――それから、二週間。
祐一君はあれ以来病室を訪ねてこなくなった。
ボクは胸に大きな穴が開いてしまったように感じるようになり、(実際のところ、事故で胸に傷痕はあったのだけれど)
度々病室を抜け出しては病院の裏にある草原で空を眺めるようになった。
ずっと寝たきりだったせいで体中がぎしぎし言ったけど、気にしない。
空はずっと遠くて、青くて――。
ここに居る間だけは、胸の穴のことを忘れられた。
身寄りの無いボクは、母親の親友だったという水瀬さんの家に引き取られることになった。
壊れてしまった世界。壊れてしまったボク。
その日は、草原に寝転がっていても胸の穴のことがずっと頭から離れなかった。
――もう、いいのかな。
視線を下げ、胸の穴を見つめる。
そこは冗談みたいなラクガキだらけの世界。
本当に、冗談みたいだ。
ボクは知っている。
これを押せば。これをなぞれば。
きっとボクは、壊れる。
やせ細って木乃伊みたいになった指を、そっと胸にあてる。
そして、力を、込め――
「そんなところで寝転がってると、蹴飛ばされるわよ?」
見上げた先には、長髪の女の人が、ひとり。
「…だれに?」
さも当然、という風に女の人は言った。
「決まってるじゃない。私によ」
その日、運命に出会う。
110 :
鍵姫:2005/09/24(土) 12:38:10 ID:cOQ5gcQiO
「まっ、いつものウチやったら自慢のバイクで引き殺してたとこやな」
「うぐぅ、おばさん、コワイ」
「ホンマ引き殺したろか…。まっ、病人みたいやし大目に見たるか。
ウチは晴子いうねん、アンタは?」
「ボクは水瀬あゆ!」
「水瀬?奇遇やなぁ。ウチの魔法使い仲間にも水瀬っておるん」
「エェ!?おばさん、魔法使いなの!?」
「晴・子・さ・ん」
「うぐぅ、ごめんなさい」
「とにかくウチは魔法使いや。ウチに不可能はないでぇ」
「じゃあじゃあ、この黒いラクガキみたいなものも見えなくするコトできる?」
晴子さんからもらった眼鏡をかけると不思議と黒い線は見えなくなった。
そのあとは晴子さんとたくさんおしゃべりを楽しんだ。
そんな中、一瞬だけ晴子さんの雰囲気が変わったときがあった気がする。
『ところで晴子さんは何で旅をしているの?』
『そやなぁ、失なった大切な娘を取り戻す研究の……、
なんつって、今のは冗談や。ホンマはぶらり温泉巡りの旅や〜。』
何だかよくわからないけど、とても悲しいのを隠すような。
しかし、別れてしまった今となっては気にしてもしょうがない。
それより、明日からはいよいよ、水瀬の家に戻れるんだ!
奇妙な雰囲気を纏った女の人との出会い。
後から考えてみればその時から、ボクの人生は狂いはじめたのかもしれない。
――違うか。
元から、狂ってた。
あの日の事故。灰色の空を見上げるボク。
虚ろな瞳で立ちすくむ男の子。
その、眼を、やめろ。
ボクは、彼の顔に手を伸ばす。
憎たらしい瞳に、ツメを立てる。
闇が流れ出てくる。
ボクはその闇に沈みながら、灰色の空を睨む。
夢はいつも、そこで醒める。
階下から、水瀬さんの呼ぶ声が聞こえる。
ボクは枕元に置いてある眼鏡を手に取り、かける。
世界はその真の姿を隠した。
全く反吐が出る。世界はこんなにも、死に満ちているというのに。
それは隠されてしまっているのだから。
再び、階下から声。
無気力にその声に答え、身を起こした。
――今日も、なんでもない一日が、はじまる。
112 :
鍵姫 第5話:2005/09/24(土) 14:36:29 ID:cOQ5gcQiO
水瀬家のみんなで食事をとる。
今まで病院の食事ばかりだったボクにとって、水瀬家の食事はとても暖かく感じられた。
食後、名雪さんは朝練らしくボクよりずっと早く、祐一くんは宿題が終わってないらしくずっと遅く出ることになった。
そういえば、玄関を出ようとしたときに、秋子さんから渡されたモノがあったっけ。
登校中の今のうちに確認してみると、「月宮」と書かれたナイフのようだ。
秋子さん、今日は調理実習はないよ…。
しかし、何て読むのだろう?ゲッグー?
と、そんなこんな考えているうちに、学校に到着した。
何ヶ月か振りの学校が始まる…。
「それでね、お母さん。今日は学校で…」
うるさい。
「お、今日の名雪は目が覚めてるじゃないか」
だまれ。
「あら、あゆちゃん。口の横にご飯粒がついてるわよ」
さわるな。
ミナセナユキ。
あの事故以来、キミは何度ボクを訪ねてきた?
わたし達、友達だよね。
嘘吐き。
ミナセアキコ。
ボクは知ってる。
月宮家の財産。あの裏山の土地。
今は全部、貴方のものなんだってね。
アイザワユウイチ。
その下賎な笑い。
―――口を縫い付けてやる。
その他人を見下した瞳。
―――そっくりくり抜いてゲロを流し込んでやる。
その人を馬鹿にした言動。
―――一度その腐った脳味噌を解体してやろうか。
アキコサンから貰ったナイフを懐に忍ばせ、学校への道をボクは一人歩き出した。