にわかに騒がしくなった夜の学校とグラウンドとプール。
宿直のオヤジも今頃大慌てだろう。
…宿直のオヤジが俺を発見、通報したという考えはとりあえずプールの底にでも沈めておくことにする。二度と浮かんでくるな。
(状況を整理しろ、国崎往人…)
そう、これからの行動次第では臭い飯10年も地下帝国労働1000年もありうるのだ。普段以上にクールにならなければいけない。
入り口の影に気を配りながら、背後に佇む少女――カミオミスズに視線をやる。
意外だという感情と当然だという感情の入り混じった何ともいえない表情に見えた。混乱している。国崎往人は、混乱している。
どうする。どうする。
「…観鈴、もう帰る時間だ」
人影が姿を現した。疲労と心労が顔に刻まれた青年。中年かもしれない。恐らく中間管理職だ。
きっちりスーツを着込んだその姿は見ているだけで暑苦しい。国崎はクールビズの普及率の低さを嘆いた。
こちらに近づいてくる。どうやらこの幽霊少女のお迎えらしい。
…と、いうことはつまり。
(こいつも幽霊…いや、閻魔大王か!)
恐ろしい。最近は閻魔大王もスーツを着るのだ。
だが納得だ。クールビズは未だ地獄にまで普及してないのだ。
状況は刻一刻と悪化している。
さしもの人形使い国崎往人も、閻魔大王に見せる芸は持ち合わせていなかった。そもそも人形が無かった。
この中間管理職大王を打倒しても、グラウンドには大量のパトカー。
国崎往人・住所不定無職最大の危機であった。
……ここで退いては負けだ。人形使い国崎往人。伊達にあの世は見ていない。本当は見たことない。
「アンタ、何者だ」
一歩前に出る。揺れるナニ。…国崎往人は相変わらず全裸だった。
閻魔大王の顔に少なからず動揺の色が浮かぶ。全裸男を前にした、至って普通の反応だった。
だが、それも直ぐに元の無愛想な表情に戻る。スーツ男は大人だった。
「僕は、そこにいる子の……兄、みたいなものだ」
背後で少女が頷く気配。そのやり取りがあまりに自然で。思い至った。
(…待て)
こいつら、幽霊でも地獄の使者でもない…?
とことん理解の遅い男、国崎だった。
湧き上がる疑問。
こいつらは、何者だ。
途端、冷静になった。寒気がした。
そうだ。普通に考えれば俺のような不審者一人にパトカーが何台もやって来るはずが無い。
男国崎往人、犯罪に手を染めたことなど一度も無い。誓ってもいい。
だとすれば、あのパトカーの群れは俺の背後にいるスク水少女一人のためだけに在るということだ。
普通に考えればあり得ない事態。それが現実に起こっている。
国崎の脳裏を少女の顔がよぎる。背の傷跡がよぎる。
どうすればいいんだ。浮かんだのは、そんな言葉だった。
少女が実は大犯罪者だった。目の前の男は自首を勧めにやってきた。
少女が実は警視総監の娘だった。目の前の男は警察の偉い人の部下で、迎えにやってきた。
少女が実はルパンだった。目の前の男は銭形のとっつぁんで、捕まえにやってきた。
どれも違う気がした。
そして最後の――全く違う答えにいきついた。
少女も目の前の男もグル。最初から狙いはこの俺、国崎往人の力だった…。
母の言葉が思い出された。幼かった頃、旅の途中で聞かされた話。
往人。よくお聞きなさい。
私達が本当に恐れるべきもの…。
それは貧困でも、警察でも、保健所でもないの。
それは――――
怪しい研究所。怪しい研究施設。
そこに捕まったが最後。能力研究のため脳味噌は取り出されホルマリン漬けにされ、身体は機械を仕込まれ数々の人体実験を…。
よくて廃人。最悪どっかの秘密結社の怪人A。
国崎が代々受け継いだ力。法術。ライダーキックの前に倒れるわけにはいかなかった。
(逃げるか…?)
この包囲網の中、逃げ切れるだろうか…。
いや、寧ろ打倒する。男国崎往人の辞書には敗北も逃走も裕福の文字も存在しない。
「来い、地獄博士ッ!」
奇妙な構えを取る国崎。本人は至って真面目だ。
脳内で国崎流古流武術と名付けた。
「…君が何者かは知らないし、何を勘違いしているのかも知らないが」
溜息と共に男が吐き出す。これ以上厄介ごとを増やさないでくれといった感じだ。
「僕が用があるのは、そっちの女の子だ。君じゃない」
そう言うと背後の少女に手招きをする。無表情のまま、少女が国崎の脇をすり抜けていった。
どこからか取り出したバスタオルを少女に手渡す。
少女は機械的にそれを受け取り頭から被った。そんな少女の耳元でナニやら囁くスーツ男。
援助交際というやつは多分こんな感じなのだろうなと、国崎は思った。
何にせよ、危機は去ったことだけは分かった。構えを解く。神様、今日も人を傷つけずに済みました。
「ところで君は…いや、詮索は無用だね」
お互いにね。男の瞳はそう言っていた。
頼まれたって詮索なんてするものか。俺はただ平穏に暮らしたいだけだ。
ライダーと戦う日々なんてまっぴらごめんだった。
「先に出てくれないか。……大丈夫、君を捕まえたりはしない」
国崎の不安を感じ取ったのか、そう付け加えた。
断る理由は何も無かった。一刻も早く平穏な日々に戻りたかった。スリルとサスペンスは確かに日常のエッセンスだが、とりすぎは良くない。
踵を返し、プールを後にする。そんな国崎の背に声。
「…一つだけ忠告しておくよ。せめて下くらいは、隠したらどうだい」
勇者は、酷く赤面した。