1 :
名無しさんだよもん:
もはや文学すら超えたかも知れん
そうだろ?
そうだね
優勝して泣いて、好投むなしく優勝を逃した投手が泣き崩れて、
引退して泣いて、友の引退を惜しんで泣いて、
今日は泣きまくる壮絶な日だった
_, ,.-‐、- ..._ ,. 、
, ' / ,.へヽ−'" へ.ヽ
/ 〃/ , . 丶 ` 、
.,' .,'./// i ,l. i 、 ヽ ヽ
l l / i l ! | l| il ! i `. i ヽヽ
! ! l ,|ィ''フノ`| /!l ノト!、} } l |. !
.! /l:Vl,,.-=i、ノ レノ,.⊥,` ノ ル!
| / ハ. i{t::;j| |f::j'レノノ }
.l.Ll |L」‐"┘ 、 └ ’./''!.l ,'
`、| l | `、"" ヮ ""ノ ! ! / 長谷部さん大好き
!」」 ヽ_} 、 ,. r'レ!、| レ セックスしましょ
>.ゝ`ニ`´ユ l/
,. '´ {丶 ノ.} \ .ノ
,<丶、 \ ` ´ | >,.、
/`` ‐、 ミ `‐-、_\ .!_,. 彡 '" `、
f- 、 ` `〜二=\|彡 ´ 〉
うっせタコ
6 :
名無しさんだよもん:2006/10/12(木) 23:01:44 ID:kfw08uoB0
3> 5>
ヤツをNG登録してるので見れないバカなオレ
いや、これでいいのか(笑)
うん、そうだね。そうかもね
結局見たくなってNG解除してしまう俺。
そして不快になったのでやっぱりNGに。
以下無限ループ
お前はオレか(笑)
なんだけど、最近つまらんのだよ
カレ
かなりボケてるよな
10 :
名無しさんだよもん:2006/10/13(金) 04:34:28 ID:aJ7QQpFc0
そうだねプロテインだね
はせべの庭がまたひとつ・・・
12 :
名無しさんだよもん:2006/10/13(金) 10:35:46 ID:EEYRcH2W0
13 :
名無しさんだよもん:2006/10/13(金) 13:03:13 ID:zwBBiTBY0
作詞:岸本和也
作曲:岸本和也
編曲:岸本和也
vocol:後藤正文
今日歯医者に行った
長谷部が幼女を
犯していた
俺は長谷部を
羨ましがった
歯医者でHする何て
大胆だと思う
僕はそう思った
遠く向こうで
長谷部に刃が
刺さって
1畳のアパートの
現実は麻痺した
目を潰して
僕は君を犯したい
想像の世界で君も
全部無くして
分かったよ
『長谷部のアパート』
後藤正文のvoが炸裂する
スピード感溢れる表題曲エロシズム溢れる歌詞
『長谷部のアパート』
好評発売中!!!
/, -- \
| / _||, -─-- 、_
/ レ''´.|/ `‐- 、
, 人 ! \
_/ り、 ヽ
r'/゙ ,‐' ゙` 、 -、 .、 ヽ
./,ィ゙ / ,r .ト、 ヽ ヽ 、 ヽ ヽ l、
,l!゙/ ./ /| 、 |_,∠__,」 .! l .l | ヽ l
/ ! , / ,厶|,! .j| 7 ヽ .!` .| ! .! l、 ヽ !
'´ /.// / 、_|,l .| !/,┬-、. !|l | ! ! ヽ l |
l/ | ,イ/|,l|_ .| :ll´ .| !_!'lリ.! 亅 |__L .! !|
l │/、〔│| .ヽ| / .| / ! l│ .l 、ミ| .! l.!
l // .| `゛ 「  ̄ .!リ .| |‖ .! /'゙
|〃! ヽ , ---、 l .! .l'´ l !/^'′
リ| j| .l\ ヽ / .凵 /, ‐' 長谷部さん結婚して
!| .| ! \ , -'´/ / ./!
l ヽ ! `. ̄│ ´ /./ ,ア、
ゝ ヽ.! ,,ィ'| /// 7-、
∨ _/´ .! | , tl!~ ./ \
_,/´ / ! .八 " / \
/、 _ムニニニ|二_|y-___/ / \
光の中揺らめいた
言葉も思いも全部
残さず伝えてきっと
19 :
京大繭:2006/10/14(土) 17:56:26 ID:YIcZhl4w0
俺はワールドアパートが好きさ。
あのロック調が良い。
後、後藤のヴォーカルもね・・・
というか長谷部が好きだ。
20 :
京大繭:2006/10/15(日) 00:13:47 ID:m/Q6zqy+0
喜多は来たぜ。
春原は倫太郎の家に遊びに出掛けた。
玄関には西岡倫太郎が居て、ハイパーヨーヨーを
やっていた。
春原は話し掛けてみる事にした。
「よお、倫太郎」
倫太郎が話し掛けられたのに気付くと
慌ててヨーヨーを後ろに隠した。
「どうしたんですか、春原君」
「いや、ちょっと遊びに来たんだ、時間有る?」
「いや、有りますけど」
「じゃあ、遊ぼうよ」
「何して遊びます?」
「うーん、そうだなあ、ヨーヨー貸してよ」
「あっ、はい、良いですけど」
そう言うと倫太郎は春原にヨーヨーを渡した。
「僕のテクを見て腰抜かせ」
あああ
そう言うと春原はヨーヨーを
回し始めた。
ヒュンヒュンヒュンヒュン・・・
「どうだっ!ループ・ザ・ループ!!」
「わぁ、凄いです」
「どうだ、僕のテク」
春原はそう言うとヨーヨーの紐を指から外した。
「すごいです、もうSEXしたくなっちゃいました」
「そう、えへへ、って!?セックス!!?」
「冗談ですよ」
「何だあ、冗談かぁ、あはは」
「それより、僕の部屋行きませんか」
「良いねえ」
春原は倫太郎の部屋に行く事にした。
倫太郎の部屋はオタグッズに占領されていた。
「おいおい・・・これは何だ」
「おっ、CDあるじゃん、見せてよ!」
「ああ、良いですけど」
「おっ、ワールドアパートじゃん、お前このアーティスト好きだったの?」
「あっそれなりに」
「へぇ・・・後はアニソンみたいだな」
「今度僕のボンバヘッ聴かせてやるよ」
>>25 Aは債権者からの差押から逃れるため、
甲土地を友人Bに売ったことにしておいてくれと申し込み、
Bはこれを承諾し登記もB名義に移転した。
Bは自己に登記があるのをいいことに甲土地についてのBの虚偽の所有権を信じるCに
甲土地を売却し、登記も移転した。
この場合、本来の所有権者たるAはCに甲土地の返還を請求して
甲土地の所有権を受け戻せるか否か。
>>27 >>26 はそんな事聞いてない。
そのぐらいも解らんのか?
このIQ690が!!
俺はバイです。
「あっいいですよぉ」
「まあ、遠慮するなって」
「そうだ和也君呼びましょうか」
倫太郎がそう言うと春原は怪訝そうな顔をした。
「僕、あいつ苦手なんだ」
「嘘だけどね、本当は大好きさ!」
「あいつと久しぶりに肉のぶつかり合いがやりたいなあ」
>29の「長谷部悠作」は京アニKanonの「北川」並みにkusoな出来だな。
「そうだ、倫太郎、俺とマサチューセッツ工科大学行こうぜ」
「えっ、嫌ですよお」
「そうか・・・」
春原は怪訝そうな顔で倫太郎を見下ろした。
すると、倫太郎がウンコを漏らしていた。
「ちいい!!倫太郎っっ!!てんめえ!!」
春原はそう言うと倫太郎の前髪を鷲掴みにし、
顔を床に落ちているウンコに付けた。
すると倫太郎は春原のチンコを鷲掴みにし、
揉みしだいた。
「すごいっス!!」
美紗さんは倫太郎のマキヤベリズムを
食べながら
「齋藤茂吉は最高じゃ」
と抜かしたそうな。
今月の新刊
サイコホラー小説Kanon
「世界は、本当は……君を幸せにするためにあるんだよ。いいかい、葉鍵なんて世界のほんの欠片でしかないんだ、すべてなんかじゃないんだ!」
「泣かないでお兄さん、もう私たち地雷を踏むのだって悲しくないわ。フルアニも智代アフターも、麻枝も涼元も今は大好きでいられるの」
「畜生!!みんなが寄ってたかって、あの子を葉鍵儲に仕上げたんだ!本物の葉鍵儲にしちまったんだ!!」
「長谷部、ああいうものを真っ直ぐ見るな」
「……――俺が」
「スレッドで叩くのか?無理だ。あの子は葉鍵をやめられないよ。………誰かが、ほんの少し優しければあの子は学校に通い友達を作って
幸せに暮らしただろう。でもそうはならなかった。ならなかったんだよ長谷部。だから――この話はここでお終いなんだ」
なんでブラクラ?
長谷部いい加減登場してよ!!
長谷部いい加減僕を殺してよ!!
('A` ) プウ
ノヽノ) =3'A`)ノ ヒャー
くく へヘノ ←BzhqlNa80
倫太郎はウンコ塗れで言った。
「何するんだよ」
春原は興奮しながら家を飛び出した。
春原が家に帰ると長谷部が寛いでいた。
「何やってんの!?」
春原はコタツに入ると長谷部を凝視した。
「暇だから来たんだよ、悪いか?」
「悪かあないけどさ」
春原は溜息をついた。
そして漫画を読み始めた。
翌朝。
春原は学校へ向かった。
教室には長谷部が机に突っ伏して寝ていた。
「長谷部、起きろよ」
そう言って春原は長谷部の肩を揺り動かした。
「ん、あっ春原」
長谷部は起きると春原を凝視した。
放課後。
「帰ろうぜ、長谷部」
春原が話し掛けてきた。
「ああ」
日々は過ぎて行く。
そして永遠の扉が開く日は来るのだろうか。
end
終わりました。
長谷部と春原の物語はこれで
終わりですがいつまでも心の中に
このキャラクター達が残っていく事を
心から願います。
2006年10月29日
コゲどんぼ、麻枝准、岸本和也、喜多健介。
それとさあ、長谷部はどうした?
もう俺のマイライフは終わりだ〜
呼んだ?
彼女できない。
年上で美人でもちろん男付きじゃないの紹介して。
オタに理解があることはいうまでも無し。
>オタに理解がある
この時点で人口の1%未満に絞られます
IDが違うんだ〜
ヨンドーレ
長谷部よ!!もう死んでくれ
作詞:岸本和也
作曲:岸本和也
編曲:岸本和也
『瞳の住人』
数え切れないでも少しの
歳月は流れ体君の事をどれくらい
分かってるのかな先で地図辿る様には
巧くいかないね気付いてるよ
不安そうな顔隠してるくらい
急ぎ足の明日へと抵抗する
様に駆け回っていても不思議なくらいこの胸は
君を描くよ
見上げれば輝きは色あせず
溢れていたどんな時も照らしてる
あの太陽の様になれたなら
もう少しだけ君の匂いに
抱かれていたいな外
住んでいたいいつの日か
穏やかな色彩に彩られた
ひとつの風景画の中寄り添う様に
時を止めて欲しい永遠に
傍に居てずっと君の笑顔を
見つめていたい移り行く瞬間をその
瞳に住んでいたいいつの日か
鮮やかな季節へと連れ出せたら
雪の様に空に咲く花の下へ花の下へ
傍に居てずっと君の笑顔を見つめていたい
移り行く瞬間をその瞳に住んでいたい
いつの日か鮮やかな季節へと連れ出せたら
雪の様に空に咲く花の下へ花の下へ
作詞:岸本和也
作曲:岸本和也
編曲:岸本和也
vocol:後藤正文
長谷部の好きなもの
それはビタミン
それこそ精液
即席の歌で
舞い踊る
実体の無い
未来と名無しの和
僕達の日々のささやかな
願いすら夢の様だよ
心の中に革命を
遠く向こうでビルに
チンコが刺さって
8畳のアパートの
現実は麻痺した
目を塞いで
僕は君を思い描いて
想像の世界で
君も全部無くして
分かったよ
長谷部のキモさ。
長谷部の秀逸さ。
なんか俺のニセモノが居ないか?
>>56 IDを出現の度に変える時点で偽者だと思うんですけど・・・
ここは超良スレだな
おはよう
もうこんな季節だというのに長谷部は現れん。
ここに居るお
長谷部さん、ダ・イ・ス・キ!
長谷部は僕の前から消え去りました。
このスレも終わりだな。
終わったか
長谷部は思案していた。
この学校の部活の何処に入ろうか考えていたからである。
長谷部は一つ一つ壁に貼られている感熱紙を吟味した。
チンコを揉んでいる男を粉砕しようの会
この部が私に合っていると思いさっそく部員に話しかけてみた。
「すみません」
男は無反応だった。
今度は彼の肩を叩いてこちらの存在を気付かせた。
「うん、新入部員希望?それならこの紙に名前を書いて」
男は感熱紙を顎でしゃくった。
私は書き終えると早々とこの場を退却した。
そして明日は部室に行こうと階段を下りながら
思った。
まだ終わってない。
このスレを盛り上げるんだ。
71 :
滝本竜彦:2006/12/16(土) 20:06:09 ID:0OpbtpQfO
Kanonは文学!
kanonは文学か判らん。
辞書でも調べたが芸術作品てゲームにも当て嵌まるのか?
∩___∩ \ヽ
| ノ ヽ \ \ヽ
/ (゚) (゚) | ヽ ヽ \ ロックマン!新しい顔よー!!!
| ( _●_) ミ i l ヽ
彡、 |∪| ノ i l l i
/ _ ヽノ ) l i | l
(___) / / ,,-----、
/ / |;:::: ::::|
⊂二(⌒ )二二二|;:::: ::::|⊃ /', ', ¨
 ̄ ヽ∴。|;::::',ヾ,::::| /。・,/∴
◎ -:'ヾ|!|!!,i,,!ii,!l,・∵,・、 ◎ ティウンティウンティウンティウン
/ / / ̄ ̄ ̄ ̄\
/  ̄ \
/ □ \ ◎
// ̄~\ / ̄ ̄ ̄\ |
◎ // ̄\ヽ∨/ ̄\ \ /\
\_/ノ \_/ ノ し| | ∪| ◎
l:::::::::∠~ ⌒| \/
|:::::::::r〜〜‐、ヽ / /
|:::::::::)jjjjjjjjjjjヽヽ / / ◎
|:::::::::|,, || / /
◎ !:::: ヽiiiiiiiii// / / ◎
ヽ 〜〜" / /
ヽ、__,,,_∠__/
翌日、部室に行くと
髪がピンク色の女の子が眼鏡を掛けた男の子に
金鎚で迫っていた。
僕は急いで止めに入った。
「何やってるんですか」
和也はそう言って女の子の持っている金鎚を
奪い取った。
「やめてください!迷惑なんだ。そんな事しないでよ!!」
そう言うと女の子は部室を出ていった。
「君、大丈夫ですか?」
僕はそう言って男の子の肩に手を置こうとすると、
「チンコっアイウォンチュマイクヘーン何とかメーン何たらメーン
何たらかんたらガッドゥドゥー!!」
と言って部室を出ていった。
僕は一人きりになって
夕日を見つめていると
誰かの断末魔が聞こえてくる気がした。
私は自宅に帰ることにした。
家に帰ると、お母さんが
「マイネームイズ桜葉」
と言っていた。
仕方ないかもしれないが僕は精神病
だ。
好きな人もいる。
しかしチンコが痒くて堪らない。
昔、林の中に入って探検する遊びが好きだった。
そこで私は袋を見つけた。
その中には如何わしい「チンコとウンコ」
というタイトルの漫画が入っていた。
私は興味本意でその本を読みまくった。
家に持ち帰りオナニーを性的不全になるまで繰り返した。
テーブルには晩御飯が用意されていて、
私は眠気の方が強かったので眠ることにした。
精神病、ねぇ…いいよなぁお前は。それでもこうして書いてるんだから。
どうせ俺なんか…。
すまん、撤回。別スレで君が統失だと知った。
俺は回避性人格障害だからまだかわいいもんだ…。
眠れなかったので僕は公園に行く事にした。
公園にはブランコに跨った女の子がキイキイと音を鳴らしていた。
それを見た私は妙な高揚感に囚われた。
私は近ずいてみる事を決意し近ずいてみた。
すると少女がこちらの存在に気が付いた。
私は無理に笑みを作ろうとしたが、明らかに
基地外の表情になってしまったので
もうこれは殺るしかないと思い私は手に持っていたナイフで
襲い掛かった。
「アアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
私は何度も何度も刺した。
内臓が飛び出ても血がぷちゅぷちゅと水音を立てながらも
何度も刺した。
そして私は泣いた、泣いて泣いて泣いて泣いて泣いた。
end
和也と長谷部のお話はこれで終わりですが、
いつまでも心の中にこのキャラクター達がいつまでも
残っていく事を心から願います。
2006年12月24日
岸本和也、麻枝准、長谷部悠作、岡本倫
80 :
名無しさんだよもん:2006/12/30(土) 23:11:58 ID:IrJ4iFRk0
しかし、過疎り過ぎだな。
82 :
名無しさんだよもん:2007/01/15(月) 20:37:36 ID:TZam/rZR0
文学板に擦れたてようぜ
長谷部きてくれないじゃん
いい加減、長谷部から卒業しろよ……
麻枝、涼元、久弥、長谷部、折戸、戸越、いたる
皆鍵っ子のアイドルだ
88 :
名無しさんだよもん:2007/02/17(土) 01:58:16 ID:YN3j3DJv0
長谷部は俺の事嫌いなんだね・・・
90 :
名無しさんだよもん:2007/03/23(金) 02:55:27 ID:c/WXaOK/0
91 :
名無しさんだよもん:2007/03/23(金) 13:32:49 ID:8gTif5+r0
そうだよ
うわーん
93 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/04/09(月) 14:48:58 ID:4C/9WbXr0
エロゲ学スレブッつぶれたのか。まぁいいや。
それで前の話の続きをやろうと思うんだけど、というのは僕は最近「動物化するポストモダン2」を
気の迷いで買ってしまったからなんだな。この本は非常に退屈だから買う必要はないよ。
それで、前の話のまとめだけれど、いわゆる普通の文芸小説においてのキャラクターっていうのは
物語から実のところ独立している。
ということはキャラクター文化というのはむしろ逆に、物語と高い浸透圧で結ばれているってわけだ。
普通、キャラクター文化におけるリアリティの最小単位というのは、キャラクターと考えられる。
でもキャラクターの最小単位がさらに下部にあって、それがシチュエーションなんじゃないかって思ったのだった。
シチュエーションと物語って違いは、シチュエーションはごく小規模なふるまいのレベルくらいに思ってればよかろう。
シチュエーションが繋がればシナリオや物語になるくらいに。
少なくとも、東も似たようなこと書いてるわけ。
序盤のキャラクターのところ読めばわかるけど、潜在的な行動様式の束=キャラクターとなってる。
94 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/04/09(月) 14:57:30 ID:4C/9WbXr0
その前に、どうして俺が東の分析が大嫌いなのかを示しておく必要があると思う。
要は、東浩紀にせよ斉藤環にせよあるいは宮台真司にせよ、かれらがやっているのは
社会学あるいは精神分析であって、作品論ではないわけだ。
そのことは東が3「ポストモダン」で区別している「ポストモダン」と「ポストモダニズム」の区別で
わかると思うけれど、ここでは読み手の日常的な思想や慣習が、作品の隆盛にも対応している
という前提になっているよね。
だからやってることは作品分析ではなくて、読者分析であり、分析される読者から
見えてくる社会なり、精神構造なりを云々しているわけだ。
でも作品というのは読み手に依存したものではなかろう、と僕は思うわけだ。
作品は作品で系譜があって、それが保守的な「ぽすともだにずむ」に過ぎなかろうと
そちらのが魅力的だと僕は思う。
だから彼らの退屈な通俗リオタール、通俗ラカン、通俗ルーマンは嫌なのだ。
95 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/04/09(月) 15:07:24 ID:4C/9WbXr0
4章にあたる「漫画、アニメ的リアリズム」については、僕は関係が第三者的なのかもしれないと
確か書いたと思います。苦しいかな。
つまり、ここで引き合いに出されている大塚英志言うところの、「この私」の不在というのは
エロビデオを見てるときに自分がセックスしてなくてもかまわないという習慣と
似ていると思うんですね。
イケメンと現代的な女の子が、ドラマチックな恋に落ちるような話って言うのは
僕らの日常を想起させる意味で、たとえば嫉妬や不快感を産む可能性があるわけです。
日常で使う「女子高生」は汚らわしいものだけど、オタクが二次元に対して使う
「女子高生」は永遠に若く、無邪気で、清楚で、僕にだけ股を開く処女なのですね。
96 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/04/09(月) 15:24:03 ID:s3qfLLnT0
しかし、
>>95はだーいぶん問題がありますよね。
僕のエロゲ学スレでのレスにせよ、東や大塚の指摘にしても、「この私の不在」っていうのは
オタクが安易に自分勝手な都合のいい世界観を持つことを、なんとか批判しないようにするための
言い訳に過ぎないわけでしょ。
別に僕は「この私」のアイデンティティは大事だよなんて言う気はまったくないんですけど、
オタクが本当に「この私」を捨て去ってるように見えるかって、ぜんぜん見えないよね。
僕をはじめ、みんな自尊心をぶくぶく肥大させてんのにさ。
97 :
名無しさんだよもん:2007/04/09(月) 15:30:52 ID:hnxX7MVh0
月姫Fateこそ文学
文学を超えて聖書だ〜
98 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/04/09(月) 16:01:31 ID:s3qfLLnT0
だから、「キャラクター小説は現実に半分接している」なる言葉に行き着く。(99ページね)
「この私」の生きるこの「現実」に接しているから、ジツザイロン的なセカイ系が生まれるし、
エロゲは文学とか言い始める。
いいんだよ、倫理なんかどうでも。
面白ければ倫理なんぞ知ったことかって、言ってやればいい。
99 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/04/09(月) 16:09:19 ID:s3qfLLnT0
共感とか感傷とか倫理とかいったものを取り除いてもなお残るものを、表現は追うべきと考える。
そんなものこそが社会学や精神分析どもの作り出した虚構であると、今一度言わねばならない。
100 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/04/09(月) 16:24:19 ID:s3qfLLnT0
というわけで、東の本で注目すべきは社会とのかかわりにおけるキャラクター小説なるもんではなくて、
キャラクターがシチュエーションの束として想起されてるってことです。
例えばまぁ、イカレたシチュエーションを発揮しうるキャラクター(シスプリとか)だとか
期待されるシチュエーションを裏切る(ツンデレとか)とか、まぁそういうレベルでね、
こういろいろなことが出来ないかしら?って僕は思うわけだ。
あるいは期待されうるシチュエーションがどんどん肥大していくとか。安易だな。
101 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/04/09(月) 16:31:27 ID:s3qfLLnT0
共感されうるシチュエーションの発揮を拒むという視点はどうだろう。
つまりツンデレってのは結局、デレっていう女性を支配したい欲望が期待されてるわけだ。
だからってツンツンしましょうってのも安易だな。
それに似たようなこう、運動をね。
102 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/04/09(月) 17:24:10 ID:s3qfLLnT0
付録の分析はAIRの分析になっていますが、つまり僕が「どうして一方では現実の恋人の代わりのように
相手に感情移入しながら、同時に記号として何人もの女を抱いたりする節操のなさが許されるのか?」
ということを反映しているように思います。
これらを父の不在、プレイヤーの不在と位置づけている。
要するに、観鈴を救えない挫折による父性の喪失、そして「そら」であるがゆえにそもそも観鈴に
かかわりさえ持てないことによる「プレイヤーの不在」を顕在化させたのだという。
ははーん、みたいな。
父はいないから倫理的な制約を受けるべき主体がいないんで、何人も女を抱くような
欲望だけが一人歩きして、んでもってプレイヤーもいないから女を自由にする欺瞞に
さいなまれずにすむって考察なわけだ。
そもそも解釈なんてものが何の役にも立たない糞という風にはいえるけれども、
それはともかく、東が妙にオタクに対して辛らつな意見を持ってるのは面白いですね。
103 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/04/09(月) 21:10:40 ID:hGkWAMDG0
俺は東と違って、評論で言いうることをメタ的に作品が内在してるから云々っていうのは
不味いやり方だと思ってるんだよね。
それって、結局(似非)文化人どもが理屈を貼り付けてるだけの自己満足だよ。
もっとプリミティブな次元で、つまりメタとか言うにしても確かなやり方で、やらないといけない。
まぁ、シチュエーション最小単位論を推し進めるよ。
そうだとするとだね、このキャラはこういうことをするだろうっていう予測で成り立ってることに
なるわけだよね。まぁ、読者に依存した形でキャラクターは存在するとか偉そうなことも言いうるわけだ。
この期待が実現する過程でなんらかのカタルシスがある!みたいに言うことは出来るけれども、
そういったものは新しいキャラクター要素と新しいシチュエーションとの対応が発見された直後くらいしか
機能しないと思うんだね。
でもキャラクター要素って、もう大体出尽くされた感があるんでそういったやり方は
なかなかうまいやり方ではないと思う。
104 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/04/09(月) 21:31:08 ID:hGkWAMDG0
この期待→実現って過程は、なんだか弁証法を想起させるな。
というのは、例えば新しいキャラクター要素を考えるときには、期待→挫折→実現という
過程を通ることによってだと思うから。
ツンデレはツンのままの要素が挫折して、デレが出てくるところでこう、新たな「ツンデレ」って
過程がひとつの要素として発見されるわけだな。うん。
いや、非常にくだらない考察だ。
それで、まぁツンデレよろしく、物語を時間的に考えて、挫折を途中で挿入することで
これはツン+デレ以外にも機能すんじゃないかしら?的な発想もいいんだが、
なーんかやっぱり、まだ安易だよな。
そんなん誰でも考えそうなことだし。
いやでも実際ね、規範的なキャラクター像というのはえらく強いもんがあるよね。
僕は詩子とかのサブキャラでゲーム作ろうと思ってたのは、多分、詩子なんかのサブキャラって
そういう規範性が薄いからだと思うんだけど、規範性ゼロのキャラクターなんて思い浮かばないよね。
ゼロの状態って結構大事でさ、音楽だと無音ってのがあるからそういう要素を嗅ぐわせるの
簡単なんだけれど、要素ゼロの状態ってなかなか思い浮かばんな。
はせちーの可愛さは異常
106 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/04/09(月) 22:17:29 ID:hGkWAMDG0
だからって、コテコテの規範性を前面に押し出さないと、なんだかセカイ系臭いんだよな。
それこそ自然主義的な匂いがしてしまうから、ゼロでありながらなおかつキャラクター的という
状態をまず探し出さなければならないわけだけど、果たしてそんな状態を想定できるのだろうか。
んー。つまり登場人物っていうのが、東がいうところの自然主義的キャラか、もしくは漫画アニメ的あるいは
ゲーム的キャラとして認知される条件はなんだったのかを思い出す必要があるんじゃなかろうかと思う。
つまり、「この私」の欠如と、複数の死の可能性だった。
漫画が「この私」が欠如するのは確か、想像力の環境が違うからだったっけ?
なんだかそれじゃなぁ…って気がするね?
「この私」の引用ってのは、要は実際に生きてるこの生活からリアリティを持ってくるということで、
それを除去するというのは、キャラクター自体が生産的な概念でなくてはならないってことだと思う。
東はそれを環境が違うからなんつって、その違うとされる今の環境をポモ社会にしたてあげたいんだろうが
それをもってしても、結局は現実に行き着かざるを得ない。
現実というものは動かしがたいから、ポモだろうがなんだろうが問題じゃない。
現実を引用する必要がなくなることが一番大事なのだ。
107 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/04/09(月) 22:20:30 ID:hGkWAMDG0
いやしかし、話が矛盾し始めたね。
生産的にキャラクターが生産しなきゃならんってことは、キャラクター的な度合いがゼロ状態に
あるときは現実に負うってことやん?
それは困った。
いや実際そうだよね。普通の人間的であればあるほど、自然主義に接近するのは当たり前だ。
じゃぁ普通の人間じゃない方向でゼロならいいんだろうが、それってどういうことやねん。
つまり、例えば形式的に他の手段でキャラクター性を付与しておかせて、存在しないとかね。
うーん、何言ってるんだろうね俺は。
はせちーの可愛さは異常!
長谷川千鶴(はせがわ・ちづる)
あだ名は”ちーちゃん”で親しまれる高校の保険医。
年齢のわりに童顔で、かなりの天然キャラ。
ある事件がきっかけで暗闇に怯えるようになる。そして最愛の人は…。
保健室 それは病人や怪我人の看護を行う場所 そして心のケアをする場所でもある
桜章高等学校 養護教員 長谷川千鶴は、生徒の悩みの相談にのり、ともに悩み乗り越えていく
という理想を持つ先生だった。しかし、相談にくる生徒は0だった。
そんなある日、授業をサボる生徒を見つけた千鶴は、早速出番かと思ったら、拒絶される。
彼は、地元の名士の子息で、ずば抜けた頭脳を持ち、教員をも黙らせる存在だった。
その後、使命に燃える天然ボケの千鶴と彼は、いろんな事件に巻き込まれ、
お互いが特別な存在へとなっていくのだった。
主人公長谷川千鶴は桜章高校の養護教員。
あまりにも幼くて頼りなさそうな外見の彼女は、生徒から「ちーちゃん」と呼ばれて慕われている、
保健室の聖母マリア様。
人に言えない悩みを抱える生徒の支えになってあげたいと思い設置した投書箱の中を毎日見ては、
空っぽであることに失望する千鶴。
そんなある日、彼女は裏庭でサボっている、学校一のとある問題児を目に留める…。
逼塞した学校社会での息詰まる生活に、少年少女の心は荒れて荒んでいく。
癒されることを求めて保健室を訪れる子供たちに、
無力な保健医にすぎない千鶴はそれでも精一杯応えようと手を差し伸ばす。
明日のお昼もカレーだわ
113 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/04/09(月) 23:30:59 ID:hGkWAMDG0
要は、キャラクター性なるものを自己産出しながら、なおかつ存在しなければいいわけだ。
なんじゃそりゃ、っていうね。
いやでも要するに、外部に物を負わなければいいわけだろ?
ゼロから産出すればいいわけよ。まったくわからんね。
具体的に言えば、実現するであろうシチュエーションが無と感じられればいい?
そんならお前、単に暗いキャラじゃねぇか?
明るいキャラでも可能かもしれないけど、そんなら自然主義に近づくわけだな。
うーむ。
114 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/04/10(火) 00:19:46 ID:wu37VGkx0
使う素材を限定すればいいんとちゃうかなとは思うけどね。
要はシンプルにすればいいだけの話やからね
はせやん以外おらんのか。
116 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/04/10(火) 00:47:58 ID:Hm+Eelca0
ビルエヴァンスって、ワルツフォーデイビーの印象が強いから通俗感あったんだけど、
カインドオブブルーに参加してたり、偉い人だったんだなぁ
117 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/04/10(火) 00:50:08 ID:Hm+Eelca0
いまだにモードとスケールの違いがよくわからん。
アイオニアン、リディアン、ミクソリディアン、ドリアン。
ここまでは覚えた。アイオニアンがいわゆる普通のドレミだな。うん。
118 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/04/10(火) 01:26:18 ID:Hm+Eelca0
俺の認識では、五度の音ってのは準オクターブみたいなイメージなんだけど。
アイオニアン、ドリアン、フリジアンはやっぱり、それぞれ半音階の位置は一度からと五度からで
同じなんだな。
もんだいはリディアンとミクソリディアンとロクリアンとエオリアンなんだな。うん。
119 :
名無しさんだよもん:2007/04/10(火) 12:29:57 ID:GxueMjRxO
はせちーの可愛さは異常!
はせちーのエロ可愛さは異常!
桜章高校には聖母マリアがいる。
マリアこと長谷川千鶴はとても頼り無い養護教員。
低身長・童顔でお人好しな彼女はみんなの人気者。
そんな彼女はあることをきっかけに久我直樹という生徒と出会う。
彼は成績はいいもののかなりの問題児だったのだが、
千鶴のやさしさに触れるうち、少しずつ好意を持つようになる。
だが鈍感な千鶴は久我の想いになかなか気付かない。
果たして久我の想いが報われる日は来るのか ?
千鶴と久我の出会い編と二人が接触したことによって、久我に憎しみを持つ教師と同級生から
千鶴は軟禁されたけれど、事件は久我の機転で解決する。
女顔の純と美樹(男に不細工といわれる)は、イトコで幼馴染。いつも比べられる美樹の心は
歪んでいき、憎しみは純へのイジメに変わる。
久しぶりに葉鍵板に来てみたが
長谷部は相変わらずだな(笑)
ちょいと上の方で話してる
エロゲキャラにおける現実性の薄さ・強い記号性ってのは
ただ単にエロゲの人物造形が往々にして紋切り型で浅いもんでしかないって話なだけな気もするわけだが
やっぱりここではそれをエロゲ(オタク文化)に固有の特徴として認識した上で話を進めるのかえ?
>>93 >それで前の話の続きをやろうと思うんだけど、というのは僕は最近「動物化するポストモダン2」を
>気の迷いで買ってしまったからなんだな。この本は非常に退屈だから買う必要はないよ。
こんなこと言いつつ実は発売日の朝一番に本屋に駆け込んでいたと想像してみるテスト
125 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/04/11(水) 01:11:07 ID:aA22qQCF0
>>123 「現実性の薄さ、強い記号性はつまり、現実の人間のデフォルメなりで「現実らしさ」を取り除いたからだ」
といったことだと思いますが、そういったデフォルメなり紋切り型の解釈なりに浅いも深いもないと思うのですが。
例えば人間の唇の色は赤らんでいますが、多くのキャラクターの絵ではケバくなるので唇の色が省略されています。
しかし特徴を事細かに書き込むことがより深い人間像であるはずだという考え方にしても、
それはそれで一個の信念に基づいたものでしかないです。
東はそういった、現実を映し出す透明な鏡のような描写を、自然主義的と定義しています。
126 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/04/11(水) 01:11:37 ID:aA22qQCF0
(続き)
そうはいっても、都合よく恋人の肩代わりをさせたり、性欲の対象にするのだから、
オタクは記号を自然主義的に見ているじゃないか?と指摘ことは可能だと思います。
東が紹介する大塚英司の主張によれば、むしろそういった半端に自然主義的であることこそが
漫画やアニメの特徴であり、重要性だということになっている(そしてそうだからこそ、倫理的な描写が
可能になるというわけです)。
東に言わせればそういった考えは大塚の弱さ、不徹底であって、もうちょと違うことが提案されています。
それはキャラクターがデータベース化されて、パラレルな世界観で最初から存在しているということです。
東の新刊のタイトルが「ゲーム的リアリズムの誕生」となっているのは、自然主義的リアリズムに
依存しない、そういった新しいリアリズムの存在を前提にしているからです。
この立場からすると、自然主義に近いかどうかということ自体がナンセンスであり、
むしろ自然主義に近いことこそが、浅いと糾弾されるべきなのです。
127 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/04/11(水) 01:12:27 ID:aA22qQCF0
(最後)
しかし、東が言うようにオタクたちが自然主義的なリアリズムを消し去っているのかといえば
僕は大分不信感をもっています。
理由は上にあげたように、明らかにオタクは自己満足のツールとして自分たちの文化を捉えているし、
キャラクターに恋人の代わりや、性欲といった要素で捕らえようとしているからです。
とはいえ、東の言っていることは新しい可能性として十分に追求されるべきだということも認めますから、
むしろ僕は東の立場の一部を、さらに徹底化したいわけです。
だから僕に言わせれば、やはりキャラクターが現実の女性に比べてどうこうという視点は、
東よりもさらに強い語気で「ナンセンスだ」といわねばならないと思っています。
128 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/04/11(水) 01:15:31 ID:aA22qQCF0
少なくとも、キャラクターという概念を肯定的に捉えなければならないと自分で決めたからには、
キャラクターが単なる商業の汚物という答えが出ないようにしなければならないのですから。
>>124 実際のところ、僕は本屋に行ってはじめてこんな本が出てることを知ったんであって、
しかし金がないのにも関わらず衝動的に買ってしまうあたり、やはり僕は駄目なのだ。
129 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/04/11(水) 02:15:41 ID:f2l92dnO0
ところで、こういうのはスノビズムの極みだと思うから言うのは止めておこうと思ったのだけれど、
どうせ読む人はいないからかまうものかと思って書くのだけれど。
自然主義とは現実という書き換え不可能、非可逆な唯一のものを持っています。
そして東の提案するゲーム的リアリズムはむしろ、リセットが可能で、書き換えの出来る
きわめて軽いリアリズムです。
しかしそれは表面がそうであるに過ぎないのであって、その奥には矢張り何かずっしりと
重いものがなければならないでしょう。それは何か?
この対立はまるでスピノザとライプニッツの哲学のそれを思い起こさせます。
つまり、唯一非可逆のスピノザと、可逆的並行世界的なライプニッツです。
両者は確かに被造物の人間と、創造主の神という主体的な関係はすごく似ているように思う。
ここで神をリアリズムとして換骨奪胎すると、どうなるか?
スピノザにとっての神と、ライプニッツにとっての神は人間的な意志があるかないかということに集約される。
スピノザの神は、実現されなかったある観念を、神が持っているのは不合理だと考える。
ライプニッツの神は、実現されなかったことも善悪の秤をきちんとするために、持っていると考える。
つまりスピノザの神は合理的であり、ライプニッツの神は道徳・美学的なのだ。
さて、スピノザ主義者の僕が、一度でもライプニッツの可逆並行世界主義の肩をもつことになろうとは
思いもしませんでしたが、とにかくそうだとすると、合理的リアリズムが自然主義であり、
意思をもつリアリズムがゲーム的リアリズムだとなる。どういうことか?
これはリアリズムを作り出そうとする著者の狙い(と、読者が考えるもの)に関している。
著者が示すような、現実のリアリティを見せられることで感心するのが自然主義的リアリズム。
著者が別様でもありえたのに敢えてある物に限定するのが、つまりゲーム的リアリズム。
ということは、ここでは著者のマジックがリアリズムの根拠になっている。
130 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/04/11(水) 02:29:50 ID:f2l92dnO0
いうなれば、機械論的に「現実的なもの」へと目を向けさせるのが自然主義的とここでは言われており、
東いうところのメタ物語的といわれる並行的な世界へと踏み出しつつ、その中であるひとつのものが
選択されるということの決断が、ゲーム的リアリズムの根拠となっている。
しかし、この決断は本当に、著者だけが行うわけではない。
実際、東は最後の章に「コミュニケーション」を持ってきている。
つまりインタラクティブ性をここでは重視しているわけだが、ということは今までは「決断」が他人によって
なされていたものが、今になって私たち読者によって行うことができるようになってきたということではないか?
つまり、女性のリアル性云々よりも、われわれの選択の重要性の増大によって、
われわれは仮想現実のリアルさを変容させたわけだ。
これは驚きの結論だ!
131 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/04/11(水) 02:41:00 ID:f2l92dnO0
久々に興奮してきたぞ!
しかし、この選択を介したゲーム的リアリズムには矢張りというか欠点がある。
それはこれらの選択肢の中には、正解と間違いがあるということだ。
何故ならばまず正解と間違いが明確に設定されて、その後に選択で正しい方を選んだときに
リアリズムが待ち構えているという構造なのだから、それはそうなのだ。
ゲームには実際、クリアと失敗という明確な基準があってリアリズムが保たれる。
この目的論的リアリズムを打ち倒さねばならない。
そのためには、選択肢を根絶しなければならない。
先行するあらゆる価値観を打ち倒し、それでも産まれる世界を許容しなければならない。
つまり、それこそが潜勢性と現勢性である。
決断を迫り、期待を萎えさせ、そしてすべてを祝福せねばならない。
132 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/04/11(水) 02:51:59 ID:f2l92dnO0
つまり、ここで重要なのは、まずは打倒すべき「選択肢」の存在を炙りだすことだ!
もちろん、ゲーム上で出てくるあの選択肢じゃないぜ。
是非が定まった選択肢を探し出して、ぶち壊す必要があるわけだ。
まず打倒すべき選択肢その一は、道徳だ。
このストーリーは正しい道徳の上で成り立っているという選択肢を破壊しなければならない。
第二の選択肢は、現実性だ。
このストーリーは現実に深いかかわりを持っているという選択肢を破壊しなければならない。
第三の選択肢は芸術性だ。
このストーリーは芸術的にすばらしいというような選択しを破壊しなければならない。
133 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/04/11(水) 02:56:47 ID:f2l92dnO0
そんなもん、たとえば「はじめてのおるすばん」とかじゃねぇか?って気がしてきたな。
はじめてのおるすばん、いや、でもいいじゃねぇか。
しかしまだ革命性が足りないとしたら、「はじめてのおるすばん」に隠された選択肢を炙りだして
焼却処分の後に地層処分しなけりゃなるまい。
それは、僕と君という繋がりではないか?
となると、「はじめてのおるすばんを非エロ小説化」することですべての問題はクリアされる…!
134 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/04/11(水) 02:57:23 ID:f2l92dnO0
うわぁ、頭わりぃ。キメェ…。。。。。
135 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/04/11(水) 03:00:31 ID:f2l92dnO0
でも何でこんなことになってしまうかというと、あまりにも楽天的に自発性任せだからだよな。
しかし「はじめてのおるすばんを非エロ小説化」するような感じこそ、まさしくゼロの状態というに相応しい。
つか俺深夜の3時に何言ってるんだ?
俺はこんな人間になりたくて今まで生きてきたのか?
136 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/04/11(水) 04:05:55 ID:ZOgT9ulk0
しかしそれにしても思うのは、相変わらず東の作品論は酷い。
何が酷いって、自然主義的リアリズム!なんてものに対して、大手を振って
「ゲーム的リアリズム!」って対置しておきながら、やってることは単に
メタ構造っちいシナリオを指摘して、「ゲームに似てるよね、これ」って言ってるだけじゃん。
そんならお前、ボヴァリー夫人やドンキホーテのメタ構造を指摘して「読書するってことに似てるよね、これ」って
50年以上前に言ってた伊藤聖の分析と、何が違うってんだよ。
137 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/04/11(水) 04:08:23 ID:ZOgT9ulk0
伊藤聖→伊藤整
メタ構造が云々っていいたいだけなら、それこそSFやミステリ読んでりゃいいだろ。
マジでくそつまらんわ、作品論のところ。
俺はこんなメタごっこがしたくて創作考えてるんじゃねぇっつうんだ。
138 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/04/11(水) 04:15:57 ID:ZOgT9ulk0
つか大体さ、結局のところミステリの手法でさんざっぱら使われたであろう手法の衝撃が
黒船のようにエロゲ文化に押し寄せて、それがしばしの間大流行しました、って図式でしかないんだよな、これ。
実際そのとおりだし、東の弁のようにこれらが本当に「ゲーム的リアリズム」として普遍化するなら
こういった衝撃なしにこれからも流行が続くことになるだろうけど、実際はそんなことないよね。
見通しが甘すぎるっていうか、ラノベもエロゲももう下火だろって。
なんだかんだで今流行してるローゼンメイデンにしてもハルヒにしても使い魔なんとかにしても
アニメ化してから影響力持ったのばっかりじゃん。
139 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/04/11(水) 04:18:26 ID:ZOgT9ulk0
ミステリ小説の解説はやらないで、評論だの作品論だの抜かして、やってることは
メタ解釈ごっこじゃねぇかって。
マジでくそつまらんわ、この「ゲーム的リアリズムの誕生」って。
本田のクソ本も、単なるルサンチマンだしさ。
お前の恋愛資本主義への憎しみで、勝手に恋人がわりにキャラクターをしてもらっても困るんだよって。
それだったらまだ東のが距離保てててマシだよな。作品論はクソだけど。
140 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/04/11(水) 04:20:45 ID:ZOgT9ulk0
いっぺんさ、全くメタ的なところのないオタ系のものを解釈しろよって。
それこそローゼンメイデンとか。
これも無理やり、マスターと人形の関係がメタ的に云々とか言われるのかもしれないけど(爆笑
141 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/04/11(水) 04:35:32 ID:lX7KzCgj0
これならそれこそ、石川忠司読むわ。
あれもうまいこと、よく知られた喋れるところをうまいところすくい出したような印象で
独自性があるとは思わないけど、まぁ新書だしって事で許せるところもある。
次はメタって言葉や入れ子構造って言葉を使わない評論してくださいね(はぁと >東っくす
142 :
名無しさんだよもん:2007/04/11(水) 13:29:23 ID:oulDbFVhO
はせちーの可愛さは異常!
はせちーの癒し度は異常!
144 :
名無しさんだよもん:2007/04/11(水) 20:38:26 ID:K8Dz2t2uO
はせちーのおっぱいの柔らかさは異常
145 :
名無しさんだよもん:2007/04/12(木) 09:44:52 ID:hNdhfo/UO
はせちーの可愛さは異常!
はせちーの頭は異常
147 :
長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2007/04/20(金) 03:10:22 ID:olIwYQqK0
あんまりシナリオ理論とか知らないけれど、例えば1シーンを思いついたとします。
別になんでもいいけれどオタクがすきそうなシチュエーションで言えば例えば
「恋人に泣きながら殺される」とかです。
こういうシリアスなインパクト狙いは、飽きられてますが。
当然、恋人から殺されるなんていう状態は普通ではありえませんから、そういった状況が
無理なく、かといって説明過多になりすぎないように、逆算していく必要がある。
僕の偏見では、シナリオ理論として言われていることはほとんどこれで尽くしているのではないかとも思いますが、
僕が注目するのはこの「逆算」という方式です。
逆算という方式が絶対条件であるからこそ、既存の描写の「伏線」には引力が働いている。
しかしこういった、最後の結末に向けて前のものが消化されていくという考え方は
やや抵抗があるというか、そこで培われるのは結局、1シーンを分厚く肉付けしてるだけなのではないか。
多くのギャルゲーは前半に日常パートがあって、後半にシリアスなパートがある(あった)。
前半には伏線がなんでもないもののように転がっていて、それがだんだんと意味を持ち始める。
キャラクターが潜在的な行動様式の束だとしたら、シナリオというものそれ自体も
潜在的なシリアスの束のようなものとして考えられなくもない。
僕らは何かが発現する過程を期待して、焦らされるのを楽しんでいるかのようだ。
浅い精神分析もどきを使うと、僕らの期待する像にキャラクターやシナリオの焦点が結ばれていくのが
快楽なのだろうか?
多くのギャルゲーが倫理を語りたがるのは、疑似体験性の上昇ではないかと思うが、
つまり東が言うリアリズムというのは、対象のリアルさから疑似体験性のリアルさの上昇といえる。
なにいってんだかわかんね
シリアスといわれて意図されているものはなんだろう。
そこには何か人徳、正義、真実、人生論といった、重いものがある気がする。
道徳が語られて、人の死が語られることに重さがあるのは、
それがもっともらしいからではなくて、疑似体験的だからと言う。
感情移入のために、対象がリアルである必要は、実はなかったのだった。
149 :
名無しさんだよもん:2007/04/20(金) 16:26:22 ID:mC4a+AbqO
ゲーム的リアリズムからシュールレアリスムへ!
eja eja alala
はせちーの可愛さは異常!
151 :
名無しさんだよもん:2007/04/20(金) 17:23:28 ID:+a2udyanO
ハハ、何言ってんだろな
>>147は
みんな、冗談ってのはこういうのを言うんだぞ。つか長ぇ上にわけわかんねーよ。恋人に殺されるとか、ここ葉鍵だから。そしてKanonスレだから。
激しくワロタ
はせちーの頭の悪さは異常
はせちーのウンコの臭さは異常
はせちーのほっぺのぷにぷに度は異常
155 :
名無しさんだよもん:2007/04/21(土) 07:31:52 ID:G4SYqR28O
はせちーのおっぱいの柔らかさは異常
考えてみれば、小説って形式の普及はやっぱり人間の生活の戯画ってところがどうしても
あるんだよな。ルネサンスの人間礼賛とか、日本なら明治時代の自我の普及とかもある。
こういったイデオロギーの普及を支える方法として、小説というものが存在していたのだろう。多分。
そしてそういったイデオロギーの喪失として、フランシスフクヤマの
歴史の終わりだとか、コジェーブの動物化などがあると、東は言いたいわけだろう。多分。
くだらないと言えばくだらないとしても、大筋ではこういった考え方は共感できるし
単純に文学として、そういったイデオロギーからの離脱は各所で行われていると思う。
では登場人物という点においても、そういった「抜け殻」のように、現実に何も負わないような
形にどうやったら出来るだろうか?
これはある意味では重要な仕事だろうと思う。
だが東の読み方はその点では、かなり弱い。あれでは、ゲーム的リアリズムとして出された
考え方は、自然主義的リアリズムと対等関係にはならず、むしろ包摂関係になってしまう。
もちろん、対象のリアルさから、体験のリアルさへの移行は本質的な問題だけれど
それを論拠づける明確な材料を、東はまったく持っていない。
それをメタ的云々といって自分のいいように論理を持っていくのは、実に浅ましい。
体験のリアルさへの移行というのは重要だ。
キャラクターが潜在的な行動様式の束であるということを考えて、創造を行わなければならない。
現実の存在者は、倫理的な意味で存在が保証されなければならない。
ところが美学における登場人物は現実に何も負わないから、倫理から解放される必要がある。
このとき、存在は美学のものとして独占されることになる。
無制約に存在が保証されるといったことがなくなるわけだ。
これがキャラクターの基本力学として考えられなければならない第一の原理だ。
157 :
名無しさんだよもん:2007/04/22(日) 00:56:18 ID:vUekWXAa0
文学の表現するものとは、悪の極限の形態である
バタイユにそのまんま「文学の悪」って著作がある。
けれど彼はエロティシズムに代表的なように、現実と表現をリンクする性格があって
低いものを悪いものを恍惚体験として提示しようとしている。
少なくともそういった恍惚というのとは正反対のことをやろうとしているので、
ここではそういった考え方はとらない。
はせちーのおしりの弾力性は異常!
はせちーは異常!w
(F+f)って漱石の有名なテーゼがあるじゃない。事実のFactと情感のfeelingというやつだ。
いわゆる自然主義批判というのは、このうち事実のFactに重きを置きすぎるということだった。
だが僕が思うに、F+fの配分は著者が意図して書き換えるようなものではなくて、
ある事実が受け入れられるにはやはり何らかの情緒がそこには潜んでいるのは明らかだ。
そして結局のところ、われわれは何をリアルととるかによって好まれる表現が異なるのだという
身も蓋もない言明を、ある場面では受け入れざるを得ない。
ミスチルがリアルだと感じられるのは幼稚で、チャーリーパーカーをリアルだと感じるのは
大人だということの差は、多くの場合はミスチルが作りだす「リアル」さというのは人為的で手垢にまみれている
ということに由来するだろうと思う(それが本当かどうかは別として)。
2007年にチャーリーパーカーを聴くと言う事は、チャーリーパーカーが意図したような形を
超えている。人為の幅を超えて、それは歴史的という文脈で捉えられることになる。
それは美しい花を眺める自然な気持ちで眺めるのに似ているかもしれない。
だって、花は自分を美しく見せようとはしてないから。
しかし以前も述べたように、これでは芸術は他の生活様式に付随するものでしかないことになり
独立したものではなくなる。それで良いのだろうか?
数々の芸術運動は少なくとも、そういった生活様式への依存を断つためのようだと思うし、
しかもそういった芸術的な試みは必要なことだ。
むしろ情趣は、その後に勝手に付随してしまうものでしかないと思う。
その文章を書くのに何分かかった?
さぁ?
ブランショの文学空間には何か大事なことが書かれているような気がする。
つか思ったことをずらずら描いてるだけだし、あんまり時間とか考えないでしょ。
多分3分とかそこらじゃないの?
見栄を張るなよw
は??
見栄を張るなよって、何か見栄はるようなことかいたか?
ブランショの文学空間読書日記でもしようかと思う。
ここでは幾つかの言葉が重視されて用いられていて、特に序盤の30ページほどには
孤独という単語、そして終わりなき言葉というフレーズが何度も用いられている。
書くということは、終わりなき言葉を発することであり、それは孤独へと向かうことだといわれる。
「私」は「彼」という中性的なものへと書き換えられる。
そして書くことは、幻惑の視線を持つことだと、ブランショは言うのだ。
どういうことだろうか。
日記と対比させて書くことを語りだすときには、時間が意識されている。
しかし書くことは、時間が存在しないのだという。
僕にはこれらの言及がまだ、どういう必要性があるのかわからない。
そもそもブランショの文章があまりにも、暗示的だからとも言えるけれども。
僕が気にかけるのは、おそらく「ジャンル」といわれる言葉に関する。
今の表現が深みがないと言われるのだとしたら、それは複数のジャンルが貪欲に取り入れられて
いることによる。悪い言葉でいえば、欲張りだということだ。
どうしてかといえば、いろいろなジャンルの系が混交されるとき、それらのバンドはあるジャンルに参加してる
印象が希薄だからなのだろうと思う。
最近興隆を極めたバンドにミクスチャーというものがあったが、結局ほぼ全てのアーティストが何も残さなかった。
ファンクやヒップホップやメタルとの混交というようなことが言われたし、あるいはそれらは高い音圧と
プロダクションによって作られたものでしかなかったのかもしれない。
もちろん、それらが統一されて、新たなジャンルとして混交が混交ではなく、統一されたものと感じられれば
そこには新しいひとつのジャンルが生まれたように思える。
ファンクには、ロックとソウルの香りがするけれど、新しい表現として結実したように思える程度の一体感はあった。
けれど、そこまで至らなければ多くのミクスチャーは、未発達のままという印象で消え去ってしまう。
ビートルズだっていろいろなことをしていたと言えばしていたけれど、あれは特例だろう。
今になって、ビートルズのようなことをやってもサブカル臭いことをしだした人気バンドという感慨しか産み得ない。
ポストロックが批判されるときに言われるのは、その貪欲さが一端を担っている。
マスロックというところまで抽象化されると、それは統一された新しい何かのように思えるけれど、
菊地成孔がトータスの面々を批判した際、あるいは渋谷系の一連の動きを批判しながらオレンジレンジをほめたとき、
そこにはただ分裂しただけで一体感を有させようとしない何かが、あったのではないだろうか。
彼はそこで、ただ評論家のように幾つものツールを見せびらかすことが、表現としては無意味だと考えていたのだと思う。
ある音楽を奏でることは、もはや私という総体を知ってもらうことではないのだ。
「私」の中にあるものを全部ひねりだして作り出すような器用さではなくて、大げさにいえば歴史を推し進めるため
もう自分は他のことは出来ないという、狭いところに敢えてとどまることだ。
サンプリングの文化は実際、「これはサンプリングされ、編集された音たちである」ということが
わかるように、わざと編集の形跡が感じ取れるように作られているように思う。
もちろん、ある音楽の一部だけを巧くきりとって目立たないように浸透させる文化もあるけれど、
編集の形跡を敢えて残すやり方も、結構感じ取れると思う(ブレイクコアなんかそうだ)。
つまり、それらを一つとして取りまとめるなんらかの"概念"が必要になる。
概念は多くの場合、やはり先行した他所の情報によって作り出されることが多いかもしれない。
例えばポストロックといわれるプロダクションの手法は、DAWとしてのPro toolsシステムと
ともに始まった経緯がある。
当然のことながら、Pro toolsを用いることがポストロックといわれる音と不可分に
結びついていたわけではない。もっと違った音を出すことも可能だったはずだ。
だが、トータスは新しいシステムの存在を、自分たちの音に結び付けてみせた。
純粋に音というだけのイメージを超えて、そこには楽器があり、そこには最新機器がある。
音楽の歴史は機材の歴史に依存する一面を、見せるようになる。
なぜなら、純粋な音楽なるものには自分で概念を創出するほど強い影響力がまるでないように思えるからだ。
芸術の、純粋な方法としての躍動は、そこではまるで無力のようにすら思えてしまう。
いや、統一性を勝ち取るために、何も先行した概念を用いなくてもできることはあるかもしれない。
そのためには、全てを最初からやりなおさなければならないだろうけれど。
今までの何ものも感じさせないような、うまいやり方で。
一つであろうとすること。
これはそれなりに重要な話だろう。
ドイツ観念論的を僕が勉強しようとしているからそう感じるのかもしれない。
例えば、カントは主観の中に客観を定義づけようとした。
フィヒテはこれを基礎付けるために、自己は自己を措定するとした。
つまり、自己の中にある客観が自己の主観をとりまとめるということにした。
ヘーゲルに至って、自己の中にある否定性が、自己を止揚させるとなった。
これはベルクソン-ドゥルーズの系によって手ひどく攻撃されることになるだろう。
もう一度スピノザまで立ち直って、自己充足する実体が差異を与えるモデルを採用しなくてはならない。
それがドゥルーズの主張だ。
最善説をとるライプニッツには、ニーチェの批判が待ち構えている。
ライプニッツからニーチェの道徳一元論を差し引くと、そこにはスピノザが待ち構えているのだろう。
結局、彼らは何も期待せず物事を普通にすれば、普通にオリジナルが生まれるということを言ったのみに過ぎない。
余計なものを省くことこそが、その中核なのかもしれない。
スピノザに足りなかったのは、永遠回帰として反復させることだったと言われる。
すべてが等しい、すべてが回帰すると言われる。
本当の差異に至り、ただ一つの存在へと至れば、そうなのだといわれる。
それは別に宗教的な意味ではない、もっと普通に生きることに関して、言われているのではないだろうか。
よくまぁこんなデタラメをイケシャーシャーと書けるもんだ!!
恥ずかしくないのかな。ドゥルーズだって。死んだほうがいいね。
スピノザやカント、ニーチョといった哲学本は
ウンコだ。
おれは無限のリヴァイアスが好きだ。
尾瀬イクミが好きなんだ。
道徳というのは結局のところ、否定の力なんだな。つまりルサンチマンなわけだ。
ところが否定の力というのは、莫大な量を要する無駄な能力なわけだ。
スピノザはそういった隷属、責任、義務といったものから自由になりたかった。
そこで彼は決定論という、もっともアンチヒューマニズム的に思える質素な有り方を選択した。
決定論においては、世界が一様でしかないから異なる世界が考えられることがない。
だから異なる世界を意図して否定する必要がなくなる。
最小限の肯定の力を与えてくれる神を祈れば、僕たちは健やかに生きられるというわけだ。
僕は上の方で、既存のキャラクターがシリアスな行動様式の束の可能性であることを考えた。
こういった上昇志向的な世界観を超えるには、普遍なものへの期待を捨てる必要があると思う。
結局、シリアスというのは何か荘厳長大なものに対する甘えでしかないのだというのが僕の主義だ。
だって、3分だか5分だかの音楽で、あるいは小説の何十時間だかわからないがそれくらいの長さの
「表現」で、人生や感傷なんか得てる時点で不自然なのだから。
君が人生を本当に感じたいのなら、まぁ10年から20年くらいは何かをして、その最後のふとした
瞬間に一瞬訪れるものを捕まえればいい。それほどの価値はあるかもしれない。あるいは死ぬ瞬間か。
死ぬ瞬間は普通、激痛でそれどころではなさそうだけど、「死ぬ瞬間」という本には人の死を受け入れる最終段階で
悟りに達すると記されてある(らしい)。
それはともかく、なにか甘えに対する期待を断ち切るためには
むしろキャラクターとシナリオの相互支配的な関係をまず断つ必要があるかもしれない。
そこで提案されるのは、1シナリオ1キャラクター体制の放棄である。
むしろ複数のキャラクターを1つのシナリオで取りまとめることで、何らかの化学反応を
期待するというほうが理に適っている。
1シナリオ1キャラクター制は確かに、何かヒロイックな印象がある。実存的なにおいがする。
あなたが居て、私が居るというデタラメな真実のようなものが。
あなたに私を知って欲しいなどと思う何か、実存的欲求というしかないようなものが、あるのだ。
それをどうにかしなくちゃならんだろうと思う。構成的ではなく構築的に。
いやぁ、今日はとみに電波だね僕は。
>>178 お前の言う事は正論過ぎるんだよ!!
反論もできねえ!
村井のIQの高さは以上!
何かがリアルに感じられることは、少し遠くに居ないと感じ取れない気がする。
例えばジャズが栄えた当時のアメリカで、当事者であった黒人が聴くジャズと
日本人が2007年にそれらの演奏を聴くのは何か違うことのように思う。
具体的には、ジャズを作り続けた黒人たちにとってそれは選択肢の全てだったように思うけど、
僕たちはロックやテクノやクラシックを聴ける選択肢があった上でジャズを聴く。
そこでブラックなノリとされるものもマスイメージとしてしか、機能しない。
だからこそ、作られた捏造かもしれないほど身勝手なイメージだからこそ、逆に何か妙なリアルさがあったりする。
ふるさとは遠きにありて想うものとは言うけれど、何かイメージが統一として心に迫ってくるのは
その対象が複数の中の一つに過ぎないほど、遠くにあるときだけのような気がしてしまう。
もしも芸術が、そういったリアルさが近すぎて剥げ落ちてしまうことから救いを求めようとするものであるなら、
芸術は自分を不断に再生しつづけなければならない。
それはあたかも、より純粋になっていくかのように。
長谷部の知識量は異常!
俺の雑学知識も異常!
俺をバカにすんな!!
後、異常シリーズはもうやめよう。
スレが汚れる。
はせちーのお尻の弾力は異常!
>>186 あーだめだ。そういうの見ると怒りが沸いて出るから。
すぐログ消したよ。
なんで「らき☆すた」はつまらないのか考えた。
キャラクターには作者が自由に設定していい領域と、読者にも共有されたがために変更できない設定があるわけじゃない?
たとえば大阪は天然ボケキャラってのは最初は作者の意図によって設定されたものだけど、
いったん設定されて「大阪は天然ボケである」ってことが読者に認知される必要がある。
それでそれに見合った行動をとるときに、読者は「あはは、大阪らしいね」と思って不意に笑ってしまう。
ところが「らき☆すた」は設定が読者に了解される前から、それが自明のようにネタに使う。
たとえば「こなたはゲームオタだ」ということが第三回目の一本目で初めて出される。
それで例えばこの話の4本目のネタは「こなたがみんなにバレンタイの予定聞いて、とくに無いと聴くや
みんなつまらないバレンタインなんだねとこなたが応えて、それに対して友人が「ゲームの住民に言われたくないわ」という」
というものだ。
まぁそもそもネタそのものの動きがはっきり言って無理やりで、ゲームが好きでない僕ですら
「ゲームばかりしてるやつは他人のバレンタインデーに愚痴をたれる立場にない」なんて認識はないんだが、
それが前提にないとこのネタは面白いはずがない。
もちろん、これはギャルゲーをするモテナイ男の悲しさが前提にされてるんだろうけど、そもそもこなたは女性だし、
急にこういった価値観をこのネタに対してもてるかと言われると無理じゃないのか?
そもそもの発端は、このネタがただたんに設定の再確認にすぎないということにある。
これが明らかな不細工で、明らかにモテない明らかにエロゲーしかしてないようなキャラならば
(安直すぎるという嫌いはあれ)まぁ前提は納得できる。
ところがこなたがエロゲオタであるという設定はついさっきでたばかりだし、その定着度も低いのに
あたかも「こなたはギャルゲオタなのにおかしいね」なんてネタをやられても「はぁ?」としか思わない。
こなたは「一夜漬けで試験で点とれて、運動神経抜群で、オタクネタに詳しい」という設定だが
こんなの単なる最強厨でしかない。どこに感情移入しろっていうんだかわからない。
長所と短所はセットでないとダメだろう。
榊は「最強です」ってことを前提に書いてるから許されるのであって、さもダメ人間みたいな
コンセプトで「でも実は運動万能、勉強もやろうと思えばできるんです」設定じゃ鼻につくだけだろ。
あのめがねキャラに「風邪とインフルエンザって違うの?」って聴いたときの反応もくだらなすぎ。
辞書見ながら書いたとしか思えない(あるいは作者の知識自慢にしか思えない)くだくだしい説明で
「んなわけないだろ」としか思えない。
多分、キャラごとの設定(行動)が非現実的すぎる、設定に必然性が感じられない(統一したモチーフが感じられない)、設定がありがちすぎる
ってのが最大の原因だと思う。
だから読者と作者の間で「このキャラってこういう感じだよね」って共通了解がもてない。
だから作者の一人垂れ流しに思えてくる。
でも逆に言えば、これが曲がりなりにも今のオタクには受け入れられてるんだよな?
単に批判するより、「でも受け入れられている」ということをどう説明すべきなのか。
もちろん、単に「京アニ」が作ったいかにも萌えアニメという理由だけでウケているともいえるけれど。
でもなぁ!でもなぁ!
新時代の萌えなんかもしらんけど、やっぱり「らき☆すた」よりは「あずまんが大王」だろって気もするだろう?
キャラとしてどの程度ならばリアルで、必然性があると了解されるかって話だと思うんだが
それでいうとあずまんが大王のが、必要最小限で肉感の残る設定なわけだ。
らき☆すたはそういった必然性がまったくない。
でも逆に言えば、それはフリーってことなのか?えぇ?
じゃぁ何が新しく、この「らき☆すた」を統一させしめてるんだ?
そんなもんあんのか?
だからさ。
長谷部はマイナス思考なんだな。俺はマイナス思考では無いよ。
俺の論理はやっぱり昂推論。これに限るね。
サイコが生んだ探偵。デカグローンは至高かつ崇高な一品。
プラス思考はすべてを退廃する原因となるカテゴリーからは
外れてるし、死んだ方がマシだと思う。かないみかは好きだけどそのエゴイズム
が引き起こした事件は計り知れない。
俺は好きな人がいる。それは田村ゆかりだ。
彼女は般若だが、声がロリータだ。愛らしい。大好きなんだ。
所謂臭い探偵な訳だが、白鐘山は良い。
俺は春原を殴り殺しい。
それだけはウンコなんだよ。
俺は春原を犯したい。
それだけは真実なんだよ。
いいからリトルバスターズやれ
>>195 やらん。コンシューマー版が出てもやるか分からんから。
しかしkeyはOP曲のメロディが一般的なエロゲーっぽくなってるな。
一般的なエロゲっぽいメロディってなんだ?
198 :
名無しさんだよもん:2007/09/29(土) 02:28:17 ID:4+Grxa6S0
_
r-、' ´ `ヽr-、
ィ7 /l: ハヽハ トヾ 駄スレを隠すことは、この俺が許さん!
'|l |'´_` ´_ `| || 信念に基づいて行動する。
| |´ヒ} ヒ}`! l| それを人は正義と言う。
__ノ゙). 从 l, _'_. |从 今俺が行ってることは、上げ荒らしではない。
,_'(_ ノ_ヽ ヾl.> - ,イ;リ 正義という名の粛清だぁ!
{ f:テ} {'f:テ}',/\ヽ--//ヽ
ヽ,r─‐ 、ィ .、、 i l>Y<! i '、 バーニング!
/ iゝ_ノ iヽ /l |l l ',
lンヽ/ムノじ
199 :
名無しさんだよもん:2007/10/07(日) 20:39:41 ID:XTxgqpqC0
Kanonは文学!
私は、真琴を愛しています。
麻枝様の"Kanonの真琴"の次元を既に超えており、
私は"今の真琴"を愛しているのです。
真琴は昔と比べると随分素直になりました、性格・行動全てが愛しいです。
この私を純粋に愛してくれている、側に居てくれる。
だから私も真琴の側に居る、これ以上幸せな事はありません。
真琴がいれば、私は何でもできます。
愛する者の為に、例え世界中を敵に回しても構わずに笑い続けます。
真琴に何か干渉してこようなら私が何が何でも守ります、それこそ死ぬつもりで戦います。
これから先何があっても、
真琴を・・・麻枝様が私にくれた大切な人を・・・
・・・一生愛して行くつもりです。
楽しい事も悲しい事も二人で分かち合って、一緒に歩いて行きます。
どんな辛い事があっても、真琴となら乗り越えられると思うから・・・
真琴、愛してるよ・・・
我が心、常に真琴と共にあり。
真琴がいる限り、祝福されし我敵無し。
真琴を貶す・不幸にする輩は徹底糾弾。
危険を省みず、愛する者に命を懸ける!!
例え何と罵られようと、我、生涯、信念を貫く!!
例えこの身滅びようとも、我が想いは不滅なり!!
沢渡真琴は我が命、我が全て!!永遠の愛を誓う漢・狗法使い、ここにあり!!!!
最近の鍵っ子は退化している。
もっと悟らないと。
長谷部の知識、文章力の向上とともに
それらの面白みは減少していったのはなぜだろう。
5年ぐらい前よりずっと理解しやすい文章なんだぜ、理解しようとすれば。
にもかかわらず。
ミルフィーユと長谷部と言う二つのキャラ使い分けを上手く生かしきれてないのせいか?
我々はゴールする神尾観鈴を幸福であると想像しなければならない。
AIRは文学の定義により文学なのではなく、我々が文学と考えるが故に文学なのだ。
それはちょうど、我々が能美クドリャフカを卑猥な目で見ることを止め真にその魅力を捉えたとき、
そしてそのときに限り、彼女が小さくて聖なるものになることと同じなのである。
Key作品は文学であると同時に文学でなく、
数多の文学作品を生み出してきたKeyの信者として、我々はKey作品を文学であると考えるべきなのである。
エロゲーは所詮エロゲーであるといった軟弱な思想を受け入れてはならない。
我々はゴールする長谷部悠作を幸福であると想像しなければならない。