■いつも死にたい葉鍵板自治スレ52■

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589風呂あがり
>>587
>>583
>だから何でそれが、「生きることが楽か困難か」に繋がるのかまったく意味がわからない。
>そのつながりは何が想定されてるの?

というか、それはものすごく単純な話で、当然知ってるものと思ってたんだけどなw

俺が憂鬱な最大の原因は、なんといっても対人恐怖症気味なことにあるんだが、
さすがの俺でも、一見明らかにロボットに見えるロボットに対しては、臆することもないわけだ。
所詮、奴等には心ってものがないからな。
機械音で『コノ低脳!ナニヤッテルンダ!』と言われても、
それはあくまで「怒っているかのような振る舞いをしている」のであって、本当に「怒っている」わけじゃない。
だから、毎日仕事行っても、周りが全てロボットなら、ホント気楽で快適な人生が送れると思うよwwwww

でも、よくよく考えてみると、「一見明らかにロボットに見えるロボット」であっても、実は心があるのかもしれないし、
逆に、「一見明らかに人間に見える(体の中も含めて)人間」であっても、
本当は心なんかなくて、あたかも心があるかのように振舞ってるだけなのかもしれない。
それは、「心がある」とか「本当は心がないのだが、あたかもあるかのように振舞う」という命題の意味からして、
この世の中のあらゆる事実をもってしても、絶対に決定することはできないわけだ。
そうじゃなくて、例えば、俺が上司に怒鳴られて、実際に心に深い傷を負うとか、
そういう現実の生活態度の中に自ずと示されることなわけ。

だから、本当はさ、なにもロボットじゃなくったって、今の、いかにも人間的な上司のままだって、
「実は上司には心がない」と信じる(=自ずとそのような生活態度をとる)ことは、
何ら問題なく可能なはずなんだよね、論理的には。
そのことは、俺にとって暗闇の中の一筋の光明なんだけども、
でも、不思議なことに、本当に本気でそう信じることは、この上なく難しい。
それを「生活上の習慣」といおうが何といおうが、構わないけどね。
要するに、そんな話。