「ん…」
「気がついたか」
月明かりが照らすプールサイド。水に濡れたむき出しのコンクリートにその身を横たえた少女を、国崎は見下ろしていた。
プールに飛び込んだ時に集中が途切れたのだろう。アヒルはどこかに行ってしまっていた。
変態、再び。
この年で泳げないとは、やはりブルジョワ階級の出だったか。わしわしと頭を掻きながら、国崎は少女に告げた。
「お前、もう帰れよ」
これ以上居ても楽しいことなど無いだろう。
そもそも、こんな夜中にわざわざ泳ぎに来るのがおかしい。
もし今夜自分がここに居なかったら、少女はどうなっていたのだろうか。
考えても仕方の無いことだ。歴史にイフももしももたらもればもないのだ。
「にはは」
プールサイドに腰掛け足だけを水につけている少女。
波紋が立つのが面白いのか、時折足をばたつかせている。
人の話を聞かない奴だと思った。
ふと、先程手が触れた少女の傷跡に目がいってしまう。
さっきは気が動転していた。翼のある人間など居るはずがないのだ。そういう電波話はあの部長の口から出るだけで充分だ。
大方事故か何かだろう。そう、思うことにした。
「お前、名前は」
旅をしてきた。
目的は――無いと言えば嘘になるが、本当にそれが目的かと問われればYESと答えることはできない。
そんな曖昧な旅を続けてきた。
この海辺の町に辿りついて、宿を探して、変な奴に捕まって…。
多少の予期せぬトラブルはあったものの、何時もの旅と変わらない。
出会って、別れて。そこに何かしらの感慨を抱いたことは無かったし、これからも無いと思っていた。
「?」
無垢な瞳が国崎を捉える。
「名前だよ、名前。あるだろ、お前にも」
何をムキになっているのか。孤独を愛し、一匹狼が信条――国崎往人は、そういう男なのだ。
それが、こんなブルジョワ娘の名前一つに何をムキになっているのか。
名前を名乗るのは嫌いだったし、名前を聞くのなんてもっと嫌だった。
名乗れば相手は俺の存在を俺として認識する。名前を聞いたら俺は相手のことを存在として認識しなければならない。
芸をして旅をする身には、どちらも余計なものだ。
雰囲気だ。雰囲気が悪い。
この少女の持つ雰囲気。夜のプールの雰囲気。雰囲気。俺は何時もどおり。クールでニヒルな人形使い。
あいにく人形は持参していないが。
沈黙が続く。
少女の視線があまりに無垢で。国崎は思わず顔を背けた。
「…あー、やっぱり言わなくても――」
「観鈴」
その横顔に、少女の声。
「神尾、観鈴っていいます」
「……そ、そうか」
聞いてしまった。カミオミスズ。
ミスズ。
なるほど夜のプールに相応しい名前だな、と。
多少混乱した頭で国崎は思った。
「塩素っぽいんだな」
「…え?」
「いや、何でもない」
また、沈黙。
やはり聞かなければよかった。それも、よりにもよってこんな得体の知れない女の名前。
まあ、いい。どうせ今夜限りだ。明日になったら忘れる。
ミスズ。
「あ、あのっ…」
沈黙を破ったのは少女の方だった。
プールサイドに立ち、真剣なまなざしでこちらを見ている。
「あなたの、お名前は、なんて――」
言うんですか。
最後の言葉は少女の口の中で消えた。
「俺は…」
言うのか。言っちゃうのか。
思考せよ国崎往人。こんな怪しい女に名前を教えていいのか。
よく考えろ。夜の学校、それもプールに、泳げもしないのに、わざわざやってくるような女だぞ。
よくて変人。悪くて幽霊だ。下手したら数日後は俺の口座から金がごっそりなくなってるかもしれない。
祖母の家に、おばあちゃん俺俺!往人だけど、人形で人轢いちゃってお金が要るんだよねー!とか電話がいくかもしれない。
……祖母は居ないし、口座なんて持った覚えもなかった。
ブルーになった。
「…どうしたんですか?」
「いや、なんでもない…」
改めて少女を見る。
そうだ、さっき自分で言ったじゃないか。どうせ今夜限りだ。
この哀れなブルジョワ幽霊娘に名前を教えてやって成仏させてやろう。
それがきっと、最高の手向けになる。
「いいか、よく聞け。俺の名前は――」
言葉は、パトカーのサイレンによって遮られた。
「!?」
聞き直せば聞き直すほどパトカー。決して救急車でも霊柩車でもない。
しかも近い。具体的には学校のグラウンド。
北のスパイが学校に侵入したのか。不良生徒が校内に陣取って魔物退治をしているのか。
宿直のオヤジが実は満月の夜になると人を殺したくなるという裏設定が発覚したのか。
…変質者がプールで泳いでいるのがバレたのか。
何にせよ、拙い。幼女にそばを奢ってやっただけでしょっぴかれるようなこのご時世だ。
いくらブルジョワ幽霊とはいえ、スク水少女と一緒にいるところなんて見つかったら臭い飯10年は確実だ。
それだけは避けねば――!
「観鈴っ!」
思考をぶった切る声。
プールの入り口に、人影があった。