放課後の屋上と言えばまず最初に先輩の姿を思い浮かべるが、今日の相手は別だった。
「遅いっ」
二月の寒空の中、せっかく会いに来てやったというのにこの男、クラスメイトである南は、開口一番不満そうな声をあげた。
「なんで同じ時間に終わったのに20分も待たされるんだっ」
「真打ちは遅れてやってくるものだからな」
「…ひょっとしてそれを言うためだけにどこかで時間を潰してきたのか?」
「で、なんの用だ?」
「答えろよっ」
「真実は時に人を傷つける。オレは南のためを思ってあえて沈黙を保つことにした」
「しゃべってるじゃないかっ」
なるほど。今まであまり話したことはなかったが、南は突っ込み気質のようだ。
「七瀬と気が合いそうだな」
「はぁ?」
リアクションも良く似ている。ただ七瀬の場合、スナップの効いたお釣りも付いてくるが。
「それで、なんだ? オレとコンビを組んで国立でも目指したいのか?」
「国立は…って、もういい。今日お前を呼んだのはだな、」
「浩平っ」
「どわっ」
いきなり現れた顔に、驚いてのけぞる。
「急に目の前に来たと思ってるでしょー。さっきからずっと呼んでたもん」
「お前は超能力者かっ」
「浩平がわかりやすいんだよ」
昨日の屋上での出来事を反芻しているうちに、授業は終わっていたようだ。
「それでどうしたの? 手紙まで回して」
手に持った四つ折りの用紙を玩びながら、長森が尋ねてきた。
「うん? そうだな…」
手紙に意味はない。入れ違いになるのが面倒くさかったので呼び寄せただけだ。
オレは周りを見回し、特に注目を集めてる訳でもないのを確認してから切り出した。
「長森、里村の趣味って知ってるか?」
「え? 里村さん?」
全く想定外のことだったのだろう。長森は目を丸くして聞き返してきた。
「ああ。噂でもなんでもいい。聞いたことないか?」
「う〜ん…」
突発的に聞いたのにも関わらず、長森は真剣に考えて込んでくれているようだ。
「ごめん、わからないよ」
そしてしばらく経った後、そう長森は答えた。
「そうか」
長森がわからないと言った以上、本当に知らないのだろう。隠すメリットもない。
「用件はそれだけ?」
「おう、もう帰っていいぞ。ちゃんと声色変えて代返しといてやるから」
「帰らないよっ」
「帰らないよっ」
「真似しないでよっ」
どうもオレの「長森瑞佳」はお気に召さなかったようだ。
「でも浩平が…そうだったんだぁ…」
「うん、なんだ?」
長森が漏らした言葉を聞きとめ、聞き返す。
「浩平、応援してるからねっ」
「だからなにをだっ」
オレの抗議を受け流し、長森は微笑を浮かべながら席へと戻っていった。
…うーむ、どうやら勘違いをしているようだ。
でも今説明すると契約が反故になるからな。やれやれ。
昼休み。
「知ってるわよ」
「なにっ」
廊下で捕まえた七瀬は、あっさりとそう答えた。
「そうか、まさかそんな趣味だったとは…」
「まだなんにも言ってないじゃない!」
「いやいや。そうか、里村が…なぁ」
したり顔で首を振って教室に戻る素振りを見せる。すると七瀬は、
「勝手に納得するなぁ!」
叫んでオレの胸倉を掴み、周りを見渡して慌ててその手を離した。
「ほ、ほら、折原くん。カッターが曲がっていてよ?」
「ここ、学ランじゃないぞ」
取り繕うように笑みを浮かべる七瀬。でも今更、どうやってもフォローできないと思うんだが。
七瀬もそれに気付いたのか「ひんっ」と声を上げると、今度は自分が教室に戻ろうとした。
「まあ待て。それで趣味はなんだって?」
「おか…むぐっ」
「場所を変えるか」
流れのまま大声で答えようとする七瀬の口を抑え、人気の少ない方へと引きずっていく。
そして気配が途絶えたのを確認してから七瀬を開放し、覆い被さるようにして後ろの壁に手をついた。
「ちょ、ちょっと折原っ。こんな所を誰かに見られたら…」
見られないよう人目を忍んでいるんだが。
まあいい。分析してみよう。廊下の片隅、オレと七瀬の二人きり。
声が漏れないよう目と鼻の先まで近づいて話をしている。
「…オレが恐喝されてると勘違いされる?」
「なんでそうなるのよっ」
あの後七瀬から入手した情報によると、どうやら里村の趣味はお菓子作りのようだ。
調理実習の時間、それとわかるほど顔がほころんでいたらしい。里村にしては珍しかったので、よく覚えていたそうだ。
心当たりはある。なるほど、それであの時あっさり承諾したんだな。
「流石はオレ。SISも真っ青の諜報能力だな」
「CIAじゃない所が折原君っぽいよね」
「なにっ」
そのまま教室に戻らずに屋上で成果に浸っていると、隣で柚木が「やほー」とばかりに指をひらひらさせていた。
「いつの間に来たんだ?」
「さっきからいたよ。折原君、相変わらずへんなこと言うね」
まるで当然のことのように柚木は答える。
…オレか? オレが気付かなかっただけなのか?
「それより聞いたよ。折原君って大胆なんだね」
「なにが?」
楽しそうな柚木の様子を見る限り、どうせまたろくでもないことを言い出すのだろう。
これ以上ペースを乱されないよう、心の準備をしてから聞き返す。
「七瀬さんに廊下でキスしてたって」
「違うっ!」
全く無駄だった。
「なるほどねー」
「……」
結局オレは洗いざらい白状させられていた。
警戒していたはずなのに、穴の空いたバケツのごとく話してしまう。
とことんコイツとは相性が悪いようだ。
しかし聞き出した側である柚木の表情が冴えないのはどういうことだ?
「それで、南君、だったかな。その人に教えてあげるの?」
「まあ、そういうことだ」
「うーん…」
困惑したような、なんともいえない柚木の顔。そんなコイツが珍しくて、思わずまじまじと見てしまう。
「なにか気になることでもあるのか?」
「んー。ま、いっか。いつも玩具になってくれてるもんね。詩子さんからの大プレゼントだよっ」
非常に嬉しくない前置きをして、詩子は続ける。
「七瀬さんの答え、残念ながら間違ってるよ」
「そうなのか? でも前里村を誘ったときは…」
「え、折原君、茜と出かけたことがあるの?」
「おう。長森が休んだときに課題を写させてもらってな。その礼がてらに」
オレは里村を山葉堂に誘ったことと、承諾をもらったこと。そこから菓子作りが趣味だと納得した流れを説明した。
ちなみにオレが里村を誘ったのは、単なるカモフラージュだったりする。
いくら甘い物好きなオレでも、男一人であの店に特攻するほど無謀ではない。
「茜がねぇ…」
「それで?」
「あ、そうそう。茜の趣味は甘味屋巡りだよ。作るのは上手いけど、特別好きじゃないみたい」
そっちか。調理実習の時間も、過程じゃなくて完成品が楽しみだったという訳だな。
「それで、どうするの? 南君にも教えてあげる?」
オレが今の話の内容を吟味していると、詩子が一番最初にした問いかけをもう一度繰り返してきた。
「まあ、約束だからな」
「そしたら南君、茜を誘うんじゃない?」
「だろうな」
「その時茜、どうするんだろうね」
「一緒に行くんじゃないか? オレでさえ成功したんだから」
オレの当たり前の答えを聞き、何故だか詩子は呆れたような表情を浮かべた。
そしてその話が途切れるタイミングを計ったかのように、昼休み終了のチャイムが鳴り響いた。
「お、急がないとやばいな。柚木はどうする? そこから飛び降りるか?」
「それも面白いけど…あたしはもうちょっとここに残っていくね」
「そうか」
覇気の感じられない柚木の様子が気にかかったが、時間がないのでその場を後にする。
「茜は断るよ。絶対」
去り際、柚木の呟いた声が、何故だかオレの耳に深く残った。
「…いいですか?」
放課後。南から数時間にも及ぶ愚痴を聞いて教室に戻ってきたオレは、まだ残っている人物がいることに驚いた。
茜色に染まった教室の片隅。窓際に手をついていた里村が振り返る様子は、まるで映画の一場面のようだった。
「その前に、オレからいいか?」
「…なんでしょう」
「なんで南からの誘いを断ったんだ?」
「……」
「あいつ、ひょっとして『おごってくれ!』とか言い出したのか?」
だとしたら尊敬するぞ、オレは。
オレの問いかけに里村はかぶりを振ると、「気付きませんか?」と小さな声でささやいた。
「ああ、わからないな」
「…本当に?」
「髭に誓って」
胸に手を当てて宣誓してやると、里村は溜息をつきながら答えた。
「…理由が、ないからです」
「理由?」
「…南君は、私の分も出してくれると言いました。でも私には、そうしてもらう理由がありません」
「いや、あるだろ」
アレはどう見ても里村に好意を持っている。それに気付かないほど鈍感だとも思えない。
「…後になればなるだけ、辛いこともあります」
「そうか…」
期待を持たすより、ってことか。
「でも里村ならおごってもらってから『…嫌です』とか言いそうなもんだけどなっ」
「……」
もの凄い目で睨まれたぞ?
「ん? でもオレが誘ったときは付いて来たよな?」
「あれは…」
それまでの断定口調から一転、語尾を濁すように言いよどむ。
「ああ、そうか。あの時はオレが課題を見せてもらったもんな。ちゃんと理由はあるか」
「…そうです。だから今日もおごってもらいます」
何故か不機嫌そうに言い放つ。
「なんでそうなるんだっ」
「…南君から聞きました。私のことを調べた見返りとして、食券を受け取るんだそうですね」
「いやでも、A定食一週間分がB定食三日分に…」
「関係ありません。その取引があったという事実のみが肝心なのです」
取り付く島もなくぴしゃりと跳ねつけられる。
そして「反論は許さない」とばかりのオーラをまとって自分の席へと戻っていった。
「わかったわかった。おごればいいんだろ、おごれば」
「当然です」
全くこちらを見ずに、黙々と帰る準備を続ける。
「そういやなんか話があったんじゃないのか?」
「…忘れました。それより早く行きましょう」
コートをはおった里村に睨まれ、自分の薄い鞄を掴む。
振り返った先には、既に教室の外へと出ている里村の姿があった。
「早っ」
慌てて追いかけようとして、ふと先ほどのやり取りを思い出す。
……なんか流れ的に矛盾しているような気がするんだよな。
「…ワッフル」
「おわっ」
耳元で里村の声が聞こえたような気がして、思考を中断する。
これ以上待たせるのは危険だ。なにかが警鐘を鳴らしている。
オレは本能に従って違和感を押し込め、里村の後を追いかけた。