考えてみれば、小説って形式の普及はやっぱり人間の生活の戯画ってところがどうしても
あるんだよな。ルネサンスの人間礼賛とか、日本なら明治時代の自我の普及とかもある。
こういったイデオロギーの普及を支える方法として、小説というものが存在していたのだろう。多分。
そしてそういったイデオロギーの喪失として、フランシスフクヤマの
歴史の終わりだとか、コジェーブの動物化などがあると、東は言いたいわけだろう。多分。
くだらないと言えばくだらないとしても、大筋ではこういった考え方は共感できるし
単純に文学として、そういったイデオロギーからの離脱は各所で行われていると思う。
では登場人物という点においても、そういった「抜け殻」のように、現実に何も負わないような
形にどうやったら出来るだろうか?
これはある意味では重要な仕事だろうと思う。
だが東の読み方はその点では、かなり弱い。あれでは、ゲーム的リアリズムとして出された
考え方は、自然主義的リアリズムと対等関係にはならず、むしろ包摂関係になってしまう。
もちろん、対象のリアルさから、体験のリアルさへの移行は本質的な問題だけれど
それを論拠づける明確な材料を、東はまったく持っていない。
それをメタ的云々といって自分のいいように論理を持っていくのは、実に浅ましい。
体験のリアルさへの移行というのは重要だ。
キャラクターが潜在的な行動様式の束であるということを考えて、創造を行わなければならない。
現実の存在者は、倫理的な意味で存在が保証されなければならない。
ところが美学における登場人物は現実に何も負わないから、倫理から解放される必要がある。
このとき、存在は美学のものとして独占されることになる。
無制約に存在が保証されるといったことがなくなるわけだ。
これがキャラクターの基本力学として考えられなければならない第一の原理だ。
157 :
名無しさんだよもん:2007/04/22(日) 00:56:18 ID:vUekWXAa0
文学の表現するものとは、悪の極限の形態である
バタイユにそのまんま「文学の悪」って著作がある。
けれど彼はエロティシズムに代表的なように、現実と表現をリンクする性格があって
低いものを悪いものを恍惚体験として提示しようとしている。
少なくともそういった恍惚というのとは正反対のことをやろうとしているので、
ここではそういった考え方はとらない。
はせちーのおしりの弾力性は異常!
はせちーは異常!w
(F+f)って漱石の有名なテーゼがあるじゃない。事実のFactと情感のfeelingというやつだ。
いわゆる自然主義批判というのは、このうち事実のFactに重きを置きすぎるということだった。
だが僕が思うに、F+fの配分は著者が意図して書き換えるようなものではなくて、
ある事実が受け入れられるにはやはり何らかの情緒がそこには潜んでいるのは明らかだ。
そして結局のところ、われわれは何をリアルととるかによって好まれる表現が異なるのだという
身も蓋もない言明を、ある場面では受け入れざるを得ない。
ミスチルがリアルだと感じられるのは幼稚で、チャーリーパーカーをリアルだと感じるのは
大人だということの差は、多くの場合はミスチルが作りだす「リアル」さというのは人為的で手垢にまみれている
ということに由来するだろうと思う(それが本当かどうかは別として)。
2007年にチャーリーパーカーを聴くと言う事は、チャーリーパーカーが意図したような形を
超えている。人為の幅を超えて、それは歴史的という文脈で捉えられることになる。
それは美しい花を眺める自然な気持ちで眺めるのに似ているかもしれない。
だって、花は自分を美しく見せようとはしてないから。
しかし以前も述べたように、これでは芸術は他の生活様式に付随するものでしかないことになり
独立したものではなくなる。それで良いのだろうか?
数々の芸術運動は少なくとも、そういった生活様式への依存を断つためのようだと思うし、
しかもそういった芸術的な試みは必要なことだ。
むしろ情趣は、その後に勝手に付随してしまうものでしかないと思う。
その文章を書くのに何分かかった?
さぁ?
ブランショの文学空間には何か大事なことが書かれているような気がする。
つか思ったことをずらずら描いてるだけだし、あんまり時間とか考えないでしょ。
多分3分とかそこらじゃないの?
見栄を張るなよw
は??
見栄を張るなよって、何か見栄はるようなことかいたか?
ブランショの文学空間読書日記でもしようかと思う。
ここでは幾つかの言葉が重視されて用いられていて、特に序盤の30ページほどには
孤独という単語、そして終わりなき言葉というフレーズが何度も用いられている。
書くということは、終わりなき言葉を発することであり、それは孤独へと向かうことだといわれる。
「私」は「彼」という中性的なものへと書き換えられる。
そして書くことは、幻惑の視線を持つことだと、ブランショは言うのだ。
どういうことだろうか。
日記と対比させて書くことを語りだすときには、時間が意識されている。
しかし書くことは、時間が存在しないのだという。
僕にはこれらの言及がまだ、どういう必要性があるのかわからない。
そもそもブランショの文章があまりにも、暗示的だからとも言えるけれども。
僕が気にかけるのは、おそらく「ジャンル」といわれる言葉に関する。
今の表現が深みがないと言われるのだとしたら、それは複数のジャンルが貪欲に取り入れられて
いることによる。悪い言葉でいえば、欲張りだということだ。
どうしてかといえば、いろいろなジャンルの系が混交されるとき、それらのバンドはあるジャンルに参加してる
印象が希薄だからなのだろうと思う。
最近興隆を極めたバンドにミクスチャーというものがあったが、結局ほぼ全てのアーティストが何も残さなかった。
ファンクやヒップホップやメタルとの混交というようなことが言われたし、あるいはそれらは高い音圧と
プロダクションによって作られたものでしかなかったのかもしれない。
もちろん、それらが統一されて、新たなジャンルとして混交が混交ではなく、統一されたものと感じられれば
そこには新しいひとつのジャンルが生まれたように思える。
ファンクには、ロックとソウルの香りがするけれど、新しい表現として結実したように思える程度の一体感はあった。
けれど、そこまで至らなければ多くのミクスチャーは、未発達のままという印象で消え去ってしまう。
ビートルズだっていろいろなことをしていたと言えばしていたけれど、あれは特例だろう。
今になって、ビートルズのようなことをやってもサブカル臭いことをしだした人気バンドという感慨しか産み得ない。
ポストロックが批判されるときに言われるのは、その貪欲さが一端を担っている。
マスロックというところまで抽象化されると、それは統一された新しい何かのように思えるけれど、
菊地成孔がトータスの面々を批判した際、あるいは渋谷系の一連の動きを批判しながらオレンジレンジをほめたとき、
そこにはただ分裂しただけで一体感を有させようとしない何かが、あったのではないだろうか。
彼はそこで、ただ評論家のように幾つものツールを見せびらかすことが、表現としては無意味だと考えていたのだと思う。
ある音楽を奏でることは、もはや私という総体を知ってもらうことではないのだ。
「私」の中にあるものを全部ひねりだして作り出すような器用さではなくて、大げさにいえば歴史を推し進めるため
もう自分は他のことは出来ないという、狭いところに敢えてとどまることだ。
サンプリングの文化は実際、「これはサンプリングされ、編集された音たちである」ということが
わかるように、わざと編集の形跡が感じ取れるように作られているように思う。
もちろん、ある音楽の一部だけを巧くきりとって目立たないように浸透させる文化もあるけれど、
編集の形跡を敢えて残すやり方も、結構感じ取れると思う(ブレイクコアなんかそうだ)。
つまり、それらを一つとして取りまとめるなんらかの"概念"が必要になる。
概念は多くの場合、やはり先行した他所の情報によって作り出されることが多いかもしれない。
例えばポストロックといわれるプロダクションの手法は、DAWとしてのPro toolsシステムと
ともに始まった経緯がある。
当然のことながら、Pro toolsを用いることがポストロックといわれる音と不可分に
結びついていたわけではない。もっと違った音を出すことも可能だったはずだ。
だが、トータスは新しいシステムの存在を、自分たちの音に結び付けてみせた。
純粋に音というだけのイメージを超えて、そこには楽器があり、そこには最新機器がある。
音楽の歴史は機材の歴史に依存する一面を、見せるようになる。
なぜなら、純粋な音楽なるものには自分で概念を創出するほど強い影響力がまるでないように思えるからだ。
芸術の、純粋な方法としての躍動は、そこではまるで無力のようにすら思えてしまう。
いや、統一性を勝ち取るために、何も先行した概念を用いなくてもできることはあるかもしれない。
そのためには、全てを最初からやりなおさなければならないだろうけれど。
今までの何ものも感じさせないような、うまいやり方で。
一つであろうとすること。
これはそれなりに重要な話だろう。
ドイツ観念論的を僕が勉強しようとしているからそう感じるのかもしれない。
例えば、カントは主観の中に客観を定義づけようとした。
フィヒテはこれを基礎付けるために、自己は自己を措定するとした。
つまり、自己の中にある客観が自己の主観をとりまとめるということにした。
ヘーゲルに至って、自己の中にある否定性が、自己を止揚させるとなった。
これはベルクソン-ドゥルーズの系によって手ひどく攻撃されることになるだろう。
もう一度スピノザまで立ち直って、自己充足する実体が差異を与えるモデルを採用しなくてはならない。
それがドゥルーズの主張だ。
最善説をとるライプニッツには、ニーチェの批判が待ち構えている。
ライプニッツからニーチェの道徳一元論を差し引くと、そこにはスピノザが待ち構えているのだろう。
結局、彼らは何も期待せず物事を普通にすれば、普通にオリジナルが生まれるということを言ったのみに過ぎない。
余計なものを省くことこそが、その中核なのかもしれない。
スピノザに足りなかったのは、永遠回帰として反復させることだったと言われる。
すべてが等しい、すべてが回帰すると言われる。
本当の差異に至り、ただ一つの存在へと至れば、そうなのだといわれる。
それは別に宗教的な意味ではない、もっと普通に生きることに関して、言われているのではないだろうか。
よくまぁこんなデタラメをイケシャーシャーと書けるもんだ!!
恥ずかしくないのかな。ドゥルーズだって。死んだほうがいいね。
スピノザやカント、ニーチョといった哲学本は
ウンコだ。
おれは無限のリヴァイアスが好きだ。
尾瀬イクミが好きなんだ。
道徳というのは結局のところ、否定の力なんだな。つまりルサンチマンなわけだ。
ところが否定の力というのは、莫大な量を要する無駄な能力なわけだ。
スピノザはそういった隷属、責任、義務といったものから自由になりたかった。
そこで彼は決定論という、もっともアンチヒューマニズム的に思える質素な有り方を選択した。
決定論においては、世界が一様でしかないから異なる世界が考えられることがない。
だから異なる世界を意図して否定する必要がなくなる。
最小限の肯定の力を与えてくれる神を祈れば、僕たちは健やかに生きられるというわけだ。
僕は上の方で、既存のキャラクターがシリアスな行動様式の束の可能性であることを考えた。
こういった上昇志向的な世界観を超えるには、普遍なものへの期待を捨てる必要があると思う。
結局、シリアスというのは何か荘厳長大なものに対する甘えでしかないのだというのが僕の主義だ。
だって、3分だか5分だかの音楽で、あるいは小説の何十時間だかわからないがそれくらいの長さの
「表現」で、人生や感傷なんか得てる時点で不自然なのだから。
君が人生を本当に感じたいのなら、まぁ10年から20年くらいは何かをして、その最後のふとした
瞬間に一瞬訪れるものを捕まえればいい。それほどの価値はあるかもしれない。あるいは死ぬ瞬間か。
死ぬ瞬間は普通、激痛でそれどころではなさそうだけど、「死ぬ瞬間」という本には人の死を受け入れる最終段階で
悟りに達すると記されてある(らしい)。
それはともかく、なにか甘えに対する期待を断ち切るためには
むしろキャラクターとシナリオの相互支配的な関係をまず断つ必要があるかもしれない。
そこで提案されるのは、1シナリオ1キャラクター体制の放棄である。
むしろ複数のキャラクターを1つのシナリオで取りまとめることで、何らかの化学反応を
期待するというほうが理に適っている。
1シナリオ1キャラクター制は確かに、何かヒロイックな印象がある。実存的なにおいがする。
あなたが居て、私が居るというデタラメな真実のようなものが。
あなたに私を知って欲しいなどと思う何か、実存的欲求というしかないようなものが、あるのだ。
それをどうにかしなくちゃならんだろうと思う。構成的ではなく構築的に。
いやぁ、今日はとみに電波だね僕は。
>>178 お前の言う事は正論過ぎるんだよ!!
反論もできねえ!
村井のIQの高さは以上!
何かがリアルに感じられることは、少し遠くに居ないと感じ取れない気がする。
例えばジャズが栄えた当時のアメリカで、当事者であった黒人が聴くジャズと
日本人が2007年にそれらの演奏を聴くのは何か違うことのように思う。
具体的には、ジャズを作り続けた黒人たちにとってそれは選択肢の全てだったように思うけど、
僕たちはロックやテクノやクラシックを聴ける選択肢があった上でジャズを聴く。
そこでブラックなノリとされるものもマスイメージとしてしか、機能しない。
だからこそ、作られた捏造かもしれないほど身勝手なイメージだからこそ、逆に何か妙なリアルさがあったりする。
ふるさとは遠きにありて想うものとは言うけれど、何かイメージが統一として心に迫ってくるのは
その対象が複数の中の一つに過ぎないほど、遠くにあるときだけのような気がしてしまう。
もしも芸術が、そういったリアルさが近すぎて剥げ落ちてしまうことから救いを求めようとするものであるなら、
芸術は自分を不断に再生しつづけなければならない。
それはあたかも、より純粋になっていくかのように。
長谷部の知識量は異常!
俺の雑学知識も異常!
俺をバカにすんな!!
後、異常シリーズはもうやめよう。
スレが汚れる。
はせちーのお尻の弾力は異常!
>>186 あーだめだ。そういうの見ると怒りが沸いて出るから。
すぐログ消したよ。
なんで「らき☆すた」はつまらないのか考えた。
キャラクターには作者が自由に設定していい領域と、読者にも共有されたがために変更できない設定があるわけじゃない?
たとえば大阪は天然ボケキャラってのは最初は作者の意図によって設定されたものだけど、
いったん設定されて「大阪は天然ボケである」ってことが読者に認知される必要がある。
それでそれに見合った行動をとるときに、読者は「あはは、大阪らしいね」と思って不意に笑ってしまう。
ところが「らき☆すた」は設定が読者に了解される前から、それが自明のようにネタに使う。
たとえば「こなたはゲームオタだ」ということが第三回目の一本目で初めて出される。
それで例えばこの話の4本目のネタは「こなたがみんなにバレンタイの予定聞いて、とくに無いと聴くや
みんなつまらないバレンタインなんだねとこなたが応えて、それに対して友人が「ゲームの住民に言われたくないわ」という」
というものだ。
まぁそもそもネタそのものの動きがはっきり言って無理やりで、ゲームが好きでない僕ですら
「ゲームばかりしてるやつは他人のバレンタインデーに愚痴をたれる立場にない」なんて認識はないんだが、
それが前提にないとこのネタは面白いはずがない。
もちろん、これはギャルゲーをするモテナイ男の悲しさが前提にされてるんだろうけど、そもそもこなたは女性だし、
急にこういった価値観をこのネタに対してもてるかと言われると無理じゃないのか?
そもそもの発端は、このネタがただたんに設定の再確認にすぎないということにある。
これが明らかな不細工で、明らかにモテない明らかにエロゲーしかしてないようなキャラならば
(安直すぎるという嫌いはあれ)まぁ前提は納得できる。
ところがこなたがエロゲオタであるという設定はついさっきでたばかりだし、その定着度も低いのに
あたかも「こなたはギャルゲオタなのにおかしいね」なんてネタをやられても「はぁ?」としか思わない。
こなたは「一夜漬けで試験で点とれて、運動神経抜群で、オタクネタに詳しい」という設定だが
こんなの単なる最強厨でしかない。どこに感情移入しろっていうんだかわからない。
長所と短所はセットでないとダメだろう。
榊は「最強です」ってことを前提に書いてるから許されるのであって、さもダメ人間みたいな
コンセプトで「でも実は運動万能、勉強もやろうと思えばできるんです」設定じゃ鼻につくだけだろ。
あのめがねキャラに「風邪とインフルエンザって違うの?」って聴いたときの反応もくだらなすぎ。
辞書見ながら書いたとしか思えない(あるいは作者の知識自慢にしか思えない)くだくだしい説明で
「んなわけないだろ」としか思えない。
多分、キャラごとの設定(行動)が非現実的すぎる、設定に必然性が感じられない(統一したモチーフが感じられない)、設定がありがちすぎる
ってのが最大の原因だと思う。
だから読者と作者の間で「このキャラってこういう感じだよね」って共通了解がもてない。
だから作者の一人垂れ流しに思えてくる。
でも逆に言えば、これが曲がりなりにも今のオタクには受け入れられてるんだよな?
単に批判するより、「でも受け入れられている」ということをどう説明すべきなのか。
もちろん、単に「京アニ」が作ったいかにも萌えアニメという理由だけでウケているともいえるけれど。
でもなぁ!でもなぁ!
新時代の萌えなんかもしらんけど、やっぱり「らき☆すた」よりは「あずまんが大王」だろって気もするだろう?
キャラとしてどの程度ならばリアルで、必然性があると了解されるかって話だと思うんだが
それでいうとあずまんが大王のが、必要最小限で肉感の残る設定なわけだ。
らき☆すたはそういった必然性がまったくない。
でも逆に言えば、それはフリーってことなのか?えぇ?
じゃぁ何が新しく、この「らき☆すた」を統一させしめてるんだ?
そんなもんあんのか?
だからさ。
長谷部はマイナス思考なんだな。俺はマイナス思考では無いよ。
俺の論理はやっぱり昂推論。これに限るね。
サイコが生んだ探偵。デカグローンは至高かつ崇高な一品。
プラス思考はすべてを退廃する原因となるカテゴリーからは
外れてるし、死んだ方がマシだと思う。かないみかは好きだけどそのエゴイズム
が引き起こした事件は計り知れない。
俺は好きな人がいる。それは田村ゆかりだ。
彼女は般若だが、声がロリータだ。愛らしい。大好きなんだ。
所謂臭い探偵な訳だが、白鐘山は良い。
俺は春原を殴り殺しい。
それだけはウンコなんだよ。
俺は春原を犯したい。
それだけは真実なんだよ。
いいからリトルバスターズやれ
>>195 やらん。コンシューマー版が出てもやるか分からんから。
しかしkeyはOP曲のメロディが一般的なエロゲーっぽくなってるな。
一般的なエロゲっぽいメロディってなんだ?
198 :
名無しさんだよもん:2007/09/29(土) 02:28:17 ID:4+Grxa6S0
_
r-、' ´ `ヽr-、
ィ7 /l: ハヽハ トヾ 駄スレを隠すことは、この俺が許さん!
'|l |'´_` ´_ `| || 信念に基づいて行動する。
| |´ヒ} ヒ}`! l| それを人は正義と言う。
__ノ゙). 从 l, _'_. |从 今俺が行ってることは、上げ荒らしではない。
,_'(_ ノ_ヽ ヾl.> - ,イ;リ 正義という名の粛清だぁ!
{ f:テ} {'f:テ}',/\ヽ--//ヽ
ヽ,r─‐ 、ィ .、、 i l>Y<! i '、 バーニング!
/ iゝ_ノ iヽ /l |l l ',
lンヽ/ムノじ
199 :
名無しさんだよもん:2007/10/07(日) 20:39:41 ID:XTxgqpqC0
Kanonは文学!
私は、真琴を愛しています。
麻枝様の"Kanonの真琴"の次元を既に超えており、
私は"今の真琴"を愛しているのです。
真琴は昔と比べると随分素直になりました、性格・行動全てが愛しいです。
この私を純粋に愛してくれている、側に居てくれる。
だから私も真琴の側に居る、これ以上幸せな事はありません。
真琴がいれば、私は何でもできます。
愛する者の為に、例え世界中を敵に回しても構わずに笑い続けます。
真琴に何か干渉してこようなら私が何が何でも守ります、それこそ死ぬつもりで戦います。
これから先何があっても、
真琴を・・・麻枝様が私にくれた大切な人を・・・
・・・一生愛して行くつもりです。
楽しい事も悲しい事も二人で分かち合って、一緒に歩いて行きます。
どんな辛い事があっても、真琴となら乗り越えられると思うから・・・
真琴、愛してるよ・・・
我が心、常に真琴と共にあり。
真琴がいる限り、祝福されし我敵無し。
真琴を貶す・不幸にする輩は徹底糾弾。
危険を省みず、愛する者に命を懸ける!!
例え何と罵られようと、我、生涯、信念を貫く!!
例えこの身滅びようとも、我が想いは不滅なり!!
沢渡真琴は我が命、我が全て!!永遠の愛を誓う漢・狗法使い、ここにあり!!!!
最近の鍵っ子は退化している。
もっと悟らないと。
長谷部の知識、文章力の向上とともに
それらの面白みは減少していったのはなぜだろう。
5年ぐらい前よりずっと理解しやすい文章なんだぜ、理解しようとすれば。
にもかかわらず。
ミルフィーユと長谷部と言う二つのキャラ使い分けを上手く生かしきれてないのせいか?
我々はゴールする神尾観鈴を幸福であると想像しなければならない。
AIRは文学の定義により文学なのではなく、我々が文学と考えるが故に文学なのだ。
それはちょうど、我々が能美クドリャフカを卑猥な目で見ることを止め真にその魅力を捉えたとき、
そしてそのときに限り、彼女が小さくて聖なるものになることと同じなのである。
Key作品は文学であると同時に文学でなく、
数多の文学作品を生み出してきたKeyの信者として、我々はKey作品を文学であると考えるべきなのである。
エロゲーは所詮エロゲーであるといった軟弱な思想を受け入れてはならない。
我々はゴールする長谷部悠作を幸福であると想像しなければならない。