1日目 10時25分
ふと、歌が聴こえてきた。
不安になって、俺は恵を捜した。
「あら、今日はまた一段と早いのね」
「…いかにも待ち疲れました、って顔をしながら言う台詞じゃないよな、それ」
「別に疲れてないわ。私が勝手に早く来ただけだし。行きましょ」
恵は、店の入口に置いてある、犬の置物の陰に立っていた。
小柄な体が、台座を含めれば自分の背丈ほどもある物体の陰から出てくると、俺の腕を取って歩き出す。
この店の前で待ち合わせるのが、俺と恵の定番になったのは最近の事だ。
実のところ、俺はこの場所を避けたいのだが、恵はここがお気に入り。
その理由はおそらく同じで、店の前で流れているBGMにある。
新しいものでもない、さしてメジャーでもないこのタイトルは、何故か良く此処で流れている。
恵は、待ち合わせの間この歌を聴くのが好きで、此処を指定してくるのだった。
「うーん、CD買おっかな」
何度目か聞く台詞に、俺はいつもの嘘で答える。
「止めはしないが、俺はこの歌は嫌いだ」
「はいはい、わかってる。でも何故か聴きたくなるのよね」
恵が「何故か」と言う、その理由も、たぶん俺は知っている。
この曲は、今はもう無邪気な恵が、まだ無邪気でいられた時間の最後に、口ずさんでいた歌だから。
約400日前 10時15分
「何の曲?」
いつの間にか傍らに恵が来ていた。
「え?俺?」
指摘されて自分が口ずさんでいたことに気づく。
「あ・・・確かに」
「ふふ、変なの」
恵はごく自然に俺と肘を並べ、手すりに頬杖を突いた。
「いい感じのメロディ。何の曲?」
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洋上で交わされた、何気ない会話。
1年と、もう少し前、俺と恵は、共通の友人のツテにより、高速クルーザーの試験航海に便乗する機会を得た。
当時、二人は別に恋人同士ではなく、船旅も二人きりのものではなかったが、
俺も恵も、お互いが気の合う相手である事は認識していたので、
船上で交わされる会話も既に「ちょっといい感じ」だったと自負している。
俺があの歌を口ずさんだのも、それに興味をもった恵の言葉も、そんな会話のひとつだった。
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「何の曲?」
聞かれて初めて自分が唄っていることに気づいたのか、
恵は自分の口元に手を添えた。
「あら・・・うつった?」
だが、そのわずか数時間後、世界は暗転した。
偶然だったのか、必然だったのか、何が悪かったのが、それはわからない。
ただ、クルーザーが拾った一人の漂流者、いや、一体の野獣によって、
船上は、逃げ場のない地獄と化した。
俺達が気づかない程のわずかな時間で、船員達は全員が殺された。
残ったのは、俺と恵、俺の妹と、数人の友人達。
女は犯す。男は殺す。奴の行動は首尾一貫していた。
無差別の暴力が吹き荒れる中で、俺は奴から逃げ、対峙し、戦い、最後に辛うじて、奴を殺した。
友人達もまた、様々に行動した。多くは俺と共に戦った、奴に従う途を選んだ者もいた。
恵の行動は、どうにも単純なものではなかった。その分析も評価も、俺にはできない。
確かな事は、彼女もまた極限状態の中で必死に戦い、生き延びた事。
その過程で、俺と恵の関係が、めまぐるしく変化していった事。
そして、物語の最後に、彼女は記憶を失った。
だから、あの歌は、二人が今の二人になる前に交わされた、最後の共感。