270 :
長くてスマソ:
「無色の混沌」
僕の友人で、二人姉妹なのに、生まれてから一度も親に、
「お姉ちゃん」と言われたことがないという人がいる。
二人とも「何々ちゃん」と名前を呼ばれるだけで、そうなると妹の方も
「お姉ちゃん」とは呼ばなくて、名前で呼び合うことになる。
そう言えば彼女にはいわゆる「お姉さんらしい感じ」はない。
「お姉さん」「お兄ちゃん」と呼ばれ続けることは、その人の性格に影響するらしい。
「兄」とか「弟」とか言うのは、人間が持って生まれた資質ではなくて、
社会的に規制された結果、というか周囲がそれを強要しているのである。
人は分ける。上と下。右と左。陰と陽。善と悪。とにかく分けたがる。
自分自身さえも分けてしまう。
不良か優等生か。運動神経がいいか悪いか。人間嫌いか社交家か。
完全にどちらかである人なんて絶対にいなくて、僕らは混然とした存在なのに、
混然を受け入れるのってのは難しいから、めんどくさがりの脳は、あるいは機能は、
それ自体をあるがままに受け入れないで、白黒つけてゆく。
そうすると物事は、すごく簡単になるから。ボケとツッコミ。
懐かしいアズテック・カメラの、「ナイフ」という曲は、この世にはナイフがあって、
物事を二つに分断しつづけている、ということを歌っている。
何もない空間である世界を、ナイフで切った、上と呼ばれる部分にあるとされていること。
寛容、優雅さ、などなど。
僕は二人兄弟の弟だが、兄、正しくは「淳ちゃん」を、
僕は「お兄ちゃん」と呼んだりもしたので、
その度に彼は、上の部分に属されていることであらねばならないと思ったかも。
僕は「淳ちゃん」をそう呼びながら、下の部分に属すことになっている、快活さ、自由さ、
などなどを意識したのかも。えー、全く無意識に。
二人でいれば、そのまったくくだらないナイフは、
混然として美しい世界をどんどん切ってよこす。
そして切り取られた世界は君の皿の上で、干からびて死んでしまって、
勘定書きの上に、その名前だけが残るのだ。
「優雅さー一つ。」そんな風に記されていいものは、この世の中には一つもない。
カレーが、茹でたニンジンと、いためたタマネギと、御飯と、
といった具合に出されるのと同じだ。それには何の意味もない。
二人といえば、フリッパーズ・ギターの話もしよう。
これも今のカレーの例えと同じこと。ナイフで分けてもなんの意味もない。
二人で何となく決まっていたのは、リードボーカルは小山田が歌う。
歌詞とかタイトルは僕が作る。そのくらいのことで、あとは混然としていた。
二人の共同の名前でクレジットしたが、
作曲では、僕が一人でしたのは、
「フレンズ・アゲイン」「恋とマシンガン」「カメラ!カメラ!カメラ!」「全ての言葉はさよなら」。小山田一人なのが、「ヘアカット100」「偶然のナイフ・エッジ・カレス」「ビッグ・バッド・ビンゴ」
「午前3時のオプ」「ラテンでレッツ・ラブ」あと、「ラブ・トレイン」「パパ・ボーイ」
ってのもあった。
他の曲は全部二人で何日も一緒に、どっちかの家で、
夜中にコンビニ行ったりしながら、ラララーとか歌って作った。
青臭い話とかしながら‥。
272 :
伝説の名無しさん:03/03/21 21:40
で、二人でいれば混然としていられるのだが、人目にさらされるとそうは行かない。
二人っていうくらい、微妙な関係はない。
それは他の誰かが、「あいつこう言ってたよ。」
というだけで、余裕でグラつく関係じゃないかと思う。
そして二人でいる人たちにすかさず貼られるレッテルー「仲が悪い」。
オーケー。世の中のすべての二人組を代表して言っておこう。
「お前らに言われる筋合いはない。」以上。
二人、というのは微妙である。
男同士の場合(女同士であったことがないから判らない)、あまり話が通じてしまうというのも考えもので、微妙な気恥ずかしさみたいなものが発生したりする。
本当に親しい友だちとは、大勢でいる時には意外に話さなかったりして、
他人を反射して話をしたりして、二人でいると突然変に盛り上がったりして、
そういうことは結構おもしろい。そういう友だちが何人かいます。
男と女、となると、みんな御存知の微妙さで、ただの友達の女の子と、なぜか一緒のホテルの部屋に泊まることになってしまった場合(状況はいくらでも考え得る)。
恋人同士に、第三者がポンと言った一言で、恋愛がガラガラと崩壊するさま(この間ポンと言ってしまった)。
AとB 二人がいる所に、CがAに、何かBの知らない重要なことを言う。
Aは否定するが、Bの中に生じた疑念は消えない。
Aが肯定しても、Bは「何で言わないんだよ」と思ったりする。
それが良かったり悪かったり。
しかも二人という関係は、どちらかが回路を閉じれば、それで終りである。
恋愛や結婚が、三人でするものならば、また違うだろうに、
三人一緒にベッドに入るのは、いまのところごく限られた人々だけである。
273 :
伝説の名無しさん:03/03/21 21:41
認識ってのは、普通あまりにも二者択一で、ほんとくだらない。
それは磁石の針のように、こらえきれずにどちらかの極を向いてしまう。
世界が半分ずつ見えなくなっていくだけなのに‥。
マスメディアってのは、人間の脳の拡大図みたいなものだから、
その中にいると、人間の癖が良く判る。
けどそういうこと全ては、どうでもいいことだ。
「ラブリー」とか、「いちょう並木のセレナーデ」といった歌を歌うことにくらべれば。
これは、僕自身の話。
さて、それでは今度の「ある光」。「ある光」とは、「心の中にある光」。
光は全ての色を含んで未分化。無色の混沌。
それはそれのみとして、分けられずにあるもの。
切り分けられていない、混然とした、美しく大きな力。それが人の心の中にある。
僕らの体はかつて星の一部だったと言う。
それが結合して、体が在って、その心が通じ合ったりするのは、
あまりにも驚異的で、奇跡で、美しい。
そんな手紙をさっき書いたんだけど、そんなことを時には本当に思ったりします、僕は。(映画見て、その気になっていた。)
↑これがほんとの最終回です。長文スマソ。