葉鍵的SSコンペスレ15

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587趣味と実益の狭間で ◆DFPMjwTAag
 ビタミンと水分が抜けきり、真っ赤に充血した眼。
『かゆみ』に眼の殆どを支配されたかのような気分で時計を見遣る。
 時計の短針は4の辺りを指し、長針は9を廻ったという事実が視覚から脳へと伝わり
眼の前の現実を俺の口からため息混じりに漏らさせるのに数秒かかった。
「もう5時かよ…」
 勿論、一日の疲れを食事で癒す夕食の時間を間近に控えた『午後5時』ではない。
 新たな一日を迎えるにあたり、多くの人々は未だ温かい布団の中で最後の眠りを貪っているであろう
『午前5時』。
 そんな時間に俺は机に向かい、ひたすら頭に浮かんだアイデアやネタを脳内で咀嚼し
それらを眼の前にあるケント紙に『絵』という形で再構成していた。
 黒いインクや、規則正しく並んだ斑点や線の集まりであるスクリーントーンがその紙の
面積のごく一部だけを占めているだけで、殆どが空白のままであるという紙切れが
今の俺の切迫した状況をそのまま表している。
 下書きは省いて、それで空いた時間をネタ出しとペン入れに費やし尚且つそれを同時に
やってストーリーと絵柄のレベルを落とさずに、作品そのもののクオリティアップを図る…
といえば聞こえはいいが、何の事はない。
 締め切り期日が間近に迫る今までに全然ネタが浮かばず、机の上で悶々としていて
無為に過ごした時間のツケを今此処で払わされているだけのことだった。
588趣味と実益の狭間で ◆DFPMjwTAag :2005/03/27(日) 13:24:38 ID:Ypp4oNSS0
 俺は、紙の上でのろのろと動く自分の手を止め、背後のちゃぶ台で一心にベタ塗りや
スクリーントーンの切り貼りに勤しんでいる、高校以来の友人の姿を見遣る。
 頭をちゃぶ台につくかつかないかの所まで下げているゆえに、そのトレードマークの
見事なまでに長いサイドポニーが横顔を隠すように垂れ、その多くはちゃぶ台の上に
ばらりと広がっている。
 傍から見ると、机に顔を近づけひたすら勉強に打ち込んだ挙句眼を悪くしたものの
懲りずに机に顔を近づけたまま本やノートに向かい、更に眼を悪くする…といった悪循環に
陥っている『ガリ勉』以外の何者でもない。
 もっとも、その豊かな髪の毛を汚さないよう、そして作業の邪魔にならないように
原稿用紙にあまり近づけないようにしている姿勢が、男以上に身だしなみに気を遣う女であることを
雄弁に語ってもいた。
 高瀬瑞希。
 高校以来の友人であると同時に、大学入学と同時に始めた同人活動に理解をしてくれ
プロの漫画家としてデビューする端緒となったのみならず、俺がマンガを描く作業を
手伝ってくれているベストパートナーでもあった。
 とはいえ、あくまで素人同然のアシスタントであるが故に、今手伝ってもらっているベタ塗りや
トーン貼りもあまり細かい作業を要する箇所は頼んではいない。
 それでも、瑞希によって幾分俺の負担が軽減されているのもまた事実であったが。
 俺は作業の手を止め、作業に打ち込む瑞希を姿を盗み見る。
 普通なら、顔をほんのりと赤らめながらとはいえ「な…何ジロジロ見てんのよ! バカ!」
という悪態の一つでも覚悟しなければならない行為だが、眼の前の原稿用紙に意識を
集中している今ならそのようなリスクを負うこともないだろう。
 瑞希が手を動かす度に、シャッシャッとペンと紙とが擦れ合う音が、さほど広いとはいえない
俺の作業部屋にかすかに響く。
589趣味と実益の狭間で ◆DFPMjwTAag :2005/03/27(日) 13:25:10 ID:Ypp4oNSS0
 一心に机に向かうに瑞希の様子を確認し、俺は既に書きあがって後は印刷されるのを今か今かと
机の端っこで待っているマンガの原稿を左手で取り、おもむろに右手でズボンのファスナーを
下ろした。
 別にマンガのように『ジジー』という音がするわけではないが、今の俺にとってはは
微かな金属音すらも『瑞希がこちらを向くのではないか』という警戒心を呼び起こす
ものだった。
 下着の布と布との境目から、いきり立ったナニを取り出し、右手で握りこんで少しずつ
擦り始める。
 左手で持っているマンガの中で、瞳からは涙を、だらしなく開けられた口からは涎を垂らし
そして男の屹立し、脈打つ肉棒をぱっくり開いた股間の秘裂に受け入れ、汗と分泌物を
飛び散らせつつ愉悦の表情を浮かべている女の子の痴態が、俺の勃起中枢を刺激する。
 その女の子は、薄い紺色のスカートに、太股までの長さの白い靴下を穿き、スカートの
色に合わせた紺のチェックのブラウスに白いGジャンを身につけ、長い豊かな髪の毛を
サイドポニーにしていた。
 勿論そのサイドポニーは、大きな黄色いリボンで纏められている。
 彼女の名前も、ちゃぶ台に向かって黙黙と作業している女の子と同じ『高瀬瑞希』だった。
590趣味と実益の狭間で ◆DFPMjwTAag :2005/03/27(日) 13:25:43 ID:Ypp4oNSS0
『ちょっ…止めなさいよっ! バカァっ!!』
『ああん? そう言っている割に下の口はずいぶん素直じゃねえか!』
 良く言えば読者にとって予定調和的、悪く言えば聞くからに頭の悪そうなセリフを
恥ずかしげもなく吐く『男』に自らをなぞらえて『作品の中で男に犯され、はしたないよがり声を
上げる瑞希』を『今、此処にいる俺』が犯している気分に浸り始める。
 別に俺はおかしくなったわけではない。
 エロマンガをネタに抜いているなんて事は、心身共に健康な男子であれば誰でも少なからず
していることだ。
 ただ、俺の場合は、友人である瑞希をエロマンガのネタにし、尚且つそれを自分が抜く時の
ネタにしているだけのことだ。
 手を伸ばせば届く所に、ちょっとわがままな所があるが本当はしおらしく、テニスのみならず
スポーツを大いに嗜むその性格が作り出した、出る所は出て締まる所はしっかり締まっている
素晴らしいプロポーションを誇り、そして、俺の前では喜怒哀楽の表情を包み隠さずに映し出す
可愛らしい顔をした瑞希かいるにも関わらず。
 なぜ俺は、今此処で一緒にマンガを完成させるべく作業に没頭している瑞希に興味を失い
自分で書いたマンガの中にいる『瑞希』に欲情するようになってしまったのだろうか…?
 そもそも、『何故』『俺』は『今』『ここ』で『エロマンガ』を描いているのだろうか…?
591趣味と実益の狭間で ◆DFPMjwTAag :2005/03/27(日) 13:27:21 ID:Ypp4oNSS0
 話は一年以上前に遡る。
 悪友の大志に半ば唆されるような形で『同人稼業』の世界に飛び込んだ俺だったが
こみパでの由宇や詠美、彩の『自分の創作物を見知らぬ他人に発信する熱気』を感じ
自分の心の奥底で蠢く何かが動かされた。
 美術系の大学を志望していたものの、それが叶わずにごく普通の大学に入った今の自分の
状況が、その熱気に共感する素地を作り出していたのかもしれない。
 そして俺は、普通に大学生活を送りつつマンガを描く自分を、美大で絵を描く自分に
なぞらえるかのように、頭に浮かんだネタを原稿用紙の上で実在するものにする行為を
繰り返してきた。
 自分が楽しむという、いわば趣味の延長で他人も楽しめるように。
 そして『本』という形にし、こみパで不特定多数の人々に頒布したわけである。
 メールや同封のアンケート、果てはこみパの会場で直接読者からの絶賛や感想、厳しい指摘
声援…等が反応として帰ってきた。
 中には作品と関係ない誹謗中傷の類もあったことはあったが、好意的な感想が多くなっている
事実の前では大した問題ではなかった。
 そして大志から『同人王』の称号を得(本当にそんなものがあるか、得たとしても
それが何の役に立つのかはまた別の問題だが)、澤田編集長に『アマが集まるこみパではなく
プロの編集者と書き手が集まる雑誌であなたの腕を振るってみませんか』という誘いを受けて
今に至るわけである。
 尤も、少年誌や青年誌ではなく男性向けの『成年誌』―所謂エロマンガ―に活躍の場を
与えられたのだが。
592趣味と実益の狭間で ◆DFPMjwTAag :2005/03/27(日) 13:44:07 ID:Ypp4oNSS0
 それに対して別に不満があるわけではない。
 元ネタである1次作品の世界観やキャラを活用してエロ同人に勤しんでいた俺にとっては
スカウトがあるとすればそういうところから来るのが至極当然の話だし、生計を立てる
という意味でも身に余る程の僥倖でもあった。
 そして今、俺は商業雑誌に掲載される予定のマンガを描いている。
『期待の新人登場』というアナウンスと共に巻頭に掲載される予定なのだが、肝心な
マンガを描く手がいまいち進まないのである。
 俺は作業の進捗状況が大幅に遅れているという現実から眼を背けるかのように、ナニを握り締める
手に更に力を入れ、サオを扱く手の動きをも早めて、紙の上で淫猥な舞いを舞う『瑞希』を
犯すことに意識を集中し始めた。
 実際の瑞希ではなく、俺自身が描いた『瑞希』を頭の中で本能の赴くまま好き勝手にする
この行為は別段今始まったわけではない。
 今、手がけているマンガを描く手が初めて止まってしまったのがその発端だった
593趣味と実益の狭間で ◆DFPMjwTAag :2005/03/27(日) 13:49:07 ID:Ypp4oNSS0
 和樹に与えられた作業を丁寧に、確実にこなすべくひたすら机に向かっている私。
 とはいえ、和樹が身動きした気配に感づかないほど鈍感ではない。
 小刻みに震える和樹の身体に合わせ、座っている椅子の背もたれが不自然な動きをし
椅子の脚と床とがカタカタと触れ合う音がし始めた。
『ったく…。また始めたのね…』
 そう一人ごちた私は、最早忘却の彼方へ押しやることが出来ないであろう忌々しい
ここ数日間の記憶を呼び起こした。

「瑞希。俺に漫画を描いてくれという依頼が来たんだ」
「ほんと!? すごいじゃない和樹。自分の趣味が仕事になるなんて。で、どんなマンガを描くの?」
「いや、それが…大人の、男向けのなんというか、Hな漫画で…」
「そ、そう…。で、でも、どんな形ででも和樹が描いたマンガが評価されるのは、嬉しいから…」
「そこで相談があるんだが…、瑞希をモデルにしたヒロインを登場させたいんだ」
「…私、が…? どうして…?」
「出来れば漫画を描くのも手伝って欲しい。これから二人で一緒に生きていく上での
初めての共同作業ということにしたい」
「で、でも…恥ずかしい…」
「俺は瑞希を描きたいんだ」
「和樹…」

 そして修羅場の幕が切って落とされた。
594趣味と実益の狭間で ◆DFPMjwTAag :2005/03/27(日) 13:49:49 ID:Ypp4oNSS0
「和樹ぃ〜。眠い眠い眠い〜」
「俺だって眠い」
「気分転換にテニスでもしに行こうよぉ〜」
「そんな時間なんてない」
『俺が漫画を描くのを手伝ってくれ』という和樹のいうまま、渡される原稿に向かってはいたが
これほどの重労働だとは思っていなかった。
 スポーツをした後のように、肉体的には疲れているが精神的には満たされているという
すがすがしい疲れではなく、肉体的にも精神的にもどんよりねっとりとした疲れ、まさに
『疲労困憊』という言葉に相応しい疲れが和樹には勿論、私にも覆い被さっていた。
 私にとっては、漫画を描くのを手伝うのは初めての経験で、とにかく和樹から手渡される
原稿を台無しにしないよう、丁寧に仕上げるという精神的な重圧は相当なものだった。
 そういったプレッシャーの中で要求される細かい作業が、私の指先や手首、ヒジや肩に
痛みやコリという形で肉体的な疲労を残していった。
『Hな漫画に私をモデルにした登場人物を登場させられるだけではなく、それを仕上げるのを
手伝わされる』事への羞恥心は、疲労と睡眠不足の前にあっさりと何処かへ押しやられてしまっている。
 いきなり立ち上がった和樹が、いかにも不機嫌そうな足取りでコーヒーメーカーへと向かう。
 先程までビーカーの中になみなみと満たされていた黒く熱い液体はすでに二人の胃袋の中に
収められていることに気付いた和樹が言った。
「瑞希…ブルーマウンテンを買って来てくれ」
「へ…」
 睡眠不足でもやのかかった頭の中で、私は和樹の言うことを理解しようと務めた。
「ブルマンだ。今まではブレンドだったが、やっぱ高級な豆が眠気覚ましにもいいだろう」
「わかった…買って来る…」
595趣味と実益の狭間で ◆DFPMjwTAag :2005/03/27(日) 13:50:33 ID:Ypp4oNSS0
 正直、どんな理由であれ、少しでもこの缶詰状態から抜けられるという喜びのほうが
大きいくらいだった。
 和樹から財布を受け取った私はのろのろと立ち上がり、半ばよろけながら玄関へと
向かい、外へ出る。
 私は数日ぶりに浴びる太陽の光の温もりを存分に楽しみつつ、ゆっくりと歩き始める。
 が、身体は起きてても、頭は覚醒していないことは、買い物によって証明されることとなった。
「和樹〜。買ってきたよ〜」
「ずいぶん遅かったけど、いい気分転換にはなっただろ」
「まあね、はい。サイズは適当だけど」
「…サイズ?」
 いぶかしげな表情を浮かべる和樹に、私は紙袋から『買って来た物』を取り出した。
「…ってこれブルマじゃないか!」
 濃紺の厚ぼったい布でできた女子専用の体操服を眼の前で広げて和樹は言う
「だって和樹が買って来いって言ったじゃない!」
「俺が言ったのはブルマンだって! コーヒーの! ったく、勿体無いから俺が穿く!」
 そう言いつつ和樹はズボンを脱ぎ、ブルマを穿き始めた。
 女性用下着と大差ないデザインの布切れは、和樹が穿いている下着を完全に覆うわけではなく
いたるところからトランクスの端っこをはみ出させている。
 和樹が着替え(?)を済ませたのを見計らったように電話が鳴った。
 その表情が、明らかに狼狽したものへと変わる。
 その一連の表情の変化は、否が応でも『借金取りから逃げ回る債務者』を髣髴とさせた。
596趣味と実益の狭間で ◆DFPMjwTAag :2005/03/27(日) 13:51:07 ID:Ypp4oNSS0
「和樹ぃ、電話、鳴ってるぅ…」
「瑞希が出てくれ。多分担当者からだ。『もう半分は描き終えました』『進捗状況は順調です』
と言ってくれればそれでいい」
「ん〜っ、もう〜」
 私はふらつく足取りでしつこく鳴り続ける電話機に向かい、受話器を取った。
「はい。高瀬です」
『あ、私は千堂さんを担当させて頂いてもらってる者ですが、千堂さんはいらっしゃいますか?』
 相手の少し焦りを含んだ慇懃丁寧な話し振りも、今の私には子守唄にしか聞こえない。
 勿論、何故和樹に電話してくるのか、そして何故和樹が電話に出るのを嫌がるのか
そして、どう贔屓目に見ても半分も描き上がったとは言えないにも関わらず、私に対し
『半分は描き終えたと言え』と強要する理由を想像することは、今の私の脳にとっては
無理な相談だった。
「和樹は…いますがぁ…、本人はなんだか電話に出たくない様子でしてぇ…」
『じゃあどこまで書き上げたかはご存知ですか?』
「さあ…。ただ、かなり煮詰まった様子なのはわかります…」
『そうですか。では失れぃι…』
 一際大きい睡魔の波が私に襲い掛かり、電話口から聞こえてくる声がぷつりと途絶える。
 結局、既に電話が切られていたことを知るのは、和樹が私がいないことに気付き、電話台に
寄りかかるようにして眠っているのを叩き起こした時だった。
 そのとき和樹は『寝るな! 寝ると起きられなくなるぞ!』と大声で叫んでいたっけ。
 雪山で遭難した二人じゃあるまいし。
 さすがに自分のしていることの愚かさに気付いたのか、和樹は私が買ってきたブルマから
自分のズボンに履き替えていたのがせめてもの救いだった。
 目覚めにあんな紙一重の格好を見せられたのではたまらない。
597趣味と実益の狭間で ◆DFPMjwTAag :2005/03/27(日) 13:51:58 ID:Ypp4oNSS0
 締切日が近づくにつれて、和樹は奇妙な行動を取るようになった。
 それに初めて気付いたのは、私の頭が猪脅しよろしくカクン…カクンとのめりこんだり
戻ったりを繰り返した挙句、額を机にごちんとぶつけた時だった。
「ん…」
 覚醒した頭に『原稿は無事か』という不安が広がる。
 焦点の定まった眼で、机上の原稿に何ら変わったところのないのを確かめ、安堵の息を漏らした。
 以前、私が居眠りして原稿に倒れこんだときは、私の睡眠不足を心配する前に原稿に
インク擦れが生じてないか、トーンがずれてないかを心配した挙句、ものすごい剣幕で
私に詰め寄ったものだった。
 血相を変えて私の襟首をむんずと掴み上げ
『もし締め切りに間に合わなくなったならコロスぞ!』
という脅しのおまけ付きで。
 そっと和樹の方を見ると、別に私の居眠りを咎める様子は見受けられない。
 原稿にのめりこんでいる姿勢は相変わらず…ではなかった。
 机に上で次々とストーリーを生み出しているハズの和樹の右腕が下腹部の辺りにあり
腕と上半身とが小刻みに震えているのが窺い知れる。
『ちょ…ちょっと…これって…』
 知識としては知っていたが、後姿とはいえ実際にそれを見るのは初めてだった。
 女ではなく、男が自分で自分を慰める行為を。
 不潔感よりも、むしろ好奇心の方が刺激され『ナニを考えてそういう行為に浸っているのか』
という疑問の答えを見出した私は複雑な気分になった。
 私をモデルにしたヒロインが登場するHな漫画をオカズにしているのだから、和樹の頭の中は
当然、私で一杯になっているのだろう。
 今までに仕上げた原稿を見る限りでは、女のキャラクターは一人しか登場していないし
『浮気』している可能性はかなり低い筈だ。
 尤も、頭の中は『私の知らない誰か』で埋め尽くされているのかも知れないが…。
598趣味と実益の狭間で ◆DFPMjwTAag :2005/03/27(日) 13:59:50 ID:Ypp4oNSS0
 デビュー作である漫画を描き始めて以来、傍から見るとロクな思い出がないようにも思えるが、
私は和樹のことが嫌いになったわけではない。
 同人活動に打ち込む、漫画を描くことに力を注ぐ和樹の姿を見て、友達付き合いから
男と女の付き合いへと変わるのにさほどかからなかった。
 漫画を描くのはオタクっぽいという偏見も、気に入らないものにレッテルを貼って
自らを正当化しようとしていただけに過ぎなかったのではないかとも思い始めるに至った。
 そして自分の好きなこと―漫画を描くこと―で生計を立てる、プロとして生きていくという
今の和樹の姿勢をも含めて、好きになったのである。
 とはいえ、私の心の奥底にある女としての心情を一言で表すとこうだ。
『和樹のバカ…』
 同じ部屋に、紙の上に描かれた『瑞希をモデルにしたヒロイン』ではなく、和樹の身の回りの
世話をするのみならず原稿をも手伝っている『本物の瑞希』がいるにも関わらず、
『そのような行為』に浸られてはどうしても嫉妬心が芽生えるのを押さえきれない。
 私は、思考が迷走し始める前に、意識を眼の前にある紙切れに戻した。
599趣味と実益の狭間で ◆DFPMjwTAag :2005/03/27(日) 14:00:36 ID:Ypp4oNSS0
 俺が、自分で描いた瑞希に欲情し、それをネタにしてカク…なんて行為を始めたのは
ある事に気付いた時だった。
 そう、漫画の最初の読者は他ならぬ自分自身であるということに。
 今の仕事を初めて以来、俺は顔も知らないどころか何人いるのかもわからない読者を
勝手に想像し、その期待に応えるべく色々試行錯誤していた。
 が、絶賛や酷評、叱咤激励の葉書や手紙・メールといった『眼に見える形』で読者の
反応が返ってくるわけではない。
 それも当然だろう。まだ読者そのものが存在しないのだから、読者の反応を期待すること自体
お門違いというものだ。
 初めてこみパに参加すべく、原稿に向かっていたあのときは、会場で感じた熱気と
美大に入れなかった悔しさとが作品を生む上での原動力となっていた。
 特に見返りなど望まず、ただ自分が好きなように漫画を描くことで自分を満足させるように。
 言ってみれば、漫画を描くこと自体に楽しみを見出し、趣味で済ませることが出来たのだ。
 今の仕事は、そういう気の赴くままに書けばよい趣味の延長ではない。
 不特定多数の読者を満足させなければならないゆえ、決して自己満足に浸ってはならない。
 読者を置いてきぼりにしないように。
 だが、必要以上に読者を意識して『最初の読者である自分』を蔑ろにした漫画をかいてよいものだろうか。
 他人に迎合することそのものを目的化してよいのだろうか。
 自分さえ納得できないものを、他人である読者が喜んで読んでくれるのだろうか。
 もし仮に、『読者受けしたが、自分では納得しない作品』と『読者受けしなかったが
自分では納得した作品』のどちらを選ぶと問われれば、今はまだ、後者を選ぶ気持ちの方が
幾分強い。
 今の俺は、商業雑誌に掲載されているという点ではプロではあるが、その雑誌の読者や
俺の担当者に作品を読まれてすらいないという意味ではアマと変わらない。
 プロに限りなく近いアマ、というのが今の俺の姿だろう。
 ならば尚更のこと、自分を信じるほかないわけだし、自信という根拠のない原稿を
編集者に託すわけにはいかない。
 そこで、俺は、ある基準を設けることにした。
『自分で満足できる、すなわち抜ける作品であれば、読者も大いに満足できるはずだ』
600趣味と実益の狭間で ◆DFPMjwTAag :2005/03/27(日) 14:01:38 ID:Ypp4oNSS0
 数日後。
 締め切りを間近に控えてはいるものの、俺は以前に比べて筆の進みが格段に早くなって
いるのではないかと思えるようになっていた。
 執筆開始から締め切りまでの中間点まではほんの数ページしか進まなかったものの
今ではもうページ数も残りわずかになるまでに描き終えている。
 日程的に決して余裕が生まれているわけではないが、それでも原稿を進める手がスピードアップ
したのは目に見えて明らかだ。
 これも、『自分で抜けるかどうか』という基準を設けた賜物だろう。
 だが、執筆のスピードアップと引き換えに、俺の自慰の頻度もそれ以上に激増していた。
 ゴミ箱の中には、くちゃくちゃに丸まったケント紙の他に、ぱりぱりに乾いたティッシュペーパーが
不自然なまでに山盛りになっている。
 そんな中、俺はひたすら頭に浮かぶ瑞希の痴態を眼の前の紙に表現してゆく。
 俺の頭に浮かぶ要求にも素直に応じ、その身体で受け入れる瑞希。
 だが、新しい場面で、先程と同じシチュエーションにしたのでは、ただのストーリーの
使いまわし以外の何者でもなく、当然読者も『ああ、またこのパターンか』という感想を
抱くのは間違いないだろう。
 マンネリ化だけはなんとしてでも避けなければならない。
 読者も満足できないだろうが、瑞希を描いて、それでカイている俺も満足できないからだ。
 いきおい、エロ漫画という特性上、『紙の上に描かれる瑞希』に無茶なプレイを強いることとなる。
 場面も、俺の部屋から人気のなくなった学校…という風に変わっていく。
 次回作があるとすれば、白昼堂々とテニスコートで、海水浴場、夏祭り、仮病を使う
瑞希の部屋に押し入り、挙句の果てには若い二人は並みの刺激では満足できず夕暮れの公園で…
というふうにエスカレートしていくことは間違いなさそうだ。
601趣味と実益の狭間で ◆DFPMjwTAag :2005/03/27(日) 14:02:11 ID:Ypp4oNSS0
「瑞希。コーヒーをくれ」
「新しく作んなきゃ。もうないし…」
「インスタントでいいから」
「どっちにしろ、お湯が必要じゃない…」
 ぶつぶつ言う瑞希から、インスタントコーヒーの粉が入ったビンを受け取り、口を天井に向ける。
 インスタントコーヒーの粉がザザザザッと音を立てて俺の口一杯に納まった。
 咀嚼するたびにジャリ…ジャリ…という砂を噛むような音がしていたが、唾液と交じり合ううちに
グッチャ…グッチャ…ニチャ…ニチャ…という粘着質な音へと変わる。
「うぷっ…」
 そんな俺の眠気覚ましの様子を見ていた瑞希が口元を押さえる。
 今日は締切日。
 なんとしても今日中に原稿を仕上げ、雑誌社に持ち込まなければならない。
 勿論、一部手直しや、ひょっとしたら全面的に書き直しの憂き目に遭うかもしれないが
とりあえず最初の関門はスケジュール通りにクリアできそうだ。
 原稿を書き上げるのに間に合うか間に合わないかの瀬戸際だった先程が一番大変だった。
 深夜にいきなり瑞希に『数日間寝ないでも疲れない薬を買って来てくれ』と頼むと
『お願いだから犯罪者だけにはならないで!』と泣きながら懇願されたり、俺が
『今から雑誌社に爆破予告を送りつけるか、放火して編集者を皆殺しにしよう。
そうすれば締め切りは延びるだろう』と言うと『和樹の漫画を本にしてくれる所を
無くしてどうすんのよ!』と一喝されたのも今となってはいい思い出だ。
602趣味と実益の狭間で ◆DFPMjwTAag :2005/03/27(日) 14:02:43 ID:Ypp4oNSS0
 が、商業用の漫画を描いていくに当たって、最初からこんな調子ではずいぶん先が
思いやられる。
 そんなことを思いつつも、俺は最後のコマを仕上げ、久々の開放感に浸りつつ立ち上がり
座りっぱなしで痛くなった腰を伸ばした。
 机に丸く覆い被さるような姿勢を余儀なくされていたのを取り返すように、四肢を
思う存分四方へと伸ばす。
「じゃあ瑞希、俺はこれから原稿を雑誌社に出してくるから。留守番を頼む」
 先程までの修羅場での瑞希に対する態度からの豹変振りに我ながら驚く。
 口ぶりや表情も自然に柔らかくなっているのも、何とか締め切りに原稿を間に合わせた賜物だろう。
「うん。気をつけて」
 瑞希もそんな俺の様子に気付いたのか、げっそりした顔から満面の笑顔を浮かべる。
 眼の下にクマを浮かべつつも。
「帰ったら…瑞希の好きなことに付き合うから」
「和樹…」
 瞳を潤ませる瑞希に背を向け、俺は新たな修羅場が用意されているであろう雑誌社へと
歩みを進め始めた。
603趣味と実益の狭間で ◆DFPMjwTAag :2005/03/27(日) 14:12:54 ID:Ypp4oNSS0
 夜。
 睡眠という概念が全くなかった先日までとは違い、俺は思う存分布団の中で安眠を貪っていた。
 寝返りを打つと、ムニュリとした柔らかい感触が俺の胸や腹一杯に広がる。
 俺と同じようにゆっくり眠っている瑞希の感触。
 俺は、つい先程まで、瑞希と一緒に過ごしていた時間を反芻していた。
 雑誌社から帰ってきた俺は、まず始めに『今回の原稿はOK』と言われたと瑞希に伝えた。
 尤も、重労働から解放されたばかりの瑞希に次の仕事に関することを言うのはあまりにも酷なので
『数日後に次回作について担当と打ち合わせますので構想だけは練っておいてください』
と言われたことは伏せておいたが。
 そして俺と瑞希はショッピングに映画、ちょっと贅沢な夕食と共にするという、ごく当たり前の
男と女の付き合いを存分に愉しんできた。
 当の瑞希はテニスにも行きたがってはいたようだが、さすがに俺の体が持たないので
またの機会に譲ってもらった。
『だったら和樹が自分で描いたヒロインではなく、ここにいるあたしを…その…愛して…』
 という瑞希の言葉通りに、俺はテニスではなく夜のスポーツに励むハメになったわけである。
 俺も瑞希も数日間徹夜が続き、ずいぶんハイになっていたせいか、くんずほぐれつの
絡み合いとなったわけだが、その最中にも、俺は心の片隅にあった小さなものが
少しずつ大きくなるのを自覚していた。
 ティッシュペーパーに滴った一滴のインクが大きな染みを彩るように。
604趣味と実益の狭間で ◆DFPMjwTAag :2005/03/27(日) 14:19:32 ID:Ypp4oNSS0
 今、ここにいる瑞希よりも、俺が漫画の中で動かしている『瑞希』の方が、はるかに都合がよい。
 俺の無茶な要望にも何ら反抗することなく、ただ俺の思うままに動く『瑞希』。
『瑞希』は、俺のなすがままでいるだけではなく、漫画という媒体の中で俺の意思を
見ず知らずの読者に伝えるという役割をも果たしているのである。
 俺のとなりで寝息を立てている瑞希は、こみパで売り子をするのにも少なからず
躊躇していた思い出がある。
 漫画の中の『瑞希』は、決してそんなことはない。
 俺の思うがままの『瑞希』をネタにしてカク自慰行為で生計を立てることになった俺だが
これからは雑誌社の意向に左右されるケースも増えるはずだ。
 締め切りなどはまだ可愛い方で、ページ数に話を合わせるのではなく、話をページ数に
あわせざるを得ないこともあるかもしれない。
 いや、それ以前に読者のアンケート葉書により、編集者から『参考という名の強制』を
強いられるかもしれない。
 勿論打ち切りに戦々恐々とする日々を送るようになる可能性も残されている。
 仮にそういった制約を受けずにプロとして漫画を描き続けることが出来たとしても
俺自身が漫画を描くことを『工業製品を生み出すように』し始めないという保証はどこにもない。
 慣れはマンネリでもあるからだ。
 とはいえ、たっぷり時間をかけて自分が納得ゆくまで満足するまで創作活動に励むのは
理想的ではあるが、結局は趣味の延長に過ぎず、アマチュア的な姿勢でしかないだろう。
 まして、自分がカクために作中で『瑞希』を描いている今の俺の漫画に対する姿勢は
自己満足以外の何者でもない。
 いくら自分が好きでやっているからとはいえ、果たしてネタがいつまで続くのか
俺の自慰行為に読者がいつまで付き合ってくれるのか。
 空転する思考にくさびを無理矢理打ち込み、俺は目を閉じた。
 新しい朝が来るまではまだ時間がある。
 一眠りすれば、俺の頭の中にいる『瑞希』も、新たな一面を見せてくれるようになるかもしれない。
 それを待つまでもなく、夢の中に『瑞希』が現れるかもしれない。
「瑞希を描きたかった俺だが…、『瑞希』でカクようになるとはなあ…」
 そう一人ごちた俺は、再びまどろみの中へと落ちていった。