【WHITE ALBUM2】和泉千晶スレ ネコ2匹目

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137名無しさんだよもん
**********5/12(水)複合文化施設「Kaikomura」1階レストラン「コクーン」にて

 からり、から…  からり、から…

 コーヒーシュガーが空しい音を立て、黒褐色の液体の中に埋没していく。

 その数が5杯目にさしかかったが、同席している誰も彼女―売り出し中の若手女性ピアニスト、冬馬かずさ―の糖分過剰摂取に気付きすらしなかった。

 目の前では、彼女のマネージャーがクライアントとの打ち合わせのまとめにかかっている。かずさはそれを他人事のように眺めていた。

 同じ建物の3階にあるコンサートホールの下見が済んだ時点でかずさの本日の仕事は終わったようなものであった。
 あとのこまごまとした打ち合わせ事項はいつもどおり全てマネージャー任せであり、かずさ本人にはそういった仕事上のすり合わせを行う能力も意思も全くなかった。
 そんな事情を察するや、クライアントの男性もマネージャーとの用談に集中した。だから、下見後のフレンチレストランでの会食はかずさにとって、クライアントとマネージャーが話をまとめるまでの時間つぶしにすぎなかった。
 マネージャーが「では、そういうことでいいですね。かずささん」と確認を求めた際も、かずさはほとんど内容を理解することなく「うん、いいよ」と、答えた。
 かずさが理解していたのは「3階のホールで秋にピアノを弾く」、それだけであった。食事の間かずさが聞いていたのは打ち合わせの内容ではなく、レストランの外の喧噪の声であった。

 パリのカフェと同じようにポットで出されたコーヒーを砂糖で流し込み終わるころには外の喧噪も打ち合わせも止み、かずさは本日最後の仕事を実行することにした。
 何度も練習させられた、ぎこちない営業スマイルと共に
「では、本日はどうもありがとうございました。これからよろしくお願いします」
 これが、かずさの5月12日最後の仕事であった。
138名無しさんだよもん:2013/03/09(土) 23:45:36.73 ID:6QE8JUTZ0
「では、かずささん。また明日お願いします」
「ああ・・・。いつもありがとう。美代子さん」
 レストランの外でかずさはマネージャーと別れた。マネージャーはこれから冬馬曜子―稀代の世界的ピアニストにしてかずさの母、そして、冬馬曜子オフィス社長―の所に報告に向かうことになっている。
 行先は峰城大学病院…公表はされていないが、曜子は白血病を患い定期的に検査入院を繰り返している。娘の売り出しのためには病床を抜け出し駆け回ることを厭わない曜子であったが、今日のような簡単な打ち合わせは報告受けで済ましている。
 だから、かずさは今日はひとりで帰ることになっていた。

 帰る、か…
 かずさの足取りは重たかった。今日は形ばかりの仕事であったが、それでも仕事のあるうちはそれで気を紛らすことができた。母親から押しつけられた忙しいスケジュールも却ってありがたかった。
 しかし、仕事が終わってひとりになった時に襲う寂寞感をやり過ごす術までは、まだかずさは見出せてはいなかった。

 そうしてふらふらと出口に向かうかずさの横をひとりの女性が通り過ぎた。
 ぴく…
 かずさは足を止める。
「?…誰だっけ…」
 振り返るが、後ろ姿ではわからない。最近会ったような気がしたが、どこで会ったかも思い出せない。
 しかし気になる。5年間ウィーンで暮らし5ヶ月前に帰国した彼女がこの国で「知り合い」と感じることのできる人は少ない。同年代くらいの女性だったが…
 かずさは追いかけて確かめることにした。たとえ人違いだったとしても気乗りのしない帰宅よりはマシと感じていたからだった。

 その女性はエスカレーターで2Fに上がり、「シアターモーラス」スタッフ出入り口の付近で立ち止まった。かずさはもう一度その女性の顔を見て、やっと彼女が誰であったか思い出した。
 帰国して間もないころ、ピアニストかずさに「ファッションについて」というインタビューを求めてきた不躾な女性記者…確か板倉とかいう名前だった。

 「なぁんだ…」 
 どちらかと言うとあまり会いたくない人物である。かずさは軽く肩を落とした。すぐ立ち去ろうかとも考えたが…
139名無しさんだよもん:2013/03/09(土) 23:47:08.78 ID:6QE8JUTZ0
 彼女と会った時の記憶がよみがえる。いろいろと神経質になっていた時期にわけのわからない取材を求められ怒りを覚えたかずさは手にあったバッグを投げつけて逃げ出した。財布や携帯まで全て入ったバッグを…

 何も考えず駆け出し、気がつくと迷子になってしまったかずさであったが、春希に助けられ事無きを得た。なお、投げつけたバッグはこの女性記者が律義に冬馬曜子オフィスまで届けてくれていた。

 今から思い起こせば赤面ものである。しかも、その後この板倉とかいう女性記者にお礼もお詫びもしていない。当時の自分自身はそれどころではなかったし、今からお礼なりお詫びをするとしても完全に時期を逸しているが…

「『ごめん』、くらい言っておくか」
 このまま知らんふりをして帰っても同じくらい気まずい思いが残る。ならば、また少々無遠慮な取材を食らうことになったとしても、謝意を伝えてすっきりした方がいいとかずさは考えた。

「すいません。記者の板倉さん…ですよね」
「え、…ええっ!」
 話しかけられた女性記者板倉は驚き、当惑した。なにせ目の前にいるのは冬馬かずさ。数か月前には取りつくしまもなかった人物の方から話しかけられれば面くらうのも当然だった。
 かずさはかまわず、たどたどしく謝罪の言葉を口にする。
「この前はごめんなさい。いや、あの時はちょっと気が立ってたっていうか…その…」
 板倉記者は困った。相手は今をときめく話題の美人女性ピアニスト。ここは謝罪を受けつつ、うまくすり寄って取材に持ち込めたら僥倖である。しかし今日は別の取材相手の出待ち中で、タイミングが悪かった。
『なんでこんなタイミングでこんなチャンスが…』
 しかし、二兎を追う者一兎を得ず。ここは当面の取材を優先すべき。少し待ってと板倉記者が言いかけたその時だった。

「あれ? 冬馬かずささんじゃないですか?」
 そう言ってスタッフ出入り口のドアを開けて出てきたのは、板倉記者の本日の取材のターゲット。劇団コーネックス二百三十度の新人女優、瀬ノ内晶、本名和泉千晶であった。