人形が真っ白に輝いていた。
自分の意識が、人形に吸い込まれていくのを感じる。
なんなんだろう…これは…
『…往人』
声が聞こえた。
『…今こそ、思い出しなさい』
懐かしい人の声だった。
『あなたのなすべきことを…』
おぼろげになっていく意識の中で、俺は必死に佳乃の姿を求めた。
思い出すことなんて、もう何もない。
なすべきことなんて、俺は知らない。
俺はただ、佳乃のそばにいたいだけなんだ。
ただもう一度、佳乃の側で穏やかな日々を過ごしたいだけなんだ。
ただ、佳乃を笑わせてやりたいだけなんだ。
もう一度… もう一度だけやり直せるのなら。
そうすれば、俺は間違えずにそれを求められるから…
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なにかが近づいてくる音だ。逃げなければ。
だけど、逃げずにいた。
その音が、なつかしいような気がして。
【声】「…あ〜っ、行き倒れ犬1号だぁ」
ぴと。 背中に、温かなものがさわった。
【声】「まだ生きてるかなぁ」
【声】「つんつん」
背中をつつかれる。
見上げても、まぶしくてよく見えない。
【声】「よかったあ〜、生きてるよぉ」
ただ、声だけが聞こえる。
【声】「この子犬、かわいいよ〜」
なでなで なでなで…
気持ちがいい。 いつまでも、そうしていてほしい。
冷たい石の階段に彼女が横たわっていた。
「魔法で…行けるよ…」
彼女の目が閉じる。
「お母…さん… 今…行くから…」
手首から赤いものが広がっていく。
そして、その顔が、すべてのしがらみから解き放たれたように無表情となる。
もう苦しみも、悲しみも、喜びもない。そんな表情だった。
また…繰り返すのか。僕は唐突に、そう感じた。
いつか、こんなことがあった気がする。
遠くて古い記憶。頭が…痛む。
そして、恐怖を感じる。
このまま、その向こうに行ってしまえば、僕は消えてしまう。
嫌だ…そんなのは嫌だ…
でも、自分の中で大きくふくらんでゆくものは、止めようがなかった。
今日までの日々を僕はさかのぼってゆく。
佳乃との暮らし。地面で動けなくなっていた日。
僕が生まれた日。
そして、その向こうに、別の光景が待っていた。
………。
頭が痛む…
あるべき自分に、俺は還ろうとしている。
この記憶は思い出してはいけない記憶だった。
人の記憶は、この体にはあまりに大きいものだった。
記憶とちしきが…こぼれてゆく…
目のまえにみえるものが…わからなくなる…
よかった、と思う。
ふたたび人だった記憶をうしなえば…
俺は、苦しむこともない…。
ひとでない自分のからだをのろうこともない…。
もうえいえんに、彼女をうしないつづけることもない…。
よかった…。俺は目を閉じる。
………。でも…
それでも、俺はまだ願うのだ。
佳乃のそばにいたい。居続けてたい。
これから先も…俺がどうなろうとも…
だから今、やらなければならない。
今、がんばらなければ、永遠にうしなってしまう…
だから、佳乃を連れ戻さなければ。
そうだ。かつての俺の力なら佳乃を連れ戻せるかもしれない。
俺が完全に消えてしまう前に“俺”を探し出さなければ。
「ぴこぴこーーっ!!」
俺は転がるように参道の石畳を疾走していった。