夏休みが過ぎ、長い二学期を終え、古い年が去り、そして再び春を迎え――
だけどアタシの心は、修学旅行のあの日から、ずっと止まったままだった。
「はぁ……」
学校へと向かう途中の道で、ついついため息が出る。
普段はどうということはないのだが、落ち込んだ気分のときはよくこうなってしまう。
「あー、ダメダメ、元気出さなきゃ」
そう。こんなアタシの姿を、あかりや雅史、ましてやヒロには絶対見られてはいけないのだ。
修学旅行が終わってからも、アタシはそれまでと変わらない態度でヒロに接している。アタシは別にヒロのことを好きなわけではなく、ヒロとエッチしたことはただの通過点なんだとして考えることにしている。
そしてそれは、アタシ自身が望んだことなのだ。だから……だから、本当は違うのだと言うことを、ヒロに知られてはいけないのだ。
「でもなぁ……」
そう割り切って考えてはいるものの、辛いものは辛い。ヒロとあかりが仲良くしているのを見たりしたときはもちろん、アタシ自身がヒロと仲良くしているときも、辛い。
だって、どんなにヒロと仲良くなっても、アタシとヒロが結ばれることはないのだから。
もちろんそれは、他の誰のせいでもなく、アタシ自身が望んだこと。
でも、辛いものは辛い。苦しくて、とても悲しい。
いっそ死んでしまえれば、こんな辛い想いをしなくてもいいのかな、と思ったこともある。
でも自殺なんかしたりしたら、きっとヒロは自分のせいでアタシが自殺したんじゃないかって考えてしまうだろう。それはダメだ。
だからどんなに辛くても、アタシは元気でいなくちゃいけない。ヒロとあかりと雅史と、以前と同じように接しないといけない。
……そう。いくら悩んでも、結論なんてとっくに出ているのだ。
だからアタシは、今日も頑張らないといけないのだ。
「さ、今日も張り切って……」
落としていた視線をあげると、その先にヒロとあかりの姿が見えた。
「あ、あっかり〜、ヒロ〜」
元気に、笑顔で、挨拶。
二人がアタシの方を向く。だけど、様子がおかしい。
「志保っ!」
「バカ、危ねぇっ!」
驚愕の表情。
悲鳴とクラクション。
つんざくようなブレーキ音。
え、なに?
ここ、道路?
なんで車が……
避け……られない?
そして、衝撃。
それが、アタシに残された最後の記憶だった。
ふと気づくと、夜だった。
いや、夜なんじゃないかと一瞬思っただけで、実際にはよくわからない。
すぐに、思い出す。そう、アタシは、車にはねられたのだ。細かくは覚えていないが、そのことだけは覚えていた。
頭に霞がかかったようで、ぽやんとしている。アタシは……どうなってしまったんだろう。
それと、ここはいったいどこなんだろう。暗いと言っても、なぜか辺りは見回せる。やけにぽわぽわしたところだけど……もしかして、天国とか?
そんなことを考えていたら、いつのまにか目の前に道ができていた。なーるほど、ここを進むわけね。
「長岡志保よ……」
だがその時アタシの背中に、声がかけられた。その声がなければ、アタシはそれ以上何も考えずに道を進んでいたことだろう。
「だぁれ?」
その声に応えてアタシが振り向くと――そこには、なんとも形容しがたい人がいた。
シルエットは人間のようだが、全身が紫というか黒というかとにかく人とは思えないような黒さだ。よく見ると服は着ていないのだが、身体の大部分は毛で覆われているようだった。
そして特徴的な、頭頂に生える二本の角と、先端が矢印のようになっている尻尾。
「な、なによあんた……」
さすがに思わずひるむ。目の前の人間……というか、異形の人影は、アタシの言葉に応えるように抑揚のない声で言った。
「我は、貴様ら人間が言うところの、悪魔だ。長岡志保よ、我は貴様と契約を交わしに来た」
「……は?」
アタシは、思わずおマヌケな返事をしてしまった。
「ど……、どういうことよ……」
目の前に現れた、悪魔だと名乗る変な人……いや、悪魔?
アタシはあきらかに混乱していた。悪魔とか天使とか、実在すれば面白いとは思うが、正直言って信じてはいない。しかし、目の前の男の格好は、本とかの挿し絵に出てくる悪魔とそっくりだ。
アタシが悩んでいると、自称悪魔は、どこから取り出したのか一冊の分厚い本を広げた。
「長岡志保よ、貴様の本体は登校途中に車にはねられ、意識不明の重体だ」
思わずはっとする。そういえばそうだった。アタシは、ぼーっとしていていつのまにか車道に出てしまい、車にはねられてしまったのだ。
「そして汝が、このまま死ぬか、もしくは意識を取り戻すかは、現在五分五分の状態だ」
悪魔の一言一言が心に突き刺さる。理屈ではなく、アタシはそれが本当のことなんだと感じていた。
それと同時に、無性に身体が震えてきた。ひざをがくがくと震わせながら、自分の身体を抱きしめる。それでも、とても寒い。
「アタシ……死んじゃうの?」
身体を震わせながらも、アタシはなんとか悪魔の方を見た。
「このままなにもしなければ、半分の確率で貴様は死ぬ」
悪魔の抑揚のない声が、アタシの心に響いた。
「そっか……」
そう思ったとたん、心の中に様々な光景がよみがえった。
両親、家族、友人、小学校、中学校、高校、様々な出来事、様々な思い出……
あかり、雅史、ヒロの事を思い出す。たくさんの楽しかったことや嬉しかったこと、そして少しの、悲しかったことや悔しかったこと。
それと同時に、辛く、苦しく、悲しい想いが、志保の胸によみがえった。
アタシがヒロと結ばれることはない。なぜなら、アタシがそれを望んだのだから。
だけど、この十ヶ月でわかったことがある。それは、生きるということが、辛く、苦しく、悲しいということ……。
アタシはヒロのことが今でも好き。でも、アタシはヒロに好かれてはいけないし、アタシが実はヒロのことを好きだと言う事実もばれてはいけない。
だから、好きという気持ちを隠し、アタシは普通にヒロに接しなければいけない。どんなに、辛く、苦しく、悲しくっても……。
「死んじゃうのか……」
アタシは自重ぎみにそうつぶやいた。それも悪くないと思ったからだ。死んでしまえば、もう苦しまなくて済む。
それに自殺と違い、明らかな事故死なら、誰もアタシが苦しんでいたことには気づかないでくれるだろう。
だがその時、悪魔が口を開いた。
「長岡志保よ、我は貴様を救うためにやってきたのだ」
「え……?」
その言葉に、思わずアタシは反応してしまう。
「我と契約を結べ。さすれば、我は貴様を間違いなく甦らせ、さらには、貴様の望む未来を与えよう」
悪魔はアタシに向かって、声高らかにそう言った。
「望む……未来?」
「そうだ。貴様の心からの願い、それを叶えようというのだ」
魅惑的な言葉。アタシが望む未来って……なんなのだろう。
だが、相手は悪魔なのだ。疑問も同時にわき上がる。
「で、でも、なんで……」
「貴様が願う心からの世界、受け入れるかどうか、選ぶがいい」
アタシの言葉を遮るように、悪魔は手にしていた本を閉じた。
その途端、アタシの意識は白い闇の中へ落ちていった。
「……保、志保、起きろよ」
身体が揺さぶられる。アタシはゆっくりと目を開けた。
「……ヒロ?」
「何寝ぼけてんだ、駅、着くぞ」
そこは、電車の中だった。高校時代、学校に行くのに毎日使っていた電車。
その頃と違うのは、隣にヒロがいることと、服装。アタシもヒロも大学生なので、当然私服だ。
「あ、ちょっと、待ちなさいよっ」
アタシは立ち上がると、出口に向かうヒロに慌ててついていった。
降り立った駅は、このあたりで一番大きな駅だ。改札を出た先には大きなバスターミナルが広がり、その回りをデパートや銀行のビルなどが囲んでいる。
「ひゃー、さすが日曜の昼間だな、すげぇ人混みだぜ」
駅前は人の波でごった返していた。
「志保、離れるなよ」
「え……!」
不意に、繋がれる手。ヒロは、さも当たり前のようにアタシの手を取った。
そして人混みの中を縫うように、まっすぐに進んでいく。
ヒロとははたいたりはたかれたりの仲ではあるが、手を繋いで歩くのなんて初めてだ。
でも……心地いい。
「……どうした?」
「わ! な、なんでもないのよっ」
ヒロの怪訝そうな顔に、アタシは慌てて手を振った。
頬が熱い。赤くなっちゃってるかもしれない。
「……具合わるいとかじゃないんだよな?」
「ホントに大丈夫よ。さ、行きましょ」
照れてるのを隠すように、アタシは元気に言った。
「……変なやつだな」
だがそう言いながらも、ヒロは別に気分を害した様子もなく、どこか嬉しそうだった。
しかし……まだよくわからない。
「あのさ、ヒロ……」
「あん?」
アタシは正直に聞くことにした。
「あのさ、アタシたち、どこに行くんだっけ……?」
「レクションだろ」
有名なブティックの名前だ。センスのいい洋服が並んでいて見るだけでも飽きないのだが、バイト収入くらいしかない大学生にはちと高い。
「そうそう、レクションよね。で……何しに行くんだっけ?」
そう聞いたのは、正直言ってヒロが興味を持てるようなお店とは思えなかったからだ。以前ヒロに洋服の見立てをやってもらったことはあるが、今日はそんな約束をしていただろうか?
「ははーん」
だがヒロは、なぜかにやりと笑った。
「オレを試そうって言うんだな。はいはい、わかってますよ、オレは志保に洋服を買ってやるためにレクションに行きます。……と、これでいいんだろ」
「えええ? ……で、でも、あそこ高いよ?」
想像もしなかった言葉に、アタシは驚いて言った。
「わかってるよ。今日は軍資金はバッチリだからな。心配しなくていいぞ」
「な……なんで? そ、それにさ、レクションのって大人っぽいし……アタシには似合わないわよ」
驚きの続く展開にアタシがそう言うと、ヒロは怪訝な顔をした。
「何言ってんだ、お前があそこがいいって言ったんだろ。それに、お前がどう思おうが、オレが似合うと思えばそれでいいんだよ。さ、もう着くぜ」
ヒロはそう言うと、アタシの手を握りながら笑顔でレクションへ向かった。
アタシはよくわからないまま、ヒロについて行くしかなかった。
「あのレストラン、行き当たりばったりで入った割には雰囲気も良かったし、料理もうまかったな」
「うん……」
日が暮れて夜になって、アタシとヒロは公園の中を歩いていた。
とても楽しい一日だった。結局洋服を買ってもらい、それに合わせた靴まで買ってもらってしまった。
そして、レストランで食事。そこも、ヒロのおごりだ。
「あの……今日は色々、ありがとう」
アタシは靴が入った紙袋を手にしながら、ヒロにお礼を言った。こんなに優しくされて、言わずにはいられなかったのだ。
「……おい志保、やっぱ今日のお前、なんかおかしいぞ?」
自分でもそう思う。でも、けして自分を飾っているわけでもないのだ。
「服買ってもらっておしとやかになるなんて、そんなのお前らしくねーよ。俺がお前を好きなのは、お前がいつも元気で憎まれ口をたたてくるようなやつだからなんだぞ」
思わずアタシは、持っていた紙袋を落としてしまった。
「お、おい、どうした……」
「ねぇ、ヒロ、今……今、なんて言ったの」
ヒロはアタシが落とした紙袋を拾うと、アタシの方へ向き直って言った。
「まったく……。俺がお前を好きなのは、お前がいつも元気で……っておい、どうした?」
アタシの目からは、涙がぽろぽろとこぼれ始めていた。
「な、何泣いてんだよ」
「ううん、ゴメン……だって、嬉しくて……」
涙は後から後から流れてきて、止まりそうもなかった。
ヒロが、アタシのことを好き。アタシも、ヒロのことが好き。
こんな幸せが、あっただなんて……。
「志保……」
ヒロに抱きしめられる感触。アタシは涙を流しながら、ヒロの胸に身体を預けた。
アタシはヒロが好き。ヒロも、アタシのことが好き。
こうなることを望んでいた。叶わない夢だと思っていた。
でも、今アタシは、こうしてヒロに抱きしめられている……。
「志保……」
ヒロの声に、アタシはゆっくりと上を向いた。
「ん……」
熱いキス。そして、長い長いキス。
ヒロの舌が、アタシの唇を割って入ってくる。アタシはおずおずと口を開いて、ヒロを迎え入れた。
舌と舌がからみあう。とても、優しい愛撫。ヒロを感じることのできる喜び。永遠に続くかのような時間。
背中につたわる手。ぎゅっと抱きしめてくるだけだが、とても安心できる。ヒロに触られている喜び。
そして、何分か経って、アタシたちはやっと離れた。
また、ヒロの胸に身体を預ける。こうしているのが、たまらなく心地いい。
しばらくアタシたちは、星空の下で黙って抱き合っていた。
「……なぁ、志保」
「なぁに?」
やがて、ヒロがゆっくりと口を開いた。
「あのよ……その……」
「もう、何よ、さっさと言いなさいよ」
アタシは上目遣いになると、いつも通りにいたずらっぽく言った。
「結婚……しないか?」
「えっ……」
それはさすがに、予想していない言葉。
アタシは即答できなかった。
「……オレと一緒になるの、嫌か?」
ヒロのやや困ったような言葉に、アタシは慌てて首を振った。
「そ、そういうわけじゃないんだけど……」
だがやはり、それ以上は言葉が出ない。
「ま、すぐに返事をくれとは言わないけどな、いつかは言うことだから」
ヒロの目はいつものふざけた様子もなく、真剣だった。アタシはその目に引き込まれた。
アタシは、ヒロのことが好きなのだ。そしてヒロも、アタシのことを好いてくれているのだ。ならば、何を迷うことがあるのだろう。
「いいよ、ヒロ……。結婚しよ……」
アタシはヒロの胸に顔を埋めると、ささやくようにそう言った。
「志保……い、いいのか?」
震えるようなヒロの言葉。アタシは上を向いて再びヒロと視線を合わせると、ゆっくりとうなずいた。
「うん……」
「志保……!」
アタシたちは、再び、星空の下で抱きしめあった。
そして、長い長い包容の後、ヒロはゆっくりと口を開いた。
「今度、お前のうちに挨拶に行くな」
「……うん」
アタシはヒロの胸の中で、小さくうなずいた。
「そしたらその後、今度はうちに来てくれるか? 今更だけど、やっぱりちゃんと紹介したいしな」
「……うん」
アタシは再び、小さくうなずいた。
目頭が熱い。ヒロの胸に顔を押しつけているので流れはしないが、涙が溢れる。。
「……そうだ、雅史とかにも教えないとな。雅史なら、結婚式とか色々と手伝ってくれそうだし」
「まさ……し?」
その名前を聞いたとき、不意に、衝撃が走った。
ものすごい不安が、アタシの心を覆おうとしている。こんなに、嬉しいはずなのに。こんなに、幸せなはずなのに。
「……志保、どうした? 寒いのか?」
アタシが震えているのが、ヒロにもわかったのだろう。
「わ……わからないの。ま、雅史のことを思い出したら、身体が震えて……」
歯の根もあわない。恐怖が身体全体を包む。ヒロに抱きしめられているはずなのに、感じられない。
別に、雅史が怖いわけじゃない。中学からの四人グループの仲間。アタシにとってもそうだが、ヒロにとってはまさしくかけがえのない親友。
いつも、アタシとヒロと雅史は一緒だった。懐かしい高校時代のワンショットが、脳裏に浮かぶ。
アタシと、ヒロと、雅史と、もう一人……。
『おはよう、志保』
『ねぇ志保、本当にいいの?』
『やっぱり志保だね』
『志保、浩之ちゃんに謝ったら?』
気づくと、アタシはまたぽろぽろと涙を流していた。
だけど、この涙はさっきのものとは違う。
これは……悲しみの、涙。
「志保、おい、大丈夫か?」
ヒロが心配そうに、アタシの顔を覗き込んできた。
アタシはヒロの腕を取ると、ヒロから身体を離した。
「ごめん……、大丈夫だから……」
「そ、そうか、それならいいけど……」
ヒロの言葉は、どこか納得いっていないように聞こえた。きっと、アタシの雰囲気を、察してしまったんだろう。
「ゴメンね、ヒロ」
「ああ、いいって、気にするな。泣きたいんなら、オレの胸を貸してやるからさ」
そう言ってくれたヒロの姿が、たまらなく悲しかった。
「そうじゃないの。……ゴメンね。アタシ、やっぱり……結婚、できないよ」
「え……?」
ヒロは驚いたような顔をした。当たり前だろう。
「な、何冗談言ってるんだよ。今、結婚しようって言ったばかりじゃんか」
もうこれ以上、アタシはヒロの顔を見れなかった。
「だって……だって、アタシ、今の今まで、忘れてたんだもん」
「何を……忘れてたって言うんだよ。どうしたんだ志保、今日のお前、やっぱりおかしいぞ?」
真面目なヒロの口調。アタシは涙声になりながらも、なんとか口を開いた。
「ダメだよ。ヒロは、アタシなんかじゃなくて……あかりを、幸せにしてあげなきゃ」
アタシが忘れていたこと。
忘れてはいけなかったこと。
思い出せて、本当に良かったこと……。
「あかりを、って……志保、ちょっと待てよ、これはオレとお前の問題だろ? あかりは関係ないだろ?!」
両肩をつかまれ、揺さぶられる。アタシは、答えられない。
「それに、オレが好きなのはあかりじゃなくて、志保、お前なんだ。お前だって、オレのこと、好きなんだろ?!」
アタシは涙をこぼしながら、首を縦に振った。アタシがヒロを好きなことは、変えようのない事実。
「だったらいいじゃんか! オレとお前、二人ともが望んでいる未来なんだから!」
「違うの!」
アタシの叫び声が、夜の公園に響き渡った。
ヒロは驚いた表情で、アタシを見ていた。
「ごめんね……、でも、違うの。アタシは、そんな未来、望んでいないの……」
ヒロの言うことは確かに正しい。でも、違うのだ。
アタシはヒロの手を振り払って言った。
「ヒロ、アタシは……、アタシは確かに、あんたのことが好き」
「じゃあ、なんで……」
ヒロの言葉を遮るように、アタシは言葉を続けた。
「でも……でもね、ヒロ。あかりも、あんたのこと、好きなんだよ。アタシがあんたと結婚したら、あかりが幸せになれないじゃない」
涙が止まらなかった。ゆがんだ視界に映るヒロは、驚きと悲しみの入り交じった表情をしていた。
「アタシは、あかりにも、幸せになってほしいの。だってあかりが幸せじゃなきゃ……アタシだって、幸せになんかなれないよ……」
そしてアタシはそれ以上我慢せず、泣いた。
心が痛くて、辛くて、苦しくて、そして……どうしようもなく、悲しかった。
気づくと、辺りは夜だった。
いや、夜なんじゃない。ここは……悪魔と出会った場所だ。
「長岡志保よ……!」
声に気づいて振り向くと、そこにはあの悪魔がいた。だが、様子が違う。
「貴様は、我との契約を結ばないと言うのか?! 貴様の心からの願いを、拒否するというのか?!」
それまで抑揚のないしゃべり方しかしなかった悪魔が、怒っているようだった。
そしてアタシは、今までの出来事が事実ではなく、悪魔に見せられたものなのだと理解した。
「あれは……」
悪魔に見せられた、辛く、悲しい記憶が、胸の中に甦る。
「あれは、アタシの望む未来なんかじゃない……」
アタシは小さな声で、しかしはっきりと、そう言った。悪魔の声は、さらに怒りの度合いを増していった。
「では、現世に甦れなくてもいいというのだな? 我との契約を結ばず、死んでもいいというのだな?!」
「そっか……」
アタシは自嘲気味に笑った。
「その方がいいかも。いっそ、死んでしまったほうが楽だものね……」
死んでしまえば、こんなにも辛く、苦しく、悲しい想いはしなくても済むだろう。
それに……交通事故なら、ヒロもあかりも、なにも罪悪感を持たないに違いない。
「いいわ。アタシを……殺して。殺してよ!」
アタシは悪魔に向かって叫んだ。もう、どうなっていいと思っていた。
一瞬の空白の後、悪魔はどこからか取り出した本を広げた。
「……長岡志保よ、我が見せた貴様の望む未来を否定した罪は重い」
悪魔が何をしようとしているのか、アタシにはわからなかった。ただ、早く楽にして欲しかった。
「よって、貴様の望みを叶えるわけにはいかぬ」
そう言うと、悪魔は本を閉じた。
その途端、アタシの意識は以前と同じように、白い闇の中へ落ちていった……。
「……保、志保!」
だれ? アタシを呼ぶのは……。雅史?
「やだよ志保、死んじゃやだよ!」
涙声……あかりだ。
「あかり、下手に触るな! 救急車もう来るから!」
これは、ヒロの声。やっぱり、ちょっと涙声になってる。
あれ、じゃあ、アタシ、死んでないんだ……。
「だって……だって……」
そっか、あんまり心配させちゃ、悪いわよねぇ。
アタシはそう思い、ゆっくりと目を開けた。
「やだよ……志保……」
「あかり……」
アタシが喋った途端、あかりが泣くのを止めた。
「志……志保! 大丈夫なの? 平気?」
「えへへ……あんまり大丈夫じゃないけどね……」
そう言って、アタシは無理矢理笑顔をつくった。顔の筋肉が痛くてうまく笑顔になれたかどうかはわからなかったけど、それでも伝わったらしい。
「良かった……本当に、良かったよ……」
そしてあかりは、再び泣き出してしまった。でも今度の涙は、悲しませているわけじゃない。
「志保、良かった……。救急車もう来てるからね。しっかりして」
今度は雅史。まだ心配そうな表情でアタシを見ている。
「ありがと、雅史……」
「ふぅ……、まったく、心配させやがって」
ヒロが非難するように言った。だがそう言いながらも、ヒロの瞳の端には光るものが見えた。
担架を持った救急隊員の姿が見える。これから病院に運ばれるのだろう。
「志保……本当に……良かった」
「ああ……志保、オレたちもすぐ後から行くからな!」
「頑張ってね!」
励ましてくれる三人に向かって、アタシは担架に乗せられながらも、精一杯の笑顔を向けた。
アタシが乗せられたと同時に、救急車が走り出す。脳裏には、アタシが死んでいないと知って、嬉しそうな三人の姿が浮かぶ。
少なくともアタシが死ななかったことは、三人をほっとさせたのだろう。
例えアタシがどんなに辛くても、苦しくても、悲しくても、それでも……アタシさえ我慢すれば、あかりや雅史や、そしてヒロの、喜ぶ顔を見ることができるのなら――
「……がんばろう」
誰にも聞こえないような声で、アタシは小さくそうつぶやいた。
三人が幸せでなければ、アタシの幸せなどあり得ないのだから。