【WHITE ALBUM2】和泉千晶スレ ネコ2匹目
**********5/10(月)冬馬宅地下練習スタジオにて
フランツ・リスト作曲、詩的で宗教的な調べより第10曲…Cantique d'amour『愛の賛歌』
かずさはそれを奏でたつもりだった。しかし…
奏で終わった途端に押しつぶされそうな罪悪感が彼女を襲った。罪悪感に重みがあったなら彼女の身体
は鍵盤に叩きつけられて二度と起き上がることはなかっただろう。
ぱん、ぱん、ぱん…
練習スタジオ入口から曜子が拍手をしつつ入ってくる。その表情は笑顔に満ちていた。
「素晴らしい出来じゃない、かずさ。こんな演奏、わたしには逆立ちしてもできっこないわよ」
母親の言葉には痛烈な皮肉が混じっていた。
「わかっているよ、母さん。今の演奏は…」
弱々しい娘の口応えを遮るように曜子は追撃を続ける。
「ええ、出来は素晴らしいわよ。賛否両論あるだろうけど、今の演奏は全盛期のわたしでも敵いっこない
。たぶん、ウィーンで値段をつけさせたら倍の値段がつくわよ。フランツ・リスト作曲ザイン・ヴィゲン
シュタイン侯爵夫人に献呈された詩的で宗教的な調べより第10曲…」
「もうやめてくれ。母さん…」
娘の懇願に耳を傾けることなく、母親はとどめの言葉を撃ちこむ。
「『愛の《怨嗟》』ってね」
「っ…!」
やはり、母親には全部見抜かれていた。
「もぉ、すっごいわたし好み。オンナの秘めておきたい部分がもぉ『これでもかっ』ってぐらい伝わってきて、同じオンナ
に生まれてきたこと懺悔したくなるぐらい。フランツに聞かせたら墓から飛び出してきて、あなたの首を絞めにかかる
か、頭を垂れるかのどちらかね。まぁ、カレも身に覚えが二つ三つあるコだから後者の方が若干確率高いかな」
200年前の偉大な先人を元愛人の一人のように看做す発言の方こそ祟られても文句言えないほど不敬極まりな
い。しかし、かずさは罰を受ける罪人のようにうなだれて口をつぐむ。
そう、被告人かずさが全く弁明できないほど、今の演奏はどす黒い感情に満ちていた。
春希を奪った雪菜への嫉妬、自分を捨てて雪菜をとった春希への妄執
そして…春希を振り向かせる事が出来なかった自分への自己嫌悪
「熱心なのは結構だけど、あまり入れ込みすぎるんじゃないわよ」
曜子はそう言って練習スタジオから出て行った。
残されたかずさの口から嘆息とともに男の名が漏れる。
春希ぃ…
5年間付き合ってきた慕情を振り切ろうと決意したのが2ヶ月前。しかし、心身の隅々まで根を張った感情から容易く
免れることなどできるはずもなかった。
冬の終わりにはかずさ、春希、雪菜の3人が心重ねた一瞬があったが、春が来て夏が近づくにつれ、かずさ心の隙
間から抑えきれない感情が滲み出てきた。忘れるためにピアノを弾けば逆に、自分は今まで春希の事ばかり考えてピアノを弾いてきたのだと思い知らされた。かずさのピアノはあたかも鏡のように容赦なく彼女の内面を映し出していた。彼女自身でどうにもならないほどに。
「やっぱり私、母親失格かも」
曜子は、閉じた練習スタジオのドアの向こうでため息交じりにつぶやいた。
「娘がつらい経験を重ねるたびにピアニストとしての艶を増していくのを見て…喜ばずにはいられないなんて」