いつも10番以内なの 一ノ瀬ことみ 第10回全国模試

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153Another Star
じゃぁちょっと勉強します…
あと、大学で登録が済んでないので、今日中に登録しないと(´・ω・`)
154Telegram Sam:2005/10/11(火) 07:17:53 ID:nGCqJy8W0
今日の授業は捨てて、今日中にとる科目を決めます。
155声と現象:2005/10/11(火) 09:04:12 ID:2xh2oqsJ0
一周目(P30まで)
つまりフッサルは超越論的還元と心理現象学的還元の平行性に注目するあまり、
その根源的差異を見逃してるらしい(超越論的心理主義)
その差異が、無限の反復を可能とするイデア性の根拠なのかな?
フッサルは意識は心がなくても欠損しないと考えたが、デリダはそうやなくて、
超越論的意識は心理的意識以上のものでも以下でもないと主張。
その理由は、心が世界の中にあるから、心は超越論的なものという補足的無
を必要とするかららしい。

補足的無ってなんやねん。
156声と現象:2005/10/11(火) 10:25:44 ID:iKrXZtZk0
平行線は一体なにによって作られてるかというと、それは「生きる」ということらしい。
さて、序言を読み終わるにつれて、いよいよ声(フォネー)の問題が出てくる。
意識としての現前の特権は声の卓越性によってしか確立されえないということ。
つまり、この声の特権を脱構築しようという試みが始まる宣言ですね。
現象学には、この声の特権の卓越性が確立しえないことが、「力」として働いているらしい。
よくわからんな。
デリダは、この本ではそれを力強く示すための試みなのだと言ってます。
157声と現象:2005/10/11(火) 10:34:03 ID:iKrXZtZk0
第一章が始まります。(P40〜)
ここではフッサルの意義、意味の話があります。この辺りは「これが現象学だ」とかで読みました。
記号が表現と指標の二つの機能を持つということです。
ドイツ語からフランス語に訳す問題を、デリダはもってきています。
で、意義の訳語の無いところから、これを「言うことを欲する」ということを訳語として提案します。
158声と現象:2005/10/11(火) 10:51:59 ID:ztBxhLiS0
bedeutung(意義)は話される言表のイデア的意味内容のために留保され、sinn(意味)は
ノエマ的領野全体を、おの非ー表現的層をも含めて、カバーしている。
ノエマってのは意識の対象的側面でしたっけ?
ttp://dic.yahoo.co.jp/bin/dsearch?ei=UTF-8&fr=top&src=top&p=%E3%83%8E%E3%82%A8%E3%83%9E
意識の対象的側面って何でしょうか?

その後はよくわからない。bedeutungを、sinnより論及していきましょう、なぜなら〜という文章が
続きますが、何がなにやら。錯綜しすぎ。
159声と現象:2005/10/11(火) 11:03:02 ID:ztBxhLiS0
デリダは、どうもフレーゲからの議論の意味の先行性より、意義(bedeutung)を論じようじゃないか
というつもりでいるらしい。
それも、意味(sinn)の議論と意義(bedeutung)の議論は互いに重なり合ってるのだというような
ことをごちゃごちゃ言ってるように見える。
曰く、実体的な差異ではなく、機能的差異に過ぎない、と。
フッサルだって絡み合ってるだの交錯してるだの言ってるし、そういうことにしとこうぜ、とデリダが言ってる。

デリダはどうも、表現より指標の先行性を無理矢理にでも納得させたいらしい。
フッサルは、実際に表現作用が生じる際にはいつでも、「伝達作用の価値」を含むのだといってる。
つまり「伝達作用の価値」=「指標的」ということか?
160声と現象:2005/10/11(火) 11:16:56 ID:ztBxhLiS0
で、この指示と表現の隔たりは言語の問題から先行するのではなくして、言語の問題に依存した
区別なのだと、結構意外なことを言う。
つまり、本質的ではない、ということであり、言語の問題設定によって副産物的にそうなったに過ぎないと
デリダはいいたいらしい。何らかの問題を本質的ではないと付けはなすのはあまりない形の言及だ。
「してみると、すべての表現は、いわば不本意ながら指標的過程の中にとらわれているのである」

ならば表現は指標の中の一種と考えるべきかというと、フッサルは違うという。
なぜなら指標ー存在は、意義作用の中と絡みこんでるが、その外でも出てくることが可能にすぎないからだと。
161声と現象:2005/10/11(火) 11:18:17 ID:ztBxhLiS0
あれ?
意味と意義はそのまま指標と意義の対立ではないのか?
でも指標の対立は表現だったじゃんね。
どれがどう結びついてるんだ?
162声と現象:2005/10/11(火) 11:27:42 ID:Oi+oFCAU0
フッサルは指標的な絡みから独立した表現を提示する義務があるとデリダは言う。
それを「孤独な心的生」と呼ぶらしい。これが純粋な表現となる。
163声と現象:2005/10/11(火) 11:48:56 ID:Oi+oFCAU0
デリダは、フッサルがまずもって記号一般を提示せずに、記号を独断的に腑分けして
ごまかしている(マジでそう書いてる!)かを示している。
次の議論もさっぱりわからない。飛ばすしかない。(47P〜48P)

「記号一般とは何であるか」と問うと、記号の問題が存在論的なもくろみに服属しちゃうらしい。
こういうことをすると、言語を存在に、パロールを思考に、エクリチュールをパロールに服属
されることになっちゃうじゃないか、とデリダは言う。(なんで?)
記号一般に真理が存在すると、記号は真理の可能性ではなく、ただ真理を記号することに
甘んずることになるという。
記号は存在者ではないとフッサルは考えたのだ、という。
記号は事物ではないゆえに(ウィトゲンシュタインだ!)、「何であるか」という問いの手に落ちない
唯一のものなのだという。

現象学のモチーフは次の二つであるという、、、
◆現象学は素朴な存在論の還元であり、意味と価値との能動的構成への復帰、真理および価値一般を
みずからの諸記号を通じて生じさせるような生の働きへの復帰である。
◆こうした動向と単純に並列ではないが、もう一つ別の必然性が現前の古典的形而上学をも批准しており、
古典的形而上学への現象学の従属をしるしづけている

つまり、現象学は生命への働きを復帰しようとする試みなんだけど、未だに古典的な考え方に縛られてるんだぜ
ってこったな。