209 :
208 ◆2KwusBRnYI :
「今はやっぱり、どこも高いもんなんだな」
昼下がり、腕を組んで、うーんと首をひねる。
学生用国内旅行のパンフレットをファミレスのテーブル一杯に広げながら、琴音と浩之、
二人でそれを食い入るようにじっと見つめている。
外はまだ寒さの残る三月、しかし浩之は国立大学の後期試験になんとか滑り込みで合格し、
やっと長い長い受験を終えたばかりだった。
「こんなに長く居て、お店の人に迷惑じゃないですかね?」
琴音は、何杯めだか分からないくらいの、ドリンクバーのオレンジジュースにストローを指しながら言う。
「そんなことないぞ。受験勉強にここ使ってたやつなんて、コーヒー一杯で
数時間くらい平気で居座ってたし」
浩之は大量のパンフレットをテーブルでとんとん、と角を調えて、かばんにしまう。
今日、春休みに二人きりで旅行するための計画を立てる、はずだったが、
今日二人で持ち寄ったパンフレットではどうも金銭的に良い折り合いの物が見つからなかった。
それで結局、後日また探してみようということで落ち着いたのだった。
「それって藤田先輩のことですよね」
「何が?」
「ここで勉強してた人って」
「やっぱり分かるか」
「分かりますよ」
浩之は数週間前までここを何度も勉強場所として使っていたし、それを琴音もずっと知っていたが、
琴音はあえて自分からは会いに行かなかった。
夏休み以降、急激に受験に本腰を入れた浩之を見て、どうしても自分のせいで
時間を割かせてしまう気にはならなかったのだ。
「藤田先輩、本当に頑張りましたよね」
「うーん、まだあんまり実感ないけど」
氷の入ったグラスを口に運びながら言う。ドリンクバーを頼まなかったので水だけだ。
「でも、すごいです」
「まあな」
琴音がくすっと笑う。
「それにしてもびっくりしてたな、琴音ちゃん」
「え?」
「いやさ、俺がA大目指してるって言った時」
「あ…」
琴音はくりっとした目でまっすぐ浩之を見つめ、やや悪戯っぽく言う。
「やっぱりばれてました?」
「狐につままれたような顔してたろ」
「だってあんまりびっくりしたから…」
それはそうだった。赤点を避けるかどうかというそのときのレベルの浩之の学力で考えれば、A大学は偏差値で2、3ランク上で、
それでも合格できたのは、その後の浩之の集中力の賜物だった。それを踏まえても奇跡的と言えるだろう。
「まさか、琴音ちゃんにまで見捨てられるとは思ってなかったのにな」
琴音は窓の外に視線を向けながら、冗談っぽく微笑む。
「ごめんなさい」
そのとき、学生が集まるファミレス独特の喧騒の中、パリンとどこかで何かが割れたような音がした。
誰かがグラスか食器を床に落としたのだろう。その音で一瞬、周囲がしんとしたが、またすぐ元に戻る。
池に小石を投げ込んだ時に広がった小さな波の輪が、すこしずつ薄れ、やがて消えてしまうのに似ていた。
「誰かがグラス…落としちゃったみたいですね」
「ああ」
浩之はちらっと音のした方にちらっと目を配ったが、ふと思い出したようなそぶりをして言う。
「それにしても、琴音ちゃんも短い間に上手くなったね」
「え?」
「力のこと」
「あ、でも…先輩のおかげですけどね」
「いやさ、昔はああいう音がするとおっかなびっくりだっただろ」
琴音は視線を窓の外から、自分の手元のグラスに戻す。
そして、もう残り少ないオレンジジュースと氷をストローでかき混ぜながら、ゆっくりとした口調で呟く。
「不安だったんですよ。自分がやったこととそうじゃないことの区別がよく分からない時もあったし…」
「そっか」
「コントロールがつくようになってからも、しばらく、力のことを知らない人の前だと怖かったです。また暴走しちゃうんじゃないかって…」
話を聞きながら浩之は、ふと自分のグラスが空だと気づく。
「あ、琴音ちゃん、ちょっとタンマ」
ひょいと琴音からオレンジジュースを取り上げて、浩之はストローでずずっと音を立てて飲みほしてしまう。
思いがけず、少し炭酸が入っているようだった。
「あ…」
からん。多めに入れた氷がグラスにあたる音が、まわりの声と、今人気のアイドルグループの曲のBGM
―もっとも、興味のない浩之には誰だか分からなかったが―でほとんど掻き消されたが、辛うじて琴音と浩之だけに聞こえた。
「間接キスだな」
心なしか、琴音の頬が少しだけぽっと赤くなる。
「そういうの…ほんと先輩、好きですよね」
「大好きだ」
「飲み干さなくてもいいのに…」
「美味かったからな。オレンジジュースとなんか混ぜたろ」
「分かりました?スプライト入れるとおいしいんですよ」
「まだまだ子供だな」
琴音は、ふふっと笑い、ドリンクバー用の模様の入ったグラスを持って立ち上がる。
「あー、俺がやるよ、俺が飲んだんだし」
「藤田先輩に任せると絶対、変なもの混ぜるじゃないですか」
琴音が怪訝な顔をする。
「ばれた?」
「ばれます」
「うーむ、俺も修行が足りんか」
浩之がわざとらしく腕を組んで言うと、琴音はにこっと笑って、まだまだですよと言い残して、おかわりを注ぎに行った。
212 :
名無しさんだよもん:2007/12/22(土) 17:06:12 ID:CkM8GpfU0
一人残されて、浩之はふと、琴音が何度か眺めていた窓の外に目をやる。
駐車場の脇に一本、ぽつりと人工的に植えられた木があった。
おそらく琴音はこれをずっと見ていたのだろう、控えめな数本の枝から、薄茶色の新芽が幾つか生えてきている。
寡黙で孤独で、それでも空に向かって寂しげに伸びる姿が、浩之には琴音とどこか重なって見えた。
あと何日もすればこの街を離れる。感傷なんていうものにはすこぶる疎い浩之でも、その木を見ていると、
どうしてか少し寂しい気がした。
「そういえば色んなことがあったな…」
空がほんの少しずつ暮れ始めて、薄いオレンジ色をおびた太陽がまぶしい。
琴音が戻ってきたら、今までありがとう、これからもよろしく、なんて言ってみようかなとなんとなく思いつつ、
でもそんな柄じゃないしなあ、と呟いて、浩之は空のグラスを口元へ運んだ。