「こりゃ見えねえか……」
闇の中を凝視して、青年はぼそりと呟いた。
今は深夜。セリオの頼みを聞き入れた彼は、村から延びる一本道までセリオを連れてやってきた。
だがいかんせん、灯りを持って来なかったので、歩くことすらままならない。
無灯は村の者に見つからないための手段であったが、
道が見えなければ本末転倒、案内することは不可能であるかに思われた。
しかし、セリオは黒の空間を指差すと静かに言った。
「ここからあの大樹までが比較的通りやすい一直線の道。
それより向こう側は曲がりくねった本当の獣道……というところでしょうか」
「な……あんた、見えんのかよ!」
「はい。あの木のあたりまでなら、一応は。
大樹に注連飾りらしきものが巻かれていますが、あの木はご神体か何かですか」
「あ、ああ……うちの村の言い伝えじゃ、ここいらの森で一番でけえあれに、神さんが宿ってるんだとよ。
つーか、そこまで見えるのかよ……。すげぇな……」
先刻セリオの瞳から発せられていた光は、今は消えており、見た目は普通の状態と変わらない。
光を完全に遮断された物置内と違い、屋外では星の光を利用できるため
セリオは自ら赤外線を照射しなくてもいい、パッシブタイプの暗視モードに切り替えていた。
とはいえ、常人にはどちらの環境でも見えないことに変わりはない。
暗闇の中でセリオが景色を正確に把握したことは、青年にとってかなりの驚きであった。
セリオは天辺から根元まで一度視線を滑らせた後、大樹に向かって歩き出した。
足元に注意すら払わず、闇など関係ないかのようにつかつかと歩を進める。
「っておい、見えるったってそんな早足で……うわたっ!」
青年はセリオの足取りを心配し、後ろから引き止めようとしたが、
逆に慌てた彼の方が、木の根に足をとられ、つまづいてしまう羽目となった。
セリオは歩きながら周囲の地形を確認した。
なるほどかなりの獣道で、人が通るのに適しているとは言い難い。
他に道らしき道も無く、青年が言ったとおり、敵がこの場所以外から侵入することは無いように思われた。
大樹のふもとに辿り着くと、セリオは木を見上げ、幹に触れた。
大樹は両手を伸ばしても余るほどの直径で、枝ぶりも太く、見上げれば先端は遥か上空にある。
そうなるまでに至った年月に思いを馳せれば、村の人間がこの木を祀るのも頷ける。
そんなことを考えていると、後ろでぜいぜいという呼吸音がした。ようやく青年も追いついたようだ。
青年が自分のすぐ傍までやってきたのを止んだ足音で確認すると、セリオは青年の方へ振り返った。
「……この道幅の狭さでは、せいぜい騎馬一頭分が通ってやっとというところでしょう。
こちらは人数で劣りますが、ここで実質一対一に持ち込めば、数の不利を打ち消せます。
少なくとも、開けた村で戦う場合と比較して、囲まれる危険性はありません」
青年は呼吸を整えるために少々間を置いて、それからようやく相槌を打った。
「はー……、そりゃいい考えだな。
もし道じゃねーところを突っ切る奴がいても、草を縛って転ばす罠でも作っとけばいいわけだしな。
あんた、結構やるじゃねぇか。………………あ、でもよ」
「……何か問題でも?」
「囲まれるってことはなくてもよ、一度道を開けちまったらおしまいなんじゃねぇか、それ。
タイマンになっても勝てる保証が無けりゃ意味ねぇっつーかさ。そんな強ぇやつ、うちの村にゃいねーぞ。
自慢じゃねーが、俺が一番……いや、俺だって向こうに強ぇ奴いたらタイマンでも勝てる自信ねーし……」
「その点でしたら問題はありません」
青年は、ふうん、と首をかしげて次の言葉に耳を傾けたが、セリオの口が開かれた時、彼は眉をひそめた。
「私が戦います」
「なっ……」
一呼吸分、口をパクパクと動かしたあと、声を荒げる。
「馬鹿言ってんじゃねぇよ。そんなほっそい腕で男相手に勝てるわきゃねぇだろ。
だいたいあんた、うちの村とは何の関係も……っておい?」
反論が終わる前にセリオは青年に近寄ると、何故か彼の手首を掴んで目の高さに上げていた。
「ちょ、何を」
そして、
「失礼します」
と断った後、並ならぬ力を込めて握りこみ、圧迫を開始する。
「んがっ?!」
青年は痛みで体をバタつかせ、振りほどこうともがく。しかしセリオはまるで凍ったように、ピクリとも動かない。
掴まれた手は振り払うどころか掌を開くことすらできず、血の巡りを止められて、とうとう赤く変色しだした。
「うっ……が……ぎっ…………〜〜〜〜〜〜〜〜っ!」
青年が膝をつき、身体全体が縮こまった時、ようやくセリオは手を離した。
「うはっ! はぁっ、はぁっ、はぁっ……な、何しやがんだ!」
「今ので最大握力の半分です」
「……な、何ぃ〜!?」
「ご覧の通り、戦力的には何の問題もありません。ご心配なく。
それと、作戦……という程のものでもありませんが、少しばかり手段を思いつきました。聞いていただけますか」
そうして、セリオはその“手段”を話し始めた。
力の差を見せ付けられた青年は、なんともいえない表情で、ただ黙ってセリオの話を聞くしかなかった。
◆
セリオの縄が解かれる数刻前に時間は遡る。
山道を抜け、街道を走っていたトウカは、ある地点で足を止めた。
(……どうする……)
布製の地図を取り出すと、大きく息を吐き、乱れた呼吸を整える。
トウカが立ち止まったその場所は分かれ道だった。一方の道は引き続き街道へ、もう一方は竹林へと続いている。
街道はなだらかで歩きやすいが、地図上において皇都までの道は
まるで迂回するかのように半円を描いており、行けばかなりの大回りとなる。
逆に竹林は、人の立ち入らない険しい森が林の向こう側に存在するが、
それすら一直線に突っ切れば、最終的な距離は短くてすむ。
……どちらを行くべきか。
「……ええい!」
意を決し小さく叫ぶと、トウカは竹林へ飛び込んだ。
トウカにとって、今は何よりも時間が惜しかった。
彼女が竹林を選んだ理由は、それが短路であったから。
山は歩き慣れているから、とか、持久力よりも瞬発力に自信があるから、と
駆け抜けながら適当な理由をいくつか考えて反芻したが、結局はどれもこじつけに過ぎない。
だからトウカは即座に思考を切り替えた。
『細心の注意を払いつつ、全速で進む』
頭に置いておくことは、それのみとした。
皇都に一刻も早く辿り着くために、うだうだと引きずるは愚策と彼女は悟ったのだった。
……しばらく行くと、トウカの背筋にむずむずとした奇妙な感覚がはしった。
成功を目前にしたときに涌き出るような高揚感にも似た感覚。
竹林は思ったよりも走りやすく、速度も予想以上のものが出ている。
――――これなら、十分間に合う。行ける。
まだ半分も過ぎていないのに、そんな甘い考えが心の隙間から染み出してくる。
(……いや、驕るな。全てが終わるまで、気を抜くな!)
「ふッ!」
慢心にも似た感情を諌めるように、心中で渇を入れながら、トウカは坂を駆け上がった。
この後に起こることを思えば、トウカが自分に厳しい性格であったのは不幸中の幸いだった。
油断で周囲の警戒を解くことがなかったからだ。
トウカは知らなかった。竹林を抜けた先の森林地帯、そこがヤマユラからも繋がる森の最深部であることを。
森の奥には、かつて森の主――――ムティカパと呼ばれた獣がいた。
ムックルの親であるムティカパは、ハクオロとヤマユラの民によって倒されたが、
子供であるムックルの存在は、親となるつがいの獣がもう一匹いることを示している。
そう……もう一匹の主は、今も森の奥に生息していたのだ。
トウカは主の縄張りに足を踏み入れたことに、まだ気付いてはいなかった。
◆
「……作戦はわかったけどよ、それなら普通に迎え撃った方が良くねぇか?
あんたの策だと、少しでもズレちまったらおしまいだと思うんだが……。
……いや、囲まれる心配が無いなら、盾ができる分その方が有利か……?」
時間は再び同日の深夜へと進む。
村落付近の一本道にて。
セリオの案を聞いた青年は、開口一番そんな感想を口にした。
「間合いの件に関しては自信があります。ご安心ください。
それよりも用意していただきたい物があるのですが」
「ん、ああ。用意っつーと、要るのはまず得物だよな。必要ならそれなりのもんをくすねてきてやっから……
……って! 何であんたがやるってことで話が進んじまってんだよ!
あんた、うちの村とは何も関係ねぇだろうが! 縄解いたんだからさっさと逃げろよ!」
青年はセリオの案を前提に、彼自身も積極的に関わろうというところだったが、ふと我に返るとまたもや大声になった。
しかし、セリオは意に介さず淡々と自論を述べる。
「この任務を遂行するのは、村の人間でない方が良いのです。
というのは、村の人間が迎撃者であった場合、役人たちはたかが一農民と侮って
迎撃者に怯まなくなり、策が失敗に終わる可能性が高くなるからです。
また、成功・失敗に関わらず、村とは無関係な野盗の犯行だと思わせておけば、
それだけ村に及ぶ危険を減少させることができるでしょう。
それと、本国からの仲裁者を信用しないわけではありませんが、万が一本国から処罰の決定が下された場合、
私の単独犯ならば、物盗り目的の襲撃という言い訳が立ちます。
つまり、国家反逆という村全体に課される罪を回避できる利点があるのです」
「いや、ま、そう……かもしんねぇけどよ……」
畳み掛けるようなセリオの弁舌に、青年は押され気味となる。
「加えて、私の案を忠実に実行するとなると、常人の脚では骨が折れてしまい、戦うどころではないでしょう。
私は可能ですが、あなたがあの場所から飛べるとは思えません」
(……私は可能、って……こいつ一体何モンだよ……)
「何より」
セリオは青年を見据えると、少し語勢を強めて言い放った。
「あなたには帰りを待っている家族がいるでしょう」
だが、決定打を放ったつもりのその一言は、逆に青年が唯一反論可能な部分となった。
「……はは、そいつだけは筋違いな理由だな。俺に家族はいねぇ。
俺ぁ余所者だって言ったろ? 元々一人で行き倒れてたところを村長に拾われたんだよ。
んで、この村に居着くことになったってわけさ」
青年の口端が吊り上り、皮肉めいた笑みが浮かぶ。
「ですが、血縁の家族でなくとも、村の方々はそれに等しい同胞なのではありませんか。
小規模の村落共同体では、村民全員の助け合いが重要でしょう」
「同胞ねぇ……」
青年は頭を掻き、自嘲を含んだ表情で吐き捨てた。
「俺は……同胞なんかにゃなれねーよ。
村の奴らは何も聞かずに俺に付き合ってくれてるが、あいつらだってわかってるはずさ。俺がどういう人間かをよ。
俺みたいなのが同胞だなんて……それこそ皆に迷惑になンだよ」
青年の返答は具体性が欠落したものだったが、
それでもセリオは何かを感じ取ったのか、彼の言葉を追及せず、別の問いを発した。
「あなたは……村の方々を愛していますか?」
「あ、ああ?」
いきなりの意図不明な質問に青年は戸惑う。
「村の方々を大切に思っているのでしょう?
だから戦を回避するよう提案し、それが受け入れられなくても、一人で村から出て行こうともしない」
「……それが何だってんだよ。村の奴等は嫌いじゃねーけど……俺がやるのは恩を返すためだけだっての。
あんたこそ、村とは何の関わりもねぇくせに出しゃばって、おかしいじゃねーか。
俺が戦う方がよっぽど道理ってもんだろ」
「あなたが村の方々を思っているのですから、村の方々もあなたを同じように思っているはずです。
すなわち、あなたには帰るべき居場所があり、帰りを待っている仲間がいる。私の考えは筋違いではありません」
「人の話聞けよ……。ってか今の話、理屈が繋がってねぇだろ」
確かに、相手に好意を寄せたからといって必ずしも好かれるわけではない。
「思っていれば、思われる」という考えは、セリオらしくない破綻した理論ではあった。
セリオは構わず説明を続けた。
「経験則という言葉をご存知ですか。経験の積み重ねによって、一定の範疇で物事の判断がつくことをいうのですが、
人の感情が絡む事象では、理論では説明できない、けれど経験として理解可能なある種の法則が存在します」
「……はァ?」
「私がこれまで出会ってきた人々の間には、“思いの環”とでもいうべき経験則が存在していました。
『誰かを思い、思われた誰かがその気持ちを相手に返す』という“環”です。
目に見えるものではありませんが、人間はそうやって互いに支えあって生きているということを、私は経験から学びました。
村の方々に恩義を感じ、それに報いようという気持ちがある以上、あなたにも思いを返してくれる仲間は存在するはずです。
昼間のことを思い返してください。
あなたの身を案じたからこそ、村長さんは一人でも逃げるように、あなたに進言したのではないですか」
「……」
セリオの考え方は、命の取り合いが珍しくないこの時代においては、語るに値しない奇麗事であったかもしれない。
だが、何か思うところがあったのか、青年はセリオの言葉を聞くとしばらく押し黙ってしまった。
青年が反論してこないため、セリオは少し間をおいて、説得を再開する。
「素性も知れない女の戯言ということで、私を信用できないかもしれません。
ですが、仮に私が失敗しても、役人が村に乗り込んで戦闘になるのは変わらないでしょう。
結果がどちらに転ぶにせよ、あなた方に不利益は無いはずです。どうか……ここは私に任せていただけませんか」
セリオが長々と論じたのは、つまりは「自分が戦う」ことについての説得であったため、
途中経過に過ぎない経験則云々の話はすっぱりと切り上げられ、彼女の論点は別のものに移っていた。
けれども青年は、まだ“思いの環”、経験則の話について考え込んでいるようだった。
「俺が……誰かに思われるなんて……あんのかよ……」
そう、小さく呟いた。
そして自分に言い聞かせるように「見返りじゃねえだろ、馬鹿」と言った後、やっとセリオに向き直る。
「……わーったよ。あんたがやってくれ。俺より力強ぇみてーだしな」
「ありがとうございます」
「けど、ここに留まるんなら、あんたが動けるところを村の奴等に見られたらやべぇよな。
だから、俺も手伝うぜ。
武器の調達にしても、俺なら怪しまれずにパクれるだろうし。……それくらい、いいよな?」
「はい、お願いします。では、今から私が言う物を用意していただけますか」
こうして、誰も知らないところで、セリオ主導の防衛作戦が始まった。
村人が二人の活躍を知るのは、一部の者を除いて、全てが終わった後のことになる。
間
モロロと草をすり潰し、こねる。
それに土を混ぜ合わせ、顔に塗る。
さらに上から雑草や木の葉を貼り付ける。
セリオの色白の肌は、そうしてみるみるうちに自然界の産物で覆い隠されていった。
「なぁ……それって、何の意味があるんだ?」
一連の動作を見ていた青年が怪訝な様子で尋ねた。
「迷彩です。待ち伏せの際に周囲の色に同化して、発見されにくくなります」
セリオは色のくすんだ地味な服装に着替え、頭に黄土色の布を巻き、長い髪は纏め上げて布の中に入れている。
二人は物置に戻り、そこを拠点として迎撃の準備を進めていた。
「なんつーか……森の神様(ヤーナゥン・カミ)みてぇだな」
青年は腕を組んで、まじまじとセリオの顔を見つめた。
「……ヤーナゥン・カミ?」
「森を司る神さんのことさ。
俺も見たことはねぇけどよ、もし、森の神さんが俺らの前に出てくんなら、
今のあんたみたいな格好をしてんじゃねーか、って思ってさ」
「……それは、使えますね」
「何だって?」
「いえ、こちらのことです。お気になさらずに」
セリオはそう言うと、一度は完成させた迷彩模様をためらいなく剥がし始めた。
もう一度モロロと草をこね直し、再び顔に塗りたくる。
青年は、そうやって作り直されたセリオの顔を見ると、今度は「おぉ」と声を漏らした。
セリオの顔は、迷彩の特色を残しながらも、歌舞伎役者のような隈取りが描かれ、
目にした者を圧倒させるような形相になっていた。
しかしながら、元になったセリオ自身の端整な顔立ちによって、隈取りの禍々しさは緩和され、
彼女の表情は神秘的な雰囲気すら感じさせていた。
「すげぇな……」
「美人が相手だと口がお上手ねぇ。神様にまでたとえるなんて」
「……んだよ」
「ま、確かにキレイだけど。それに比べてあんたはきっとひどいことになるわね。
あんたもこれから泥化粧するんでしょ? でも、土台がこれじゃあねぇ……。
セリオさんが森の神様だとしたら、あんたはせいぜいオイデゲだわ」
「てめ……」
「オイデゲ……とは何ですか?」
「人を食べちゃうっていう禍日神(ヌグィソムカミ)のことよ。
オイデゲ〜オイデゲ〜ってうめきながら、すごい速さで追いかけてくるんですって。
見た目は女の人の格好をしてるけど、眼なんか血走っちゃって、すっごく怖い顔だって言われてるの。
オイデゲに食べられないためには、身代わりに人形を投げつけて、
それを人だと勘違いさせて、人形が食べられてる隙に逃げないといけないらしいわ」
「……興味深い話ですね」
「あ、やっぱりそう思う? あたしもこういう話大好きなのよ! セリオさんもそうなんだ!」
「そうなんだ、じゃねえ! おめーいつまでここにいんだよ!」
青年は我慢できなくなってとうとう大声を張り上げた。
物置内にはセリオと青年だけではなく、やたらと青年に突っ掛かるあの少女も一緒にいた。
セリオが着ている服も、実は少女の私物である。
青年は、少女の家から衣服を持ち出そうとしたところを辛くも見つかり、問い詰められ、
事情を話して渋々物置に連れてきたのだった。
「いいでしょ別に。男ってのは、放っておいたら何するかわかんないんだから。
だから見張りよ、見張り」
「何するかわかんないって、俺がこの人に何かするってことかよ」
「そーよ」
「あのなぁ……役人どもじゃあるまいし、俺がそんな下衆な真似、今までしたことねーだろが」
「でも、こんなキレイな人と二人きりだったら、どうなるかわからないでしょ」
「バーカ、やるわけねぇだろ。
だいたいお前、さっきから泥化粧の手伝いもしねぇで、ぐだぐだイチャモンつけてるだけじゃねーか。
いいからさっさと出てって、外で皆の手伝いでもしてろ」
「あーらそう。外の皆にセリオさんの縄をほどいたこと言ってもいいの?
それに、モロロやすり鉢だって、持ってきたのは全部あたしなのよ?
皆に気取られないように探すの大変だったんだから!」
「だから、そういうでけぇ態度が気に食わねえっつってんだろが!」
「あによ!」
二人の言い合いは次第に加熱し、物理的な間隔も縮まって鼻先が触れ合うほどになった。
「何だよ!」
青年は殴るというほどではないが、距離をとるため無造作に少女を小突く。
「あんたにだけは態度が大きいなんて言われたくないわよ!」
少女も負けじと拳を振り上げる。
このやりとりはいつものことで、村の者から見れば単なるじゃれ合いと変わらないもの、
特に止める必要もないのだが、今回はセリオが間に入った。
「お待ち下さい」
「な……何?」
セリオは少女の手首に手を添えた。しかし、どうやらケンカを止めるわけではないらしい。
「手首が曲がったまま突けば、突いた側の手を傷めるおそれがあります。
突きは、腕と手の甲をまっすぐにして、こう」
そう言って、セリオは正拳突きを少女に見せる。
「とはいえ、女性の方は拳が弱いので、できれば掌底の方が良いでしょう」
「……しょうていって、何?」
「手のひらの付け根の部分です。そして、打点は相手の顎を打ち抜くようにして……」
「ここをこうして……えっと、こう?」
少女は見よう見まねで突きを繰り出した。
――――ぽかっ
「あがっ」
その手は、青年の顎に見事命中する。
「……今のでいいの?」
「はい、とても筋がよろしいです」
「ホント? あたしって実は才能あったりする?」
「思い切りのよさは良いと思います。練習すれば、さらに伸びるでしょう」
「やったぁ!」
少女はきゃあきゃあとセリオの手をとってはしゃいだ。
「や……やったぁ、じゃねえ! てめーら俺を木偶代わりにして……あ、あれ?」
青年は立ち上がって少女とセリオに詰め寄ろうとしたが、膝がカクカクと笑い、立てずに尻餅をついてしまった。
セリオは青年の体を起こすと、説明した。
「今のように顎を強く打った場合、しばしば脳震盪が引き起こされ、平衡感覚が失われます。
ですから相手の動きを止めたい時には、顎を狙うのが効果的です」
「へえぇ……物知りねぇ……」
「お、お前らなあ……」
その後、青年は何とか立ち上がると、迷彩に用いる草を補給するために、一人で外へ出て行った。
気が滅入ったような顔をしていたのは、おそらくセリオの見間違いではなかっただろう。
物置内には少女とセリオの二人が残された。
さっきまではしゃいでいた少女は、青年が外へ行ってしまうと何故か途端に口をつぐんでしまった。
居心地の悪い沈黙が流れる。
しかし、居心地が悪いと感じるのは少女のみで、セリオは気にすることなく黙々と作業を続けている。
少女はセリオをちらちらと覗き見ていたが、そんな空気に耐えられなくなったのか、不意に神妙な顔つきになると問いかけた。
「……ねぇ」
「何でしょう」
少女の言葉に、セリオは手を休めて向き直る。
「あなたは……どうして逃げないの? あいつが逃げてもいいって縄を解いてくれたんでしょ」
「私の体内にプログラムされた行動基準では、他者の安全確保が最優先事項ですから。
このまま私だけが村を離れるわけにはいきません」
「ぷ、ぷろ……?」
「つまり、そうするように生みの親に教え込まれた、ということです」
「ふぅん……惚れたの?」
「惚れた、とは?」
「だからー……その、優しくしてくれたんでしょ?
それで……好きになっちゃって……逃げずに残ってるってことよ。違う?」
セリオ妙な体勢で、ぴたりと動きを停止した。
少女の言葉の意味するところがわからなかったのだ。
数秒の間を置いた後、やっと合点がいったのか、硬直が解け、顔を上げて返答する。
「……今しがた出て行った彼のことを仰っているのでしたら、私の行動原理とは何の関係もありませんが。
私に恋愛感情というものは存在しませんので」
「……はぁ?」
「私が優先するのは、あくまでも他者、すなわち“私以外の全ての人間”の生命、および安全です。
そこに個人的感情……それが私にあるのかは定かではありませんが……
……いずれにせよ、個人的感情が介在する余地はありません」
セリオの無機的な物言いは、村育ちの少女には理解しにくいものであったが、
とりあえず概要だけは伝わったようで、少女は汗を浮かべながらも受け答えた。
「え、えと……よくわかんないけど、別にあいつに惚れて残ってるわけじゃないのね」
「はい」
「本当に?」
「本当です」
「ホントにホント?」
「本当に本当です。それに、恋愛という事象は私にとって理解の範疇を超えているものですから。
……失礼ですが、お聞きしてもよろしいですか」
「何?」
「あなたは彼のことを一人の男性として認識し、愛しておられるようにお見受けしましたが、それで正しいでしょうか」
「ぅおえっ?!」
少女は思わず可愛らしい外見に似合わない、素っ頓狂な声を上げた。
「間違っていたらすみません。私は恋愛における人の心情というものを、未だ理解しきれていないのです。
あなたの今までの言動から鑑みて、多分そうなのでは、と思ったのですが……」
「いやいやいやいや、あの、あのね?」
少女はゼンマイの壊れた人形のように何度も首を振った。短めの黒髪が左右に揺れる。
セリオは少女の動揺ぶりに気付くと、頭を下げた。
「……気遣いが足りず、申し訳ありませんでした。
今は、その質問をするのに適した場面では……おそらく、なかったのですね」
「え、えぇ? ちょっと待ってよ!」
戸惑っていたところに追い討つように、馬鹿丁寧に頭を下げられ、少女はさらに困惑した。
「……私は、いわゆる男女間の機微については、他の事象に比べて格段に理解力が低いのです。
それは多分、自分で恋愛というものを経験していないからでしょう。
男女関係において、『むやみに好意を表すべきはなく、伝えるのに適した時機がある』ということは学びました。
今は彼が席を外しているため、あなたに聞いてもいい状況だと思ったのですが……。
お気を悪くされたのなら、謝罪します。申し訳ありませんでした」
セリオはもう一度頭を下げる。心なしかその声は、しんみりとした響きを帯びていた。
「…………」
少女はセリオの瞳を見た。セリオの瞳は、少女が今までに見たことの無い、異質な雰囲気を携えていた。
目の前の美女が何を考えているのか、心の奥底まで窺い知ることはできない。
だが、セリオが少女をからかっているのではなく、真剣に質問を発したことだけは、何故だか強く理解できた。
「えっと……あのね? あ、愛って……なんていうか、ねぇ。そんな言葉使うから驚いちゃっただけよ。
あたしはただ、あいつがほっとけなくて……その……。口は悪いけど、良くしてくれるし……」
しどろもどろになりながらも、少女は何とか答えた。
「ということは、愛しておられるのですか」
「愛って言い方は……なんか、ちょっとね……」
指を絡ませながら、ふさわしい言葉を探すように逡巡する。
「でも……無事で帰ってきてほしいとは思うわ。
またあいつと一緒にいたい。あいつの元気な顔が見たい、って思う。
だから、あなたと二人で役人を止めるってあいつが言い出したのを聞いて……心配になってついてきたの」
少女はセリオが自由になったことを、他の村人には話していない。
一時は、セリオと青年の独断行動を、自分の祖父である村長に打ち明けることも考えた。
しかし今報せれば、セリオは再び縛られ、物置に閉じ込められる可能性が高い。
セリオと話してみることで、彼女の真摯な性格は十二分にわかった。少女はセリオをまたそんな目にあわせたくないと思った。
加えてセリオの案は一本道で一人が迎え撃つものであり、たとえ村人に話しても戦況が好転するわけではない。
結局、少女は秘密を守り、二人に協力しようと考えを変えたのだった。
「……男女間の愛とは、友人や身内を心配する感情と、どこが異なるのでしょうか……。
ときに家族愛より男女の愛は優先されると聞きますが、それは一体何故なのでしょう」
「し……知らないわよ。でもまあ、とにかく……す、好き……だから心配だっていうのは、否定しないわ。
愛がどうとかは置いといてもね」
少女の顔は赤かった。
セリオは少女を見つめながら、しみじみと言った。
「やはり、彼は思われているのですね……」
「……やはり、って? 何かあったの?」
「はい、実は……」
『同胞などにはなれない。自分は皆にとって迷惑になる』 先の夜、青年はそんな趣旨のことを呟いた。
実のところは、少女のように思ってくれる人がいたわけだが、セリオは彼の自嘲気味な表情が少し気にかかっていた。
セリオは昨夜の青年との会話を一字一句違わずに伝えた。
少女はセリオの話を聞き終えると、頬を膨らませ言い放った。
「まったく! バカなんだから!」
「バカ……ですか?」
「そうよ。あいつのことが心配なのは、何もあたしだけじゃないのよ。
おじいちゃんだって、皆だって……あいつのこと、ちゃんと気に掛けてるんだから。
家族とほとんど変わらない、一緒に暮らす仲間だって、そう思ってるからこそ、
おじいちゃんも敢えて『逃げていい、無理に付き合うことはない』って、あいつの意思に任せたんじゃないの。
本当に余所者扱いするんなら、それこそあいつの気持ちなんて関係なしに、助けたことを恩に着せて戦わせようとするものでしょ。
それをホントまぁ……あたしはともかく、おじいちゃんや皆の気持ちがわからないなんて……救いようの無い大馬鹿だわ!」
少女は一度息を深く吸って、再び続ける。
「あいつが何かワケありなのは、素振りを見てればわかるわ。
でも、そんなことでハブにするほど、あたしたちは薄情じゃないわよ。
あいつの過去も、あいつ自身が言いたくなったときに話せばいいの。
自分で言い出すまで待って、それとは関係無しに家族として平等に扱う。
もし……もし、本当にろくでもない奴だったなら、その時はその時でまた考えて決めればいい。
あいつの過去を……村で過ごした今までを、全部ひっくるめて考えたうえでね。
……でも……悪い奴には見えないんだけどな、あたしには」
「…………よく、わかりました」
少女が話し終わると、セリオはそう言って、おもむろに眼を閉じた。
同時に少女に気取られないように、機能のセルフチェックを開始すると、呟く。
「最善を……尽くさなければいけませんね」
「え、何?」
「いいえ、何でもありません。単なる自己確認です」
数分後に出た診断結果はオールグリーン。
だがセリオは、少女の言葉を聞いた直後、胸の奥から湧き上がる原因不明の熱上昇を感知していた。
……それはきっと、少女の優しさに呼応した、セリオの心の温かさに違いなかった。
間
それは、銀色の岩のようだった。
白銀に光る巨大な岩が、槍のような鋭さで迫ってくる。
あまりの速さに姿を補足しきれず、かろうじて避けた初撃の時点、トウカは敵にそんな印象を抱いた。
急な襲撃であったため、トウカは体勢を崩して地面を転がるが、受身を取り、立ち上がると迎撃の姿勢をとる。
刀の柄に手をかけ、研ぎ澄まされた眼光を敵に向けた。しかし、敵の姿が視界に入ると、彼女の目は驚きで見開かれた。
(ムックル……!?)
否。
似てはいるが、違う。
(ムックルよりも一回り大きい…………同族の、別な獣か?)
加えて獣は、外見からはそれを感じさせないが、ムックルよりも老いていた。
何よりムックルはアルルゥの目を離れても、トウカに襲い掛かることなど無い。
(……おそらくこいつは、森に住む野生の獣……!)
ムックルではない。とはいえ、彼の同族であることには間違いない。
そしてムックル以上の巨体ならば、その強さもムックルを凌ぐことはあっても、劣ることはありえない。
(並の相手ではない……ということか)
獣の殺気に圧されぬよう、トウカは自身の気当たりを強めた。
……獣は何故襲い掛かってきたのか。トウカが縄張りを侵したか、はたまた餓えているからか。
いや、今はそんなことは問題ではない。獣には獣の都合がある。それで十分だ。
言えることはただ一つ。獣の標的はトウカの肉(からだ)。
そして、選択肢は二つ。逃げるか、戦うか。
トウカはムティカパに背を向けると、全速力で来た道を引き返した。
選んだ選択肢は、逃げる――――――――ではない。
自分の足が獣の脚力にかなわないことくらい、とうに承知済みである。走って逃げ切ることはおそらく不可能だ。
では、何故背を向けたか。
それは――――竹林。
トウカは竹林を抜けてから、未だ数十歩ほどしか進んでいない。そこへ戻るくらいならば、追いつかれることはないだろう。
有利な地形でムティカパを迎え撃つ……そのための撤退だった。
再び竹藪の中へ飛び込むと、刀を振り、次々と竹を斬っていく。そして、最も近くにある幹を思い切り蹴りつけた。
「……せいっ!」
切られた竹は将棋倒しとなってムティカパに覆いかぶさってゆく。
無論、そんなことではムティカパの強靭な体毛はびくともしない。トウカもムックルの強さから、それは十分知っていた。
……竹の将棋倒しは目くらましに過ぎない。
本当の狙いは、切断面にある。
水平に斬られた竹の断面は、トウカがいる地点から離れるにつれ、少しずつ高くなっている。
トウカの近くの竹は腿の高さ。そこから、膝、股、腰、最後には胸。竹の階段が出来上がっていた。
トウカは間髪容れずに階段を駆け上がった。最上段を強く踏み込むと、成長途中の竹ならば飛び越してしまうほどに跳び上がる。
そして空中で両の手に一本ずつ幹を掴むと、器用にもしなる竹に足を掛け、反動を利用してさらに跳んだ。
「――――えぇぇい!」
ふわりと浮かんだ頂点で、トウカはまるで舞うように無数の斬撃を繰り出した。
空を斬ったかに思われたその動作は、その実周囲の竹をも斬り裂いている。
斜めに鋭く斬られた切断面がずり落ち、重力によって加速する。
将棋倒しの山から抜け出したムティカパに、竹槍の雨が降り注いだ。
竹は地面と獣に突き刺さり、鈍い音を次々と発する。
同時に、ムティカパの呻きが止んだ。
「……どうだ……!」
突き刺さった竹が視界を遮り、生死まではわからない。
トウカは敢えて斬り残した幹に掴まって、綱を渡るようにゆるゆると降りた。
その間も、竹槍の針山から注意は逸らさないでいた。今の攻撃だけで倒せるような相手ではない。
案の定、針山の中から腹に響くような低い咆哮が聞こえてくる。
続いて、のそりのそりと這い出てくる白銀の足。
「くっ……!」
覚悟はしていた。それでもトウカは後ずさり、息を呑んだ。
(これほどまでに硬いとは……)
ムティカパの体には、傷一つ付いていなかった。
ムティカパの弱点。それは水。
鋼の硬度を誇る体毛も、水に触れれば指でちぎれるほどに弱くなる。
しかし、近くに水場は見当たらず、トウカの手元に残るわずかの飲み水も、巨大な獣の体表を湿らせるにはあまりにも少量。
この場は、自力で活路を開くよりほかにない。
トウカは刀を鞘から抜いた。
得意の抜刀術でも、ムティカパの体皮を斬り裂けるかは定かでない。試すには危険が大きすぎる。
刀身を平らにし、ムティカパの鼻に剣先を向ける。
――――平正眼の構え。
トウカは突きを放つつもりでいた。的となるのはムティカパの口中、もしくは眼球。
体毛に覆われていないそれらの部分ならば、刃もあるいは通るのではないか。
獣の体に立つ刃が無い以上、トウカに残された手段はそれしかなかった。
「……来いっ!」
緊張と、張り詰めた空気を押し返すように叫ぶ。
それに応えるかのようにムティカパは地を蹴り、高く跳び上がった。
狙うはムティカパが空中より落ち始めるその一瞬。
いくら野生の獣とはいえ、ひとたび体が地面から離れれば、軌道を変えてよけることはできまい。
(――――ここだ!)
合わせは完璧。トウカは突きを繰り出した。
しかし、刃先が口中に突き刺さるかと思われた刹那、刃は図らずも空を斬った。
「っ!?」
ムティカパは、トウカに襲い掛かる寸前で進行方向を変えていた。
原因は竹である。
ムティカパはトウカの反撃を即時に察知し、進路上に存在した竹を後ろ足で蹴り、軌道を横にずらしたのだった。
「くっ……うぐぁっ!」
腕を引き即座に防御の姿勢をとるが、体ごと吹っ飛ばされる。
真正面からの直撃ではないにしろ、ムティカパの力は人間の比ではなかった。
トウカはもんどりうって転がった。痛みをこらえ起き上がろうとしたが、
ムティカパは矢のような速さで距離を詰めると、トウカが立ち上がる前に馬乗りになった。
「――――!」
声が出ない。
圧倒的な強さ。絶望的な状況。トウカは気圧され、一瞬思考が停止する。
ムティカパは牙をむき、口を大きく開けた。
(そうだ――――刀――――刀を、今刺せば!)
トウカは左手を強く握った。が、あるべき柄がそこには無い。
愛刀はムティカパに吹っ飛ばされた際に手から離れ、体五つ分ほど離れた場所に放り出されてしまっていた。
ムティカパはトウカの頭目掛けてかぶりつく。
「がっ――――――――あああああぁぁ!」
鮮血が、飛び散った。
牙は……右肩に刺さっていた。トウカの頭部に怪我は無い。
トウカは身をよじって頭部への噛み付きを避けていた。
しかし、ムティカパに覆い被された状態では完全に避けることは適わず、獣の硬い牙はトウカの肩口に深く食い込んだ。
みぢっ
と、嫌な音がした。耳だけではなく、トウカの体全体に音は響き、電流にも似た激痛が走る。
みぢ みぢっ がきん
今度は硬い音がした。骨と牙がかち合う音だ。
ムティカパはトウカの肩を噛み千切ろうとしていた。獣が少し動くたびに、肉が裂け、骨に亀裂が入る。
「あっがっ……あっ、あっ!」
もがいているのか痙攣しているのかわからないような小刻みな動き。
血液がリンパ液と混ざり合い、本来の量以上の赤い液体が流れ出る。
噛まれた瞬間の痛みは出血のせいか次第に感じられなくなり、目の前が白く薄れ、景色が霞みはじめた。
(……死ぬ……のか……?)
他人事のような思考が、ぼんやりと浮かんでは消えていく。
吹き出る血の飛沫が、やけにゆっくりと地面に落ちていった。
(セリオ殿……すまない……)
薄れゆく意識の中、トウカの帰りを待つ女の顔が浮かんでくる。
(セリオ殿…………何を、喋っている……?)
記憶の中のセリオは、トウカに囁くように過去の言葉を語りかけた。
――――『戦闘を回避することで皆を救おうとするトウカ様の考えは、素晴らしいものだと思います』
(素晴らしい、か……。だが、道半ばで力尽きては、いくら良策といえど意味が無い……な……)
――――『戻ってこられる際は、必ず本国の方を連れて来て下さい。お一人でここへ戻られるということだけは無いように』
(一人で戻ることすらできず……某は、ここで果てるのか…………)
――――『周りのあらゆる要素を考慮し、いかなるときも最善が尽くせるよう、考えてください』
(考えるも何も……こうなっては……どうしようもないだろう……)
死の間際には過去の思い出が走馬灯のように駆け巡るというが、これがまさにその情景なのだろうか。
トウカは血まみれの呆けた表情で、そんなことを思った。
(過去の思い出……か……)
――――トウカの人生。
エヴェンクルガの里に生まれ、誇り高き武人となるため心身を鍛え、
里を出、世のため人のために剣を振い、数多の大切な人たちと出会い、別れ、
そして自分もこの世(ツァタリィル)を旅立ち、常世(コトゥアハムル)へと向かう。
……それが、今まで生きてきたトウカの歴史の全てとなろうとしている。
とうとう子を授かることはできなかったが、それも今となっては仕方のないこと。
何より心から慕った主は、自分よりも先にこの世を発っているのだ。
(……願わくば、聖上を思いながら……逝きたい……)
トウカは自らの最期を悟り、ハクオロの顔を思い浮かべた。
――――『トウカ様、どうぞ考え続けてください』
しかし、浮かび上がったハクオロの顔を遮るように、セリオが再び現れる。
(……………………ちょっと待て)
――――『トウカ様』
(………………おい)
――――『どうか、トウカ様……』
(ええい、何故邪魔をする!)
セリオのことを嫌っているわけではないが、トウカにとって最も大切な人物はハクオロその人以外にはいない。
彼女には悪いが、こんなときくらい思い出に浸らせて欲しかった。
――――『……トウカ様』
しかし、セリオは消えようとしない。
(……おかしい)
不意に、トウカの頭に疑問符が浮かんだ。
(死に際の走馬灯とは、過去の全ての思い出が一気に押し寄せるものだと聞いた。
だがこれは何だ。セリオ殿しか浮かんでこないではないか! 某の頭は最近の記憶しか思い出せぬほど不出来だったか!?)
半ばヤケ気味に、心の中で自分に対し悪態をつく。
いくら記憶を掘り起こしても、ハクオロやトゥスクルの仲間、同郷の友人、師父、
さらには自分を育ててくれた実の両親すらも、セリオの顔に遮られてしまう。
一体、何故。
トウカは一旦、思い出の余韻とセリオの顔に背を向けて、その原因を突き詰めてみた。
(……詰まるところ、これは……死に際の走馬灯では、ない……のか……?)
次の瞬間、一際大きくセリオの声が響いた。
――――『私は、トウカ様が間に合うと信じているのです』
(――――――――!)
あの村で「信じている」とセリオは言った。こんな未熟者の自分を「信じている」と。
(……そうだ)
だが、ここでトウカが死ねばどうなる。人質として捕らえられているセリオも死ぬことになるのは明白だ。
それを忘れて聖上だの、過去の思い出だのと、自分は何を勝手なことを考えていたのか。
(そうだ……某は、セリオ殿と約束したのだ。必ず戻り、戦を止めてみせると!)
『今はまだ、死ぬ時ではない』――――セリオはきっと、それを伝えるために自分の前に来てくれたのだ。
トウカの目に生気が戻る。半死半生であるにも関わらず、体内から活力が湧き出した。
何より、トウカの心に火がついていた。
内からこだまするセリオの言葉に耳を傾ける。
――――『周りのあらゆる要素を考慮し、いかなるときも最善が尽くせるよう――――』
あらゆる要素。この危機を乗り切るために、利用できる要素。
(何か……何かないか)
トウカは周りを見回すために首を動かそうとした。
ふと後頭部に違和感を覚える。
ムティカパに組み伏せられ、地面に仰向けになっていたトウカは、頭と地面の間にある異物の存在に気付いた。
(――――これだ!)
最初にムティカパと対峙したときのような、張り詰めた気持ちは消えていた。
心の中にセリオの存在を感じると、彼女の声に導かれるように自然に体が動いていく。
トウカは自らの髪に差していたかんざしを抜き取った。左手でそれを握りこむと、ムティカパの眼球に突き立てる。
ずぐっ
と鈍い音がした。
トウカの肩を噛み千切る寸前だったムティカパは、まさかの反撃に怯み、ぎゅるるると甲高い鳴き声をあげた。
「ぐ……うぅおおっ!」
ムティカパは右肩口を噛んだまま、痛みに仰け反りトウカを引っ張り上げる。
「っ……ええぇぇい!」
トウカは左半身をぶつける勢いで、ムティカパの右眼に刺さったかんざしに左掌底を叩き込んだ。
そこでやっと咬合力が弱まり、肩口から牙が外れる。
だが敵もさるもの。ムティカパはよろめきながらも、前足一本でトウカを叩き落とした。
ムティカパの攻撃によって再び地面を転がるトウカ。
しかし今度は眼の負傷のせいか威力は半減し、追撃も遅れ、何とか体勢を立て直すことができた。
――――『トウカ様……これを――――』
またもやセリオの言葉が響く。
――――『……護身用ということで頂きましたが、トウカ様がお持ちください』
「セリオ殿、ありがたく使わせていただく!」
トウカは腰に差されていた小太刀を抜いた。
直後、ムティカパが飛び掛る。いや、“飛び掛ろうとした”。
「――――うぉおおあああぁ!」
ムティカパが飛ぶその瞬間、トウカのかつてない咆哮が森にこだました。
――――手負いの獣は危険だとよく言われる。
眼をやられたムティカパは、まさに手負いの獣と呼べるだろう。
ただ、この場に手負いの獣はもう一体いた。
そして、そのもう一体こそが、より強い力を……逆境を打ち砕く心の力を秘めていた。
それ即ち、トウカ――――
修羅の気迫と飛鳥の敏速さでムティカパに詰め寄った“もう一体の獣”は、
咆哮に一瞬怯んだムティカパの鼻先に右の掌をあてがうと、伸ばした右腕の軌道に沿って左手の小太刀を滑らせた。
小太刀の切っ先は吸い込まれるようにムティカパの口中へと消えていく。
肉が突き刺さる音は聞こえなかった。それほどトウカの突きは鋭く、滑らかなものだった。
――――直後、数秒間両者の動きが止まる。
永遠にも思われた数秒の後、トウカは小太刀をねじりながら手首を引き抜き、後ろに跳んで距離を置いた。
ムティカパは血を吐き、ガクガクと震えながらも、倒れることなく唸り声を上げる。
かんざしが外れたトウカの髪はひどく乱れていた。けれども顔にかかる髪の隙間から、射抜くような眼光でムティカパを睨み続けた。
再び小太刀を構えなおすと、遠くの方で雷が鳴った。
「まだ……やるか……」
ぜいぜいと息をするトウカ。
かの瞬間に極限にまで高まった気力は今は燃え尽き、体内の血と同じく、もう余力は残っていなかった。
「まだ……やるのかぁッ……!」
それでもトウカは腕を下ろさなかった。セリオとの約束。今の彼女を動かしているのはその一点のみである。
トウカは約束のため、魂が燃え尽きても戦い続けるだろう。
その時、水滴がトウカの頬を打った。
続いてムティカパの顔にも同じような滴が落ちる。
水滴はたちまち雨となり、地面と両者の体に一様に降り注ぐと、べったりと付着していた返り血を洗い流していった。
ムティカパは低く唸ると、踵を返した。体を振って体表にかかる雨粒を飛ばした後、竹林の向こう、森の奥深くに消えていく。
「っ…………」
それを見送ると、トウカは糸が切れたように両膝をついた。
数週間ぶりの雨は、トウカにとって救いの雨となった。
「…………いや……まだだ……」
雨の寒さに体を震えさせながら、トウカは歯を食いしばった。
「某は、まだトゥスクルに着いてはいない……!」
意識が朦朧となりながらも、鞘を杖代わりにして立ち上がる。
「行かねば……一刻も早く…………早く……!」
落ちていた刀と荷物に手を伸ばすと、彼女は体を引きずるように歩き出した。
今回は、以上です。
投稿に時間がかかってすいませんでした。(この癖、直さないと……)
ごめんなさい、訂正がありました。
>>327の最後の方のトウカのセリフ
×「某は、まだトゥスクルに着いてはいない……!」
○「某は、まだ皇都に着いてはいない……!」
です。
半徹夜みたいなマネはするもんじゃないですね…。頭が回ってないのか、他にもミスがありそうで怖いです。
大量投下お疲れ様です。
ちょ、オイデゲすっかり広まっちゃってw
大量執筆お疲れさまです。
あの女の子いいですねー(´∀`)
>>304の「素性も知れない女の戯言ということで(以下略」というセリオの台詞、
読み返したら意味が微妙につながってませんでした。
読まれる際は、以下の台詞に全部差し替えてください。
×
「素性も知れない女の戯言ということで、私を信用できないかもしれません。
ですが、仮に私が失敗しても、役人が村に乗り込んで戦闘になるのは変わらないでしょう。
結果がどちらに転ぶにせよ、あなた方に不利益は無いはずです。どうか……ここは私に任せていただけませんか」
○
「私のような素性も知れない女の戯言など、信用できないかもしれません。
ですが、仮に私がやられても、結果としては最初から私が居なかったのと同じというだけで、あなた方に損失は無い思われます。
……ですから、まずは私にやらせていただけませんか」
度々の訂正、見苦しくてすいません。
乙&GJ!
>オイデゲ
(ry
>彼女の表情は神秘的な雰囲気すら感じさせていた
現在、“うたわれるものの世界に葉鍵キャラがいたら3”スレでは、
神絵師の降臨をキボンティーヌしております
>かんざし
これは盲点だった
トウカがかんざしを使うというのはいいなあ
335 :
名無しさんだよもん:2006/11/22(水) 18:26:02 ID:iWsjAtc+0
保守
しかし、セリオさん、エンスト起こさなければいいのだが…
オリジナルセリオさんじゃなくてボディが後期生産型とか。
糖分解動力セルに非潤滑関節とか。
某有名SSではタイムスリップ?したセリオさんが日傘タイプの発電機で電力を補助的に補充していたが…
観察日誌…、続きが気になる(´・ω・`)
保守保守
うっかり侍おもしろいね。
続きを楽しみにしてます。
xxxさん?
更新が遅れてすいません。
プロットはできているので、もうしばらくお待ちください。
おkおk
マイペースが一番
ボス
どうしたジーパン
ほしゅなのですよ
保守でござる
349 :
sage:2007/01/01(月) 23:59:06 ID:s+qtRbYr0
新年あけましておめでとうでござる
保守
ほしゅ
いつまでもまってるから職人ばっちこーい
ほっしゅ
ほす_〆ヾ( ̄(エ) ̄
353 :
名無しさんだよもん:2007/02/09(金) 19:02:28 ID:qX7bt96mO
敗北
354 :
名無しさんだよもん:2007/02/14(水) 23:14:38 ID:b0dXys4Z0
ホッシュ
トウカ「クケー」
春原「クケー」
春原「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!」
ハウエンクア「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!」
柏木「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!ニクマン!!」
スオンカス「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!ツブレタ!!」
日吉「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!チカン!!」
テオロ「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!カァチャン!!」
大庭「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!シメキリ!!」
ヌワンギ「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!ナットウ!!」
月宮「うぐぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ!!タイヤキ!!」
インカラ「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!ゴエモンインパクト!!」
>>356 あゆギリギリで耐えたのにゴエモンインパクトで吹いた
・・・続き気になるよトウカトウカ
素直にここのSS楽しんで見てるが過疎とは…寂シス
ボランティアみたいなものだし、仕方が無いだろぅ…
気長に待つしか無いか・・・
俺はじっと待ってるぜ ヌワンギ書きの人とトウカ書きの人
保守
補習
職人さ〜ん、どうしたの〜?
進学?就職? 気長に待ちますよ
誰でもリアル優先なんだよ
俺らはただひたすら保守するまでよ
366 :
sage:2007/04/17(火) 17:24:53 ID:n1Juk3Mm0
保守
続きマダー
最近うたわれプレイして色々探したらこんなスレがあったのか…
しかしひどい過疎だな…
アニロワにいったのやもしれぬ
保守
ほしゅ。
保守!
hosu
記念保守
hosyu
ほしゅ
アルルゥ「きゃっほぅ、国崎最高」
ヌワンギと柳川を待ちながら……保守!
保守
ほしゅほしゅ
ヌワンギパラレルとうっかり侍マダー?
382 :
名無しさんだよもん:
…ん
つ保守