新婚訪問
「ただいま」
といって、俺は自宅であるマンションの扉を開いた。
外から寒い風が入り込んできたので、慌てて扉を閉める。
「おかえりなさいっ祐一さん」
いいながら、エプロン姿の栞が出迎えてくれた。
「外、寒かったでしょう?」
俺が差し出したカバンを受け取りながら、栞が心配そうに言う。
「それよりも栞・・・」
俺はコートも手渡しながら、声を低めて言う。
「な、なんですか?」
ただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、栞が後ずさりをした。
「暖めてくれぃっ!」
と俺はスーツを脱ぎ捨てながら、栞に飛び掛った。
栞を優しく廊下の上に押し倒し、覆い被さる。
「きゃぁあああ!?」
そう栞が(本気の悲鳴か嬉しい悲鳴か知らないが)悲鳴をあげた刹那―――。
スパァアアアアアン!!!
といい音が鳴った。
「いいかげんにしなさいよっ!このド外道がっ!!」
ぐ・・・不覚。
と呟いて、俺の意識は暗転した。
「ったく・・・本気で殴るなよなぁ・・・たく、この馬鹿力」
といまいましげに義姉―――香里を見やる。
「もう一発喰らいたい?」
香里は不適な笑みを浮かべながら、手にしたスリッパ(先ほどの凶器だった)
を手に構えた。
「いや、遠慮しておく」
あんなの何べんも食らったら脳味噌がとろけちまう。
断ると、香里はさも残念そうな顔つきで、「あら、残念」とだけ呟いた。
「それよりも栞・・・あなた、祐一君に毎日あんな事されてるの?」
真顔で香里が栞に尋ねる。
手にはスリッパを握ったままだ。
ちなみに言うと、栞と結婚した時から、香里は俺を苗字ではなく名前で呼ぶよ
うになった。
それはともかく―――。
まずい。
殺られるかもしれない。
いや、かなりの確立で殺られる。
身の危険を感じた俺は視線で栞に合図する。俗に言う、アイコンタクトという
やつだ。
が―――しかし、栞は顔を赤らめ、「えぅー」と情けない声を上げた。
「ち、違う゛ぇっ!」
慌てて否定しようとしたが、もう時既に遅し。
言い切る前に、香里のスリッパが俺の脳天を叩き割った。
フローリングの床に広がっていく自分の血を見ながら、俺はただ、死なない事
だけを祈った。
あの後、栞に手当てしてもらい、俺は何とか回復した。
「それで、わざわざどうしたんだよ?」
と俺が尋ねると、香里はカーブがかったその髪を掻き揚げ、笑った。
「あら、可愛い妹とついでに義理の弟の様子を見に来て、悪い?」
「ついでとはなん・・・いや、なんでもない」
その『ついで』という言葉に反論しようとしたが、さすがにもう懲りた。
っていうか香里・・・スリッパは手に持つものではないと思うのだが・・・。
「ま、確かに最近は美坂の家に顔を出してないからな。しょうがないか」
「あなた達、新婚で嬉しいのは分かるけど、たまには顔を出しなさいよ・・・」
呆れたように香里が呟く。
「分かった。なるべくそうするよ」
「お願いね。さて、それじゃそろそろ私はお暇するわ」
香里がコートを手に取り、立ち上がる。
「なんだよ、一緒に夕飯食ってけばいいじゃないか」
「あ・・・お姉ちゃんの分ももう作っちゃいました」
俺と、栞で引き止めると、香里は「しょうがないわね」と言いながら、また席
に着いた。
「それじゃ、久しぶりに栞の絵みたいな料理でも食べさせてもらいますか」
香里がそういうと、栞が膨れ面になった。
「うー・・・最近じゃお料理、上手になったんですよー・・・まだお姉ちゃん
には敵わないけど」
「どうなの?祐一君としては」
香里が不敵な笑みで、俺に確認を取るように尋ねる。
「うーん」
ちらっと栞を見ると、瞳を潤ませ、えぅえぅと今にも泣きそうだった。
「いや、本当に美味いぞ。これは真実だっ」
と力強く断言する。
香里は呆れたように、「あらあら、ご馳走様」とだけ言った。
深夜―――。
明日は休日、という理由にかこつけて、俺達は3人で酒を呑んでいた。
が、予想通りに一番最初に栞がダウンし、ベッドに寝かせると、香里が呟いた。
「ね、相談が・・・あるんだけど」
そして、ウイスキーが入ったグラスを回す。
カランっと小気味よく、氷が爆ぜた。
「その為に―――今日は来たんだろ?」
俺は確認するようにそう言ってから、グラスを呷った。
「お見通し―――ってわけね」
少し、照れたように香里が笑う。
「まあな」
今日、香里が見せた笑顔の合間に、翳りが有ったのを俺は決して見逃さなかった。
だから、こんな遅くまで引き止めたのだ。
「んで、どうしたんだよ?」
「・・・北川君にね、プロポーズされたの」
俺の問いに香里は消え入りそうな声で、ぼそっとだけ呟いた。
「・・・そうか。よかったじゃねぇか」
俺は何の気無しにそう答えた。
二人が付き合っていたのは知っていた。
栞の病気が治り、やがて俺達が学校を卒業する時に、北川が俺、名雪、そして、
香里の前で告白したのだから。
そして、香里もそれを良しとしたのだから。
足掛け5年の長い恋愛だ。
そろそろ、結婚してもいい時期だろう。
しかし、香里は俺の答えを聞くと、急に声を荒げだした。
「よかった!?本気でそう思うっ!?」
その言葉に俺は戸惑う。
「ど、どうしたんだよ?」
慌ててそう尋ねると、香里はさらに声を荒げ、俺に詰め寄った。
「5年、彼と付き合ったわ!・・・それは彼の事が好きだから。愛しているから!
でも・・・不安なのよ。私は!あなたと栞のように大恋愛したわけじゃないっ!!
普通に好きだったから付き合った。ただそれだけなのよっ!!」
一気にまくし立てると、香里はテーブルの上に置かれたアイスストックの中の氷を
見て、呟いた。
「私と北川君の間に・・・貴方達のような強い絆があるか・・・不安なの・・・」
パァンッ。
その呟きを耳にした瞬間、俺は思わず香里の横っ面を平手で打っていた。
「痛いわねっ!何するのよっ!?」
香里が殴られた頬を手で抑えながら俺を睨みつける。
その瞳には涙が浮かんでいた。
しかし、俺はそれを目にしながらも、怒鳴っていた。
「不安っ!?馬鹿野郎っ!誰だって不安だよっ!もちろん俺だって、栞だって!」
びくっと振るえた香里の肩を荒々しく掴み、さらに怒鳴る。
「何時だって不安だった!・・・今もそうかもしれない。いつ、栞の病気が再発し
やしないか、毎日怯えて暮らしてるっ!でもなっ!それでも俺は栞を信じて、毎日
頑張って働いてる!栞とずっと一緒に居たいからなっ!」
「あ・・・う・・・」
何も言い返せない香里の目を見据え、俺はさらに続けた。
「信じてやれよ。そりゃ、あいつはちゃらけた部分もあるさ・・・でもな、あいつ
はお前に関しては何時だって真剣だった。高校の時から。もちろん、今でもな」
と俺はすっと居間の入り口を指差した。
「香里・・・」
呟くように、北川が香里を見ながらそういった。
走ってきたのか、額に滝のような汗を浮かべ、またその息は荒々しかった。
「北川、君・・・どうして・・・?」
香里が信じられない、とばかりにそう問い掛ける。
「栞ちゃんから電話を貰ったんだ。ついさっき」
北川のその言葉に、俺は隣の部屋に向って言った。
「栞、もういいぞ」
言うと同時に、スー、と襖を開け、栞が暗い部屋から、姿を見せた。
「お姉ちゃん・・・私も、不安なんです。確かに病気は治りました。でも、それで
も!不安・・・なんです」
涙を堪えるように、口をひん曲げていたが、俺が抱きしめると『えぅー』と情けな
い声を上げて栞は泣き出してしまった。
「不安無しでは生きていけないんだ。生きている上で、どうしても不安な事は出て
くるんだ」
諭すように、香里に向ってそういう。
「ひ・・・ぐ・・・でも・・・でも!それでも!・・・一緒にいたい」
栞が泣きながら、呟いた。
その言葉に全てが込められていた。
喜びも、怒りも、哀しみも、楽しみも、すべて分け合って、二人で生きていく。
それが、人を愛すると言う事だ。
「香里・・・あの時、冗談に聞えたのなら済まない。でも、あれは俺の本心なんだ。
栞ちゃんの言う通り、それでもずっと、一緒にいたい」
北川が香里を正面に見据え、はっきりと伝えた。
その表情には微塵にも、冗談や嘘偽りなどは無かった。
「・・・私も・・・一緒に・・・いたいよ・・・一緒に・・・いたいよっ!」
わぁっ!と泣き声を上げ、香里が北川の腕の中に飛び込んだ。
俺は栞とともに、その光景を見守っていた。
夜が明け、香里と北川が帰る準備を整えていた。
「いいのか?少し辛そうだが」
俺が北川にそういうと、北川は少し青ざめた表情をしながらも虚勢を張った。
「だ、うぷっ・・・大丈夫だ」
あの後、4人で再び明け方まで酒をしこたま飲んだ為か、北川はいまにも胃の中の
ものを全てぶちまけそうだった。
「北川君・・・大丈夫?」
心配そうに香里が北川の背中をさすった。
その姿はどこから見ても、夫を心配する妻そのものだった。
もう大丈夫だ。心配要らない。
俺と栞が、これまで努力してきたように、二人も努力し、支えあい、お互いを想い
ながら、ずっと、暮らしていけるだろう。
そう確信した。
「なあ、俺と香里が結婚するってことは・・・」
不意に北川がにやり、と笑う。
「ああ・・・」
俺もそれに笑い返す。
お互い肘をぶつけ合い、同時に声を上げた。
『兄弟だっ!』
それに香里と栞が「あっ」と声を上げた。
朝日が窓から差込み、俺達を照らし出した。
それはまるで、俺達を祝福しているかのようだった。
―――了。