639 :
音楽鑑賞1:
うとうとと夢を見ていた。
ずっと昔、幼い僕たちが知り合ったばかりのころの夢……
『音楽鑑賞』
とても綺麗な海の中だった。
水の色はどこまでも青く、たくさんの魚たちが自由気ままに泳ぎまわっていた。
上を見上げれば、僕の背丈ほどもある大きなヒレを広げたエイが、頭の上をゆっくりと通り過ぎていく。
その傍らでいろんな色や形の小魚が舞い、横を振り返ればマグロの群れがキラキラと金属質の輝きを放ちながら僕に近寄ってきたりして……
僕は、まるで幻を見ているかのようなぼんやりした瞳で光景に見とれていた。
そうして気がつかないうちに、ずいぶん時間が過ぎていたんだろう。
いつのまにか僕は一人ぼっちだった。
さっきまで確かにみんなと一緒にいたはずなのに……
ぐるぐると周りを見回してみても、見知った顔のひとつも見つからなかった。
右も左も、青い青い水の輝きと大きなぎょろ目を剥いた魚ばっかりで、僕は異世界に一人迷い込んでしまったような気分になる。
少し心細くなりはじめた、その時だった。
640 :
音楽鑑賞2:2005/03/28(月) 07:54:10 ID:NxwJ303q0
突然、手を引っ張られた。
びっくりして振り向くと、そこに草壁さんがいた。
目が合うとにっこり笑って、
「こっちだよ」
と、通路の一角を指差した。
僕は、まるで救いの女神さまが現れたように思って、草壁さんの手を握った。
と、草壁さんはいきなり僕の手を引いて歩き出そうとする。
「ちょ、ちょっと待ってよ草壁さん」
いきなりどこへ連れて行こうとするのさ、と文句を言おうとすると、草壁さんはびっくり顔をして唇を尖らせた。
「河野くん。私、草壁って名前じゃないよ」
「え?」
「……草壁は私のお母さんの名字」
あれれ、そうだっけ?
僕は目の前の女の子を見つめなおす。
僕と同じクラスの、僕も良く知っている女の子。黒くて長い髪の毛と、頭の上のほうについたかわいい髪飾りが彼女の目印だ。
ちょっと人見知りするけど、優しくて良く気が付いて、それからおとぎ話が好きで……。
名前は……ええと、高城さんだ。高城優季。僕は何を勘違いしていたんだろう。
「……高城さん」
「うん!」
高城さんは納得したような表情で、また歩き始めた。
エイやマグロの泳いでいる水槽を離れ、回廊のように曲がっている通路の奥へ。
高城さんに手を引かれながら、僕は疑問を口にした。
「ねえねえ、僕をどこへ連れて行くの」
「さぁ? どこだと思う?」
高城さんの答えはそっけなかった。
僕は真剣な気持ちで聞いているのに、彼女はとてもいたずらそうな目で僕を困らせるばかりだ。
「イジワルしないで教えてよ」
「だ・め。河野くん私の名前間違えたから教えてあげない」
ぴしゃりと言われてしまった。
本気で怒っているわけじゃないんだろうけど……。
仕方なく、僕は黙りこくって高城さんの後を付いて行った。
641 :
音楽鑑賞3:2005/03/28(月) 07:54:51 ID:NxwJ303q0
そのうち通路はどんどんうす暗くなってきて、周りの水槽を泳いでいる魚もさっきのみたいにきらきらしたものではなく、青白くて不気味なものばかりになってきた。
枯れ草みたいにひょろ長いウミヘビとか、耳元まで口が裂けたアンコウとか……。
高城さんは先に立ってずんずん歩いていくけれど、僕はなんだか異次元へ誘い込まれているかのような錯覚で恐怖さえ感じてしまう。
「ね高城さん? 本当に大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。任せて」
何も心配していないような高城さんの態度が、かえって僕を不安にさせる。
いったいどこへ連れて行かれるんだろうか……。
僕は落ち着きなく、目をきょろきょろ動かしながら、通路の奥へ奥へと進んでいった。
そのとき僕はあることを思い出した。
そうだ。今の僕の状況と同じように、海の底へ連れて行かれて……っていう話があったじゃないか。
その通りなら行き着く先はべつに恐いところじゃないはずだ。
僕の心の中に、一筋の希望の光が差し込んだみたいだった。
「ねえ高城さん」
思いきって聞いてみた。
「ひょっとして、高城さんの連れて行ってくれるところって……竜宮城?」
「……!?」
高城さんは、俺のほうを見て目をぱちくりさせると、次の瞬間、とても大げさに笑い出した。
642 :
音楽鑑賞4:2005/03/28(月) 07:55:51 ID:NxwJ303q0
「ごめんごめん……」
しばらく経ったけど。
いまだに虫が治まらないのか、高城さんは目に涙の粒さえ浮かべて笑いをかみ殺している。
普段おとなしい彼女があんまり笑うもんだから、僕のささやかな怒りもどこかへ吹っ飛んでしまったくらいだ。
笑うなんてひどいよ、とすっかり毒気を抜かれた文句を言うと、
「そうだね、ごめん……。海の底といえば竜宮城だよね」
高城さんはまるで可愛い子供を見るような目で、僕を見た。
僕はいまさらになって恥ずかしくなる。
良く考えたら竜宮城なわけがないじゃないか。仮にもここは水族館の中なんだぞ。
そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、高城さんは一層ご機嫌だった。
彼女はこういうおとぎ話の類が大好きだったから。
「どうぞ浦島太郎さま」
すっかり乙姫さまに成り切ったかのような高城さん。
「竜宮城へようこそいらっしゃいました。おもてなしに歌でもお聞かせ致しましょうか」
大人びた口調で口上を述べると、優雅に膝を折る。
つられて僕もお辞儀をしてしまう。ほんのちょっとした真似事なのに。
けれど、そういうのは嫌いじゃなかった。
「ぜひ聞かせてよ。でも、どうして歌なの?」
僕がそう訊いたのは、乙姫様ならもてなすべきはご馳走じゃないかと思ったからだ。
「ご馳走なんて用意できないでしょ」
そりゃそうだ。
643 :
音楽鑑賞5:2005/03/28(月) 08:02:31 ID:NxwJ303q0
ゆらゆら揺れる光が、まるで特設のステージライトのよう。
やわらかく幾重にも帯を巻いて、上質の天鵞絨のような美しさを輝かせる。
その真ん中に立った高城さんは、さながら高貴なドレスを纏ったお姫様だ。
僕がそのことを褒めると、彼女は心なしか頬を紅く染めて、今までに見たことがないくらいの笑顔を浮かべて……。
それがまた、どんな手の込んだお化粧よりも彼女に似合っているように思うのだった。
そして、たった一人の観客のために、彼女のコンサートが始まった。
決して上手くはないけれど、誠実で、どこか暖かみのある歌声が僕の耳に届いてくる。
僕は静かに目を閉じた。
目を閉じると、本当に竜宮城の舞台で乙姫さまの歌声を聴いている気分だった。
乙姫さまの歌は、とても優しかった。
僕の中にすうっと入ってきて、不安で震えていた心を陽だまりのような暖かさの中に包み込んでしまう。
まるで、僕の体全部が、高城さんの温かい手のひらに包まれたみたい。
これは高城さんの優しさなんだろうか?
心細くないよ、寂しくないよって、励まされているようだ。
なんだかひとりでに涙が零れてきそうになって、僕は唇をぐっとかみ締めた。
歌が終わっても、僕はなんだか頭がぼんやりして、夢の中を漂っているような気分だった。
高城さんは礼儀正しく深々とお辞儀をすると、僕のほうを見て言った。
「えと、どうだった……?」
その言葉に僕はきょとんとしてしまう。
あとから考えれば、高城さんは感想を聞きたかったのだと思うけれど……。
そのときの僕はぼんやりしていたので、彼女が何のことを聞いたのか分からなかった。
僕があやふやな返事をしたせいだろう、彼女はその可愛い眉をひそめた。
「河野くん、歌好きだよね……? 趣味は音楽かん賞だったよね?」
え……っ!?
644 :
音楽鑑賞6:2005/03/28(月) 08:04:59 ID:NxwJ303q0
僕たちの学校の通知票には特技や趣味を記入する欄があって、学期の終わりにはその欄を埋めて先生に見せなければならなかった。
けれど幼い僕たちのことだから、趣味なんて聞かれてもよく分からなくて、大抵の子は思いついたものを適当に書いて済ませていた。
むろん、まじめに書いている子もいたろうけど……。僕もご多分に漏れず、適当に書いていたうちの一人だった。
そのときも、誰かが「音楽かんしょう」と言い出して、僕はそれを真似しただけだった。
だいたい僕は、音楽鑑賞の正確な意味さえ分かっていなかった。
ただ、音楽っていうのが、どっちかっていうと女の子っぽい趣味だな、と思っていた程度だ。
だからこのとき、高城さんが趣味の話を持ち出したとき、僕は本当にびっくりしたと思う。
どうして彼女は僕の書いた内容を知ったのか。
通知票に適当に音楽鑑賞と書いたのは事実だけど、それを肯定したくはなかった。
女の子っぽい趣味の持ち主だと思われるのは真っ平ごめんだった。
そんな趣味の持ち主を、彼女はきっと軽蔑すると思ったから。
幼ごころに僕は高城さんのことが好きだった。
軽蔑されたくなかった。嫌われたくなかった。
僕の体の中を渦巻いていたいくつもの感情を、幼い僕は幼い少女にどう伝えれば良かったんだろう。
混乱する頭を抱えて、僕は、口を開いた。
「僕……音楽好きじゃないんだ」
「え……!?」
「音楽かん賞とか、趣味じゃないから……。だから、高城さんの歌もつまらなかったよ」
高城さんの顔が、急に曇ってゆく。
きゅっと唇を噛んで、瞳をうるうるに潤ませて下を向いてしまう。
さっきまでの笑顔なんかかき消されてしまって。
しまった、何か声をかけなきゃと思ったけれど、僕の頭の中はもうぐちゃぐちゃで……。
とても気まずい雰囲気の中で、今にも泣き出しそうな高城さんを見て、
僕はその場にいたたまれなくなって、駆け足で逃げ出したんだった。
645 :
音楽鑑賞7:
そのあとどうなったのか、僕は覚えていない。
覚えていないってことは、特に問題もなくて出口に辿り着いたんだろう。
そしてクラスメートの群れに混ざって、何食わぬふりで学校へ戻ったはずだ。
高城さんにはちゃんと謝れたんだろうか。それとも……。
夢は、そこで終わる。
……。
「あ……起こしてしまいましたか?」
夢から覚めると、目の前に草壁さんの顔があった。
思わず名前を呼びそうになって、慌てて口をつぐむ。
えとえと……今度こそ間違いないよな。正真正銘の草壁さんだ。
昔の高城さんと同一人物だけど、今の名前は草壁さんで、俺の学校の同級生で、黒髪が綺麗で、スタイルが良くて、ちょっとメルヘンチックで、とても優しく笑ってくれる今の俺の恋しい人だ。
「ごめん、俺……」
「いえ。私もうとうとしていましたし……それに、退屈はしませんでしたから」
草壁さんは静かに笑って、頭上を見上げた。
俺たちは水族館デートの途中で、通路脇のソファーにもたれて休憩していたところだった。
「ここは、水槽のいちばん底の部分にあたるんですね。青い青い海の底。きらきら輝く水の色が綺麗でまるで夢の世界を見ているよう。こんな美しい光景を目にしながらのんびりした時間を過ごせるなんて、ふふっ、とても素敵だとは思いませんか?」
草壁さんにつられるようにして、俺も上を見上げる。
大きな水槽の青い色と、その中を悠然と泳いでゆくジンベイザメ。
俺が夢の中で見た大きなエイは、どこを探してみても見つからなかった。
ふいに、俺は思い当たる。
「草壁さん、いま歌……歌ってたでしょ?」
聞かれて、草壁さんは目をぱちくりさせた。
「え……あの……? どうして分かったんですか? 貴明さん、実は狸ねむりだったとか、もしくはエスパー……? ああ、貴明さんにそんな力があったなんて私ぜんぜん……。あ、それじゃ、あの……とか……の事も……」
なんだかおろおろしている草壁さんはそれはそれで可愛らしかったけど、その反応で俺の知りたかったことは分かってしまった。
どおりで、夢の中の高城さん、あの歳にしては歌が上手すぎると思ったよ……。
……なんて言えないよな。恥ずかしいし。
「……あの時はごめん」