「な……ながもり、あのひ、おくれ……たの、は、なぜだ……?」
瑞佳の過失で遅れたのなら、こんな高熱を出した浩平に必ず平謝りしているはずなのだ。
謝って欲しい訳では全くないのだが、瑞佳の性格は把握している。
それが謝罪どころか言い訳の一言もないのだ。瑞佳らしくなかった。
しかし数秒後、浩平はうすら寒い思いを味わった。
表情の消え失せた瑞佳の顔。まるで往来ですれ違う通行人を見ているような顔。
「……なが、もり?」
おそるおそる呼びかけてみる。
「わたし、あの時偶然浩平を見つけたんだよ。ほんと、大変だったんだから」
瑞佳の顔に笑みが浮かぶ。それはあきらかに自分の混乱に戸惑っていることをごまかす
為の笑いだった。
「長森!」
浩平はたまらず瑞佳に抱きつく。
そのぬくもりを確かめる為に。絆をたぐりよせる為に。
だが、時既に遅かった。
浩平の消失は本人の考えていた以上に性急で突発的だった。
突然抱き付かれた瑞佳が浩平の腕の中で動物のように暴れ出したのだ。
まるで逃げるように。浩平を拒否するように。
(もう…これまでなのか…?)
そう呟く浩平が一瞬手を緩めた隙に瑞佳が息も絶え絶えに開放される。
「…ァ!…ァ!…ァ!」
言葉にならない嗚咽を漏らしながら、瑞佳は浩平の方に何事かを話しかけている。
「あなた誰!?私をこんな部屋に連れ込んでどうするつもりなの!」
浩平の心に瑞佳の声が響き渡る。
それは離別の叫び。浩平という存在を頭から否定する非情な咆哮。
(…ククッ)
ゆらりと身体を揺らしながら、浩平は瑞佳の方に近づいていく。
そんな幽鬼のような姿を見て、瑞佳は怯えながらも必死に叫ぶ。
「やめて!来ないで!いやぁ!!」
浩平の心に響き渡る容赦のない拒絶の刃。
その刃に切り刻まれる度に浩平の心は怪しく歪む。
(…みずか…みずかーーーーーーーッ!)
そして浩平はおもむろに瑞佳の首に両手をかける。
その瞬間、瑞佳の顔が恐怖に染まる。
(…もういい、もういいんだ、お前に忘れられたら俺は生きている価値がない、だから
一緒に死のう瑞佳。死ぬ時くらいは…一緒だ)
そう心の中で呟きながら浩平は瑞佳の首に更なる力を加える。
「…やめ・・こ…、グぇッ!」
そんな絶望的な響きを最後に瑞佳の手がガクンと宙に垂れる。
まるで割り箸でもへし折るように。蝋燭の火を消し飛ばすように。
その様は花火の如く儚く美しかった。
「…フへへ」
そして浩平は一人残される。この部屋、この世界に。だが浩平に迷いはない。
おもむろにカッターを手にした浩平の動きはまるで機械のように素早く正確だった。
…そして数時間後。
浩平の部屋の命の灯火は完全に途絶えていた。
瑞佳の上に折り重なり、右手を赤く染めた浩平の表情は子供のような安らぎに満ちていた。
だが浩平は知らない。
この事態の真相を。
先程抱き付いた時に瑞佳の背中が圧迫されすぎて『呼吸困難』に陥っていたという事実に。
拒絶の声は浩平の心に『だけ』響いていた事実に。
瑞佳は浩平の事を本当に『愛していた』という事実に。
だが、今となってはもう遅い。
真実は告げる声はもう届かないのだから。それが事実。それが答え。
空けっぱなした窓から穏やかな風が流れ込み、夕暮れが部屋の中を赤く染め上げていた。