1 :
名無しさんだよもん:
エロゲが学問として認識されないのは
アカデミック性に欠けるからだろ?
だからエロゲ学を創設すればエロゲも十分学問に値する
オタク絵で学問とは相反する様に思えるかもしれないが
確実に現在数十万の人間を抱えているオタク文化
とりわけエロゲは十分学術研究に値するわけだ
研究対象は
まず歴史、潮流、あと体系の構築
今後の方向性、エロゲが人間に与える影響等
ニュース速報+板【論説】 「“男はおごって当然”、“男は臭い”、”危険な仕事は男”…男性差別に鈍感な社会」…女性記者の視点★5
http://news22.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1172226127/ 1 名前:☆ばぐた☆[] 投稿日:2007/02/23(金) 13:25:18 ID:???0
それは、ある消臭剤のCMだった。「ちょっとこれ見て。ひどいよ」。知人の男性に促されて
製造元のホームページに載っていたCMを再生すると、可愛らしいアニメーションと歌声の
後で、こんな一節が耳に入ってきた。「我が家のオトコは何だかにおう」。そして、鼻をつまむ女性が登場する
知人が不愉快に感じたのも無理はない。家族のために1日中働いて疲れて帰ってきた
ところに「スーツがくさい」なんて言われたら頭にくる。
男女を入れ替えて「我が家のオンナは何だかにおう」としたらry
柳沢大臣の「女性は産む機械」発言が女性差別と問題になっているが、それならかつて
流行ったCMの「亭主元気で留守がいい」や、定年退職後の夫を“濡れ落ち葉”“粗大ゴミ”と称するのは男性差別である
危険な仕事に就く人の97〜99%は男性である。そのため労災で死亡する人の94%が男性。
一方で、秘書や受付業務など安全な仕事は97〜99%は女性が占めている。男性の命は
「捨てられてもいいもの」と見なされており、これは差別ではないか、と説く。
これらの数字がもしも男女で逆なら、フェミニストは「女性差別だ」と批判するだろう。
そういう人でも、「女性に優しく男性に厳しいダブルスタンダードはおかしい」と、異議を唱える
この時期に、男性への差別を是正しない限り、本当の意味で男女平等にはならない。
特に、一部の女性はもはや弱者ではない。それにもかかわらず、職場や私生活で女性を
“女の子”扱いする文化はまだ残っている。例えば「女性に長時間残業させるのはよくない」
と考える管理職が、女性を早く帰す代わりに、男性を余計に働かせる。男女同一賃金ならこれは男性差別になるはずだ(一部割愛)
☆★☆現在、すさまじい勢いでスレが伸びています☆★☆
まずエロゲは大きく分けて
・性的満足感を得る為の物
・精神的満足を得る為の物
の二つに分けられるだろう
鍵や葉や月等は基本的に後者に位置するわけだ
基本的にアダルトゲームは上の性的描写に優れた物が多かったが
1996年から 「リーフビジュアルノベルシリーズ (LVNS) 『To Heart』や
タクティクスのONEにより後者のストーリー性の重視されたエロゲが
出だしてくるわけだ。
つまりここで課題となるのは、なぜお宅はエロゲにストーリー性を求めた
あるいは受け入れたか?
本来エロゲーはAVと同系列の物だったらしい
ならなぜAVではなくエロゲーにストーリー性が付加されたのか?
そしてその傾向の中で1999年発売されたKeyの 処女作『Kanon』
によって、ストーリー性を重視するエロゲのシェアが完全に性的描写
を重視する物を上回る事になる。
ここでエロゲの潮流は性的描写を求める物ではなくなったのだ。
ストーリーに性的描写を”付加”する物になった。
ここで幾つかこの潮流に対する疑問が出てくるだろうが
私は、エロゲが単純にストーリを表す媒体として優れた物
だったからだと考える。これは曲、絵、そして文章の効果によるもの
かもしれない。そして尚且つ、エロさを付加した作品は、ある意味、今まで
漫画などで感じていた非現実で人工的な汚れの無い世界とキャラクターに、
性の描写を付けると言うある意味、タブーとも言える行為に新たなる可能性
を見出す人間が多かったと考える
ストーリ性は更に多角的に発展して行く事になる
つまり”泣き”を重視した物ばかりでなく、”燃え”等の
他の感情を発露させる目的の物のシェアが増えてきたのだ
代表的なのはニトロプラスや月などである。
さらに性的満足感を得るエロゲも別方面に発展して行く事になる
色々な人間の性的格好に合わせて更にディープにマイナーになった
のだ。勿論、これにも流れがあるようである。
ロリコンや触手、ふたなり、放尿などは中でもかなりディープ部分に
位置するだろう
ふたなりはともかく、他は以前から(以前のほうが)あったんでね?
>>6 なるほど。
つまりストーリー性が重視され始めてから
性的描写のエロゲは段々と廃れて一部の人間だけの物になったんだね
それに相対して、ストーリー性の高いエロゲは多くの人間、すなわち
極めて一般層に近い人間にも浸透してったわけだ。
こうやってエロゲはシェアを広げて、多くの人間の知るところ
となったわけだね。つまり少々のタブーを内包した仮想現実の物語
と認識される様になったわけだ。
しかし相変わらず、そのタブーと恋愛シュミレーションと言う形が
一般人からの偏見と冷淡な態度の元になっている。
この状況から生まれたのが鍵の代表作とも言える蔵など
これはエロゲーメーカーのPCソフトとしての全年齢対象の作品。
これが大きく売れたために、エロゲ界に新たな可能性を提示した。
つまり完全なストーリー性だけでも十分売り上げが伸びるとの証明
になったわけだ
いやー購買層は変わらんだろ
>>9 つまりエロゲの購買層は
性的描写がなくても十分購入に踏み切ると言う事だね
長谷部ホイホイスレ
それがエロゲ学なので〜す♪
>>2 いや、男性が危険な仕事に就いて、女性が安全な仕事をして、
男性が減ってもいいのは当然だろ?
だから、男の不倫と複数の妻を娶るのは当然あり。
>>14 結婚すると言う事は
責任を持つと言う事だ
だから女と遊びたいなら結婚しなければいいだけの話
主人公の役割をプレーヤーの分身から一人の登場人物にして
エロゲの目的を美少女との恋愛を楽しむことから
キャラ同士が絡み合うストーリーを楽しむことに変化させたのが葉
さらにそれを推し進め、キャラクター性を薄めても
ストーリーが良ければ人気が出ることを証明したのが鍵
>>14 複数の女を養えるだけの金があるなら大丈夫だよ。
ま、普通のリーマンじゃ無理。
中世だって一夫多妻制ができたのは、一部の貴族だけだからな。
その時代でも田舎のおっさんが不倫したら、フルぼっこですよ。
> この状況から生まれたのが鍵の代表作とも言える蔵など
> これはエロゲーメーカーのPCソフトとしての全年齢対象の作品。
> これが大きく売れたために、エロゲ界に新たな可能性を提示した。
> つまり完全なストーリー性だけでも十分売り上げが伸びるとの証明
いや、売り上げはさんざんだっただろ?
Kanonを凌ぐ作品にまで到達していない。
それを証明しているのが、蔵等の虹創作の少なさ。
今や同人出身の型月にまで抜かれている為体。
19 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/03/15(木) 06:34:34 ID:QIW2A1Er0
エロゲや多くのオタ文化が薄汚いサブカル社会学厨の手を越えるほど、何事かを含んでいるとはどうも思えない。
結局は物語の構造分析というよりは、
>>1がやってみせてるように通俗精神分析ごっこや通俗社会学ごっこを
してみせて、エロゲ学よりもオタク学と言うべき方向に傾き始める。
けれどもアート論としてというよりも、物語が潜在的にもってる人物の描写という点で、
文学論では語り尽くされてるのかもしれないにしてもまだ僕には考えなければならない点がある。
批評という奇妙なジャンルが物語に根強くからみついてることも、何かそのことが深く関係している気もする。
ラッセルの幸福論を今読んでいるのだけれど、例えばこういう節があるので引用しておく。
最上の種類の愛情を定義することは、必ずしも容易ではない。
明らかに、愛情の中にはなにがしかの保護的な要素がはいってくるからである。
私たちは、愛する人たちのけがに無関心ではいられない。
けれども、私の考えでは、不運に対する気遣いは、実際に起こった不運に対する同情とは違って、
愛情においてなるべく僅かな役割しか演じないようにするほうがよい。
他の人のことを心配するのは、自分自身のことを心配するよりも、ややましなものでしかない。
その上、それは、まま所有欲のカモフラージュになっている。
つまり、ほかの人の不安をかき立てることで、彼らをもっと完璧に支配する力を得たいと願っているのである。
従来、男性が臆病な女性を好んできた理由のひとつは、もちろん、ここにある。
なぜなら、男性は女性を守ることによって女性を所有するに至ったからだ。
ある人がどこまで気遣いの対象にされて、自分を害されずにいられるかは、その人の性格ひとつにかかっている。
大胆で冒険好きな人は、大変な量の気遣いを受けても自分を損なわれることはないが、
これに反して、臆病な人は、あまり気遣いを期待しないようにし向ける方がよい。
20 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/03/15(木) 06:54:13 ID:QIW2A1Er0
理想的で魅力的な人間像という意味で言うのであれば、多少ズレはあっても次のような物になると思う。
自分なりの関心を持ち、他人に流されない強い意志を持ち、内にこもらず外に向けて積極的に出続けること。
ラッセルの幸福論の限りで言えばこうなる。
もちろん、人間の魅力という曖昧なものを全てラッセルの大衆向け本に負うというのはおかしな話ではあるし、
こんな名前を出すこと自体なにかうすら寒いものがある。
でもあくまで共感できるという意味では、このことは非常に強い規範になりうる。
それで、たとえばkeyのメインヒロインはそのほとんどが主人公に従属するようなおとなしい性格で、
男性は主人公のことしか知らないというような、奇妙なほど狭い世界観の人間ばかりだ。
長森は特別に設定されてないけれど幼少のころからどういうわけだか浩平だけを気遣っているし、
月宮あゆも幼なじみであり、祐一の幼少の体験に密接に結びついた形で登場するし、
観鈴は他の人間から受け入れられない上に運命的なもので往人に結びつけられてるし、
渚も明らかに保護欲を誘う立場でラッセルが描く通りの臆病な女性像そのままだと思う。
別にこのことがキャラクターが薄いなどという主観的な判断の証拠となるのではなくて、
明らかにエロゲーで好まれる人格というのは世に言われる「魅力的な人間」「規範的な人間」「強い人間」ではないということだ。
志保や花梨のような意志が強く、主人公への依存の度合いが低いキャラはあまり好まれない。
僕の目の届く範囲では、綾香が例外として考えられる程度だ。
主人公がいてもいなくても別に問題なく生きていける、というような女性像は大抵の場合好まれない。
21 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/03/15(木) 07:10:35 ID:QIW2A1Er0
それでまぁ、オタクの女の好みは保守的だとか、厭世的だとか、男根主義的だとか好きなように言うことも
出来るのだけれど、そういうオタク批判やあるいはオタク分析ごっこなんてのはあんまりにもくだらないので
ここではやらない。非生産的の極みだろう。
ただ、傑作と呼ばれる有名文学作品って、やっぱり強い女性像が多いのも事実だな。
大体に置いて、虚構性というか現実性というか、物語の形式に対して物語の世界っつぅもんを考えたときに、
そこで生きる人の魅力なるものが本当に大事なのだろうかと僕にはちょっと不思議に思える。
別に腑抜けでもいいんじゃない?
物語の中身は定型通りなのに、文体や構成の点で実験的なことは充分に行えるだろうし。
一般小説は話の筋を中心とした、(一人称であっても)神の視点的な語り口が多いのに比べて、
エロゲは主人公の体験を日常の時間に合わせて逐一報告するという方法が、少なくとも前半には採られる。
これをオリジナルな文化ととらえると、エロゲは仮想体験的な度合いが高い、という他ない。
音楽や絵といった補助演出や、異常なほどに費やされるプレー時間を含めても過去に例を観ないほど
仮想体験的な意味合いが高い。
22 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/03/15(木) 07:20:57 ID:QIW2A1Er0
だからエロゲオタが批判されるのって、多くの場合はキャラクターに恋人の代わりを求めてることでしょ。
その上で理想の恋人像とされる女性のディティールが非常に男性の側にとって都合のいいもので
現実離れしてるということが、非常に「表現はかくあるべき」というようなストイックさと正反対のものだから
批判されやすい。例えばアイドル文化のそれと、異様に酷似している。
オタク文化をそれでもアーティスティックに展開するとなると、これらのことを自覚して
キャラクターを記号のようにとらえるリテラシーが必要になってくる。
で、実際に「キャラクターなんか記号にすぎない」的な視点を持ってる人は多数いるし
そう思わざるを得ないほどキャラクター文化って氾濫してるわけじゃない?
この点を前提においた、アーティスティックな語りは出来ないことはないだろうと思うけれど、
何かやはり不毛のように思えるんだよな。
だってそれって結局は、「オタク文化なんて所詮そんなもの」ってことを周囲にわからせた上で
やはり個人でひっそりと特定のキャラに入れ込んでるだけなんじゃないかと思うし。
23 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/03/15(木) 07:31:50 ID:QIW2A1Er0
大体が、キャラクターなるものそのものが、仮想体験性を取り外してどう考えるべきなのか
全く掴みづらいし、そもそも取り外せるのかどうかすら怪しい。
しかし人形にされ、カードにされ、同人誌で服を脱ぎ、コスプレの題材にされ、SSなどで好き放題に改変されることによって、
個々のキャラクター像は深みを増してるのだろうか?
多くの人間からすると、むしろ「薄くなってる」ととらえるべきではないかと思うし、やはり「キャラクターは記号にすぎない」的な
視点の方が強みを俄然増してくるように思う。
ただ、それでもエロゲの仮想体験性はどうやっても崩せない。
明らかにエロゲはキャラクターに実質的なものを与えることを至上命題にしてる。
キャラクターは実体的か、それとも記号かといえば、むしろどちらでもあるという奇妙な状態と
考えるしかない。
即座に記号に転化することを許せるリテラシー、これこそがオタク固有の感性と考えるべきだろう。
24 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/03/15(木) 08:28:57 ID:QIW2A1Er0
結局オタク学になるんだよな、どうしたって。
純粋にエロゲ学なるものをやりたいなら分析のルールをつくって、売上が多い
エロゲを1年ごとに10本くらい、エロゲが隆盛しはじめた時期直前から全部分析しなきゃならんだろう。
そんなことをやる意義がありそうにもないってことが、「エロゲ学」なるものの不毛さを端的に現してる。
ネタに物凄い量のマジレス
流石長谷部だ
代々木アニメーション学院大学エロゲ学部学部長に長谷部氏。
27 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/03/16(金) 04:36:08 ID:+GAZLbZl0
適当に続きを書こう。
オタクの嗜好の可否はどうであれ、キャラクター文化の特徴とも言うべきものは
実体的なキャラクター像と記号的なキャラクター像が即座に転化しうるもの、と僕は定式化したのだった。
あたかもファイルをZIPだかに圧縮するかのようにしてキャラクターは流通が可能になる。
エロゲーのブンガク的構成なるものよりも、こういったキャラクター文化としての側面の方が注目に値はすると思う。
それも、「社会がドウブツ化したから」なる胡散臭い言葉によって、流動性を社会学的だの精神分析的だのに負って
説明するのじゃなく、表現としてどうなんかってことで。
それじゃぁキャラクター文化の多様性は、どう根拠づけられるのだろうか。
キャラクターは多くの場合、絵とシナリオによって形作られると思う。
絵によって流通性の基礎が与えられて、シナリオによって仮想体験的な実体性が与えられる。
本多透の本では、確か要素から何らかの実体的なものを妄想するのが「萌え」だと定式化してたと
思うんだが、萌えなんて言葉が今でも有効なのかともかくとして、そうだとすると萌えという言葉は
この流通性から実体性を再生する方法だと言える。
そうだとするなら、この再生の過程、解凍の過程で他のキャラと違ったものが得られるように
し向けなければならないというのが多様性の根拠になるんじゃないかと思う。
28 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/03/16(金) 04:47:59 ID:+GAZLbZl0
絵やシナリオのみでキャラクターの多様性は根拠づけられる必要がないというところに
キャラクター文化の強みがあるのではないかと思う。
にたような姿格好のキャラクターなんてのは今では腐るほどに居て、それこそ
「髪の色」や「髪型」や「目の形」や「胸の大きさ」などをパターン化しているだけのように思える。
そういった軽薄な手法を批判する人も少なくはないと思うけれども、むしろこのことをどうして許せるのかを
簡単な批判ではない形で考えるべきだろうと思う。
僕の基本的な発想としては、おそらくはオタクのコミュニケーションの手段としてキャラクターが使われるから
キャラクターは長生きできるんじゃないだろうかと思うんだよね。
例えば葉鍵板のキャラクタースレなんかが顕著で、とにかく落ちないように保守的書き込みをする
ためだけに使われているような嫌いもあるし、もう何度もOneをクリアして飽きたであろう人たちが
必死に長森スレにネタを書き込んでいる姿を見ると、Oneをやった情熱から副産物的に書き込みが出ているというより、
長森スレの維持のために書き込んでいるようにしか見受けられない。
だからキャラクター文化の多様性の本当の根拠は、結局キャラクター語りを用いたコミュニケーションに
支えられるのではないかと、僕には思える。
29 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/03/16(金) 04:59:46 ID:+GAZLbZl0
しかしそうだとすると、やはりオタク学=エロゲ学=キャラクター文化学といった状態になってしまう。
なんとかこれを切断できないだろうかと思う。
僕の物語に関する考察は、読み手の精神分析的社会学的な考察に対する拒否でありたい。
そうだとすると、もともとはオタク同士のコミュニケーションによって独自の解釈が可能になっていた
記号→実体の間に、何か別のものを挟み込まなくてはならない。
しかし記号的な流通の根拠そのものが、大衆とキャラクターを共有することにあるように思える。
これをなんとか他人の姿なしに正当化するには、他の媒体への転移可能性としてキャラクターを考えるしかない。
今のところ、(公式非公式関係なく)二次創作の存在がキャラクターの多様性の根拠となる、
と言わなくては鳴らないけれど、それはそれで不自然だなとも思う。
つか本当にくだらない書き込みだなこれ。
エロゲについて何か考えても本当に無意味だとしみじみとわかる。
なんとなく思ったんだが、
キャラ萌えが進行すると原作者萌え(?)になるんじゃないだろうか。
リボンやネコミミの代わりに、キャラや作品そのものが原作者を装飾する記号になるというか。
葉鍵板の末期的な状況をみてるとそんな気がする。
31 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/03/16(金) 08:39:10 ID:+GAZLbZl0
記号萌えといくら言ったところで、結局はなんらかの「実体的なもの」に負うのが普通だから
その「実体的なもの」に原作者が現れても全然おかしくない。
32 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/03/16(金) 08:54:36 ID:+GAZLbZl0
というか葉鍵板のようなコミュニケーションの現場を、「萌え」の根拠におくのは個人的には
どうにか避けたい。何度も言ってるように、社会学や精神分析と、表現とはまったく別のものだ。
原作者を評論家気取り、友人気取りで偉そうなことを言う輩はいくらでもいるけれど
そんなことを考えたところで不毛だし視野には入れないことにする。
評論家面する連中を度外視して、あるいはそうじゃなくてもコミュニケーションの出汁としてではないような、
キャラクター文化の独立性をどう考えるべきかということを考えたい。
その際、エロゲに限定される必要はまったくなくなる。
二次創作をどう考えるかっつーことに、ここでは考えたいのだけど、
例えばだね、二次創作にいわゆるオリキャラや最強設定のキャラが出てくると引くでしょ。
葉鍵板的に言えばU-1ってやつか。
あれなんかどういう理由で気持ち悪いのか非常に気になるよね。
未だにきちんと僕は説明できないんだよね、この現象。
33 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/03/25(日) 05:25:38 ID:C89Zqn0l0
少し違った考え方をしてみよう。
恋愛という場合、普通は同じ世界に生きる彼女がいて初めて成り立つ。
萌えの場合、自分の都合の良いように彼女を模造することが出来る。
それで「萌え」が叩かれる場合っていうのは、その多くは「萌え」の虫の良さだと思うんだよね。
現実の恋愛っていうのは実体を持った人間が、それも一人だけ居る。
現実の恋愛では普通は恋人は一人でなければならないから、(一時的なものかもしれないにしても)
彼女の人生を委ねるにふさわしい恋人として、認められるという経緯もある。
このことは感情を昂揚させるに相応しいほどのものだと思える。
けれども「萌え」の場合はそうではない。
もちろん、現実の恋愛感情と同じものを萌え文化に求める人は少ないけれど、
大小の違いはあってもあきらかに何らかの感情移入というものはなされてる。
だから「人間対人間」のときに得る感情と同じものには違いないと思う。
とはいえ、「人間対人間」のときに得られる感情というものに、相応しいメカニズムが
萌えには明らかに働いてない。
34 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/03/25(日) 05:32:54 ID:C89Zqn0l0
かわいらしい女の子が「好きだよ」と言っても、萌えの場合には計画的に作られたものであって
唯一の実体を伴った、嘘偽りのないものではないわけだ。
そういった虚構で作られた「人間」から、「人間対人間」という関係をどうやって手にいれるのだろう?
僕は思うのだけれど、例えばアダルトビデオにしてもエロゲにしても、
セックスをするのは他人同士であって、自分と自分を好きでいてくれる彼女ではないわけだよね。
それに加えて明らかに、AV女優にしてもアニメキャラにしても「私」のことを意識していないんだから。
こういったバーチャル的なものはつい、感情移入によって「私-あなた」という関係で考えがちだけど
「第三者-第四者」という状態でも別に良いのかもしれない。
というか実際、オタクは個々のキャラクターについてはその程度の距離をとっていると思う。
35 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/03/25(日) 05:39:52 ID:C89Zqn0l0
「第三者-第四者」ならば、記号化して流通されたり、模造されたりしても
別に損なうということはない。
そうだとしたら萌えと言われて得られるものは、まるで演技をしているときの
昂揚感なのかもしれない。
恋人役の彼女は演技をしている私を愛しているわけではないにしても、
その恋愛という演技から得られるプロセスに快感を得ている。
ここには実在性だとか、実体的な「重さ」は補完されていない。
少なくとも、本田透の力説するような切実なものは、ここにはない。
36 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/03/25(日) 05:48:12 ID:C89Zqn0l0
もう少し正確に言えば、「第一者(私)-第二者(あなた)」という関係のどちらにも私は参加しない。
むしろ私は第三者としてそれらの関係に関わることになる。
そうだとすると第三者の私が得ている快感は、何を源にしているのだろう。
シチュエーションかな?
つまりここでは「人」が単位の世界観ではなくて、「人と人とのやりとり」が最小単位になっている。
そういったことに名前を付けるとしたらシチュエーションしかありえないように思う。
ということは、萌えとして記号化流通化が可能となっているキャラクターは、
キャラクターとしてシチュエーションが圧縮されているということになる。
37 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/03/25(日) 05:48:42 ID:C89Zqn0l0
こんな当たり前のことをぐだぐだ言う俺はどうかしている。
生きてたのか。
ちょっと安心した。
>>30 それは評価であって、萌えとは別のものじゃない?
萌えがあるとしたら、デフォルメされたネタキャラとしてのイメージから発展したものだと思うし。
例えば超先生とか大ちゃんみたいな。
41 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :
「キャラクター文化はキャラクターが単位ではなくて、シチュエーションが最小の単位として
キャラクターを形成する」というのが今のところ僕の出している結論だ。
とはいえ、このことは二次創作を主体にした文化圏では逆転するのだと言えるから、
どちらかを本来の姿というわけにはいかない。
でもどちらにしても、現実の恋人の代わりをキャラクターが背負わされるということは
まずもってありえないのだし、二次創作の文化圏ではコミュニケーションという実体が
補完されていることを思えば十分な説明には足りると思う。