94日目 16時45分
病室の扉が、中から開いた。
「わっ、と、と、ごめんなさいっ!…あ、恵さん」
「こんにちわ。お邪魔したかしら」
「いえ、いつも有り難うございます…」
出てきたのは、恭介の妹、香月ちはや。
同性の私から見ても魅力的な女の子だけど、最近は表情に疲労の色が濃い。
「お兄ちゃん、恵さんだよ」
「・・・ああ。いつも悪い。」
「他人行儀はやめてよね。具合は…悪くなさそうね」
「そうだな。」
「あ、わたし電車の時間があるので、これで…」
「気をつけてな。」
「お疲れさま。」
かちゃりと扉が閉まり、病室には私と恭介の二人きり。
「・・・医者からは、もう退院してもいいって言われてるんだ。」
「もう一人で動けるんだっけか?」
「なんとかね。ただ普通通りに生活するのは難しそうだから…」
「妹さんに負担をかけたくない?」
「それもあるし、自分が怖いってのもある。」
「家に戻っても、自分の家のような気はしないんだろうしな。」
「ま、恋人の事も思い出さないくらいだもんねえ。」
「すまない。」
「ううん。いいの。」
あの時、私は恭介に手をかけた。自分の安心のために。
彼は、崩れた資材の下敷きになった。私を庇って。
奇跡的に一命を取り留めたけど、喪ったものは大きかった。
肉体的に、彼の四肢には完治しても重度の障害が残ると宣告されている。
そして精神的には、彼は、記憶の殆どを失っていた。
まるで、私がそう望んだ事を、知っているかのように。
「そうそう、ひとつ報告があるの。私、就職決まったわ」
「へえ、おめでとう。うーん、事務系?」
「まあね。会計士事務所の雑用係。」
「営業向きじゃなさそうだしな。」
「こう見えても、猫かぶるのは巧い方よ?」
「どうだか。」
しかし恋人としての記憶がない割には、彼の言い草は失礼だ。
もちろん、イヤじゃないけど。
「・・・それで、相談なんだけど、」
「・・・?」
ちょっと言い淀む。でも、言葉を選んでもしょうがない。
「私、恭介の家に、住んじゃだめかな?」
「!?」
「ええっとね、仕事場が、恭介の家の近くなの。」
「・・・」
「私の部屋からだと、電車の時間が不便だし。」
「・・・」
「恭介の家、一軒家で部屋余ってるじゃない?家賃は払うわよ」
「・・・」
「ごめんね突然、でもちはやちゃんがいると遠慮されそうで」
「・・・」
「・・・」
まずい、台詞が止まっちゃった。
「・・・責任を感じる必要は、ないぞ」
「え?」
「事故の時に一緒にいたから、原因の幾らかはお前にもあるのかも知れないけど、
そうだとしても、これは俺の行動の結果だから、お前が責任を取る必要はない」
「俺はこんな状態だし、お前の事も思い出せてない。こんな俺にこれ以上関わる必要は・・・っ?」
言葉の途中で、私は恭介の首に腕を巻き付け、ベッドの横から抱きついた。
「あなたの事情は、関係ないわ」
「お前・・・」
「大人しく、面倒見られなさい」
あなたは私を、守ってくれたんだから。
100日目 10時25分
退院の日、空は綺麗に晴れ渡っていた。
私は、家までタクシーを使うよう奨めたんだけど、彼が駅前にも出てみたいと主張したので、
駅まで車椅子を押して、電車に乗る事にした。荷物は既に宅急便で送ってある。
「視線が低いってのは、落ち着かないな」
「歩道って車道の方に傾いてるんだね。けっこう怖いかも」
恭介の言葉に、車椅子を押しながら、少女が呟く。
「ちはやちゃん、替わろうか」
「いえ、大丈夫です!・・・あ、でもちょっと待ってて貰っていいですか?」
恭介を私に預けて、小走りに近くのビルへ。
「…トイレね。」
「出がけにバタバタしてたからな」
ため息ひとつ。
なんにせよ、これから越えなければならない壁は少なくない。
車椅子を端に寄せて二人、手持ちぶさたに空を見上げる。
ふと、歌が聞こえてきた。
私は、思わず瞳をめぐらし、そして視線を彼に下ろした。
恭介も、同じ歌を聴いていた。
「これ、どこかで・・・まあ、判る訳ないか。」
「そんなに新しい歌じゃないから。聴いた事はあってもおかしくないんじゃない?」
さりげない会話の後ろで、少し落ち着かない私の姿に、恭介は気づいただろうか。
そういえば、この辺りには良く流れていたんだっけ。タクシーにすればよかったと、少し後悔した。
このメロディは、それにしても私たちにつきまとう。
「でも、いい歌だな」
彼は呟いた。私は嘘を付いた。
「私は、この歌嫌いだわ」