第十七話 カイコ
「カオリ…、今なんて?」
俺は自分の耳を疑った。
「言葉のとおりよ。これがわたしのゴーストだ、って」
「ゴースト…?」
俺は言葉を失った。
ナユキも同様らしい。
「でも、ゴーストなんて…そんな」
「実際に見るのははじめてよね、ナユキは」
カオリは俺のほうを向く。
「でも、アイザワ君には以前試したかしら」
「ああ…」
今でも俺ははっきりと覚えている。
脳髄の奥底をキリキリと刺激する戦慄を。
あの時廊下で感じた、心臓を冷たい手で握られるような感触を。
思い出そうとすれば指の長さ、柔らかさまでしっかりと感じられるほどに。
あれが…あれがもし。
本当に心臓を握られていた感触だとすれば。
「私のゴーストは、腕という形で顕現するの」
カオリは両腕を組んだ。
その仕草は――あえて言葉で表すとしたら――切なかった。
その腕は、これまでに誰も見たことがないほど優しく、柔らかく虚空を抱きしめていたからだ。
そこに誰か大切な人が、今この瞬間にもいるかのように。
「…以前に守れなかったものがあるからかもしれないわね。なぜ、自分はそれをこの腕に抱きとめることが出来なかったんだろうって、今でも後悔してる」
ぎゅっと、組まれる腕に力がこもる。
「だから、もし次があるならば、それを二度と逃さないようにしたい。そう願ったら、自然とゴーストは腕の形になったわ」
「で、でもカオリ…」
ナユキがなにか言いたそうな顔をしている。
しかし、その顔には躊躇が見える。
そんなナユキの代わりに、俺が口を開いた。
「…どこでその力を手に入れたんだ?」
「……」
カオリはしばらく応えない。
「……」
「……」
「……」
沈黙が流れた。
重苦しくも、安らかでもない沈黙―――。
真空の沈黙だった。
しかし、真空は痛みを感じさせずに人を傷つける。
今この瞬間にも、誰かの心は真空に傷つけられ、血を流しているのだろう。
そしてその心は、おそらく…カオリなのだ。
「私は…」
カオリが口を開く。
心の痛みに気づいたのか。
それとも、流れ出した血が心から溢れだしてきたからだろうか。
それは、俺にはわからない。
「私は、裏切り者だから」
カオリは、泣いていた。
――――――
…私は泣いているのだろうか。
いや、違う。
光が目を乾かすからだ。
だから目が涙を流している。
…そういう意味で言えば、人は常に涙を流していることになるな……。
もしその人が、光をその目に映しているとすれば。
「太陽がまぶしいですね」
「そうだな…」
少女も窓から外を見ている。
この子は、窓の外の全てが偽物という事を知っていない。
知らなければ、それは本物だ。
だから、それでいいと思った。
私はベッドの縁に座り込みながら、少女の声を背中越しに聴いていた。
私は、この瞬間が何よりも好きだった。
背中を震わせる声が、静かに気持ちよい。
この部屋で揺らいでいるものは、その声だけだった。
「…一つ、疑問があるんです」
「なんだ?」
「どうして、あの人はここからいなくなったのでしょうね」
「あの人?」
「はい」
少女は膝を抱えなおす。
「以前よく、ここに来ていた人」
「ああ…」
太陽がまぶしい。
もう耐え切れない。
視線を床に落とした。
「もういないよ」
簡潔に応えておく。
「理由はよくは知らない」
「そうですか…」
少女は残念そうにため息をつく。
…今、何を考えているのだろうか。
いなくなった彼女のことだろうか。
それならば、都合がいい。
自分の中で結果ができて、もしそれを口にするようなことがあれば、私はそれを肯定してあげよう。
そうだと信じるならば全ての事象はそうでありうる。
彼女に必要なのは、安定なのだ。
苦しみも、喜びも、何もない―――。
――――――