「はぁ……」
自分の部屋で机に頬杖をついたまま、あたしは思わず溜め息を漏らしていた。
藤林杏という人間はこんな溜め息なんてつくような性格だったっけ、そんなことをぼんやりと自問してしまったりする。
「自己嫌悪よね、これって」
誰にともなくそう呟いてみる。一人きりの自室には答えてくれる人なんてもちろんいなくて、なんだかさらに落ち込んでしまった。
そう。これはきっと自己嫌悪。
なぜって、あたしは今、嘘をついてここにいるから。
……たぶん、いや、きっとそのせいだけじゃないんだけど。
隣にある椋の部屋には、もうすぐ朋也と椋が学校から帰って来ることになっていた。
どっちが誘ったのかは知らないけど、今日は初めて妹の彼氏が家に来たってことになる。
思い返してみると、あの二人が付き合い始めてから結構な月日が過ぎていた。
そろそろそういうことが起こってもおかしくないなあ、と、頭の中で漠然と思ってはいた。
それがついに現実になった、ただそれだけのことだ。
そんなわけであたしは、本当は気を利かせて外に買い物に行っているはずだった。
はずだった……のに。
(何でこんなところで聞き耳立ててるのかな、あたしは)
はあ、と、もう一度溜め息が出てしまう。
今までも二人のデートにこっそりついていったことはある。
その時はバレてもいいやと思ってたし、バレた時も冗談で済ませてた。
でも今日は――
そこまで考えてあたしは、ぼんやりと昨日の椋とのやり取りを思い出していた。
※ ※ ※
「おねえちゃん」
お風呂上りに脱衣所で髪の毛を乾かしていると、背後に人の気配を感じた。
振り返らずに鏡を見ると、そこには着替えを持った椋の姿があった。
「あ、次入る? ごめん、今どくから待っててね」
そう言うとあたしはドライヤーのスイッチを切り、少しだけ生乾きの髪を手早くタオルでまとめて結い上げる。
「えっと、ちょっとお願いがあるんだけど、いいかな」
「んー?」
まだ乾ききらない髪をまとめているあいだに、椋が遠慮がちに話し掛けてきた。
「明日ね、朋也君がうちに来ることになったんだけど」
「朋也がぁ? あいつ変なこと考えてるんじゃないでしょうねぇ」
いつもの調子で笑いながら軽口を叩くあたし。
ここであたしの知ってる椋ならあたふたしながら否定するはずなんだけど……
一瞬だけ驚いた表情をした後、顔をゆでだこみたいに真っ赤にして黙り込んでしまった。
「えっ!? 変なこと……するつもりなの?」
びっくりしたあたしは、反射的に自分でもどうなんだと思うぐらいストレートな質問をしてしまう。
その問いに椋は、真っ赤になったまま、黙ってうつむくように頷いていた。
……我が妹ながらなんて正直な。
「明日はお父さんもお母さんもいないから……」
そう、明日は二人とも用事で家に帰ってこない。つまり、そういうことなんだ。
「あ……あはは、そうなんだ。そうよねえ、もう付き合って大分たつんだし」
あたしはなんだか凄く狼狽してしまって、少しだけ声が裏返ってしまっていた。
口の中がカラカラに乾いていて、うまく言葉を紡ぐことができない……
「それで、出来たら放課後、どこかで時間つぶしてきて欲しいんだけど……」
「ああ、うん、おーけーおーけー。しばらく買い物でもして、どこかでご飯食べてから帰るわね」
それでもあたしは、混乱したままあんまり動いていない頭で、自分でもちょっと白々しいんじゃないかってぐらい明るい声と笑顔を作って答えていた。
……今考えると少し引きつっていたかもしれないけど。
「うん、ごめんね」
気遣わしげな顔で謝る椋。
ちょっと先に進まれちゃった気がして驚いたけど、こういうところはやっぱりあたしの知ってる妹だった。
そんな椋を見て、あたしにもようやく少しだけ余裕が戻ってきた。
「いいっていいって。その代わり、あとでおねえちゃんにも詳しい話聞かせなさいよ」
「ええ〜〜っ!? で、でも……」
あたしの意地悪な要求に小さく叫んだ後、恥ずかしそうに両手で口元を覆う椋。
こういう照れたこの子は、身内びいきを差し引いても頬擦りしたくなるぐらい可愛いと思う。
たまらなくなったあたしはそんな椋を軽く抱き寄せ、景気付けのために背中をぽんぽんと軽く叩いてあげた。
「なんて言ったらいいかわからないけど……ええと、おめでとう。失敗しないように頑張りなさいね」
耳元で精一杯優しくエールを送ると、抱きしめた椋の強張った肩からふっと力が抜けたのがわかった。
それを確認して身体を離すと、あたしは笑いながら手を振って脱衣所を後にした。
椋が、朋也と?
部屋に戻って落ち着いてみると、お風呂上りで上気した体が火を出しそうなほど火照っているのに気が付いた。
よくわからない想いに……違う、わかってるけど認めたくない、認めてはいけない想いに胸を締め付けられる。
(そうよね。彼氏彼女なんだから当然よね)
当然、自然、当たり前。
そんな言葉が頭の中を駆け巡る。
脳みそがぐるぐると撹拌されて、何を考えているのか自分でもわからなくなってきた。
(奥手の椋がここまで進歩したんだもの、姉としては祝ってあげなくちゃ……)
椋が本格的に朋也と付き合いだしてから、何度自分にそう言い聞かせたことだろう。
この胸のうちにある朋也への思いは、友情なんて呼べるようなものではないことぐらい自分でもわかっていた。
でもそれ以上にあたしは、現在の朋也との関係が壊れてしまう事を恐れていた。
この思いが拒絶されても、そして多分受け入れられても、今の二人の関係は崩れ去ってしまう。
それだけは嫌だった。
だから椋が初めて朋也への思いを打ち明けてきたとき、あたしは驚いたとともに、少しだけほっとしたのだった。
どうせ手に入らないものなら、近くで見ているだけで我慢しよう。
あたしはそう思って椋の恋を手助けしてきた。
今まではそうやって自分を抑えることができたのだ。
でも、今度は?
心の中で自問すると、本棚の中で伏せられた写真立てを手に取った。
そのなかでは浴衣姿の朋也と、あたしと……春原と。他にも何人かの友達が笑顔をこちらに向けていた。
あの時は朋也がふざけて後ろから抱きついてきたっけ。それで照れたあたしは思い切り枕を投げつけたっけ。
思い出すと切ない甘さが胸に広がり、少しだけ苦笑が漏れてしまう。
楽しかった修学旅行。あたしにとってかけがえの無い思い出。
そういう思いは胸の奥に大切にしまったまま、あたしは椋の恋を応援してあげるつもりだったのに。
(椋が……朋也に抱かれる……)
抱かれる、という言葉を思い浮かべると、胸の奥にひときわ熱い何かが湧き出るのを感じる。
あたしはその思いから逃れるように、手に取った写真立てをもう一度元あった場所に伏せた。
これまでも漠然といつかはそうなると思ってはいた。
でも、明日はそれが現実になってしまう。朋也が椋と結ばれてしまう。
ずっと目を背けていたそのことが、否応なしに具体的なイメージを伴ってあたしの心にのしかかってきて。
あたしはまるで逃れるような気持ちでベッドに寝転んだ。
どうしてあたしじゃないの?
―――それは自分でそう望んだから。
どうして椋なの?
―――それは自分でそう仕向けたから。
後悔を伴う自己嫌悪と、嫉妬にまみれた羨望と。
身を切り裂かれるような焦燥と、噴き出て止まない恋慕の情を抑えきれず……
枕に伏せたまま、嗚咽とともに頬のあたりを熱い物が流れていた。
※ ※ ※
次の日。
眠れない夜を過ごしたあたしは、椋から逃げるように学校に行き、授業中も休み時間も一人で悶々としていた。
先生の言うことも友達の言うことも全部上の空で右から左。
今日一日何があったかなんてまるで覚えていなかった。
そして夢の中にいるような一日が終わり、放課後の鐘の音を聞いたあたしは。
愛車を飛ばして椋より先に家に帰ると、スクーターと靴を隠して自分の部屋で息を殺していた、というわけだった。
(はぁ……)
嘘をついてここにいることに対する後ろめたさから、まだ誰もいないのについ声をひそめてしまう。
でも同時に、何かいけないことをしているようで興奮するのか、自分でも嫌になるぐらい動悸が激しくなっていた。
一人でじっとしているせいか、いろいろと余計なことを考えてしまう。
昨日のこと、そしてこれからのこと。二人のこと。 ……自分のこと。
考えれば考えるほど気持ちが落ち込んでいくのはわかっているのに。
(これから……これから二人が隣で……)
甘いキス、震える身体に伸びる手、優しい愛撫、熱い抱擁、絡み合う舌先。
やっぱり興味があるのか、上気した頭でこれから隣で繰り広げられるであろう光景を想像してしまう。
そこで朋也は一体どんな顔をしているのだろう。
顔を赤くしてだらしなくニヤけているだろうか。
案外余裕で微笑んでいたりするかもしれない。
……それとも、自分には見せたことの無いような表情をするのだろうか。
考えると同時に、疼きに似た暗い痛みが胸の奥深くから湧き上がってくる。
「……!」
その痛みに飲み込まれそうになった時、玄関の扉が開く音がして、あたしは文字通り飛び上がってしまった。
すぐに廊下から足音と話し声が聞こえてくる。
楽しそうに笑う椋と朋也の声。ほどなく隣の部屋のドアが開き、そして閉まる音が聞こえてきた。
(椋、朋也も、帰ってきたんだ)
胸に手を当てると、心臓が口から飛び出しそうなほど暴れまわっているのがよくわかる。
心の準備が整わないうちに来るべき時が来てしまった……いや、そんなもの、いつになったって整うわけがなかった。
あたしは息を殺して椋の部屋がある方の壁際まで行くと、そっと壁に耳をつけた。
「……!」
「……」
壁越しでは普通の会話なんてもどかしいほど聞き取ることが出来ない。
それでも、とにかく二人が何か歓談しているということだけはわかった。
(うまくいってるみたいじゃない)
……この気持ちをどう表現したらいいのだろう。
二人がうまくいっているという事を確認して、あたしは確かにほっとしている部分もある。それは偽りの無い思いだ。
でもそれと同じぐらい……それ以上に、息苦しくなるほどの苦い想いがあたしの胸を灼いていた。
しばらくすると、一つの足音がこちらの壁際まで近づいてくるのがわかった。
(あっ!?)
直後、ゴソッという思いのほか大きな音が鼓膜を震わせ、あたしは思わず仰け反っていた。
(うそっ……ばれた!?)
頭の中が真っ白になったまま、音が聞こえてきた壁の方を見つめる。
しかし幸い、隣の様子に変化があったような気配はなかった。
(び、びっくりさせないでよ、もうっ!)
さっきの音がこちらの壁際に置いてある本棚から、何か大きな本を取り出した音だということに気が付くと、大きく安堵の息が漏れ出てしまった。
そう。普段の言動とは裏腹に、本当に後ろめたいことがあるときのあたしは小心者なのだった。
気を取り直してもう一度壁に耳をつけると、さっきと変わらないぼそぼそとした二人の話し声が聞こえてきた。
子供の頃のアルバムでも見ているのだろうか。からかうような朋也の声と、少し怒ったような椋の声が聞こえてくる。
(あいつら、なんてベタなことしてんのよ)
普段なら苦笑いしてしまうようなことでも、今はとてもそんな気になれなかった。
本当にアルバムを見ているのなら、そこには椋本人だけでなく、あたしの姿も少なからず写っているはず。
「…………」
ふと、奇妙な感覚に捕らわれる。
今でこそ髪の長さが違うが、小さい頃は二人とも同じように肩のあたりで切り揃えていた。
生まれつきどういうわけか瞳の色が違う二人だが、それを除けば殆ど違いらしい違いはないはずだ。
子供の頃の椋は、そしてあたしは、朋也の目にどう映るだろう。
あたしの子供のころを見て、可愛いなんて思ったりしているかもしれない。
……というか、あいつは二人の見分けがつくだろうか。
つかないかもしれない。つくかもしれない。
その想像は何か、あたしの心の奥にある、開けてはいけない扉を無理やりこじ開けてしまった。
それは心の深いところにずっとわだかまっていた、黒くて醜い自分。
(あたしは最初から、椋を身代わりに、自分を椋に投影して逃げていたのかも)
自分と同じ顔、同じ髪の色……
その椋が愛されることで、自分が愛されているという錯覚の中に逃げ込んでいた。
(……そして多分、椋がふられたときは……)
違う瞳の色、長さの違う髪、正反対の性格……そんなものを理由にして。
ふられたのはあたしじゃないって、そうやって傷つくことから逃げようとしていたのかもしれない。
今の関係が壊れることが怖かったんじゃなくて。
朋也のより深いところに踏み込んで、もしかしたら拒絶されるかもしれない……そう思うことがたえられなかった、ただそれだけのことだったんだろうか。
自分から近づくことを怖がって、逃げ出して。
椋に、妹にそういう嫌な部分を押し付けて、自分は一歩離れて幸福な思いだけを得ようとしていたのだろうか。
そう思い至ると、自分が情けなくて、悲しくて、辛くて……惨めで。
(そうよ、その結果がこれなんだから、自業自得じゃない)
そう自嘲してぎゅっと唇を噛むと、滲んできた涙を服の袖で強く拭った。
しばらくして、ふと、隣の部屋の気配が変わる。
話し声が聞こえなくなり、緊張が走ったというか、微妙に張り詰めた空気が壁越しに伝わってきた。
続いてドサッという重い物音が聞こえてくる。
これはそう……
(……ベッドに倒れこんだ音よね、今の)
これから何が始まるのかは容易に想像できる。
鼓動が意思を無視して勝手にどんどん加速していく。心臓がドクドクと暴れまわって呼吸困難に陥りそうなほどだった。
シャワーとか浴びたりしないんだ、なんて、どこか妙に下世話な考えが一瞬だけ頭をよぎったことが、後から考えるとおかしかった。
壁に耳をつけても物音一つ聞こえてこない、息が詰まりそうな沈黙がしばらく続く。
この壁の向こうで、ついさっき頭の中で思い描いた光景が展開されているのかもしれない。
見たい、と思う気持ちと、絶対に見たくないと思う気持ちが自分の中で交錯する。
でもあたし自身の行動はと言うと、そんな葛藤などお構いなしに、痛くなるほど壁に耳を押し付けていた。
何も聞こえてこないことがもどかしい。
昨日のうちに壁に穴でも開けておけばよかった、なんてバカなことを本気で思ったりもした。
終わらない静寂に自分ひとり取り残されたような気分にさせられて、でも元から取り残されているという現実にすぐ気が付いてしまって。
もどかしくて悲しくて、気が狂ってしまいそうになる。
そして。
「……ぁ……」
壁越しでもわかる、艶を帯びた、甘い「女」の声が耳に届いてきた。
隣で何が始まったのか、そんなことは推測するまでもなかった。
限界だった。
頭の中で大事な何かがぷちぷちと音を立てて千切れていくような錯覚に陥る。
椋の……双子の妹が洩らした嬌声は、あたしの中の大事な何かを引き裂いてしまって。
(んっ……)
緊張と興奮と悲しみに耐えきれなくなったあたしは、無意識のうちに口に含んでいた右手の指で、自分自身を慰めていたのだった。
唾液で充分に濡らした指を敏感な部分にゆっくりと這わせる。
(あ……ふ……っ)
たまらずに漏れ出る熱い吐息。
こんな最悪の状況で興奮してしまっているのか、ひざが抜けてしまったかと思うほどの快楽に襲われ……そのまま床にへたり込んでしまった。
声を殺し、唇をかむようにして自分を昂ぶらせていく。
布越しでの愛撫に耐えられなくなったあたしは、ショーツの中に手を入れると、親指と人差し指でつまむようにして包皮にくるまれた敏感な肉芽を刺激した。
(はあぁ……っ!! んんっ……!)
湧き上がる強烈な快感に思わず腰が跳ね上がってしまう。
いつも独りでしているときとは比べ物にならないほどの快楽の波に、漏れ出そうになる声を必死に噛み殺していた。
壁の向こうから聞こえてくる嬌声は徐々にその大きさを増し、二人の行為が深くなっていることが容易に想像できる。
それに伴いあたしの手の動きも大胆になり、入り口だけでなく誰も……自分でも触れた事のない膣の中までその指を這わせていく。
いつもは入り口に触れるだけで痛みを覚え、その奥に刺激を求めることなど考えもしなかったのに。
とろとろになっていたそこは、自分でも驚くほど滑らかにその指を受け入れた。
その指を押し戻そうと指先に当たる粘膜の感触。
まるでそれは、あたしと朋也を隔てているいろんなものの象徴のような気がして。
(やぁ……朋也ぁ……あたし……)
あたしの肢体の奥深いところに、ある強い衝動がこみ上げてきた。
その衝動を満たそうと、ぼおっとする頭で夢中になってあたりを見回す。
なんだっていい、この情欲をぶつけられるものならどんなものだってよかった。
目に入ったのは、机の上にあるペンケース。
床を這うようにして机の方までいくと、もぎ取るようにそれを手にとった。
女性向に細長いつくりで、ペン数本しか入らないプラスチックの赤い箱は、乱暴な扱いに抗議するかのようにカシャッっと軽い音を立てた。
行為に夢中になっていたあたしは、その音が隣に聞こえているかもしれない、なんてことすら思い浮かばない。
(これで……これを………………朋也……っ!)
無我夢中で握り締めると手近にあるベットに座って、水音を立てるぐらい愛液で溢れた場所に擦り付けるようにしてそれを押し付ける。
(はぁっ……あぁっ……!)
自分の指ではないものが触れたその少し冷たい感触と、隣に朋也がいる……そう思うだけで、達してしまうのではというほどの快感が脳髄に突き上げてきた。
その強い刺激に腰が抜けてしまって、うつ伏せの状態でベットに倒れこむ。
薄青いシーツに顔を埋めると、没頭の邪魔をしていた視界が無理やり閉ざされて、より一層感覚が鋭敏になっていく気がした。
もう止まらなかった。
べとべとになるまで擦り付けたペンケースを、ゆっくりと大事な部分に挿しいれていく。
……痛い。
いたい。
いたいいたいいたいいたいなにこれ助けてっ……!
( ……………………………ともやぁっ!!)
たまらずに漏れ出る叫びを、手近にあった枕に押し付けて殺す。
破瓜の痛みがその一言で幾分やわらいで、代わりに例えようのない悲しみと後悔に襲われる。
(ともやともやともやぁ……)
一度堰を切ってしまった言葉は、駄目だと分かっていても止まることなく溢れ出てきて、少しづつあたしの心を暗い方に蝕んでいった。
血の混じった愛液が多少の潤滑油になっても、初めて異物を受け入れた膣奥の痛みはなくなったりはしない。
体の痛みが脳髄を焼く。
心の痛みが魂を灼く。
たまらずに零れ落ちる涙が、顔を押し付けた枕に大きな染みを作った。
こんなに痛いのに、辛いのに、どうしてあたしはこんなことをしているんだろう。
ぼんやりと疑問が浮かんでも、あたしはその自傷とも言える行為を止めなかった。
( ……んん……とも、やぁ……)
朋也の名前を呼びながら続けているうちに、自分が今何をしているのかということすら曖昧になっていく。
壁の向こう、すぐ近くでは椋が登りつめている……朋也の手で。
好きな人にしてもらっている椋は、どれだけ幸せな気持ちでいるだろう。
それに引き換え、あたしは……
考えると胸が痛い。大事なところが痛い。心が張り裂けてしまいそう。
こんなに辛いなら、いっそ狂ってしまいたかった。
それでも、どんなに辛くても手を止めたりはしない。
多分それは、壊れてしまったあたしの心が、自分は今朋也と結ばれているんだと錯覚したかったからなんだと思う。
そして少しづつ。
身を切り裂かれるような想いに耐えながら、ひたすらに行為を続けていくうちに、徐々に快感が痛みを上回るようになってきていた。
それは慣れてきたなんていいものでは絶対になくて……
朋也と結ばれているという錯覚を、脳が現実と思い込むことに成功していっただけで。
(あっ……きもちいいよぅ……ともやぁ……)
痛みすら快楽に思えてくる頃には、あたしは多分狂ってしまっていたんだと思う。
……と。
「はああぁっ……んんっ!!!!」
ひときわ大きな椋の声が響き、それっきり隣から声が聞こえなくなってしまった。
そのことに気が付くと、頭から冷水を浴びせられたように我に返る。
(まだ……なのに……)
このまま行為を続けていたら、静かになった隣の二人にその音を聞かれてしまう。
絶頂に達する前にお預けされた状態で、あたしは、理性を総動員してペンケースを大事な所から引き抜いた。
「……ぃ……っぅ……!」
ぬらぁっと赤い糸を引いて引き摺り出されるペンケース。
破瓜の傷口に触るのか、鋭い痛みが下腹部に走ってあたしは小さく声を洩らしてしまった。
下手に動かすと音がしてしまうので、濡れたまま拭いもせず、そのままベッドの上へと置くことにする。
すっかり醒めてしまった今、さっきまで確かに感じていた快感が引き潮のように薄れていくのが実感としてわかる。
何か、大切なものを失ってしまった。
引き抜いたペンケースを持つ右手に、行為中には感じなかった生暖かいプラスティックの硬さを感じてそう思った。
そして後に残っているのは、じっとりとした全身を覆っている汗の不快な冷たさと、後悔を伴った痛みだけだった。
ふと。
自分の……自分だけの体液で濡れて光るペンケースに、言いようの無い嫌悪感が湧き上がってきた。
力の限り床に叩き付けたい。粉微塵に壊して捨ててしまいたい。
そんな衝動が湧き上がり、強く握り締めた手を頭上に振り上げる。
きっとそれはさっきの行為を、というより今日の出来事全部を無かったことにしてしまいたいという気持ちの発露だったのだろうと思う。
でも現実は、ペンケースを叩きつけるわけにもいかず、今日のことが無かったことになんてなるわけもなく。
……太ももを伝う血の混じった愛液も、当然消えてなどくれなかった。
子供のように大声で泣き出してしまいたいのに、そんな簡単なことすら許されず。
涙で霞む目で、赤黒く汚れたシーツを呆然と見つめていることしか出来なかった。
このシーツをどうやって片付けようとか。
椋と顔をあわせた時どんな顔をすればいいのかとか。
どうやって二人に気づかれずに外に出ようかとか。
問題はいろいろあるけど、一番困るのは、二人と今までどおりに接していく自信が無いということ。
……あたしはこれからどうしたらいいの?
わからない。誰かに教えて欲しい。助けて欲しい。
でもさしあたって今のあたしに出来ることは、ただベットに顔をうずめて泣くことだけだった。