香里支援SS 闘病
お断り:栞の病気は慢性腎不全という設定です。
深夜、私は妹―――栞を抱きしめていた。
冷たい身体、泣き濡れた瞳。
栞はただ、ただひたすら泣いていた。
「そう・・・そう・・・」
泣きじゃくりながら話す声に私はうなずく事しか出来なかった。
「わたし・・・本当はっ・・・離れたく・・・ないの・・・に」
2月1日。
栞の誕生日。
そして・・・それは栞と相沢君の約束の日。
別れの日。
「・・・うぁ・・・うぁあああん!」
栞の悲痛な泣き声が、部屋に響いた。
私は、それを受け止める事しか、出来なかった。
姉として、家族として、他に何も出来なかった。
―――子供だから?
いや、そうではない。
大人になっても、出来ない事はあるのだ。
ただ、抱きしめてあげる。
それしか―――出来ないのだ。
夜が明けて、栞は病院に搬送された。
今朝方、急に発作が起きたのだ。
救急車に同乗し、必死に栞の名を呼び続けた。
「栞っ!栞っ!」
苦しみ続ける栞の手を握りながら、何度も繰り返し、叫び続ける
事しか出来なかった。
そして―――。
「コーホー・・・コーホー・・・」
ICUに人工呼吸器の音が響いていた。
私は、ベッドの周りに張られたビニールの外から栞を見守ってい
た。
無菌服に身を包んで。
とりあえず発作はなんとか治まった。
でも・・・明らかに悪化している。
どんどん、栞の命が削られていくのが分かる。
そしてそれは・・・緩やかだけど確実に、栞を死に追いやってい
るのだ。
口惜しかった。
出来る事ならば、代わってあげたかった。
しかし、病魔は私にではなく、栞に憑いているのだ。
私は苛立たしげに、栞が生まれてからずっと、ずっと繰り返し、
口にしてきた言葉を口の中で呟いた。
『あの子が何をしたって言うの?何で、あんなに苦しまなければ
いけないの?』
と。
1週間後、ようやく容態が落ち着いたので、栞は一般病棟に移る
事になった。
容態が落ち着いたとはいっても、明らかに・・・以前より衰弱し
ていた。
もともと肉付きのよい体とは言えないのに、さらに痩せこけて、
目の周りがくぼんで・・・。
父と母はもはや、諦めたようだった。
なんて薄情な親なのだろう。
正直にそう思った。
でも、それも仕方ないだろう。そう思う自分もいた。
栞が生まれて16年。
生まれた時から、長く生きられないだろう。そう言われて、よく
16年ももったものだ。
そう、思いたくないのに、思ってしまう自分が・・・嫌な人間に
思えた。
「おねぇちゃん・・・」
唇をぼそぼそと動かし、栞が私を呼ぶ。
その声はとてもか細く、消えてしまいそうなほど、小さな声だ。
注意して聞かないと、何を言っているのか分からない。
「ん、なぁに?」
「バニラアイス・・・食べたいです・・・」
手に持っていた、本を取り落としてしまう。それほど動揺した。
「ごめんね。お医者様が駄目だっていうのよ」
出来るなら、いくらでも食べさせてあげたかった。
「・・・そう・・・ですか」
栞は少し、悲しんだような目をして、再び目を閉じた。
2月14日。
この日、栞はいつもより、沈んでいた。
「どうしたの?なんでそんなに・・・」
と尋ねても、曖昧に笑って、顔を伏せるばかり。
「何か、欲しいものでもあるの?」
そう尋ねると、栞は壁にかけられていたカレンダーに視線を移
した。
―――そうか、今日は・・・。
「チョコレート・・・相沢君に・・・?」
私がそういうと、栞は少しだけ顔を赤らめ、こくん、と頷いた。
「はぁ・・・でもね・・・」
と諭すように言うと、栞が涙目で、呟いた。
「分かってるんです。自分でも。祐一さんとはもう会わない。
自分でそう決めたから・・・。ただ・・・」
栞が悔しそうに俯いた。
「チョコレートを渡せない自分が・・・悔しい・・・悔しい・
・・悔しい・・・です」
そう言いながら、軽く握った拳をベッドに叩きつける。
何度も、何度も、何度も。
私は、栞の手を握って、否定するように首を振った。
「・・・うぁ・・・ぁああん・・・」
栞はただ、泣いた。
栞の代わりに、相沢君にチョコレートを渡す事が出来た。
でも私がそれをしてしまうと、栞が相沢君に別れを告げた意味
が無くなってしまう。
だから、私には何も出来なかった。
2月23日。
ついに恐れていた再発作が起こってしまった。
「くっ・・・はぁっ・・・うくっ・・・」
栞がベッドの上で苦痛に身をよじる。
それに私は慌ててナースコールのボタンを押した。
「栞っ!しっかりなさいっ!」
苦悶の表情を浮かべる栞の手を握り締め、私は叫ぶ。
すると・・・栞は笑った。
苦しいはずなのに。痛くてたまらないはずなのに。
「おねぇちゃ・・・ん」
栞は苦しげに吐き出した息の合間に、そう呟いた。
「な、何っ!?栞っ!」
慌てて、私は問い返す。
「ありがとう」
とだけ言って、栞は瞳を閉じた。
あまりの苦しみの気を失ってしまったのだろうか。
遠くから慌てたような足音が複数、聞えてきた。
「栞っ!栞ぃっ!!」
医師と看護婦が部屋に飛び込んできた時にはもう、私は栞に
すがって泣いていた。
気がつくとICUへの入り口の前で、私は座り込んでいた。
何時、ここへ来たのかも分からなかった。
足音がしたので、そちらへ視線を向けると、両親がこちらへ
走って向っているのが見えた。
「香里っ!栞はっ!?」
その父親の言葉に私は無言で答える。
「・・・」
「まさかっ!?」
母親が、声を上げた瞬間、私は叫んだ。
止まらなかった。
止められなかった。
ただ、ひたすらに感情に任せ、叫んだ。
「・・・なんで・・・なんでよっ!貴方達の娘でしょうっ!?
なんで・・・なんでずっとそばについてあげなかったのよっ!
栞は・・・父さんにも、母さんにも、会えないのに、ずっと・
・・ずっと我慢してっ、ひぐ、もう、16年も生きた。充分?
ふざけ・・・ひぎっ・・・ふざけないでよっ!」
そう怒鳴って、わたしは椅子を蹴飛ばした。
「あの子、何の為に・・・うぅあ・・・生まれて・・・きたの
?まだたったの・・・たったの16年しか生きてないのよっ!」
泣きながら、私は叫んだ。
不満があった。怒りがあった。
死に瀕している娘に、決して会おうと足を運ばなかった父。
もう、十分よ、と早々と諦めていた母。
そして、何も出来なかった自分に対して。
全てをぶちまけると、私は泣き崩れてしまった。
「いいでしょう?」
父と母に、私はそう問い掛けた。
もう、異論は唱えさせない。
誰にも、文句は言わせない。
そう思いを込めた問いだった。
父も母も、先ほどの私の剣幕に押され、何も言う事が出来ない。
もう、何年も前から医者のほうから提案されていた事だった。
しかし父と母がそれを承諾してくれなかったのだ。
あまりのその成功率の低さに、決してその首を縦に振ってくれ
なかった。
でも、私はもう決心した。
栞に・・・たった一人の妹に私の腎臓を分け与える。
そう、決心したのだ。
「成功確立は・・・かなりの低さです。さすがに、姉妹とはい
っても、そうそう臓器が適合するわけでは・・・」
と説明する医師に向かい、頷く。
「それでも、確立が0ではないのでしょう?」
「それは、そうですが・・・」
「なら、お願いします」
その言葉に、医師はやがて決意を固めるように頷いた。
「最善を、尽くします」
と。
数日後、移植手術の為、麻酔を打たれた私は薄れ行く意識の中、
栞の事を考えていた。
栞。
私の妹。
たった一人の妹。
最愛の、妹。
16年をともに過ごした、妹。
いろいろな思い出があった。
二人でいたずらをして、叱られた事。
お母さんの口紅を二人で塗りあって、遊んだ事。
クリスマスに、お互いプレゼントを交換しあった事。
似顔絵を描かれて、落ち込んでしまった事。
もっともっと、たくさんの思い出があった。
でも、それでも、もっともっと、両手に抱えきれないぐらいの、
思い出が欲しい。
栞との思い出がもっと、欲しい。
もっと、もっと、たくさん。
私はあんまり信心深い方じゃないけれど、それでも願う。
『もっと、もっとあの子を生きさせて』
そう、何度も願った。
麻酔を打たれて、どのくらい経っただろうか。意外とまだ数分
かもしれない。
急に意識が、白い靄に包まれていくのが分かった。
麻酔が効いてきたのだろうか。
白い靄の向こうに、白く輝く一枚の羽が、見えた。
そして、聞きなれない、女の子の声が聞えた。
『ボクの―――願いは』
季節は巡り、春となった。
私は中庭へと続く昇降口から、その子の背中を押した。
「ほらっ」
「あ・・・えぅー」
とその子は情けない声を上げる。
「ずっと、ずっと会いたかったんでしょ?」
「それは・・・」
顔を真っ赤にして、俯く。
「ずっと、ずっと待ってたのよ?」
そういうと、その子は、栞はやがて頷いた。
「っと、はい、プレゼント」
私は忘れないうちに、栞にそれを手渡した。
「うわぁ・・・バニラアイスですー」
「ずっと、ずっと食べられなかったからね」
と私は微笑んだ。
手にした紙袋一杯のバニラアイスを抱きしめ、栞は少しだけ、
暗い表情になった。
あの、闘病生活を思い出しているのだろうか。
移植手術は、成功した。
今、私の腎臓の一つは、栞の体内にある。
その代わり、私は激しい運動が出来なくなった。
でも、それでもかまわない。栞が生きられるなら。
何時までも暗い表情の栞を見やって、私はため息をついた。
「ほらほら、そんな顔しないの。彼に会うのに、そんな表情
してちゃだめよっ」
と栞の頭を小突く。
「うん・・・ありがとう。お姉ちゃん」
小突かれた頭を手で抑え、栞が笑った。
そう。その笑顔でいい。
「ほらっ!いってらっしゃい」
と再び、私は中庭へ、栞を押し出した。
そして、中庭へと続く扉を閉めようとする。
「し、栞っ!!?」
相沢君の慌てたような声が、閉ざされる直前の扉の隙間から
響いた。
それに私は少しだけ、笑った。
笑いながらも、私は泣いた。
でも、それは悲しくて流した涙ではないから、嬉し涙だから。
流れるままにして、教室へと歩み去る。
扉の向こうから、相沢君と、栞の泣き声が聞えた。
―――了