【天才】小沢健二の作詞能力【日本一】

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270長くてスマソ
「無色の混沌」

僕の友人で、二人姉妹なのに、生まれてから一度も親に、
「お姉ちゃん」と言われたことがないという人がいる。
二人とも「何々ちゃん」と名前を呼ばれるだけで、そうなると妹の方も
「お姉ちゃん」とは呼ばなくて、名前で呼び合うことになる。
そう言えば彼女にはいわゆる「お姉さんらしい感じ」はない。
「お姉さん」「お兄ちゃん」と呼ばれ続けることは、その人の性格に影響するらしい。
「兄」とか「弟」とか言うのは、人間が持って生まれた資質ではなくて、
社会的に規制された結果、というか周囲がそれを強要しているのである。

人は分ける。上と下。右と左。陰と陽。善と悪。とにかく分けたがる。
自分自身さえも分けてしまう。
不良か優等生か。運動神経がいいか悪いか。人間嫌いか社交家か。
完全にどちらかである人なんて絶対にいなくて、僕らは混然とした存在なのに、
混然を受け入れるのってのは難しいから、めんどくさがりの脳は、あるいは機能は、
それ自体をあるがままに受け入れないで、白黒つけてゆく。
そうすると物事は、すごく簡単になるから。ボケとツッコミ。
271続き:03/03/21 21:36
懐かしいアズテック・カメラの、「ナイフ」という曲は、この世にはナイフがあって、
物事を二つに分断しつづけている、ということを歌っている。
 
何もない空間である世界を、ナイフで切った、上と呼ばれる部分にあるとされていること。
寛容、優雅さ、などなど。
僕は二人兄弟の弟だが、兄、正しくは「淳ちゃん」を、
僕は「お兄ちゃん」と呼んだりもしたので、
その度に彼は、上の部分に属されていることであらねばならないと思ったかも。
僕は「淳ちゃん」をそう呼びながら、下の部分に属すことになっている、快活さ、自由さ、
などなどを意識したのかも。えー、全く無意識に。

二人でいれば、そのまったくくだらないナイフは、
混然として美しい世界をどんどん切ってよこす。
そして切り取られた世界は君の皿の上で、干からびて死んでしまって、
勘定書きの上に、その名前だけが残るのだ。
「優雅さー一つ。」そんな風に記されていいものは、この世の中には一つもない。
カレーが、茹でたニンジンと、いためたタマネギと、御飯と、
といった具合に出されるのと同じだ。それには何の意味もない。

二人といえば、フリッパーズ・ギターの話もしよう。
これも今のカレーの例えと同じこと。ナイフで分けてもなんの意味もない。
二人で何となく決まっていたのは、リードボーカルは小山田が歌う。
歌詞とかタイトルは僕が作る。そのくらいのことで、あとは混然としていた。
二人の共同の名前でクレジットしたが、
作曲では、僕が一人でしたのは、
「フレンズ・アゲイン」「恋とマシンガン」「カメラ!カメラ!カメラ!」「全ての言葉はさよなら」。小山田一人なのが、「ヘアカット100」「偶然のナイフ・エッジ・カレス」「ビッグ・バッド・ビンゴ」
「午前3時のオプ」「ラテンでレッツ・ラブ」あと、「ラブ・トレイン」「パパ・ボーイ」
ってのもあった。
他の曲は全部二人で何日も一緒に、どっちかの家で、
夜中にコンビニ行ったりしながら、ラララーとか歌って作った。
青臭い話とかしながら‥。
272伝説の名無しさん:03/03/21 21:40
で、二人でいれば混然としていられるのだが、人目にさらされるとそうは行かない。
二人っていうくらい、微妙な関係はない。
それは他の誰かが、「あいつこう言ってたよ。」
というだけで、余裕でグラつく関係じゃないかと思う。
そして二人でいる人たちにすかさず貼られるレッテルー「仲が悪い」。
オーケー。世の中のすべての二人組を代表して言っておこう。
「お前らに言われる筋合いはない。」以上。

二人、というのは微妙である。
男同士の場合(女同士であったことがないから判らない)、あまり話が通じてしまうというのも考えもので、微妙な気恥ずかしさみたいなものが発生したりする。
本当に親しい友だちとは、大勢でいる時には意外に話さなかったりして、
他人を反射して話をしたりして、二人でいると突然変に盛り上がったりして、
そういうことは結構おもしろい。そういう友だちが何人かいます。

男と女、となると、みんな御存知の微妙さで、ただの友達の女の子と、なぜか一緒のホテルの部屋に泊まることになってしまった場合(状況はいくらでも考え得る)。
恋人同士に、第三者がポンと言った一言で、恋愛がガラガラと崩壊するさま(この間ポンと言ってしまった)。

AとB 二人がいる所に、CがAに、何かBの知らない重要なことを言う。
Aは否定するが、Bの中に生じた疑念は消えない。
Aが肯定しても、Bは「何で言わないんだよ」と思ったりする。
それが良かったり悪かったり。
しかも二人という関係は、どちらかが回路を閉じれば、それで終りである。
恋愛や結婚が、三人でするものならば、また違うだろうに、
三人一緒にベッドに入るのは、いまのところごく限られた人々だけである。
273伝説の名無しさん:03/03/21 21:41
認識ってのは、普通あまりにも二者択一で、ほんとくだらない。
それは磁石の針のように、こらえきれずにどちらかの極を向いてしまう。
世界が半分ずつ見えなくなっていくだけなのに‥。
マスメディアってのは、人間の脳の拡大図みたいなものだから、
その中にいると、人間の癖が良く判る。

けどそういうこと全ては、どうでもいいことだ。
「ラブリー」とか、「いちょう並木のセレナーデ」といった歌を歌うことにくらべれば。
これは、僕自身の話。

さて、それでは今度の「ある光」。「ある光」とは、「心の中にある光」。

光は全ての色を含んで未分化。無色の混沌。
それはそれのみとして、分けられずにあるもの。
切り分けられていない、混然とした、美しく大きな力。それが人の心の中にある。

僕らの体はかつて星の一部だったと言う。
それが結合して、体が在って、その心が通じ合ったりするのは、
あまりにも驚異的で、奇跡で、美しい。

そんな手紙をさっき書いたんだけど、そんなことを時には本当に思ったりします、僕は。(映画見て、その気になっていた。)

↑これがほんとの最終回です。長文スマソ。