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まだ窓の外の薄暗い時刻、彼女は目を覚ます。眠たげに目をこすりながら体を起こし、手探りでチェス
トの上に置かれた眼鏡をとると、首をひとふり。軽い金髪がふわっと後ろになびいて覗く耳にモダンを
かけた。大きなあくびを手で隠す。くーっと腕をのばして伸びをしたあと、キリッと見開いた目には清
澄な光が差していた。
彼女は寝台を飛び降りると、窓辺に設置されたシェーレンフェルンロールを覗き込む。レンズごしに現
れたのは、早朝の訓練に励む一人の上官の姿だ。彼女はうっとりと目を細めていたが、次の瞬間、大き
くそれを見開いた。上官に歩み寄る一つの影、あれは先日着任した新人――――名前を、そう――――
いいや、そんなことより。
二人は何やら話し出したようだった。上官が笑うのが見える。しゃんと伸びた背筋に、堂々と胸を張り、
腰に手を当てて豪快に笑う、そんな姿にまたもや見惚れてしまう。しかし、その笑いかける相手という
のが、入隊したばかりの新人とあっては、心はあまり平静ではない。いや、それ以外でももちろんいい
ことはないのだが。
「むうー、あの新人、坂本少佐とあんなに仲良くして…」
ふつふつと沸き起こる怒りに拳を握りしめて言った。興奮のあまりくるっと体を反転させると、髪がふ
わっと舞い上がる。
「何なのっ、一体!!!」
ペリーヌは急いで服を身につけはじめた。
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澄んだ朝の空気を斬る素振りの音の合間に、坂本が声を張り上げる。
「腰が入っていない! 引き手の力が足りていない!」
ペリーヌは急いで身に付けた軍服の前を掛け合わせながら走ってやってきた。ひとまず林の陰に隠れて、
身だしなみの確認をする。
「おいおい、どうやら先に基礎体力作りの必要があるな。よし、宮藤、素振りは終わりだ、ついてこい!」
「は、はいっ!」
耳に心地よいその、はきはきとした満点の号令にペリーヌが顔をあげると、上官と新人はもう一方の林
の中へと消えていくところだった。彼女はあとを追いかけようとするも、カフスをとめるのに手間取る
間に二人はどんどん奥へ行ってしまう。
「どうしてあんなちんちくりんの狸娘なんかに、毎朝毎朝、訓練を…っ!」
とがった唇から漏れた呪詛の言葉を聞きつけて、にゅっと木の上からフランチェスカが顔を出した。
「何見てんのっ、ペリーヌっ」
「わっ、きゃあっ、うわあっ」
その狼狽ぶりに、にひひっと口の端を上げるフランチェスカ。
「また覗きだ〜」
「ち、ち違いますっ! だいたいあなたはこんなところで何をしていらっしゃるんですの!」
「今日はここで寝てたんだよ」
得意げにそう言うと、とうっと彼女は降り立った。
「まったくあなたという方は、基地中に営巣して、暇さえあれば、いいえ、なくったって日がな一日寝
ていらっしゃるんですから。少しは新人を見習って…っ!!! …見習って…」
林の中からは依然、素晴らしい掛け声が聞こえている。ペリーヌは唇を噛んだ。
「う〜、朝から機嫌悪い〜、何かあった〜?」
「…あ、あなたなんかに…お気楽なだけのロマーニャ人には永劫関係のないことですわ!」
ふんっとすまして息をつくと、かちこちに肩を怒らせて彼女は立ち去った。意外にも隙を見せないその
怒りっぷりに、フランチェスカは頬をぷうっと膨らませていたが、やがてまた木によじ登った。太い幹
に足をかけてひょいっと跳躍、枝をつかみ腕の力でリフト、手馴れたものだった。寝床を整えるその木
の下を、走り抜けていく坂本と芳佳を見送る。とたんに納得した顔で一回深くうなずいたが、この表情
はたちまち消え失せ、すぐにしゅんと頭を垂れた。
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ペリーヌはふんふんと怒りながら歩いていたが、やがてふっと立ち止まった。そこはおよそブリタニア
らしくないこじんまりとした花壇の前だった。花壇と言うよりは、偶然歩道の端に咲いた花を囲うよう
にして、無理やりレンガで築いただけの不安な城砦。彼女はしゃがみこむと、花のつぼみをそっと撫で
た。掛け声がこだまし、顔をあげると、遠くを走る二人の姿がその目に映った。
「どうしてあの隣を走るのがわたくしではないのかしら、ねえ」
はあっと溜め息をつく。
「いやだわ、わたくしったらまた愚痴を…ごめんなさい、今水を差し上げましょうね」
そう言うと立ち上がり、側に置かれたジョウロに水を汲む。出水口のひじょうに細い真鍮のジョウロは
ブリタニア製だが、その流麗な外観は彼女を満足させるものだった。花壇の上に傾けると、目の細かい
水が吹き出して一面均等にふりそそぐ。ペリーヌはその間も話しかけた。
「こんなお話ばかりしていたら、あなたが拗ねてしまいますわね。ねえ、もうよすから、きっと今日も
綺麗に咲いてくださいますでしょう? ね。きっと。ほらお水を。たっぷり召し上がれ」
それから座り込み、彼女は待った。マリーゴールドは日が昇ると咲くのだ。その瞬間を、今か今かと待
ち焦がれる。しだいに朝日が征空していくブリタニアの空を仰ぎ、ペリーヌはやさしい声音で語りだす。
「ねえ、わたくしが何を考えているかおわかりになって? いいえ? あら、あなたがはじめてわたく
しの前にその可愛らしい姿を現したときのことですわ。あなたはまだ怒っているかしら、最初にあなた
を捨ててしまったわたくしのことを…」
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1940年、突如欧州を襲ったネウロイの大群。必死の攻防も虚しく征服された地を、彼女は空から見下ろ
していた。出身の古城は壊滅、周辺の美しい町並みもが見る影もなく破壊され、土地は瘴気に汚染され
た。カールスラント、ガリア、オストマルク三カ国の、ブリタニアへの国民の一大撤退作戦――ダイナ
モ作戦が決行された九日間を、自由ガリア空軍のパイロットであったペリーヌは、休む間もなく飛び回
った。もうずいぶんと前から召集されっぱなしのウィッチは、自分の家族をかえりみる暇もなく、少な
い戦力で、時間を稼ぐためだけの戦闘をつづけていた。
民間人を乗せた船舶の護衛にあたっていたペリーヌは、ブリタニアにて下船するその中のリストのどこ
にも、自分の家族の名がないことを知っていた。はじめの大規模な侵攻から召集を受けて、家族の安否
を気遣う暇さえなかった。やがてその死を知らされたときも、泣いている暇すらなかった。彼女はいつ
の間にかヒスパニアにいた。
ヨーロッパ本土より逃げ延びた人々の多くはブリタニアに暮したが、彼女の家族は誰一人としてそこに
いなかった。ペリーヌは亡命政府の大部分がしかれることとなったヒスパニアへと渡った。そこで戦地
に赴きながらも、新兵器開発に加わり、積極的にネウロイ根絶に向けて働いた。自分にはそれ以外にや
ることがなかった。ユニットが完成すると、今度のことでブリタニアに集まった優秀なウィッチからな
る先鋭部隊の話を聞かされた。彼女は選ばなかった。いつのまにかここへ来ていたのだ。
当初、集まったウィッチは9名で、そのほとんどがすでに原隊で多大な戦果をあげている英雄ばかりだ
った。彼女は緊張に気をとがらせ、いっそうツンツンと入隊したが、胸の中は矜持に満ちていた。だか
らそのお気楽ぶりに落胆するまでは、一日とかからなかったのだ。
「あたしはフランチェスカ・ルッキーニ、ロマーニャ空軍少尉」
と、その子供は言った。
「ぺりーぬくろすてるまん? ふうん、それで、ペリーヌは何歳? …うりゃっ!!」
言うなり胸を鷲づかみにされた。悲劇はそこに掴むだけのものがなかった、ということじゃない(もちろ
んそれもなくはない)。初の顔合わせに集まった隊員は声を出して大いに笑った。ガリアを奪還するとい
う名目の下、集まった最前線の部隊でそんなくだらない冗談に笑い興じる軍人の姿は、彼女に不審を抱
かせるには十分だった。気楽なものだ。平和なロマーニャからきたこの子供は、今が戦時中だというこ
とをわかっているのだろうか。
「うにゃ〜ん、残念賞」
「余計なお世話です!」
一人ブリーフィングルームを後にして戸外に出た。基地のある孤島に吹きつける風は湿気を多く含み、
涙を乾かしもしない。不快だった。何もかもが不満だった。故郷を破壊したネウロイも、すべてをこの
肩に押し付ける軍隊も。自分をたった一人残してこの世を去った家族も。ペリーヌは胸元に下げていた
香袋を取り出すと、首から引きむしるように取った。おばあさまが『おまもり』にと言って渡してくれ
たマリーゴールドの種。ぎゅっと握りしめる。その拳に涙が落ちる。『おまもり』なんて勝手だ。自分
たちが守ってもらうために、戦場に送り出しておきながら、こんなものの力で守れるものなんて何もな
い。欺瞞だ。全部自分に押し付けておいて、置き去りにしていくなんて。独りぼっちにしていくなんて。
体がその感情に支配されてわなわなと震えた。香袋を地面に叩きつけると、中身がこぼれて一面に舞っ
た。戦火のような夕焼けの中に、笑う理由なんて、生きる理由なんて一つも見つけられなかった。
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孤島全域に広がる基地中に起床ラッパが鳴り響いた。ペリーヌははっとして回想から戻る。その目には
咲き誇るマリーゴールドが映った。思わずにっこりと微笑む。
今ならその理由がわかる、と彼女は思った。あの気楽さのわけ、その大事さが、彼女にはわかっていた。
「ちょっと言い過ぎましたかしら。ねえ、どう思います?」
問いかけられた美しいマリーゴールドは、明るい笑顔を彼女に向ける。
「あなたもそう思いまして? そう、でしたら…」
そっと手を差し伸ばして花に触れる。
「お願い、少しだけ力を貸してくださいませんこと?」
ペリーヌは言うと、とても悲しそうな顔をしたのち花を一つ、摘み取った。摘みとる瞬間、まるで物理
的な苦痛を受けたような表情が顔に広がったが、ふっと寄せた眉をゆるめ目を開けると、手の中の花は
まだ笑っていた。彼女にはそのように見えた。
「あなたはとっても優しいんですのね。ええ、知っているわ。ありがとう」
そう微笑みかけると、その場を後にした。
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先ほどの木のところに戻ってみると、もうフランチェスカの姿はなかった。あたりを見回すと、木から
落っこちたのだろうか、その根元で眠りこける彼女がちゃんとそこにいた。
「まったく、落っこちてまで眠りつづけられるだなんて、一体どういう神経を…」
途中まで言ってやめにした。穏やかなその寝顔に目を奪われたからだった。そっと側にしゃがみ込むと
顔にかかる髪を払ってあげる。
「うにゅにゅ、シャーリー、あたしがっ…」
「まったく」
その寝言に溜め息をつくも、歪められた眉間を指でつつくと、眠りながらフランチェスカはにっこりと
笑う。ぺリーヌは手に持った花を見やった。
「似ていますわ、あなたたちって」
苦笑まじりに言う。
「あら、でも、あなたの方がずっと美人よ。だって彼女はまだ子供ですからね」
ペリーヌはしばらくフランチェスカの寝顔を覗き込んでいたが、やがて立ち去った。相手は一度眠った
なら、なかなか起きないだろうし、無理に起こすにも気が引けたのだ。
昇りゆく太陽が、その美しい歩みに規則的に揺れる髪をきらきらと照らし、通り過ぎる風が隅々まで髪
の間を梳いていく。いつか不快だった風、それが今は、自分に懐いているように感じられ、ペリーヌは
とても愉快だった。
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「それさあ」
とっくに規定時間を過ぎた食堂で、わがままを言ってあたためてもらった朝食を食べながら、フランチ
ェスカはしばらく前から感じていた視線の相手が意を決して近づいてくるまでの様子をずっと目で追っ
ていた。相手は側にきてもなかなか口を開かずに、あさっての方向を見ながら人差し指で頬をかく。ず
いぶんと近くに寄っていたが、ずいぶんとそのままでいた。フランチェスカは無関心をよそおって皿に
顔を突っ込んでいた。
「それさあ、どうしたの?」
相手がようやく口を開いたとたんに彼女はびくっとしたが、それでも食べつづけた。味が少し悪くなっ
てきたかと思うと、それが自分の涙だと気づいた。
「じっ、じ ら゛な゛い゛も゛んっ!」
涙声で彼女は言った。
「しらないっ」
もう一度ちゃんと言い直して、食べ終えた皿をどんっとテーブルの上に置いた。スプーンが手をすべっ
て床へ転がり落ちた。持つものが何もなくなって自由になった手を、目の前に持ってきて顔を覆った。
「うっ…うぅ…、うわぁん」
フランチェスカは泣き出していた。我慢できるはずだったのに、そう思うと悔しさにますます涙があふ
れてくる。相手は、シャーロットは驚いたふうもなくそれを眺めていたが、その頭を撫でたくて伸ばし
た手で、空を強く握っていた。彼女の顔もまた痛ましかった。シャーロットは目を伏せようとしたが、
フランチェスカの髪の上で咲いている橙色の可愛い花が、どうしてか彼女を思いとどまらせた。それは
自分の髪の色にそっくりだった。それはフランチェスカの綺麗な黒っぽい髪の色にとってもよく映えて
いた。
「ルッキーニ、お前に、謝りたくて」
シャーロットはやっとそれだけ言うと、握りしめていた手をといて、びくびくしながらフランチェスカ
の方に伸ばした。
「その花、どうしたの? すごく素敵だね。その…お前に…良く似合ってさ」
フランチェスカが急に顔をあげて見せたので、シャーロットはあと少しのところで花や髪に触ることが
できなかった。また、その手を引っ込めることもできなかった。握るものも、何一つなかった。
「起きたら、髪に挿してあったの」
「そうかい。一体誰の仕業だろうね。そんな嬉しい計らい…だってさ…」
シャーロットは言いよどんだ。まだ差し伸ばした手のやり場に困っていたのと、本当に言いたいことを
言う用意が万全ではないと思われたからだった。
「シャーリー、あたしね、ストライカーのこと」
「ああ、なんだ、そんなこと。ねえ、それよりも…」
彼女の手の位置はふりだしに戻り、かゆくもない頬をまたかいた。自分から切り出すはずだったことを
言われたのでうろたえたのだ。
二人は先日のことでずっと口を聞いていなかった。フランチェスカがユニットを壊して、勝手にセッテ
ィングし直して、それをそのまま黙っていたことがシャーロットは許せなかった。彼女は他のことなら
ば何だってフランチェスカに許した。二人でどんないたずらもしたし、規律をやぶったり仕事をさぼっ
たりしたことで、彼女が受ける譴責のどんなことも笑いとばしたし庇いもした。でも、譲れないものは
誰にでもあるのだ。
シャーロットがそのことを責めると、はじめてのことにフランチェスカは意地をはり通した。彼女はあ
やまりもしなかった。それから二人の仲は前代未聞の険悪ぶりだ。シャーロットはこれを機に、子供の
お守りなんてもうやめてやる、と思った。ついさっきまでそう思っていたのだ。
「ううん、違うよ。ごめんね。ごめんなさい」
フランチェスカは涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら言う。嗚咽まじりで聞き取りにくいが、その姿に胸
を打たれない人間がいるなら見てみたい。
「あたしが勝手にストライカーをいじったせいで、もしかしたら、シャーリーは、もしかしたら…」
「うん。そうだね。でも無事だったんだ、もういいさ。本当に、もういいんだから、フランチェスカ」
「でもね、でも」
「あたしはね、お前にあたしの大切にしているものがわからないのかと思って、それが嫌だったんだ。
でも、お前はあたしが怒ったことなんてなかったから、ちょっと意地を張ってしまっただけなんだってわかってた。
ね。お前だって、本当はわかっているよね。フランカはすごく優しいし、賢いもんな」
「うん、知ってるよ。あたし知ってるよ。シャーリーがストライカー大事なの知ってるの。だからごめんなさい。ごめんなさい」
「あたしがちゃんと教えてあげればよかったね、フランカ。無視なんかして、お前がどれだけ傷つくか考えもしなかった。ごめんよ」