326 :
主客 :
客:尾崎の最期について考えるときのヒントに須藤晃の書いた回想本『尾崎豊覚え書き』(小学舘
文庫)がある。その「コンビニエントな愛」で、尾崎豊の存在の核として、だと思うけど、須藤晃は
ここで〈離脱〉ということを挙げている。冒頭にこう書いている。《離脱現象という言葉がある。自分
が本来属している場所から、自由を求めて抜け出そうとすることが離脱だということだとすれば、
そのときに起こる苦悩を総称するべきものだと思う。》その事例として須藤は、職場からの離脱、
手術での麻酔、中毒からの脱出、等を挙げている。何でこれを挙げているかといえば、『誕生』制作
時の尾崎がこれだった、というところからだと分かる。歌詞の修正で閉じ籠る尾崎に「あまり閉じ
こもっていると、精神世界をさまよいすぎて迷子になってしまうよ」と注意したとある。尾崎の
後期というのが、それまでの自分からの〈離脱〉に傾いていた、というのはかなりヒントになる。
それと呼応するけど、最近刊行された『NOTES』の『誕生』時代の部分で、既に逮捕釈放でクスリは
断ったはずにも拘わらず、〈覚醒作用〉の必要性について考えていたことが記されている。《覚醒
作用とは いったい何であり/何であるべきなのだろうか》(p.387)これらの記述から、尾崎に
あった焦燥が晩年にどこにあったか。見えてくる気がしてるんだけどね。
主:創作上の、でもあり、存在としてでもある、課題だよね。性急にこれまでの自分ー10代のカリ
スマーから離脱、それが須藤の指摘だけど、また、そこに留まらない。多分尾崎からみた現代文明
の彼方へも、離脱しなければ、と考えていた、ということかな。
客:尾崎豊というと、過激に自由を訴えた、というイメージがあるじゃない。だけど須藤からみた
尾崎の後期は、今の存在からの離脱だった、という。それはずっと傍にいて話し合った人間だから
、貴重な証言だと思うよ。