やはりあなたも長森瑞佳が大好きですか!♯3

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21ぼくらがここにいる不思議

 その日も、ぼくは泣いていた。
 なにが悲しいのかももうわからないまま、ただ胸を衝く痛みに涙を流しつづけた。
 部屋の中は、寒かった。手の指先が白く、つめたくなっていた。
 膝を抱え、うずくまっていたぼくの耳にドアをノックする音が聞こえた。 
 ぼくは返事をしなかった。ふたたびドアをノックする音がする。
 ドアが開き、女の子が両手にいろいろな物を抱えて入ってきた。
「いるんなら、『いますよー』って返事をしなきゃ、ダメだよ」
 両手に抱えた荷物を床の上に置きながら、彼女が言う。ぼくは返事をしなかった。
「いっしょにクリスマスのお祝いをしようと思ったの」
 彼女はにっこりと微笑みながら、そう言った。ぼくはおどろいて思わず言葉を返してしまった。
「クリスマス?」
「うん、今日はクリスマス。だからいっしょにお祝いをしようよ」
 彼女は床に置いた箱を開ける。中にはイチゴの乗ったケーキがあった。
「お祝いなんて、したくない。そんなの、出来ないよ」
 ぼくは言い返す。お祝いなんて出来るのは『しあわせ』な人間だけだ。ぼくは幸せなんかじゃない。
「出来なくっても、するの。お祝いをしてにっこりって笑うと幸せな気分になれるってお母さんが
言ってたの。だから、ね?」
 そんな強引な理屈をこねながら彼女はケーキに一本ずつろうそくを刺していく。マッチを擦って
ろうそくに火を灯す。赤くて柔らかい灯がぼんやりと目の前で揺れ動いている。彼女は立ち上がり、
部屋の電気を消した。まっくらになった部屋。彼女の姿がろうそくの光の向こう側でうっすらと
映しだされる。
「ほら、お祝いしよっ」
 にこにこしながら彼女はそんなことを言う。どんな顔をしたらいいのか分からないぼくに向かって
彼女は微笑みながら祝福の言葉を上げた。

―ぼくらがここにいる不思議―

「はぁっ…はぁっ…」
 オレはキャンパスを走り抜けていた。二コマ目が終わり、昼食の時間を迎えた大学の構内は学生達
で溢れ返っている。大学の教官という人種は時間外労働を厭わないものなのだろうか。今日もそれが
当たり前のことのように講義を延長し、結局オレ達が教室を出られたのは本来の時刻を10分も過ぎた
後だった。人ごみをかき分けて、オレは目的の場所へと急ぐ。あいつが待っている所へ。
22ぼくらがここにいる不思議:2000/12/18(月) 08:21
「あ、浩平ーっ」
 正門前の大きな常緑樹の下で立っていた長森がオレの姿を確認し、駆け寄ってくる。オレの目の前
で立ち止まると、まだ息の整っていないオレの顔を見上げながら怒ったように言う。
「もーっ、また遅刻だよ。これじゃぁ今日も食堂の席が取れないよ」
「仕方ないだろっ。教官がやたらと講義延長するんだから」
「確かにそうだけど… この時間だともう食堂は満員だよ。どうしよう、今日も外で食べる?」
「この寒空の下でメシを食うというのもなかなかにチャレンジングだが…まぁしょうがないな。
どこかいい場所を探して、そこで食事にしよう」
「じゃぁさ、ここの樹の下で食べようよ」
 そう言って、さっきまでその下で待っていた常緑樹を指差す。
「ちょっとあそこは目立ちすぎるんじゃないか?」
 流石に、最も多くの学生が行き交う正門前の樹の下で二人して食事をするのは恥ずかしい。ただで
さえ、最近ひた隠しに隠してきたオレと長森との関係が大学の友人達にバレて吊し上げを喰らってい
るんだ。これ以上目立つことをしていると、奴らに殺されかねない。
「そうかなぁ? 別にわたしは気にならないけど…」
「オレが気にする。だから他の場所を探そう」
 オレは長森の手を引っ張って、正門前を離れた。

 結局オレ達は校舎の中庭で食事をすることにした。長森は木製のベンチに腰を下ろし、鞄の中から
小さな弁当箱と水筒を取り出す。オレも中庭に行く途中に立ち寄った売店で買ったパンとコーヒー
をベンチに置く。大きく背伸びをして、空を見上げる。絵の具を水面にひとかけら落としたような
青が空一面に広がっている。たんぽぽの種子のようにふわふわとした白い雲が漂う。穏やかな冬の陽
光が木々の隙間から差し込み、ベンチに座る長森の膝元を柔らかく照らす。

「いつまでも突っ立ってないで、早く食べようよ」
 膝の上に弁当箱を置いた長森がそんな風にオレを急かす。オレは肩の触れ合わない程度の距離を
取り、長森の側に座る。長森は弁当箱の蓋を開け、昼食を取り始める。オレも買ってきたカレーパン
に噛り付いた。
23ぼくらがここにいる不思議:2000/12/18(月) 08:21
「浩平ってさ、あんまり学校へ来ないよね」
 黙々とパンを食べているオレに向かって、長森がそんなことを言う。
「大学なんてそんなもんだろ。勉強なんて自主的にやるもんだ。オレの知り合いには全く講義には出
席せずに、勝手に図書館で勉強してる奴がいるぞ」
「でも、浩平って誰かに言われないと勉強しなさそうだもん。全然単位が揃わないんじゃないかって
心配だよ」
 相変わらずのお節介焼きだ。もうすぐハタチになろうというのに、長森にとってオレはガキだった
頃のオレのままのようだ。
「別にお前に心配されなくっても大丈夫だよ。うちの学部はいい加減だからな。『単位は空から降っ
てくる』って言われているほどだ。それに一応毎日大学に顔は出しているだろ?」

 確かに毎日大学へは行ってはいたが、別に熱心に講義を受けたい訳ではなかった。
 こうして長森と一緒に昼食を食べる約束をしていたからだ。今年大学に入学したばかりのオレは
構内の地理に疎く、現役で大学に合格した長森に案内してもらっていたのだ。なにしろ広い大学だ
ったのでどこに食堂があるのかもよく分かっていなかった。今ではもうオレも大学周辺の地理に
精通しているが、昼休みに長森と一緒に構内をうろうろする習慣が身に付いてしまっていた。

「でも授業には出てないんでしょ? やっぱり心配だよ」
「だぁーっ、もう。大丈夫だって。留年なんてよほどのことがないとならないんだから心配しなくて
いいって」
「うん… でも留年なんかしたらダメだよ。浩平は一年遅れてるんだから」
 俯いて、長森が呟く。オレは返す言葉もなく、静まり返る。日溜まりで惰眠を貪っていた猫が起き
上がり、背伸びをしながら大きな欠伸をする。とてとてと長森の足元に近づき、喉を鳴らしながら
長森に擦り寄る。微笑みを浮かべながら長森は猫の頭を撫でていた。
24ぼくらがここにいる不思議:2000/12/18(月) 08:22
 あの時、この世界への帰還を果たした時、既にこちら側では一年間もの時間が過ぎていた。どうい
う仕組みか卒業は出来たのだが、大学受験の時期は過ぎており、オレは浪人を余儀なくされた。
 空白の一年間を埋めるべくオレは受験勉強に勤しむことになった。高校の時もロクに勉強せず、
肝心の受験期にはこの世界自体にいなかったオレの学力ははっきりいってスカ同様だった。
 長森はそんなオレに勉強を教えてくれた。大学でのサークル活動も忙しかっただろうに、とても
親身に、根気強くオレの教師役を務めてくれた。そんな長森の支援があったからこそ、こうして
どうにか今の大学に潜り込めたのだ。

 オレと長森は今はこうして同じ大学に通ってはいるが、この大学はオレなんかには到底行けるはず
のない難関大学だった。長森だってオレの知っている限りではここに合格出来るほど成績はよくなか
ったはずだ。オレは長森がいつのまにそんなに勉強出来るようになったのかを聞いたことがある。
 その時の長森は少しだけ寂しそうに、
「他に、することがなかったからかな」
 と言った。オレは長森に背負わせてしまった一年間という月日を想像し、長森に申し訳なく思うと
同時に、自分の不甲斐なさを再確認させられた。
 だが、長森はそう言った後にこう続けたのだ。
「それに、浩平が帰ってきた時にわたしが勉強を教えてあげないといけないって思ったしね」
 どうやらオレは一生長森に頭が上がらないらしい。

 どうも雰囲気が湿っぽくなってしまった。こんな会話をオレは長森としたいわけじゃないんだ。
オレは猫の頭を撫でている長森に違った話題を振ってみた。
「あー、でも今日は暖かいよな。まるでもう春がやってきたみたいだ」
 こういう時に引っ張り出せる話題なんて、普通の人間には天気の話題くらいのものだ。
「そうだね、もう今年も終わりなのに何だか年末って感じがしないよね」
 猫を膝の上に乗せながら、長森はオレの言葉に応える。猫は幸せそうな表情で目をつむり、長森の
太股に頭をこすり付けている。オレは猫になりたいと思いつつ、長森との会話を続ける。
「もうすぐ、大学も休みになるけど、お前はどうすんの? やっぱりサークルとかで忙しいのか?」
「うーん、色々とやりたいことはあるけど特に忙しいってほどじゃないかな。サークルも年末はお休
みになるしね」
「そうかぁ、お前も暇人かぁ。大学生ってのは怠惰なもんだなぁ」
「浩平と一緒にしないでよっ。怠け者なのは浩平だけだよっ」  
 オレのからかいの言葉に、すぐにムキになって反論してくる。こんな所はちっとも変わっていない。
25ぼくらがここにいる不思議:2000/12/18(月) 08:23
 いかん、これではまたいつもの下らない話で終わってしまう。今日はかねてより計画していたプラ
ンを長森に打診するつもりだったのだ。そのために話題を転換したのに、話があさっての方向に反れ
てしまっては何にもならない。
「どうせ暇なんだったらさ、今度の日曜日どこかに出かけないか? 何だかんだ言って、結構お前に
は今年も世話になったからな。食事でもおごってやるよ」
 よし、トチらず自然に言えたはずだ。長森はオレの言葉を聞くと何故か慌てたように応える。
「え、え〜っ。浩平どうしたの? いつもの浩平なら『世話になってる』なんて絶対言わないよっ。
風邪でも引いたの? 熱あるの?」
 そんなことを言いながらオレの額に手を遣ろうとしてくる。オレはその手を振り払って、言う。
「オレはいつものオレだよっ。折角人がたまには感謝の気持ちを表してやっているというのに、その
態度はなんだっ。全く… で、どうなんだ? 予定空いてるのか?」
「う、うん… わたしは大丈夫だけど… でも、いいの? 次の日曜日が何の日か知ってる?」
 わざわざそれをオレに言わせようと言うのか、こいつは。知ってて聞いているに決まっているじゃ
ないか。
「分かってるよ。12月24日だろ。知ってて聞いてるんだよ」
 オレはそっぽを向きながら答える。自分の顔が赤くなっているのが分かった。
「はぁーっ、知ってるんだぁ…」
「だーかーらー、オレはその日をお前と一緒に過ごそうと思って聞いてんの。だから行く気があるの
か、ないのかだけでも答えてくれ」
 耳たぶまで熱くなっているのを感じる。知り合いには見せられない姿だ。
「う、うん… いいよ。浩平がそう言うんだったら、わたしもいいよ」
 語尾がかすれて、よく聞き取りがたかった。オレはそっぽを向いたままだし、長森も静まってしま
った。沈黙に場が支配される。オレは堪え切れなくなって、長森の方を向いて言った。
「よし。じゃぁ待ち合わせ場所とか、時間とかはまた後で決めよう。オレ3コマ目微積の演習当たっ
てるから、もう行くぞ」
 そう言ってオレは立ち上がる。長森も膝の上で眠っていた猫を抱きかかえて立ち上がる。
「あ、待って。わたしも行くよ」
 猫をそっとベンチの上に寝かしつけて、長森はすでに先に歩き出していたオレの後を追ってきた。
26ぼくらがここにいる不思議:2000/12/18(月) 08:24
講義が終わった後、オレは商店街をうろついていた。冬の太陽は短い。地平線に溶け込むように太
陽の輪郭が消えていく。空と大地の境目に紅の稜線が走る。赤く染め上げられた空を見上げると、月
が微かにその姿を主張していた。
 師走の商店街は喧騒に包まれていた。流れるお決まりのクリスマス・ソング。誰が歌っているのか
も、どんな曲名なのかも分からないけれど、そのメロディーは染み込むような既視感を伴いオレの
心のどこかを刺激する。音楽なんてそんなものだ、と思う。誰が作ったのか分からなくても、誰が
歌ったのか分からなくても、旋律は人の心に残り続ける。音楽に託した想いは、かたちを変えて
人々に伝えられていく。

 時折吹く冷たい風に身をすくませながら、商店街を独り歩く。この街に住むようになってもう10年
以上経つ。見慣れた商店街だったが、店舗はそれなりに時代の趨勢に逆らわず移り変わっていた。
オレはかねてよりチェックしてあったアクセサリー・ショップのドアをくぐり、中に入った。
指輪やイヤリングなどの様々なアクセサリーが陳列されてある。何がプレゼントに適当なのかよく分
からず戸惑っているオレの所に店員がやって来る。
「どのようなものをお探しですか?」
「いや、プレゼントなんですけど。クリスマスに贈ってやろうと思って」
「恋人の方へのプレゼントですか?」
「多分、そうだと思います」
「多分?」
 怪訝そうにしている店員に、オレは少し自虐的に呟く。
「そんな資格がオレにあれば、の話ですけど」
27ぼくらがここにいる不思議:2000/12/18(月) 08:24
 3年前、オレは長森を傷つけ続けた。オレは強さではなく、弱さこそが人を傷つけるということを
その時知った。あの時、3年前のクリスマスの日、長森はずっと独りで待ち続けた。来るはずのない
オレを。長森の優しさを踏みにじることしかできなかった、愚かで弱いオレのことを待ち続けた。
 長森はどうしょうもなく馬鹿なオレを、それでも受け入れてくれた。オレはこれからは絶対に長森
を悲しませないようにしようと、堅く決意した。

 結局、オレは本物の大馬鹿野郎だった。オレは長森に更なる悲しみを背負わせ、1年間という時間
を孤独の淵に閉じ込めさせてしまった。ようやく還って来られた後で、長森の女友達にこの1年間の
長森の様子を聞いた時、オレの心は激しく掻き毟られた。だが、長森はそんなオレなんかとは比べ
物にならないほどの苦しみと悲しみに心を切り裂かれていたのだ。心に付けられた傷痕は体のそれ
のようには癒えない。ふとした瞬間溢れ出す痛みは容赦なく傷口を開き、赤い血を流す。
 それなのに、長森は笑顔でオレの帰還を迎えてくれたのだ。

 だが、昨年も一緒にクリスマスを過ごすことは出来なかった。センター試験の追い込みに懸命だっ
たオレはクリスマスも正月もなく、ひたすら机に向かいマークシートを塗り潰していた。大学に合格
出来なければまた長森を待たせることになる。だから必死で勉強した。

 今年のクリスマスが初めて長森と一緒に過ごすクリスマスとなる。気心の知れた幼なじみとして
ではなく、失われた家族の代用品でもなく、恋人同士として共有する初めてのクリスマスだった。

 オレは店の自動ドアをくぐり、商店街に出た。丁寧に包装された小さな箱をコートの内ポケットに
入れて、オレは家への帰路を急ぐ。すでに太陽は完全に姿を隠し、空には冷たく輝く月がその存在を
誇示していた。太陽の光を反射して輝く月の光には生命の暖かさを感じることは出来ない。
『cry for the moon』という慣用句をふと思い出した。『ないものねだり』という意味だったはずだ。
(まさにオレのことだよな)
 思わず自嘲してしまう。あるはずもない永遠を求めて、目の前にあった幸せの宝石を投げ捨てた。
 今のオレは大丈夫だろうか?そこにあるはずの幸せに気付かず、また月を求めてはいないだろうか。
 不安に覆われそうになる心を強引に切り替え、早足で家へと急いだ。