は私たち
に気づかなかったし、清澄の麻雀部のメンバーも彼女らには気づかなかった。グループ間は
最短距離にして5メートルは離れていたし、ざわめきも派手なものだった。もしかしたら親兄弟
でも気づかないくらいだったかもしれない。晩夏の祭りは派手になるものだ。
 頬にわずかな熱を感じて、ふ、と目を上げると、美穂子の左目がふわりとそこにあったのだ。
それは売られているお面に沈み込みそうなくらいにひっそりとしていたけれど、決して埋もれ
てしまうことはなかった。その瞳はきらきらと輝きながら、私の首筋あたりに焦点を合わせて
いた。針で突かれるようなちりちりとした感覚だった。美穂子だ、と私は直感した。目線だけで
私に火傷を負わせられる人間なんて美穂子しかいない。美穂子だ。美穂子だ。しかし私の感
情が喜びへと変化する前に、その熱は拡散する。それは静かな川面のように、するりと皮膚
を流れていった。それでも、刹那にも近いわずかな時間、美穂子の瞳が、私の皮膚を愛撫し
たのを感じた。それは喉の渇きにも似た寂しさと、夏の朝に水を貰った植物のような歓びを私
に感じさせた。美穂子も私を見ていた。その直感が、愛しかった。
 映画の1シーンのよう、とはこういう瞬間のことを言うのかもしれない。部長、と自分を呼ぶ
声で、私の目がいつものものでないということに、私はようやく気がついたのだ。我に返って、
改めて視線を美穂子へと送る。既に美穂子は人混みに紛れていた。ただ、美穂子を守るよ
うに、池田ちゃんが前に立って歩いているのが見えただけだった。彼女が右手に持つ林檎飴が、
火星のようにふらふらと揺れていた。
 怪訝そうに目を顰める和に、わたしはああごめんと笑いかけた。その時にはもう、美穂子
の姿は私の耳の後ろあたりに流れてしまっていた。行ってしまった、と思った。瞬間、先ほ
どまでの人のざわめき、ソースの辛さと何かの甘さが混じり合った独特の香ばしさ、汗ばむ
ほどの下から登ってくる熱気が、一気に私を包み込んだ。包み込まれて初めて、自分が自失
するほどに美穂子に見とれていた、ということに気付かされた。一瞬の間を数分と錯覚するほどに。
 いや、ちょっと違うな。歩き出し、かすかに一人ごちる。美穂子にではない、美穂子の瞳にだ
な、と。宇宙をそこだけ切り取り、向こうの全く別の何かが透けて見えているようなあの瞳が、
私という存在をきりきりと刺したんだと。美穂子のそのほかの部分は、美穂子を認識した瞬間
に、あるいは私の脳の内部に吸収してしまったのかもしれない。目が、あの目だけが思い出さ
れる。そもそも美穂子はそれほど目立つ格好、目立つ体格をしているわけではない。むしろ池
田ちゃんの浴衣姿の方が、よほど人の目を引く気がする。それでも、あの美穂子の瞳は、しば
らくは私の身体から消えてくれそうにはなかった。刺すように、唇で吸いたてるように、まさに一
瞬で私のすべてを愛撫していったあの瞳を。
 心臓が熱くなっていたので、私はパイナップルを一切れ買った。250円のそれは、甘みと冷た
さで過不足なく私の内部を冷やしてくれた。鼓動がじわりじわりと冷静なものに戻っていく。火
照った身体が静まっていく。
310名無しさん@秘密の花園:2010/01/19(火) 20:50:56 ID:ABg+vEwl
 ぼんやりしとんかー。まこが綿飴を囓りながら、肘で私を突っついた。京太郎と優希がはしゃぎ
ながらヨーヨーを釣っているのを、さながら若い夫婦のように、微笑んで和と咲が眺めている。
皆で浴衣を着てきたせいか、和の胸はいつも以上に人の気を惹いているようだ。私は別にと軽
く応え、パイナップルの棒で肩を叩いた。歯に挟まったパイナップルが、少々気持ち悪かった。
出店は延々と続き、まるで夢の中のように終わりが見えなかった。水が跳ね返り、きゃっと優希
が小さく悲鳴を上げる。とんと人ごみに咲が背中を押される。にぎやかじゃなあ。もしかしたら私
とまこも夫婦のように見えているのかもしれない。そうねえ。まこは軽く首を傾げて、また右手の
綿飴をぱくついた。和はまるで抱きかかえるように、咲の身体を支えている。
 もう夏も終わりかしら。私は呟いた。やっぱり久はぼんやりしとるの。達観したような声でまこ
は応えた。私は浴衣の前を押さえた。美穂子の視線があったような気がした場所が、ふいに熱
を私を意識させたのだ。首筋が、ちくりと痛んだ。美穂子は視線だけで、私の体温を上げられる、
この世界で唯一の人だ。まこ。私は胸に置いた手を解き、頭の後ろに持って行った。次お好み焼
き食べにいこっか。まこはにいっと笑った。広島風なぁ。私もくすりと笑い、頷く。胸がちりちりと熱を持つ。
 美穂子の前だと表れるだらしない私を、彼女たちにはあまり見せたくない。そんな竹井久の
プライドが、私の背中を伸ばしていた。





 運命という言葉は信じられなくても、幸運という言葉は信じられる。私が5人とはぐれ、仕方ないな
と人混みを外れてぼんやりとしているとき。あの白い美穂子が所在なげに佇んでいる姿を発見して、
私の頭にはその熟語が点灯した。山奥の神社というものは、道を外れると人間がふっといなくなる場
所があるものだ。その同じ場所、同じ時間に、ふたりがふらりと合わさってしまう。それは幸運に違いない。
 私の視線に、美穂子はすぐに気がついた。私の視線は美穂子の右手のあたりを泳いでいたのに、
わずか1、2秒で美穂子はこちらを向いた。そして私を認識した瞬間、ふわりと両目が開く。色の違う
両目の中に、等しく私の像が写る。わずかに右に首を傾けて、美穂子はにっこりと笑った。晩夏が初
春に戻ったような笑みだった。
「久」
 小走りで、美穂子が私に近寄ってくる。木々を少し外れた、井戸を左手にした薄暗い場所だった。
私と美穂子が再び出会うのに、誂えたような場所だった。
「美穂子」
 出店の真ん中は叫ばなければ言葉が通じないほどの喧噪なのに、そこから出店を抜け3メートル
ほど入ったここでは、心臓の音が聞こえそうなほどに静かになる。私の発した言葉が、うわずってし
まったのも聞かれているだろう。
 目映い光を背に、美穂子は喜色を溢れさせていた。
「素敵な浴衣ね、久」
 私は途端に真っ赤になって俯いた。青の生地に色とりどりの花火をあしらったその浴衣は、確か
に私のお気に入りである。でもだからこそ、恋人ににこやかに褒められると、何やら気恥ずかしく
なってくる類のものだ。私は顔を一瞬で熟れきったトマトのようにして、両肩を両手で抱いた。
「……美穂子は浴衣じゃないんだね」
 我ながら稚拙な言葉だ。美穂子は軽く首を傾げると、また一歩私に近づいた。
「久は私の浴衣を見たかった?」
 自分の肩を抱いたままで、私は唇を尖らせた。
「美穂子が私の浴衣を見たいくらいには、きっと私は見たいわよ」
 身体も頬のように火照ってくるのを感じた。汗ばむ熱気は、どうやら私の内側から発されている
ようだ。今の自分は裸よりも恥ずかしい格好をしているのではないのだろうか。浴衣が、皮膚にご
わごわと感じる。美穂子に主導権を握られるというのは、あまり頻繁に起こることではない。
 美穂子は背中で両手を組んだ。
「久。可愛い」
 顔を私に突き出して、美穂子は小悪魔のように笑った。私の中に弱々しい私が隠れているように、
きっと美穂子の中にも、こういういたずらっ子のような美穂子がいるのだろう。そのまま背を伸ばして、
美穂子は私の頬に、自らの頬をすりよせた。
 びくりと身体が震えた。すべすべの白い肌が、私の皮膚と合わさった。
「男の子たちの気持ちが、よくわかる気がするわ。だって、いつもかっこいい久が、こんなに可
 愛いもの」
 くすぐったげに言うと、美穂子は軽く、鳥の羽音のような音を出して、私の頬に唇をつけた。
背筋がぞくりと蠢き、頬に一気に血が上る。くらりと視界が歪む。国士無双を聴牌したときだって、
こんな気分にはならない。
311名無しさん@秘密の花園:2010/01/19(火) 20:57:03 ID:ABg+vEwl
 それでも。それでも、ノックダウンの瞬間に、私はぎりぎりで踏みとどまろうとした。なにせ幸運に
導かれて、ようやく美穂子としかも二人きりで出会えたのである。一方的に翻弄されるのは、竹井
久のされることではない。
 満足そうに顔を離した美穂子に、私も笑いかけてみる。
「貴女の前だけだよ」
 私から一歩を踏み越える。ぎゅっと身体を合わせると、右手で頭を固定した。涼しい風が、辺り
を薙いだ。
「素敵な美穂子の前でだけ、私は可愛くなれるんだ。きっと」
 ぐっと唇を、美穂子の唇に押し付けた。押し出すような吐息が、美穂子の鼻から漏れ出した。
カーディガンの縁を左手でなぞると、それだけでびくりびくりと美穂子は身体を震わせた。私は
逆襲の成功を感じ、独りで少し満足した。ソースの香ばしさはなく、何かの飴のような甘さが、
私の咥内を登っていった。
 唇を離すと、光を背にして、それでも赤くなった美穂子の顔がよく見えた。きっと恥ずかしさは
私と同じくらいだろう。しかし私も、照れも手伝ってさらに顔を赤くしている。そろそろ心臓がもた
ない。理性も本能もぎりぎりだ。視線を地面に落として、私はため息混じりに言った。
「そろそろ破裂しそうだね、私たち」
 ぶん、と一度だけ大きなモーションで、美穂子は首を縦に振った。なぜか目に涙が溢れていた。
私は微笑み、座ろっか、と提案した。毀れそうな涙を乗せて、美穂子の瞳の焦点がその言葉で戻ってきた。





「京太郎と優希がどっか行っちゃって、あれれと思ってたら和と咲もどっか消えちゃって。それ
 でふっと気づいたらまこもいなくてねえ」
 5分たたずに一人になっちゃったよ。笑いながら言うと、美穂子は心配ね、と真面目な顔で返
してきた。そんなに深刻なものではなさそうなのは、私にはよくわかっている。苦笑いでそうだ
ねと言った。
 井戸の縁は暗く、お互いの顔もあまり見えない。夏の夜でも、どこか涼しい空気が漂っている。
喧騒が、まるで夢の中で現実の音を認識するように、何か頼りなく、ぼんやりと聞こえてくる。
しかしそれらを背にして、微笑みながら隣にいてくれる美穂子には、しっかりとした現実感が
あった。
 美穂子は軽く頬に手を当てた。
「私も。素敵なお面があってね。ぼうっと眺めていたら、いつの間にか一人になっていたわ」
 今頃池田ちゃんや細目ちゃんは真っ青になっているのではないだろうか。自らの元キャプ
テンを溺愛する彼女らが、私は本気で心配になってしまった。とはいえ私にとっては、私自
身の幸せが最優先である。彼女らのために、ようやく手の中にいる美穂子を、彼女らに渡す
ようなことはしない。せっかくのお祭りなのに残念だね。私は控えめに彼女らを気遣った。
美穂子も気むずかしげに頷いた。
「そろそろ携帯電話を持った方がいいのかしらね」
 その言葉には、なにやら試練に赴く勇者のような響きがあり、私は吹き出すのを必死で堪えた。
美穂子は機械音痴ではあるが、携帯の通話機能くらいなら問題なく使いこなせるはずだ、と私
は思っている。そもそも美穂子ほどに頭がいい人が、機械を使いこなせないというのはどういう
理屈なんだろう。微笑み混じりに、私はそんなことを考えてしまう。
「でも携帯あると、私たちも待ち合わせがしやすくなるよ」
 実際、それは本当のことだ。美穂子の実家の電話番号も、美穂子の両親が家にいない時間
も知っているのだが、何かしら実家に電話するというのは気が引ける行為である。携帯電話が
あれば、私たちももっと親密な付き合い方ができるだろうに。まるで昭和のような逢瀬は、確か
に女同士の恋愛には必要なのかもしれないけど。
 美穂子は深刻な顔で私を見た。
「久。私が上手く、携帯電話を扱えると思う?」
 今度は堪えきれず、私は吹き出してしまった。あっははは。私は身体を折り曲げて、口も押
さえずに笑い転げた。静かな山奥に、それは必要以上に大きく響いた。祭りの喧噪が、また
遠のいた。
312名無しさん@秘密の花園:2010/01/19(火) 21:01:33 ID:ABg+vEwl
 美穂子はそんな私を、何か複雑な表情で眺めていた。私の笑いは呼吸に不自由を感じ、
咳が出てしまうまで続いていた。
「美穂子。美穂子、そんな理由で悩む高校生なんて、そうはいないよ」
 ぽんぽんと肩を叩く。美穂子は俯き加減で私の攻撃を受けていた。ようやく笑いが収まり、
私ももっとまともなことを言おうと、頭をぐるぐると回転させる。さすがに笑いすぎたようだ。
美穂子は私の麻雀同志であると同時に、恋人なのである。もっともっと細やかにしなけれ
ばならない。
 微笑みながら、私は美穂子の目を見つめた。
「美穂子なら、大丈夫だよ」
 私と一緒のときには、美穂子は片目を閉じることはない。両目で、私を見つめてくれる。だか
ら私は、美穂子に嘘をつくことはない。格好をつけることは、よくあるけども。
「使えなくてもさ、美穂子は大事にするでしょう。通話だけしか使えなくても、使いこなせている
 人よりずっとずっとね。携帯が、ああ、この人に使って貰って良かった、って使い方をするよ。
 だから、大丈夫」
 今も本心を、少し格好をつけて言った。美穂子はじっと、色の違う両目で、私の目を見つめていた。
深い海の底と、宇宙の遠い果てのような瞳が、夕闇の中でちろちろと輝いている。白いカーディガン
の向こうから、灰色のTシャツが覗いていた。少しだけ風が吹いて、美穂子のさらさらの髪をわずか
に揺らした。
 たった数秒後に、風はやんでしまった。髪の毛がぱたりと落ちて、美穂子はゆっくりと微笑んだ。
「少し、自信がないわ」
 でも、と美穂子は続けた。私は無意識に手を組んでいた。
「久が、そう言ってくれるなら。私も、頑張ってみる」
 楔を打ち込むように言った。私も頷いて、美穂子に微笑んで見せた。
「美穂子は大げさだよ。携帯電話のことくらいで、そんな顔することないって」
 実際美穂子は真面目すぎて、細かいところで悩みすぎるきらいがある。すぐに泣いてしまうし、
そうかと思えば自分の中に溜め込んでしまうところもある。麻雀のときの、あのたくましくて息の
長い姿はなんなのかと思ってしまうくらいだ。とはいえ、それほどに繊細だからこその麻雀では
あるのかもしれない。だから、いい。それに、がさつで人を気にしない美穂子なんて、美穂子で
はない。私が気付いて、美穂子と一緒に悩んだり、解決すればいい話だ。
「でも。安い買い物ではないし、私は機械が苦手だから」
「大丈夫大丈夫。私がいるし、部活のほら、池田ちゃんとかだって教えてくれるよ」
 そうかしら。美穂子は笑った。そうだよ。私も安心させるように笑いかけた。どこかからまた
ソースの匂いが、ぷんと風に乗って漂ってきた。




「少し寒いかな」
 日が落ちてから少し経つと、少しの肌寒さが忍び寄ってくる。浴衣の前を押さえて、私は呟くように言った。
「使う?」
 美穂子がカーディガンを脱ごうとしたので、私は慌てて止めた。
「いいよそんな。そこまで寒いってわけじゃないし。それに」
 自分が何を言いたいのかをそこで察して、私はさらに慌てて唇を閉じた。しかし美穂子が聞き
逃すはずもない。ちょこんと首を傾げて、続きを促される。その仕草に、私は弱い。
 また顔が赤くなる。目線も下に向いた。ゆうに10秒は逡巡して、私はどもりながら、口の中に
溜まっている言葉を伝えた。
「み、美穂子に、まだ見て貰いたいから」
 言いながらさらに照れた。着ているものを褒められて嬉しくならない女はいない。それが浴衣
みたいに、普段着ないものなら尚更だ。しかし私は、可愛いなどとは言われ慣れていない。そん
なことをねだったこともない。尋常じゃなく、照れてしまう。まさに清水の舞台から飛び降りる心地だった。 
 美穂子は軽く目を見張ると、穏やかに微笑んだ。
「綺麗だし、可愛いわ、今日の久」
 私の心が見えたような言葉だった。可愛いと言われることが嬉しいことだ、などとは特に思って
いなかった私なのに、なぜそれがこんなにも嬉しいのだろうか。胸が、まるでゼリーの制作過程
を逆戻しにでもしているかのように、熱くどろどろとなっていく。その感覚はあまりに甘美で、私は
それにあまりに不慣れで、気が遠くなりそうだった。髪に簪でも入れてくればよかったかな。ぼん
やりとどこかでそんなことを思った。
313名無しさん@秘密の花園:2010/01/19(火) 21:04:01 ID:ABg+vEwl
 美穂子の手が頬にかかった。美穂子の体温は熱くも冷たくもなく、私の体温と混ざり合った。
「その潤んだ瞳も、浴衣の青に映える白い肌も、とても可愛らしい久も。全部全部、好きよ」
 区切られたような言葉が、美穂子の口から溢れてきた。美穂子の頬も上気しているし、瞳も潤ん
でいる。それでも、それを指摘する余裕は私にはなかった。まるで金縛りにでもあったかのように、
私は動けなかった。美穂子は私の頬を支えると、にっこりと笑った。幸せそうに、欲情したように、
眠る直前のように、笑った。そしてその顔のままで、ゆっくりと顔を傾けた。
 唇が、合わさる。瞬間、子どもが火に触れたように、びくんと震えてわずかに離れた。それを寂しい、
と感じる間はない。刹那の時間で、先ほどよりも激しく強く、美穂子の唇が私の唇を捉える。んん。
甘い、砂糖のような吐息が漏れる。鼻息が熱い。皮膚がそれを感じた瞬間、軽く美穂子が舌を絡
めた。そしてゆるりと咥内を吸う。私の0.01%くらいが、美穂子の中に吸い込まれる。その想像
は私に官能の火を燃え上がらせた。たまらなくなり、私は唇を合わせたまま、美穂子の頭をくしゃ
くしゃにした。右手はそのままで、左手で腰をぎゅっと抱く。まるで予想しているかのように、美穂子
は腰を押しつけてきた。ふぅん。吐息はどちらのものだろう。興奮はどちらが上だろう。私の舌も、
自然に美穂子の中に入っていく。美穂子は驚きも拒絶もなく、自然と私に合わさっていく。くちゃ。
泥を踏むような音が耳に響く。美穂子。美穂子。美穂子。頭の中が均質になる。久。久。久。美穂
子の思考を感じる。私も美穂子の0.01%くらいを吸収したのだろう。口元が妙に甘い。じゅる。
じゅる。美穂子の柔らかい身体が、どんどん熱を帯びていく。私もそのはずだ。美穂子の腕が、
いつの間にか私の首に回っている。顎のあたりに液体を感じる。
 ああ、繋がった。そう感じた。女同士の繋がりは、必ずしも性器への愛撫を必要としない。決定
的な何かが決定的に満たされれば、それは絶頂に近い何かになる。すぐに性行為になる。夕闇
は迫り、周囲には現実感はなく、座った井戸の縁はひんやりと冷たい。そんな場所で、私と美穂
子はまるで蚯蚓がのたくるように、粘膜と粘膜を擦りつけ合った。裸で抱き合うように、唇を押しつ
け合っていた。
 数分だろうか、それとも数十分か。唇を離した時には、既に涎の跡が顔の下半分を覆っていた。
どちらの涎にもまみれた唇が、赤くちろちろと私のすぐ近くで揺れている。そのままで美穂子は、
淫靡に、可愛らしく、心から私を愛しているという風情で、満月のように笑んだ。
「携帯電話、買うわ」
 美穂子の右目から、涙が一粒零れた。それが興奮のせいか全く別のものなのかどうか、私に
はよくわからなかった。
「もっともっと、久と愛し合いたいわ。もっともっと、久といたい。もっと、久の可愛いところを見
 たい。可愛がって貰いたい」
 美穂子の後ろでは屋台の威勢のいい声が響いていたが、それらはまるでガラス越しの演劇
のように、なにかぼんやりと遠くに感じられた。風景を切り取ってそこに天国を出現させたように、
美穂子がきらきらと輝いていた。目も、口も、きっと身体も、私にとっては眩しかった。太陽のよ
うでなく、夜空に輝く月のように、夜の海でひっそりと輝く真珠のように、眩しかった。
「好きよ、久」
 ああ。私は不意に確信した。今までの私の人生の中で、選択肢がいくつかあった。選ぶ時に
自信があるものも、ないものもあった。でもそれらすべて、私は正しいものを選んだのだなと。
私は正しい道を歩けたのだなと。今、美穂子の近くにいられる自分が、いちばん幸せなのだなと。
だから、それでいい。辛いことも悔しいことも悲しいことも、すべては福路美穂子の傍にいるこ
とで、漂白されるのだ。
 涙が出るかと思ったが、私は自分のことでは泣けないようだった。ただ、笑顔がひょいと胸か
ら出てきた。どんな顔をしているのかはわからない。でも、多分会心の笑みだろうと思う。落ち
着いて、完全で、幸せを感じられる、そんな笑顔ならいいなと思う。
「私も。美穂子が好き。世界でいちばん、美穂子が好き」
314名無しさん@秘密の花園:2010/01/19(火) 21:05:35 ID:ABg+vEwl
 この気持ちはなんだろう。神様は何を考えて、人間にこのような感覚を与えたのだろうか。
永遠なんて、そこらのラブソングか安っぽい恋愛小説の中だけの言葉だと思っていたのに。
この瞬間が永遠に続けばいい、なんてろくでもないことを、私は本気で願ったりした。
 遠くの方で、祭り囃子が鳴っていた。それは遠すぎず近すぎず、私たちの鼓膜を揺らしていた。
砂糖が焼ける甘い匂いが、どこからともなく漂っていた。
 暑さの中にも数週間後の秋を予感させる何かがある、そのような夏の夜だった。





 繋いだ手は、汗でじんわりとしている。通常ならばかなりの不快感だろう。それでも、光の
当たる場所に来るまで私と美穂子はそれを外そうとはしなかったし、また私も、多分美穂子
も不快であるとは思わなかった。それが美穂子の肌なのだから、私の肌とくっつくのは当た
り前なのである。私は本気でそう考える。
 だから。人の波に戻る瞬間、その手を離すのが名残惜しかった。夢から現実へ覚めるよ
うな、母親の穏やかな子宮の中から出される時のような気分だ。考えていることは同じだった
のだろう。私の足が止まると同時に、美穂子の足も止まった。
 ちらり、と片目でお互いを見る。言いたいことも、やりたいことも、お互いよくわかっている。
だから、その目線だけで事足りた。私が右手の力を抜くのと、美穂子の左手から力が抜ける
のが、やはりほとんど同時だった。安心のような、切なさのような、もしかしたらまったく意味
がないかもしれない吐息が、美穂子の口から漏れていた。それは人々の明るい声に紛れて、
永遠にこの世界から消滅してしまった。
 重力に従って、まるで花びらが散るように、私と美穂子の手は離れた。肉体の手応えのな
さ以上に、精神がずきずきと痛んだ。
 私と美穂子は、ここまでなのだろう。この線より向こうへは行けない。ここから先はない。
ふたりの話題に上ったことはないが、私も美穂子も、多分よくわかっていることだ。私と美穂子
が一緒にいるときに、女同士だということは、負の意味をもってずっとついて回る。身体から離
れない影のように、ずっと。
「たまに、少し考えるの」
 ぽつりと美穂子が呟いた。背丈が同じくらいなので、鼓膜が辛うじてその音を拾った。
「明日世界が終わるなら、どれだけいいだろうって」
 私たちに気がつくほどに、人々の列には近寄っていない。賑やかな声と賑やかな姿だけが、
目と耳に映る。
 くすりと美穂子の吐息が、ふらふらと揺れる冬の蚊のように聞こえる。
「そしたら私は、好きなだけ久にくっつくわ。いつでも、どこでも。外でも中でも、道路でだって、
 私は久から離れない」
 目の前を、腕を組んだ男女が通り過ぎていった。赤い浴衣の赤い頬の女性が、背の高い男性
と幸せそうに寄り添い、何かを喋っている。
 よくわかるよ。口の中だけで呟いた。よくわかるよ、美穂子。でも私は、竹井久だから。格好つ
けで、それでも美穂子が好きになってくれた、竹井久だから。だから意地でも、死んでも、それ
こそ明日世界がなくなったって、そんなことは言わないんだよ。
315名無しさん@秘密の花園:2010/01/19(火) 21:09:03 ID:ABg+vEwl
「私は違うよ」
 つま先で軽くリズムを踏んだ。軽く視線が上下する。少し、目を閉じる。まるでリーチ後に牌
をツモるときのように、左手に汗が滲んできた。
「麻雀でもさ。地震が来て牌が全部倒れたらとか、そんなこと考えないよ。そんなこと考えない。
 変な牌切っちゃったり、嫌なリーチ来ちゃったりしてもね、それでも一番いい手を捜すだけだから」
 私の言葉なんて、きっと美穂子は百も承知で言ったのだと思う。ぽろりと、こんな夏の夜だ
から、弱音が出てしまっただけだろうと。だから、軽く同意すればよかったのかもしれない。
私もだよ、と言えばよかったのかもしれない。でも、なぜかそのとき、私にそれはできなかった。
それは、散々可愛いと美穂子に言ってもらえた反動なのかもしれない。妙な格好をつけた
かったのは。
「明日世界が終わるってわかってても、私はいつも通り、一番いい手を捜すだけだよ。その
 日だけ特別にはしない。もう終わるからって気を抜いたりしない」
 私もね、あの光の中で、みんなに祝福されて、美穂子とふたりで歩いてみたいよ。でも、
それが駄目なら仕方ないよ。きっと、それにも意味があるんだから。何か、私が美穂子を
好きで、美穂子が私を好きで、それでもみんなに祝福はされない。そんな変な理由がね。
「なんかね。そうしないと、そう考えないと、今まで積み上げてきたものがぐらぐらって壊れ
 そうな気がするんだ」 
 ごめん、偉そうに言っちゃったね。言い終わると、なぜだか涙が出そうになった。思わず俯
きそうになる。でも、私はそうはしなかった。きっ、と前を睨んでいた。そうしなければいけない
と思った。
 背中を汗が流れる。右頬に、美穂子の視線を感じる。その部分が熱い。火でもつきそうだ。
でも、ついたっていい。美穂子に燃やされるなら、構わない。
「……久は、不思議なの。なんだか、物語の中の人みたいで。あんまり、かっこよすぎるから」
 美穂子の声は、ぽつりとした小さいものだったけれど、そこには何かの熱があった。小さくても、
火傷しそうな熱が、確かに声にこもっていた。
「でも、よかった。久を好きになった私は、きっと幸せ者なのね」
 一度息を吸い、吐いて。どこか楽しそうな、遊ぶような響きで、美穂子はその言葉を私に告げた。
「大好き、久」
 猫が気まぐれに鈴を鳴らしたような声だった。火が、消えた。でも熱はまだそこにあった。
熱だけが、私の頬に触れていた。その熱はすぐに言葉になり、私の口をこじ開ける。
「私も大好きだよ、美穂子」
 そう言った。その言葉は数秒だけ私と美穂子の間に留まると、出店の光と甘い匂いに溶けて、
痕も残さず消えていった。
 世界に私と美穂子のふたりだけになっても、きっと私も美穂子もそれだけでは幸せには
なれない。愛以外に、誰か、何か、必要なのだ。パンだけで生きられる人間を、既に人間
とは呼ばないように。私と会うために池田ちゃんとの予定を断る美穂子が、既に美穂子で
はないように。きっと確認したのは、そのようなことだ。私と美穂子が似ているからこその、
愛し合っているからこその、それは取り決めなのだろう。皆を不幸にして、進める道ではな
いということは。
 それでも、くっつきたいな。美穂子はそう言った。そうだね、とは私は言わなかった。くっつ
かないよ、好きだから。そう言った。美穂子は楽しそうに、そんな私に好きだと言った。だから
私は幸せだった。
316名無しさん@秘密の花園:2010/01/19(火) 21:10:55 ID:ABg+vEwl
 数歩ほど進んだところで、キャプテン、と一際高い声が響いた。数秒後、せっかくの浴衣を、
人と沢山押し合ったのだろう、かなりくしゃくしゃにしてしまった池田ちゃんが、美穂子の胸に
飛び込んでくる。いつも耳がぴょこんと立っているのが見える気がするのに、今はそれもぺ
たりと寝ている。美穂子がそんな彼女をぎゅっと抱きしめて、ごめんなさいとありがとうを囁
いていた。やれやれ、と私は天を仰いだ。私と美穂子とのふたりだけの時間はあっけなく終
わったようだ。向こうの方から、別の風越のメンバーも急いでやってくる。頃合か。少し残念
だが、それでも美穂子は、セックスのときなどは正反対の言葉を言ったり言われたりしてい
るが、私だけの美穂子ではない。少し涙が浮かんでいるらしい池田ちゃんに、さすがに美穂
子は苦笑い交じりで、今のキャプテンは貴女なんだから、などと囁いて、背中をとんとんと
叩いていた。まあ、ねえ。私も軽く苦笑いが出た。今は彼女らに、美穂子が必要なのだろう。
「じゃあ、私はこれで」
 とはいえ私にも、少数だが可愛らしい後輩たちがいる。独りになるのは寂しいが、彼女らも
きっと見つかるだろう。そのまま別れのつもりで、軽く手を振った。
 美穂子は一瞬はっとした顔を浮かべた。次の瞬間に、それは罪悪感と寂寥感の入り混じっ
た顔になる。しかし、それはたった2瞬だけのことだった。その次にはいつもの、美穂子の笑
顔が浮かんでいた。色々な人に見せる、美穂子の顔だった。
「ええ、今日はありがとう」
 うん、と私は頷いた。上手い笑顔が出せた。美穂子も池田ちゃんを抱きしめながら、笑顔
を浮かべた。それを瞼の中に入れて、私はくるりと踵を返す。折りしも風越の数人が、人ご
みをぬって美穂子の目前に到着したときだった。



 祭囃子に、香ばしい匂い。明るさと暗さがはっきりした道に、色とりどりの服の人々。祭りの夜
が、急に私を包んだ。それはある程度の寂しさと寒さを私に意識させた。独りだ、と強く思った。
それでも。私の脚は、前に進んだ。それでも、頬は熱を覚えている。耳は、大好き、という、あの
巫女が人々の願いを神に伝えるような声を覚えている。手は、お互いの汗を覚えている。だから、
大丈夫。それだけあれば、私は前に前に進める。寂しさがあって、寒さがあっても、私は真っ直ぐ
前を向いて、真っ直ぐ前にと進めるはずだ。
 好き。口の中だけで呟いた。そうしたら涙が出そうになったので、私は慌てて口をふさいだ。
頭が痛くなるくらいに甘い林檎飴を食べよう。そう考えて、私は今目覚めたばかりの小鳥のように、
きょろきょろと左右を見渡した。