今から投下させて頂きます。
タイトル「傷痕」
題材としたゲーム「MOON.」
内容「MOON.本編終了後のもの」
レス数「11レスを予定」
「……まぁ綺麗さっぱり消すという事は不可能ですが、目立たなくさせる事は可能です」
お医者様の、冷静だが無味乾燥な言葉が診察室に響き渡る。
「ありがとうございます」
私は頭を下げてそこを後にする。その後、受付で精算を済まして病院を出る。
それにしても消費税というものにはまだ慣れない……そんな事を言うと郁未さんにまたからかわれるだろうか。
春の日差しを浴びながら私は、そんな事を考えつつ道を歩く。
風に乗って散る桜の花びらが綺麗だ━━そんな風景にしばし見とれる。
今更ながら別世界に来たという印象が強い。
FARGOでの生活と、今の世界での生活との乖離が嫌でも私にそう認識させる。
……お母さんを追ってくるまでは、自分もこの世界の住人だったのに。
そんな過去がまるで無かったかの様に、私の中から消え去っている事に気付く。
かろうじて思い出せるのは、暖かかった春の日差しと優しかった頃の母の笑顔だ。
だが、それも幻なのかもしれない。
幼い頃の記憶はあいまいで不明瞭だ。
少なくともFARGOで出会った母は、自分の記憶の中にいる母とは別人だった。
FARGOでの母は……暖かかった春の日の記憶と共に私の中に残っている笑顔とは、別の顔をしていた。
自分の子を手にかけようとした━━そんな狂気の目をしていた。
郁未さんに電話をかける用を思い出し、公衆電話を探す。
昨今は携帯できる電話という物もあるらしいが、私には用無しだし何より使いこなせない。
「すぐに慣れるようになるよ━━」郁未さんの明るい声が心の中に響き、そして私を勇気づける。
やっとの事で公衆電話を見つけ出し十円玉を入れる。手に持ったメモ用紙に書かれた番号を見ながらボタンを押す。
トゥルルルルル、トゥルルルルル
呼び出し音が数回鳴り、その後電話が繋がる。
「もしもし、あっ、葉子さん。ごめんね、今ちょっと忙しくて」
郁未さんの声と、その後ろからの騒がしい音が電話口から漏れてくる。
「いえ、病院に行ってきた事を報告しようと思っただけですから」
私は、今日あった出来事を手短に伝える。
「そうなんだ。あそこのお医者様、名医だって評判みたいだから」
「ありがとうございます」
「それよりごめんね、今忙しくて。後でかけ直すから」
「いえ。また今度で構いません」
「うん、ごめん。今度また一緒にゲームセンター行こうね。それと晩にでもかけ直すね」
「はい」
「じゃ、ごめんね」
カチャリ。
受話器を下ろす。
最近の郁未さんは何だか忙しいみたいだ。それでも私の事を気にかけ、色々と面倒を見てくれる。
中々この世界に馴染めない私を何とか助けようとしてくれる。
改めて『友人』というものの大切さ、有り難さに気付く。
夜。
仮の住まいとして、とりあえず借りたマンションの一角が今の私の『家』だ。
と言っても私一人だけれど……
郁未さんの友人で、晴香さんという方が懸命に探してくれた場所。
郁未さんは「自分のウチに来ない?」としきりに誘ってくれたが、迷惑だし、何よりいつまでも人の家に厄介になるという訳にもいかないので断った。
だが、結局は郁未さん達に迷惑をかけ続けているのかもしれない。
長い間、俗世間と隔離された場所にいた自分は、自身の居場所すら自分ひとりでは確保できない様になってしまっていたらしい。
改めて過ぎ去った時の長さを感じてしまう。
そう思って、つい時計に目を向かわせる。
もう夜の九時。夕ご飯がまだだった事に気付く。
冷蔵庫を開け、残り物の惣菜を机に並べる。
トゥルルルルル、トゥルルルルル
そんな事をしているうちに不意に電話が鳴る。ここにかけてくるのは限られた人達……郁未さんと郁未さんの友達、晴香さん、由依さん。今は多分郁未さんだろう━━夜にかけてくると言っていたし。
「もしもし」そっと受話器を取る。
「あっ葉子さん、私、郁未」
夜でも太陽の様に明るい声。
「はい」
その声に静かに返事をする。
「今日病院行ってきたんだよね。どうだった?」
単刀直入に今日の事を聞いてくる。
「はい。『綺麗さっぱり消すという事は不可能ですが、目立たなくさせる事は可能』だそうです」
私は、昼間自分に言われた事を電話口に繰り返す。
「そうなんだ。良かったね、って言っていいのか分からないけど良かったね。やっぱり女の子だもん、そういうの、ない方がいいよ」
太陽の様な明るい声ではなく、少しトーンの落ちた声。
「ありがとうございます」
「ごめん、余計な事だったかもしれないけど……」
いつしか郁未さんに言われた言葉を思い出す。「余計な事かもしれないけど、お医者様でいい人知っているから……女の子だもん。やっぱりそういうの、ない方がいいよ」
いつもは明るい郁未さんが、今日の様に寂しげに話す様を思い出して心に痛みが走る。
「大丈夫です。もう、気にしていませんから」
そんな彼女を気遣う気持ちもあってか、そう返事をする。
「それならいいんだけど……それでどうするの?葉子さん」
少しは元気を取り戻してくれたのか、先程よりはトーンの上がった声で私に尋ねてくる。
「次回の通院時に返事をしようと思っています」
「次回っていつ?」
「来週です」
「そっか。来週までゆっくり考えて結論出してね。女の子だもんね」
「はい」
郁未さんがやたらと『女の子』と強調するのが何故か可笑しくて、つい笑いながら返事をしてしまう。
「えっと……私、今何か変な事言った?」
「いえ、何でもありません」
「それならいいんだけど。じゃ、もう切るね」
「はい」
「困った事があったら電話してね。後、ううん、何でもない。じゃあね」
カチャリ。
会話を終えて受話器を下ろすと、辺りに静寂が戻ってくる。
すると、急に睡魔が私を襲う。
……今日は病院へ行ってきたので、少し疲れたのかもしれない。
C棟に居た頃は周りに人も多かったが、A棟に移ってからは、他人と接触する機会すら殆どなかった私にとって、人の多い場所はまだ慣れない場所の一つだった。
机に並べた惣菜に目をやったが、食べる気力も沸かずベッドへと倒れ込む。
窓から差し込む月明かりが頬を照らすのを横目で見ながら、私は眠りに落ちていった……
数日後。
たまには外に出ようと思い、私は道を歩く。
普段は用事以外ではあまり外出はしないのだが、それでは郁未さん達に色々と言われるので、用がなくても今日の様に少しは外出する様にしている。
数日前、病院からの帰り道に見た桜はもう殆どが散ってしまっていたけれど、それでも残り少ない花を咲かせた桜が懸命に生きている様に感じられ、私の心に強い印象を残す。
眩しい陽光に目を細めながら私は、そんな風景にしばし心を奪われる。
━━これから私はどうやって生きていくのだろう?
そんな、突拍子もない疑問が頭を過ぎる。
今は郁未さん達に色々と頼ってしまってはいたけれど、いずれはひとりで生活し、そして今までお世話になった分も皆さんにお返しをしなければならない。
それが「こっちに慣れるまでは私達を頼って」と言ってくれた郁未さん達への、感謝の気持ちを伝える方法だからだ。
だが、この世界に未だに慣れない私にとって、それは遠い未来の事に感じられた。
体は歳相応に成長はしていても、中身はまだ子供のままなのかもしれない。
そんな風に、つい自嘲気味に考えてしまう。
……いけない、こんなんじゃ。
つい思考が暗い方に向いてしまう今の自分を叱咤激励する。
「そういう時は難しく考えない事ね。まず目の前にある問題から解決する。そして次に進めばいい、OK?」
郁未さんの友人、晴香さんがいつしか言っていた言葉。
目の前にある問題
それに私は集中する。
……そういえば、数日後にまた病院へ行き、そして返事をしなければならない。
目立たないけれど、注意深く見ると残っている━━そういうものは今後『生きていく』上でも何かと障害になるらしい。
私にとってそれはもう、過去の出来事のひとつに過ぎないのだが、そういうものらしかった。
だが、その事を考えると、私はまた暗い気持ちになる。
いくらもう『過去の出来事のひとつ』と思ってはいても、それは辛い過去の一コマなのだから。
我が子を手にかけようとした母親━━それを思い出させるものだからだ。
いつしか私は、あの病院の前に立っていた。
白くて大きい、けれど人工の物独特の、温かみのない建物。
あまりここに来たくはないのだけれど……
普段用事といえば、今は病院への通院が主だからだろうか、つい足が慣れた道を歩いてきていたらしい。
返事は次回の通院時━━
それはもう数日後に迫ってはいたけれど、私はその事を極力考えない様にしてきた。
やはり過去の事とはいえ、嫌な記憶には違いないのだから。
「やっぱり女の子だもん。そういうの、ない方がいいよ」
郁未さんはそう言っていた。今後生きていく上で障害になるかもしれない、そうも聞いた。
もう過去の出来事に何の思い入れもない自分にとって、お医者様への返答は決まっているのかもしれない。
だけど……
どうしてだか、私の心の中にある『何か』がそれを阻む。
答えを出すことを拒む。
何故?
分からない。
考えても答えが出ない。いや、考える事自体に拒否感が付き纏う。
そして心が痛い……
今までは回答を出す事を先延ばしにしてきた。けれど、それももう数日の猶予だ。
ならば早く決めなければならない。
悩む事はない筈だ。答えは決まっている筈。
けど……
思考が、頭の中を堂々巡りしてしまう。
決めなくちゃ、いけないのに……
決められない。その事を考えると辛い。
どうして?
過去は過去である。どんなに辛い過去であっても、それはもう過ぎ去った時間でしかない。そう自分の中で納得し、結論を出した筈だった。それに対する思い入れは、もうない筈だった。だけど……
不意に視界がぼやけたかと思うと、冷たいものが私の頬を伝う。それが涙だと気付くのに多少の時間を要する。
……どうして、泣いているの?
ぼんやりとした思考の中、そんな疑問が頭を過ぎる。
自分が何故泣いているのか、こんなに心が痛むのか、理解できない。
その場に呆然と立ち尽くす私の目の前を、見知らぬ親子が通り過ぎた。
お母さん?
不意に浮かぶ母の顔。
暖かかった頃の母、FARGOで再会した時の以前とは違う母、そして私を殺そうとした時の狂気の目をした母。
そんな母の顔が、一瞬の内に私の中に浮かんでは消えた。
急に居た堪れなくなった私は、そこから逃げ出す様に走り出す。
懸命に走って走って、自分の家に辿り着く。
ドアを開け、転がり込む様にその中に入る。
鼓動が激しく胸を打つ。
急に走ってきたせいで、息は切れ、足は震えが止らない。体が熱い。思考が定まらない。
けれど、そんな私の体の中で一番熱を持っていたのは首筋だった。
今では、母と私とを繋ぐ唯一のものだった……
その夜━━
昼間は久しぶりに全力で走ったせいか、家に辿り着いた時には疲れてベッドに倒れ込んでしまった。
そのまま、定まらない思考が落ち着くのをぼうっと待っていると、いつしか辺りは暗くなっていた。
ベッドに寝そべったまま私は、天井を見上げつつ今日の出来事を考える。
……どうして私は泣いてしまったのだろう?
そんな素朴な疑問が、また頭の中に浮かぶ。
首筋の傷痕を消す、目立たなくさせる事はそんなに大げさな医療行為ではないとお医者様から説明を受けた。
母親の事を今でも思っている訳でもない。むしろ憎んですらいる。
自分勝手な理由で我が子を手にかけようとした母だ。客観的に見て酷い親だし、私もそう認識している筈だ。
それに今は郁未さん達がいる。近くに大切な友人がいる。いつも私を気にかけてくれる人達がいる。それで充分な筈だ。
……どうして母の顔が浮かんだのだろう?
今まで、思い出そうとしてみても曖昧にしか思い出せなかった母の顔が、不意に走馬灯の様に私の中に浮かんでは消えた。
まるで分からない。
自分が何を思っているのか。
━━結局、どうするか答え、出なかったな。
数日後に迫ったそれを、今日決める筈だったのに……
今までは、その事を考えない様にしてきた。今日考えて、そして結局は結論が出なかった。
悩む事はない筈なのに……
郁未さんが背中を押してくれた。過去の出来事にもう何の思い入れもない。
だが、今日の出来事でまた分からなくなった。
窓からさす月明かりが、以前の様に私の顔を照らす。
キラキラと光る雫が、頬を流れているのに気付く。
━━また、泣いてしまった。
何がそんなに悲しいのか、それすらも分からないままに私はまた涙を流す。
首筋の傷痕、絞められた時に出来た痕を消す。母が私にした行為の痕跡を消す。ただそれだけの事。
……悲しい。
それが悲しかった。
どうしてだか分からないが、無性に辛かった。
嫌な思い出を消せる筈の行為。それを行う事を何故か躊躇わせた。
もう自分が分からなかった。母を憎んでいるのかさえも。
……お母さんならどう言うだろう。
天井から窓に視線を移し、母に尋ねてみる。
自分が行った罪を悔いて、私に謝ってくれるだろうか?お医者様に行って治療を受けろと言ってくれるだろうか?
だが、そんな事を考えても答えてくれる人がいないのは解りきっていた。何故なら、母はもういないのだから。
自嘲気味に笑おうとするが上手く笑えない。むしろ切なさだけが募っていく。
━━悲しい
お母さんがいない事が悲しい。
どんな親でも、いてくれるだけでよかった。例え我が子を手にかけようとした親でも、いてくれさえいれば、いつしか自分のした行為を悔いてくれるかもしれない。あの時はどうかしていたと謝ってくれるかもしれない。
もういない母。
それが、悲しかった。
月は何時までも明るく光り、この真っ暗な部屋を照らし続ける。
いつしか私は、うつらうつらと夢の世界に落ちていった……
夢の中で私は幻影を見る。
それは、幼い自分が母に首を絞められている場面。
それを、今の私が遠くから眺める。
狂気の目と、苦しそうな目。
それだけがやけに印象的に映し出され、私の心をかき乱す。
……やめてっ、お母さんっ!
首を絞められた私は、懸命にもがきながら目に涙を湛えている。
そして……
ガンッ!
耳にこびりつく嫌な打撃音と、崩れ落ちる母の体。
返り血の付いた幼い顔。
何処からともなく聞こえる赤い月の声。
━━過去。
そう、これは実際に起こった過去だ。それを、今の自分が遠くから眺めている。
辛い。
嫌な過去。
消し去ってしまいたい、嫌な記憶。
けれど今の私は、その過去の痕跡を消し去る事を戸惑っている。
どうして?
分からない。
自分の気持ちが分からない。
……そして、それからの私は、FARGOでの鍛練に邁進する生活を送った。
実の母が我が子を殺してまで手に入れようとしたもの━━不可視の力。
それはいつしか私にとって、FARGOの教義と共に『絶対のもの』となっていた。
そして私はその力━━絶対のものを手に入れる為だけに生きる人間となった。
だが……
一日の鍛練を終え、自分にあてがわれた部屋に戻りベッドに入ると、私はいつも泣いていた。
泣きながら、布団の中に潜り込んだ。
母が、自分を殺そうとした事を悲しんで……
母を失った事を悲しんで……
━━懐かしい記憶。
今まで忘れ去っていた、過去の映像。
そうか。
そうだったんだ。
眠りから覚めた私は、月明かりを見つめながら、その事に気付く。
失いたくなかったんだ。私は━━
母親の事は嫌いだった。自分を手にかけようとした母なのだから。だが、同時にもうこの世界にいない事が悲しかった。例えどんな親でも、いてくれさえいれば憎しみや怒りや悲しみをぶつけられる。母との繋がりがありさえすれば……
そしてその私に残された唯一の母との絆が、この首筋に残る傷痕だった。
数日後。
病院での検査を終えた私は、公園で郁未さん達と待ち合わせる。今日はゲームセンターに遊びに行くのだそうだ。
まだ人ごみに慣れない私を気遣ってか、そこに遊びに行くのは平日の午前中が常だった。
もう、あの桜は全て散ってしまっていたけれど、新緑の息吹きを湛え芽吹く草花達が美しく、その風景にしばし見とれる。
「葉子さん、待った?」
そんな私に、郁未さんが声をかける。
「いえ。少し前に着いたばかりですから」
それに答える私。
「葉子さん、お久しぶりです。今日こそは、負けませんからねっ」
いつも元気な由依さんの声。
「由依。アンタはもう葉子さんに勝てないでしょうに」
その由依さんに答える晴香さんの声。
「そんな事ありませんっ。五回に一回ぐらいは……」
「それって、気を使ってワザと負けてるんじゃない?葉子さん」
「ち、違いますよねっ。葉子さん」
「はい」
友人に問われた私は、そう返事をする。
今はこの時間が一番楽しい。術後も特に問題はなく、最近は検査ももう様子を見るだけだった。
「さっさっ、早く行きましょ━━」
いずれはこういう時間も減ってしまうのかもしれないが、それは、今度は私が皆さんにお返しをする番が回ってきた時なのだ。それまでは、この時を大切にしたい……
「やっぱ葉子さん、美人よねぇ。どこかの貧乳とは大違い」
「むっ、もう貧乳呼ばわりしないで下さいっ!少しは育ってますっ!」
「はいはい。でも、もう近くから見てもまったく分からないわね。痕」
「うんうんそうそう。ねっ葉子さん。あそこのお医者様、名医だったでしょ?」
「はい。少し化粧で隠してはいますが……」
「うん、もうこれじゃあ全然分からないよ。良かったね、葉子さん」
「はい……」
結局、私は治療を受ける事にした。母との唯一の絆を消す事に躊躇いがまったくない訳ではなかったが、母との繋がりを無意識にでも求めていた自分から前に進みたかったから。
少なくとも今の私には、一緒に歩いてくれる人達がいるのだから……
「じゃあ、みんなで今日も遊びまくるぞー。レッツゴー!」
「はい」
「……って郁未、今さらレッツゴーはないんじゃない?」
「そうです郁未さん、ババクサイです」
「ムカッ。乳があんまり育たないお子様よりマシっ」
「ってうわっ!胸は関係ないじゃないですかぁ」
「ははっ」
自分がこれから何処へ向かって、何処へ進んでいくのか分からない。月明かりの晩にまた、傷痕を思い出して泣いてしまう時があるのかもしれない。だけど、それでも前に進んで歩いて行けるだろう。
後ろを振り返る事があっても、それでも、目の前にはかけがえのない人達がいるのだから……