「…あなただけは許さないんだから」
確かに彼女はそう言った。
夕日に燃え、赤く染まった商店街で。
『あなただけは許さないんだから』
反芻する。
わずかな言葉に秘められた思いを胸に潜めながら。
彼女の思いは………
ベランダの柵に肘をかけ、身が吸い込まれそうな空に、
凛として輝く星を見つめる。
数年前………
彼女も、きっとこの空を見つめていたはずだ。
身が引きちぎられそうな程に痛く、冷たい風と、
地に足をつけているのかさえわからなくなるような闇に耐えながら。
「あなただけは許さないんだから」
決して昇華されることの無い想いを、小さな胸に抱きながら。
「さむいよぅ………」
突然の声に肩を震わせる。
振り向くと、声の主は真琴だった。
「わりぃ、窓開けっ放しだったな」
ベランダに出るとき、ついつい、窓を閉めるのを忘れていたのだ。
「うん………」
目を指で擦らせながら真琴が応える。
そそくさと窓を閉め、部屋に入る。
そして、やわらかな空気に包まれた部屋に、
鋭利な刃物の様に冷たくなった身体を馴染ませる。
「あったかいな……」
身体の外側からゆっくりと伝わる空気は、羊水の様に心地よかった。
「あぅ………」
身体が冷えたせいか、真琴が立ったまま俺に体を預けてきた。
「おっと」
包み込むように優しく支える。
真琴の髪のやわらかい、春の草原のような香りを感じる。
「寝るか」
「うん………」
無意識か、蚊のように細く答える。
時々、真琴の存在が消えいるような感覚に襲われる。
真琴が近くに居れば居るほど、その感覚は強くなっていく。
「真琴?」
肩越しに、呟くように言う。
真琴は規則的に寝息をたてていた。
身を返し、真琴の指を自分の指と絡める。
真琴の指は細く、長かった。
真琴の寝顔を見つめる。
真琴は幸せそうな表情で口から涎を垂らしていた。
「汚い奴だな………、まさか肉まん食ってる夢見てんじゃないか?」
真琴の涎を裾で拭きながら、呆れたように言う。
「あうーっ、もうお腹いっぱいなのにまだこんなに肉まん残ってる。
どうしよう………」
「ははは………お前って奴は」
苦笑する。
肉まんは逃げないし、誰も盗らない。
余ったらラップに包んで保存すればいい、食べたくなったら蒸し器にかければいい。
蒸し器のかけ方がわからなかったら俺に聴けばいい、お前がわかるまで俺は教える。
「………………」
(何処にも行かないで、ずっと俺の側にいてくれ)
そう心の中で言った後、真琴の手を強く握りしめる。
「祐一! ゆういちぃ〜〜〜〜〜!」
階段を蹴りながら俺の名を呼ぶ奴がいる、真琴だ。
「はぁっ………」
ため息をつく。
どんな良いことがあったか知らないが、こいつの傍若無人ぶりには、ほとほと呆れる。
落ち着いて本を読むことすらできない。
「おい真琴! 少しは静かにしろ!」
ドアの隙間から首だけ出して言う。
ゴロゴロゴロゴロゴロコロゴロゴロ〜〜〜!!!
「あう〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!」
真琴が足を踏み外した。
「はぁっ………」
頭を掻きながらため息をつく、二度目だ。
「急いで階段のぼるからだぞ」
咎めるように言う。
真琴は踝の辺りをさすりながら、頬に涙を伝わせていた。
「あうーっ、うっ、ひっ、えぐっ」
近くに寄ると鼻まで垂らしているのがわかる。
「まってろ、今湿布持ってくるから」
「うん…」
「むーん………」
腕を組み、唸る。
キバっている訳ではない、湿布が見つからないのだ。救急箱すら見あたらない。
腕を組んだまま、顔だけ振り返る。
まるで空き巣に入られたかのように居間は散らかっていた。
「むーん………」
眉間に指を立て、唸る。
何度も言うが、決してキバっている訳ではない、湿布が見つからないのだ。
「はぁ〜〜〜っ」
深いため息をつく、深さの度合いを入れないと、今日三度目だ。
こんな時に限って、秋子さんと名雪は外出していた
「祐一〜〜〜」
仕方がないのでボオルに氷と水を入れ、代用する事にする。
「あうっ!」
ボオルに足を浸した真琴が、眉をひそめながら叫ぶ。
「うるさい!」
俺は真琴にデコピンを喰らわす。
「いたっ! だって、冷たいんだもん………仕方ないよぅ」
「自業自得だ、それくらい我慢しろ」
「あうーっ」
真琴が足を冷やしている間、本の続きを読むことにする。
本来なら自室でコーヒーでも飲みながら、のんびり読んでいたのだが、
真琴のおかげで、居間で読むことになってしまった。
でもまぁ、真琴はその後はおとなしく足を冷やしていたし、外も、たまに子供が
はしゃいでいる声と、郵便配達のバイクのエンジン音くらいだったので、
本を読む環境には悪くはなかった。
それに子供達が駆ける音は、自分が今、平和の中に居ることが認識できて、
尚更悪くないと思えた。
しばらくは、俺がページをめくる音だけが部屋に響いた。
「祐一、もういいでしょ?」
真琴が俺の肩に手を掛け、耳元で囁いた。
「うん?」
反射的に真琴の方を向いて言う。
しかし真琴の方を向いたのはまずかった。
たとえ、本を読むのに熱中していたとしても。
なぜなら真琴の顔が俺の目の前にあったからだ。
「いいの?わるいの?」
真琴の息が鼻にかかる、甘い匂いに思わず唾を飲む。
「ねぇ?どっち?祐一」
「え?あぁ、うん」
真琴の髪の香り、息づかい、そして鼓動。
「ねぇ?」
俺の高まる動悸とは裏腹に、室内は静まりかえっていた。
外では子供達の甲高い声。
「………」
「………」
テーブルの上には氷だけのグラス、今まで保っていた微妙なバランスが
熱によって崩れ、音を立てた。
「真琴」
俺はしおりを挟まずに本を投げ捨てた。