コチコチコチ……
ぼーっとする意識の中に、時計の時を刻む音が聞こえてくる。
どうやら目覚ましが鳴る前に目が覚めたようだ。
目を擦ろうとして、そこに冷たい感触を感じ、茜は手を止めた。
「……泣いていたの、私?」
夢の中の記憶。
消えかける夢の記憶を辿ると、そこには一人の少年の姿が浮かんできた。
「……浩平……」
よかった。ちゃんと覚えている。まだ記憶から消えていない。
覚えていたことに安堵して、でも消えてしまった人の事を考えて心が沈んだ。
コチコチコチ……
目覚まし時計の音が大きく聞こえる。
茜は机の上を見た。
あの日、浩平の誕生日。浩平がこの世界から消えた日。
一度は受け取ってくれた誕生日のプレゼントは、今は茜の机の上で時を刻んでいる。
「……約束、守って下さい。待ってるんですから……」
ぽつりと呟くと茜はベットを抜け、着替えを始めた。
浩平が消えてからどのくらいの日が過ぎたのだろう。
一緒に過ごした日々よりも長い、ただ待つだけの生活。
そこには何も無かった。
ただ浩平との想い出が消えないように、浩平のことを想って待ち続けるだけの生活。
忘れないために、他の想い出を作らない様に過ごす日々。
浩平と出会う前に送っていた日常の再現でしかなかった。
周りの奇妙な視線に気づいたのはいつからだろう?
元々一人で居ることが多かった茜は、だからクラスメートの視線に気づいたのかもしれない。
視線が自分を通り、そして通り過ぎていく。
だけど、それが何を意味するのかは判らなかったし、判ろうともしなかった。
一人でいる時、茜は浩平との幸せだった日々を思い出して過ごした。
一緒に歩いた商店街。一緒に食べたワッフル。雨の中、初めてキスをした公園。
学校が終わると公園に行き、ただ待つ日々が続いていた。
浩平と初めて出会った空き地には家が建ち、浩平との想い出の場所はここしか残されていなかった。
浩平が去った世界。そして浩平が今居る世界。
なぜ浩平が消えたのかは判らない。ただ、茜は浩平の居る世界を考えるようになった。
そこには茜と浩平、そして幸せな記憶に囲まれた世界。
浩平さえ帰ってきてくれれば、あの穏やかな日々がずっと続く。
浩平のくだらない冗談を聞き、一緒に昼ご飯を食べる。
放課後には商店街を通って一緒に帰る。
同じ事の繰り返しの毎日。かけがえのない平凡な日常。
そんな浩平の居る世界が、そんな日々が再び訪れる。
浩平さえ帰ってきてくれれば、必ず。
ただそれだけを信じて茜は公園で待ち続けた。
放課後、茜は手にスケッチブックを持った一人の少女が歩いてくるのを見かけた。
いつもは茜のお下げにぶら下がり、自分に三つ編みを編ませて欲しいと頼む、妹のような後輩。
話せない、というハンデを負っていてもそれを微塵も感じさせない、元気で明るい茜の大切な友達。
「澪ちゃん」
茜が声をかけると澪はびくりと体を震わせ、おずおずとこちらを見た。
「これから帰るところですか?」
茜の声に不審そうな顔をした澪は、手にしたスケッチブックに何かを書き込んだ。
「何かご用ですか?」
「……澪ちゃん?」
しばらく沈黙が漂う。
茜が口を開こうとしたとき、澪は手にしたペンを走らせた。
「茜さんなの。こんにちわなの」
「澪ちゃん、帰るところですか?」
うん、と頷く。
「今日は部活がお休みだから商店街に寄って帰るの。ワッフル食べるの」
さっきまでとは違い、にっこりと笑ったいつもの澪だった。
「だったら一緒に行ってもいいですか? 私も食べたいですから」
うんうん、と大きく頷くと茜の手を取って走り出した。
「さっきはどうしたんですか?」
公園で焼きたてのワッフルを幸せそうに食べている澪が首を傾げた。
「廊下で会ったときのことです」
んと、と考え込んでいた澪はスケッチブックを取り出して何かを書き込んだ。
「あのね。茜さんと気づかなかったの」
「知らない人と思ったの。間違えたの。ごめんなさいなの」
瞬間、茜の体が硬直する。
目の前にいて、気づかない。良く知っているのに、知らない人。周りから忘れられた人。
それは……
「本当にごめんなさいなの。どうかしてたの」
心の奥から来る震え。
ペコペコと澪は頭を下げていた。
「……別にいいんですよ……。さあ、冷めないうちに食べましょう。」
うん、と頷いて2つめを食べ始める澪を見ながら、茜は自分の体が震えていることに気づいていた。
家に帰ってから茜は一人ベットに腰掛けて考え続けていた。
クラスメイトの視線。
見ず知らずの他人を見るような、澪の表情。
「知らない人と思ったの」
あの人の時と、そして浩平の時と同じ……
あの時、前兆となった詩子の声。
「この人、だれ?」
愕然とした浩平の顔が浮かぶ。
私も……?
私も消えるの……?
そうなったらどうなるの?
浩平が帰ってくるその時に、私がこの世界に居ない?
私が消える。
どこに行くの?
私が消えたら、浩平と同じ所に行ける?
また、体が震えてくる。
浩平が最後まで感じてた恐怖。この世界から消えていく感覚。
消えるまでの間、こんな思いをして、ゆっくりと消えていった浩平。
誰からも忘れられ、最後にはこの世界からも忘れられてしまった少年。
私も浩平と同じ……
それでも私は待ち続けないといけないのに。
この世界に、浩平が帰ってくるこの世界に居ないといけないのに。
しかし、一瞬よぎった考えが茜の頭を支配した。
浩平の世界に行く。
それは茜が願っていた日々が再び訪れると言うことだ。
駄目。消えちゃ駄目。浩平のために。「お帰りなさい」と言ってあげるために。
わたしが消えたら、浩平に会えなくなる。
浩平に言ってあげられなくなる。
そんなの、駄目。
浩平に会えなくなるなんて、そんなの、駄目。
茜はギュッと目をつぶると、そのまま布団の中に潜り込んだ。
明日になれば、きっと普段の生活に戻れる。浩平が帰ってくるのを待つ日常が続く。
そして明日はきっと浩平が帰ってきてくれる。明日が駄目でも明後日が……
そう自分にいい聞かせて。
きっと夢の中でなら浩平に会える。
明日戻ってくるかもしれないけど、でも会える。
いつも夢の中には浩平が居る。わたしの記憶の中にもいる。
だから浩平にはいつだって会える。
コチコチコチ……
時計の音を聞きながら茜は自分が眠りにつくのを感じていた。
「浩平……」
自分の声が遠くで聞こえたような気がした。
「茜。一人にしてゴメンな。」
聞きたかった声が聞こえ、茜は振り向いた。
信じられなかった。
そこには、目の前には一番会いたい人が、浩平が居た。
穏やかに、少し照れくさそうな顔をして。
「……浩平?本当に浩平なの?」
「……私、私ずっと待ってたんですよ……」
「……約束、守ってくれたんですね……」
会いたかった人。好きだった人。ずっと一緒に居たい人。
「……浩平……お帰りなさい。」
声にならない。でも言いたかったことは伝わっている。
もっと見たいのに、目の前がぼやける。見ていたいのに世界が歪んでみえる。
それでも確かに浩平はここに存在する。
「ゴメン。一人にしてゴメンな。だから泣かないで……」
「俺はここにいるよ。茜のそばにいる。どこにも行かない。」
本当に欲しかった言葉。守って欲しかった約束。
浩平の暖かさを感じる。浩平はここにいる。私のそばに。
「もうどこにも行かないですよね。私を一人にしないですよね。」
「俺はもうどこにも行かない。茜とずっと一緒にいる。約束だ。」
「約束ですよ……」
「これからもずっと茜のそばにいる。ずっと。約束する。」
コチコチコチ……
時計の音だけが変わらず時を刻み続けていた。
誰も居ない、部屋の中で。