蘇るSSスレ

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49片桐恵支援SS「暴発の痕」シーン1
1日目 10時25分

ふと、歌が聴こえてきた。
不安になって、俺は恵を捜した。

「あら、今日はまた一段と早いのね」
「…いかにも待ち疲れました、って顔をしながら言う台詞じゃないよな、それ」
「別に疲れてないわ。私が勝手に早く来ただけだし。行きましょ」

恵は、店の入口に置いてある、犬の置物の陰に立っていた。
小柄な体が、台座を含めれば自分の背丈ほどもある物体の陰から出てくると、俺の腕を取って歩き出す。

この店の前で待ち合わせるのが、俺と恵の定番になったのは最近の事だ。
実のところ、俺はこの場所を避けたいのだが、恵はここがお気に入り。
その理由はおそらく同じで、店の前で流れているBGMにある。
新しいものでもない、さしてメジャーでもないこのタイトルは、何故か良く此処で流れている。
恵は、待ち合わせの間この歌を聴くのが好きで、此処を指定してくるのだった。

「うーん、CD買おっかな」
何度目か聞く台詞に、俺はいつもの嘘で答える。
「止めはしないが、俺はこの歌は嫌いだ」

「はいはい、わかってる。でも何故か聴きたくなるのよね」
恵が「何故か」と言う、その理由も、たぶん俺は知っている。

この曲は、今はもう無邪気な恵が、まだ無邪気でいられた時間の最後に、口ずさんでいた歌だから。
約400日前 10時15分

「何の曲?」
いつの間にか傍らに恵が来ていた。
「え?俺?」
指摘されて自分が口ずさんでいたことに気づく。
「あ・・・確かに」
「ふふ、変なの」
恵はごく自然に俺と肘を並べ、手すりに頬杖を突いた。
「いい感じのメロディ。何の曲?」



洋上で交わされた、何気ない会話。
1年と、もう少し前、俺と恵は、共通の友人のツテにより、高速クルーザーの試験航海に便乗する機会を得た。
当時、二人は別に恋人同士ではなく、船旅も二人きりのものではなかったが、
俺も恵も、お互いが気の合う相手である事は認識していたので、
船上で交わされる会話も既に「ちょっといい感じ」だったと自負している。
俺があの歌を口ずさんだのも、それに興味をもった恵の言葉も、そんな会話のひとつだった。



「何の曲?」
聞かれて初めて自分が唄っていることに気づいたのか、
恵は自分の口元に手を添えた。
「あら・・・うつった?」
だが、そのわずか数時間後、世界は暗転した。

偶然だったのか、必然だったのか、何が悪かったのが、それはわからない。
ただ、クルーザーが拾った一人の漂流者、いや、一体の野獣によって、
船上は、逃げ場のない地獄と化した。
俺達が気づかない程のわずかな時間で、船員達は全員が殺された。
残ったのは、俺と恵、俺の妹と、数人の友人達。

女は犯す。男は殺す。奴の行動は首尾一貫していた。
無差別の暴力が吹き荒れる中で、俺は奴から逃げ、対峙し、戦い、最後に辛うじて、奴を殺した。
友人達もまた、様々に行動した。多くは俺と共に戦った、奴に従う途を選んだ者もいた。

恵の行動は、どうにも単純なものではなかった。その分析も評価も、俺にはできない。
確かな事は、彼女もまた極限状態の中で必死に戦い、生き延びた事。
その過程で、俺と恵の関係が、めまぐるしく変化していった事。
そして、物語の最後に、彼女は記憶を失った。

だから、あの歌は、二人が今の二人になる前に交わされた、最後の共感。