葉鍵的SSコンペスレ14,1

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571『You never need me.』1:04/10/25 05:03:33 ID:+zfHETfx

 突然、寂しくなった。
 ベッドの上からあたしは目覚し時計を引き寄せる。
 午前2時47分、真夜中だ。
 眠いのにあくびも出やしない。
 頭の中がぐるぐる回り続けて、おかしくなってしまいそうだった。
 枕を抱えて縮こまって、毛布を頭からかぶり直して、
 それでも考えつくのはやっぱりあいつの事…。

 あたしがあいつと出会った頃から、もう何年も経ってる。
 その時は別に意識しなかったし、友達が一人増えたくらいにしか思わなかった。
 でも、今ならついさっき起こった事のように思い出せる。
 耳を澄ませば、そこにあいつが――

 今ここにあいつがいたら、なんて言うかな…。
 笑うかな、まず。

『なにやってんだ?また新しいギャグでも考えたのか?』
『なーに真剣な顔してんだよ、変なもんでも食ったか?』

 …こんなとこね。
572『You never need me.』2:04/10/25 05:04:47 ID:+zfHETfx

 そのあと絶対、

『お前らしくねーぞ、そんなの』

 って来るのよね。
 ふふ、その位の推理なんてあたしにしたら軽いもんよ!

 …そうだよね、あたしらしくないよね、こんなの。
 あたしはいつも笑ってて、バカなことやってみんなも笑わせて。
 うるさいとかやかましいとか、悪く言われても構わなかったわ。
 だって、そうやって今までやって来たんだから。
 それであたしは満足できたし、みんなもとりあえず喜んでくれたから。

 でも。

 あたしを憎からず思ってくれたのは、長い付き合いだもん、分かってた。
 でも、あたしをあいつは必要だと思ってくれてた?
573『You never need me.』3:04/10/25 05:06:07 ID:+zfHETfx

 『必要』って難しいから、あたしはいつもそれが出来なかった。
 自分のやり方じゃそうなれないのは、なんとなく分かってたのに。

 もしあたしがいなかったら、あいつは寂しい日々を過ごしてたの?
 きっと、それはない。
 それならそれで、どうにかやって来たはずだし。
 …じゃ、あいつにとってあたしって、なんだったんだろうね。

 ――わかってる。あたしは、あかりにはなれない。
 あいつの腕の中で眠るには、あたしは……

 あたしは……

 あたしは……
574『You never need me.』4:04/10/25 05:06:55 ID:+zfHETfx

 だから、忘れてやるんだ。
 この気持ちを…そうね、ガラスの瓶にでも詰めちゃおうかな?
 それで、海に流してやるんだ。
 図書室で助けてくれたときも、二人でカラオケに行ったときも、
 一緒にゲーセンに行ったときも、…あいつの家に行ったときも、
 あたしの中に生まれた気持ちをみんな、捨ててやるんだ。
 あたしの中のあいつを、捨ててやるんだ。

 そして、明日から何もなかったみたいにまた学校に行って。
 いつものように騒いでやるんだ。
 みんなを集めて、その中心にあいつを巻き込んでやるんだ。

 あたしの中のあいつを、捨ててやるんだ。

 あいつが別にそんなことどうでもよくても。
575 ◆D3JBuEbNhA :04/10/25 05:11:43 ID:29SjT94R
>>591-594
以上です。ありがとうございます。
576 ◆jOtDSOdEMQ :04/10/25 07:13:21 ID:31sG+ktS
CLANNADのSSです。
春原×風子という反体制的なボンバヘッなので注意。
テーマは無理やり全部突っ込みました。
タイトルは「北風と太陽」 
577北風と太陽1:04/10/25 07:14:51 ID:31sG+ktS
〜プロローグ〜『If』『友達』『相談』『キス』

 もしも、あの時、「友達」でなく「恋人」と言えていたなら。
 もしかしたら、岡崎さんの横に立っているのは、渚さんでなく風子だったのかもしれないのでしょうか?
 でも、いいんです。 風子は我慢の出来る子です。
 大好きな二人が幸せになるんです。
 風子はもう、そういうのには慣れてます。
 おねぇちゃんのときとは違って、少しだけ心が痛みましたが、大丈夫です。
 でも、たった一つだけ心配なんです。

「風子はいつもみたいに笑えているでしょうか?」

 二人に気づかれてはいないでしょうか?
 二人の幸せを邪魔していないでしょうか?
 それだけが、心配なんです。

「いつもより頭悪そうな笑い方だと思う」
「最悪ですっ」
 相談する人間を完膚なきまでに間違えました。
 いくら他所には仲良し四人組で通っているとはいえ、実際は仲良し3人組+1ヘタレ(岡崎さん談)。
 気の迷いとはいえ、組外のヘタレに相談するなんて、つまらない時間を過ごしてしまいました。 
 あかんべぇをくれて立ち去ってあげようとすしましたが。
「で、ナニ悩んでるわけ?」
 面倒そうに、そう言いました。
 気の迷いとはいえ、それでも相談したのは。
 こういうふうに本気の相談には真剣に考えようとしてくれるからだと思います。
「あ、まさか、生理が今頃来たとか?」
「最悪ですっ」
 でも基本的に馬鹿です。
578北風と太陽2:04/10/25 07:16:01 ID:31sG+ktS
「ふぅん、あの二人がキスしてるとこを見ちゃった、かぁ…ってキスぅぅぅ!? 岡崎と渚ちゅわぁんが!?」
 結局話してしまう風子も風子だと思いますが、それでも頭の悪い反応にため息をつきます。
「そんな馬鹿な! 渚ちゃんは僕のほうに心を傾けていたはずじゃぁ!? 岡崎と僕とじゃあ曙とエスパー伊東を乗せた天秤ぐらい圧倒的な差があったはずだよ!?」
「後半部分は風子もまったくもって同意です」
「だろ!?」
 あまりにも噛みあいません。
「ま、友達二人がくっついちゃうってのはお子様にはショックだよな、元気出せよ」
 自分は足に来るほどショックをうけてるくせに、そんなことを言います。
 そっくりそのままお返しする上に、見当違いです。
「いいんです、風子は大人ですから、我慢するんですっ」
「…そっか」
 言い切る風子に対して、何故か春原さんは頭を撫でようと手を伸ばしてきました。
 うざいので払いのけます。
 ちょっとむっとしたかと思うと、すぐにへらっと表情を緩め、わけのわからないことを口から垂れ流しました。
「ちなみに僕、今フリーなんだけど」
「断じてお断りですっ」
 あまりの即答に春原さんが一瞬停止します。
「そ…そんな!? 人がせっかく勇気を出して幼女趣味まで暴露したのにっ!?」
「最悪ですっ!!」
 すこーん。
 放り投げたヒトデが春原さんの頭部に刺さります。
 悶絶する春原さんを置いて風子は立ち去りました。

 
 でも。
 ヒトデはお礼に置いていく事にしました。
 ちょっとだけですが、言い争ってたら、気も晴れましたから。
 きっと、本当に笑って二人を祝えるはずです。
 嘘でも、強がりでも、できるはずです、風子はそうしたいんです。
 どうか、お姉ちゃんたちみたいに二人も幸せになりますように。
579北風と太陽3:04/10/25 07:20:04 ID:31sG+ktS
〜幸せな二人〜『花』『プレゼント』『嘘』

 赤い薔薇が100本。
 他の人間がやっても笑い話のタネにしかならないであろうそんな贈り物も、芳野祐介という男にはよく似合った。
「ありがとう、ございますっ」
 期待以上の満面の笑顔を浮かべる妻に、少々照れながら呟く。 
「いや、なんだ、そんなに喜んでもらえるとは正直思ってなかった」
「そんなことないです、女の子なら、みんなこういうのには憧れるとおもいます」
 微笑む彼女の台詞に、祐介の動きが止まる。
「いま、なんていった?」
「え、そんなことないって…」
「いいや、その後」
「女の子ならみんなこういうのに憧れる、ってとろこですか?」

 取り落とされた。
 薔薇が。
 地に。
 広がる。

 祐介は叫ぶ。

「う、嘘だっ! こんな可愛い人が女の子のはずがないッ!」

 
580北風と太陽4:04/10/25 07:20:37 ID:31sG+ktS
 芸能人時代の思い出、美しい低年齢アイドルのほとんど、いや、全ては女装美少年だった事実。 
 水色の時代は彼の価値観に多大なる歪を与えていたのだろう。
 ツッコミを通り越して同情の涙すら零れそうになる。
「で、でも生えてるんだろう?」
「それは、大人ですから」
 セクハラもいいところな質問にも対応。 まさに大人の女性。
 祐介はほっと胸をなでおろす。
「じゃあ、大丈夫だ! 付いてるならいける!」
 公子はきょとんとした表情を浮かべたかと思うと、全てを悟り、ため息とともに告げる。
「付いてません」
「!?」
 膝から崩れ落ちる祐介。
 立ち直れないほどのショック。

 公子はそんなにもショックを受ける夫が、もっとショックだった。

 後日。
 追い討ちをかけるかのように彼を待っていたのは。
 彼の一番愛した花の名を持つ雑誌の廃刊のお知らせ。

 芳野祐介は自分の部屋へ行き2時間ねむった…
 そして……
 目をさましてからしばらくして愛読書が死んだことを思い出し……
 泣いた…

 公子はそんな下衆な涙を流す夫に、もっと泣けた。

581北風と太陽5:04/10/25 07:21:38 ID:31sG+ktS
〜津軽海峡冬景色〜『雨』『海』『旅』

 彼女の心象風景を例えるなら。
 
 土砂降りの風雨を呼ぶ台風。
 断崖絶壁に荒れ狂う北の海。
 
 絶望の二文字が良く似合う彼女ではあったが。 
 それでも彼女は彼を愛していたから。
 だから。


 気がつくと、おねぇちゃんがカバンに荷物を積めていました。
「んーっ、おねぇちゃん、なにしてるんですか?」
「…ちょっと、旅に出ようかと思ったの」
「どこですかっ?」
 するとおねぇちゃんは、ちょっとだけ困ったような顔をして言いました。
「タイか、モロッコ、かな」
 意外です。おねぇちゃんはもっとよーろっぱとかそういうところに興味があると思っていました。
「なんでタイとモロッコなんですか?」
「安いところと、有名なところだからね」
 何故か疲れた顔で微笑むおねぇちゃん。
 心配ですが、でも大丈夫。
 きっと旅行で元気になってくれるはずですっ!
 だから風子は笑顔で見送りました。
「いってらっしゃいですっ!」
582北風と太陽6:04/10/25 07:38:42 ID:31sG+ktS
〜仁義無き戦い〜『サッカー』『戦い』『風』

「あれ、誰ですか?」
「春原」
 脳が、理性が、岡崎さんの答えを受け付けません。 
 もう一度聞いてしまいます。
「あれ、誰ですか?」
「春原」 
 目の前にいるのは、きらきらした爽やかな笑顔で無邪気にボールを蹴る男の子。
「おかしいですっ!」
「春原がおかしいのは今に始まったことじゃないだろ」
「それはそうですがっ」
 思わず納得しかけますが、それでも目の前の現実が信じられません。
「春原さんは、もっとこう、なんていうか、ドブ川が腐ったような色の目をしてるはずですっ!」
「いつもどーりしてるだろ」
「岡崎さんの目は節穴ですっ」
 確かに、サッカーボールを蹴る春原さんの目は輝いています。 きらきらと、つい魅入ってしまいそうになるほどに。
 あれです、風子、昔聞いたことがあります。
 いつも元気で明るいいい子の北風と、ぎらぎらとうざったいだけの太陽が、旅人の好感度で勝負する話です。
 がんばった北風ですが、いつもは駄目駄目な太陽がふと見せた温かみという意外性だけで旅人を騙しきるっていうお話です!
 うろおぼえですが、たぶんそんなのだったと思います。
 奇しくも春腹さんは名前に「陽」の字。
 そして風子は名前に「風」の字。

 きっと、これは北風と太陽の代理戦争で雪辱戦。
 ガチでステゴロなんですっ!
 負けません!
 風子はナイフを握り締めました。
583北風と太陽7:04/10/25 07:42:52 ID:31sG+ktS
 ナイフを後手に、決意を胸に、ゴール傍に待機します。
 春原さんがシュートを決めて自分酔いしている隙に。
 てててと駆け寄り。 えい。 ぐさ。 ぷしゅう。 サッカーボールがみるみるうちにしぼみます。
 しばしの沈黙ののちに。
「あ…アンタなにしてるんですかぁぁぁっ!?」
 いつものヘタレ口調で春原さんが叫びました。
 よかった、ボールがないといつものドブ川が腐ったような色の目に戻りましたっ。
「安心ですっ」
「アンタわけわかんないっすよぉっ!」
「あぁあ、学校の備品を。 弁償だな春原」
「僕がっすか!?」
「お前が悪いし」
「どこがだよっ!?」
「頭」

 膝から崩れ落ちるいつもの春原さんに心から安心してしまう風子でした。
584北風と太陽8:04/10/25 07:43:33 ID:31sG+ktS
〜ガムテープが生んだ奇跡〜『料理・食べ物』『耳』『卒業』『お願い』『初め』『桜』

「美味しいです、美味しいですっ」
 お母さんの新作パンが、こういってなんですが、珍しくとても美味しかったのでついつい食が進みます。
「ん、渚、美味そうなもん食ってるな」
 と、お父さんも横から一つつまむと、難しい顔をして「…美味い」と呟きます。
 その呟きとほぼ同時に、お父さんからは見えない場所にお母さんが顔を覗かせました。
 声が聞こえたのか、とても嬉しそうな顔をしています。
「なぁ、渚、どこで買ってきたんだ、コレ?」
 お母さんがこけました。
「違います、これはお母さんが焼いたんですよ」
「む?」と、お父さんはカレンダーを睨むと。
「渚、今日は4月1日じゃないぞ?」

 いつものように駆け出していくお母さんとお父さん。 
 一人残された私は、こっそりとその新作パンをもうひとつだけつまむことにしました。
 とても美味しい、特に耳のところが美味しいそのパン。
 それは、パイ生地みたいなサクサクした食パンでした。
 だから、きっと名前は。
585北風と太陽9:04/10/25 07:44:04 ID:31sG+ktS
「パイパンっ」

 渚が時を止めた。
「渚、いまなんてった」
「ぱいぱんですっ」
「俺、今一番食べたいものを言って元気出せっていったよな」
「はい、だからぱいぱんですっ」
 真剣な顔をして言った渚は、止める暇もなく坂を上っていったわけで。
 俺は途方にくれるわけで。

「春原、協力してくれ」
「で、そこでなんで僕なんすかっ!?」
「大丈夫、ちょっと下の毛を剃ってガムテで一物を尻側に張るだけだ! 男という醜い殻からの卒業だ!」
「あんた熱でもあるんじゃないですかっ!?」
「ハッピーバースデー春原子!」
「あんた悪魔っすかっ!?」
 まぁ、なんといわれようが女装をさせるわけで。

「おおい、渚ぁ、連れてきたぞ!」
「? 誰ですか、その女の子は?」
「よし、下を脱げ春原子!」
「あんたド外道っすかぁ?!」
「早くしろや! こちとら剃毛は初めてなんでちょっとドキドキしてるんだぞ!?」
「ひぃぃぃ! なんで息が荒いんだぁぁぁぁ!!」
「脱げーーー!!」
「と、朋也くん、なにしてるんですかーーー!?」
586北風と太陽10:04/10/25 07:44:30 ID:31sG+ktS
「あはは、そっか、勘違いかー」
「もうっ、朋也くんはうっかりさんです」
 あっさりと誤解は解けた。 おかしいと思ったんだよな、最初から。
「あんたら、ほんとに、ほんとーに、鬼っすか…」
 ズラはおろか、女子制服まで着せられて泣き崩れる春原はこのさい放置である。

 と、風子が通りかかる。
 春原を認識すると。
 手で口を押さえ、おもいっきり指差して。
 大爆笑。

 と、おもいきや。

「か…可愛いですっ!」

 意外すぎる台詞だった。
「お前、やっぱ趣味変な」
 こっちのツッコミも聞こえないのか、風子は呟いた。
「…ま、負けません!」
 なんにだ。

 女装っ子の、匂いがする――
 芳野祐介は、学校の前で足を止めたが、頭を振り、すぐに立ち去る。
 一瞬とはいえ足を止めたのは、愛する人が傍にいなくて寂しかったからかもしれない。
587北風と太陽11:04/10/25 07:44:56 ID:31sG+ktS
〜人生は長い長い道を行くが如く〜『走る』『夏だ!外でエッチだ!』『えっちのある生活』
 
 そのころ古河夫妻は。
 町内を駆け回り、その距離もなんと20kmを超えようとしていた。
 
 ハーフマラソンのある生活っていいね!
「良くありませぇぇん!!」
 夏だ!外でハーフマラソンだ!
「誰に向かって叫んでるんだ早苗ーーー!!」


588北風と太陽12:04/10/25 07:51:21 ID:31sG+ktS
〜春と修羅〜『復讐』『動物』『絶体絶命』

 両手一杯のおみやげと一緒に、おねぇちゃんが町に帰ってきました。
 ので、ユウスケさんと一緒に空港まで迎えにいったのですが。
「生やしてきました」
 それがおねぇちゃんの帰国第一声でした。
 なにを、と聞いてもおねぇちゃんは微笑むだけで答えてくれません。
 ユウスケさんは鼻血を流しながらケダモノのように狂喜乱舞するばかりです。
 んーっ、風子、蚊帳の外ですっ。
「で、次は祐くんの番だね」
 ユウスケさんの乱舞が止まりました。
「祐くんのことは好きだけど、わたしも男の子より女の子のほうが好きなの」
 おねぇちゃんは微笑みながら淡々と続けます。
「いってらっしゃい、タイかモロッコ」
 真っ赤だったユウスケさんの顔が面白いほど鮮やかに青に染まっていきます。
 困っているユウスケさんにお姉ちゃんは微笑みながら助け舟を出します。
「まぁ、それはともかく、とりあえず祐くん」
 本当は風子にはよくわかりませんがおねぇちゃんは優しいですから、それはきっと助け舟だったんだと思います。

「お尻、出しなさい」

 んーっ、やっぱり風子よくわかりませんっ! 
 もっと大人になればわかるんでしょうか?
 いつかはきっと知りたいと思います。
 大人の恋というものを。
 

 ――そして時が流れる。
589北風と太陽13:04/10/25 07:55:00 ID:31sG+ktS
〜エピローグ〜『家族』『夢』『結婚』

「もっと家族がほしいですっ」
 唐突な、嫁の爆弾発言。汐を撫でる手を止める。
 しばし考えた後。
「――それはなんだ、つまり浮気して来いってことか」
「絶対駄目です」
 頬を膨らませて言う渚がちょっと可愛い。
「まぁ、でも、ほら、アレだしなぁ」
「でも、でもですね、家族がたくさんいたほうがやっぱり楽しいですっ」
「だからってアレだしなぁ」
 言葉を濁す。 言葉にしなくても渚も自分の体のことはわかっているのだろう。
 更なる爆弾発言を重ねる。
「だから、しおちゃんは早く結婚しましょう!」
 汐がきょとんとした顔で母を見る。
 それ以上に俺の顔は呆然としていることだろう。
「…お前はどこまでアホの子なんだ」
「失礼ですっ! きちんと計画しました! 準備も万端ですっ!」
「準備ってなんだよ」
「無論、しおちゃんの結婚相手です!」
 そう言って、玄関へと手を向ける。そこに立っていたのは。
「渚、ちょっと正座しろ」
「え、え?」
「お前は冗談でも気の迷いでも発作でもなんでもいいけど、なんでよりにもよって汐にアレを宛がおうなんぞ考えるんだええ?」
「と、朋也くん、久しぶりに本気で怒ってますね!」
「あたりまえだぁ! このアホの子っアホの子っ!」
「ひ、酷いですっ! 他に頼めそうな男性がいなかっただけなのに!」
「じゃあお前は他に頼めそうな男がいなかったらアレに古河パンのレジをまかせるのか!?」
「そんな、お店が潰れます!」
590北風と太陽14:04/10/25 07:55:30 ID:31sG+ktS
 言い争う俺たちに向けて、ソレはそっと呟いた。
「あの、僕、もう帰っていいっすかね?」
 そもそもこんな用で来るなよこのロリコン。
 と、勢い良くドアが開く。
 その乱入者は荒げた息を整えると、堂々と宣言した。
「し、しおちゃんは風子のですっ!」
 アホの子が増殖してしまった。
「わぁ、ふぅちゃんが家族になってくれるのは嬉しいです! しおちゃんをよろしくお願いします!」
 アホ嫁が加速していく。
「日本の法律を忘れるな、このアホっ」
「じ、じゃあ春原さんの名義を借りて仮面夫婦を」
「戸籍上俺があいつの父親になるっていうのか? 死んでも御免だ」
「あんたら本人目の前にしてよくそれだけ言えますねぇ…」
 泣きそうな目で春原が呟くがスルー。
 
「名案を思いつきました!!」
 アホ毛を逆立てんばかりに叫ぶ嫁。
 どんなアホ意見が飛び出すことやら、見守ることにした。
「じゃあ間を取って、春原さんとふぅちゃんが結婚しちゃえばいいんですよ」
 本末転倒も生易しい素敵論理展開。
 さも名案だと誇らしげに胸を張る我が嫁に、暖かく声をかける。
「ナホ」
「な…なほ?」
「渚のアホ、略してナホ」
「ひ、酷いです朋也くんっ!?」
「お前の頭がな」
591北風と太陽15:04/10/25 07:55:59 ID:31sG+ktS
 渚のアホ提案に、思わず顔を見合わせる二人。
 しかし、それも一瞬。 気まずさに顔を背けると、同時に叫ぶ。

「ろ…ロリータに欲情できるか!」
「最悪です、最悪ですっ、最悪ですっっ!」


 その後の収拾が付くはずもなく。 
 投擲されるヒトデ。
 他人から見たらイチャついているとしか思えない生ぬるい夫婦喧嘩。
 叫ぶヘタレ。
 更に飛ぶヒトデ。

 喧騒の中。
 汐だけがその呟きを聞いていた。
 太陽の光のように優しい、北風のように切ない囁きを。

「…ぷち最悪ですっ」


 きっと明日も明るく楽しいいい天気。
 きっと太陽は暖かく。
 きっと優しい風が吹く。
592 ◆jOtDSOdEMQ :04/10/25 07:57:20 ID:31sG+ktS
>>577-591
以上です。
593名無しさんだよもん:04/10/25 07:58:01 ID:ZgsvQjcv
すみません、十五分ほどもらえますか。
594 ◆2tK.Ocgon2 :04/10/25 08:04:21 ID:ldxS7xKD
>>593
了解しました。
595 ◆W5yE9iXLz2 :04/10/25 08:13:47 ID:ZgsvQjcv
すみません、お待たせしました。タイトルは、「一枚の思い出」。結構長いです。
イビルとエビルの話です。どっちかというと、イビルよりな話です。
なんか連続でいくつもイビエビと書いてあるので、ややこしいです。
エビルは海老だから赤い方。イビルはイビだから青い方と憶えると、分かりやすいそうです。
それでは、投稿します。


596「一枚の思い出」 1  ◆W5yE9iXLz2 :04/10/25 08:14:54 ID:ZgsvQjcv
 その少女には名前がなかった。
 少女、と言うにはもしかしたら語弊があるかも知れない。
 何しろ胸は平らで、言動はがさつで、おまけに実年齢は不詳で少女と呼んでいい歳なのか分からない。
 ついでに悪魔だった。
悪魔の少女は孤独だったが、魔界を彷徨ううちに、イービルリングという一種の共同体に拾われる。
 普通なら、食い扶持が増えるだけの子供など、見捨てられるか弄ばれるかするだけだが、ここは数少ない例外だった。
 少女は服を与えられ、食物を与えられ、居場所と仲間を与えられた。
 戸惑う少女をよそに、仲間達は遠慮なく、やや乱暴気味な暖かさをプレゼントする。
 そしてもう一つ。
 少女はイビルという名前を与えられた。
「てきとー」
 少女は真っ先に、その名前に文句を付けた。

 もう一人、似たような境遇の少女が、大分遅れて入ってきた。
 イビルよりも胸はあり、物静かで、年の頃はイビルと同じように見えたが、いつも一人きりだった。
 少女は死神だった。
 死神は死と魂を司るものとして、魔界でも忌み嫌われている。
 本来なら死神は、同族だけの小集団で行動するのだが、なぜかその少女は集団から離れ、この共同体にいた。
 あるいはその集団そのものが、死の手に絡め取られてしまったのだろうか。
 死神の少女の名はエビルといった。

 イービルリングと名前は格好を付けてはいるが、ならず者の集団である側面に、代わりはなかった。
 縄張りを巡って他の共同体と争い、時に勝利し、時に敗北して放浪し、時には傭兵となる。
 拡大すれば、国になることもある。あるいは国に飲み込まれ、あるいは滅ぼされる。
 そんな、典型的な魔界での生き方を実践していた。
 イビルは闘えるようになったと判断される前から、勝手に戦場に飛び出しては暴れ回っていた。
 最初こそ窮地に陥りもしたが、一度手柄を立てると、次の戦いからは正式に戦列にくわえられた。
 炎と槍と、それらを組み合わせた力を持って、イビルは暴れ回った。
597「一枚の思い出」 2:04/10/25 08:16:03 ID:ZgsvQjcv
 エビルは静かなものだった。  
 なんで戦わないんだと問い詰めても、「命を奪うのは好きじゃない」と、
 およそ魔族らしくも、死神らしくもないことを口にした。
 真面目に働きはするので誰も文句は言わなかったが、イビルにはそれが気にくわなかった。
 ――が、ある日、主戦力が戦いの場に出ている隙をつかれ、後方に残された非戦闘員達が襲撃された。
 僅かな護衛が蹴散らされ、誰もが死を覚悟したとき、初めて彼女はその刃をかざした。
 冷たい輝きを放つ大鎌が、静かな軌跡を描き、いくつもの死をその場に積み上げた。
 主戦力が帰還したとき、エビルは数多の屍を背景に、朱色の髪を返り血で、いっそう赤く染めて立っていた。
 喝采と感謝をその身に浴びながら、なお、彼女は無言でいた。

 そんなことが起こっても、エビルは相変わらずだった。
 その日も一人で、木の根に寄りかかりながら、果実の皮を剥いていた。
 誰かと協力してなにかするよりも、一人でできる仕事を任せた方が、効率がよかった。
 刃物の扱いはさすがに大したもので、瞬く間に裸になった果実が山になっていく。
 次のを籠から取ろうとしたところで、別の手が、横からそれをかすめ取った。
 皮も剥かずにそれにかぶりついたのは、イビルだった。たちまち顔をしかめる。
「……すっぺぇ」
「砂糖漬けにするんだ。そのままでは食べるのに向かない」
「先に言えよ」
「言う暇がなかった」
 イビルはかじりかけの果実を投げ捨て、エビルを見下ろした。
 エビルは気にせず、ひたすら皮を剥き続ける。と、うつむいていた視界が、急に明るくなった。
 訝しげに見上げると、炎の線が、イビルの胸の前に水平に伸びていて、その中から鋼鉄の槍が現れる。
 慣れた調子でイビルはその槍を軽く回すと、エビルの喉元に突きつけた。
「なぁ、あたいと勝負しろよ」
「……なぜだ?」
「弱い奴が戦わないのはしょうがねぇさ。だけどな、強いくせに、そのことを隠していたっていうのが気にいらねぇ。
 ついでに、お前が本当に強いかどうか、確かめたい。それだけだ」
598「一枚の思い出」 3:04/10/25 08:17:24 ID:ZgsvQjcv
 もう一つ。
 イビルとエビルはどこか似ていた。
 時に比較され、女の魅力の差でからかわれ、少なからず意識している相手ではあった。
 だが、ライバル意識のようなものを自分が感じているのに、エビルは気にしている様子もない。
 それがまた、腹立たしい。
 無視されるのは嫌いだし、無視することもできない相手だった。
 だから、喧嘩という、イビルにとって一番分かりやすいコミュニケーションを持ちかけた。
 本気で殺したいとか、叩きのめしたいとかいうわけではない。
 認めるためには、それなりの儀式が必要というだけだ。
 儀式を行うためには、先の騒動は、イビルにとってはちょうどいいきっかけだった。
 なのに、エビルは手にしたナイフの先で、槍の穂先をのける。
「そんな理由では、戦えない」
 相も変わらずの、何を考えているのか分からない、気のない表情で。
「はぁ? ただの喧嘩だろ、つき合えよ」
「無理だ」
「なにが」
 エビルはじっと、手の中の短い刃物を見つめた。そこに映った自分の顔は、髪も、瞳も、血の色をしていた。
 嫌になるほど、赤い。
「私は、殺すことしかできない」
 口調に込められたものがあまりにも頑なで、敵意以外の興味がイビルの中に生まれる。
「それってどういう――」
 不意に、衝撃がイビルの頭上を襲った。
「ったーーーーっ!」
「こらイビル。エビルに妙な因縁つけているんじゃないよ。困ってるだろ」
 イビルに拳をお見舞いしたのは、恰幅のいい、見た目は中年の女性。
 絶え間なく動いている両腕に巻き付いた入れ墨以外は、人間となんら変わらない。
 が、生死をかけた戦闘ならともかく、日常生活において、彼女に逆らおうとする者はここにはいない。
 彼女はイービルリングの家事全般を取り仕切り、『姐さん』と呼ばれ、敬われ、恐れられている人物なのだから。
 拾われた頃からさんざん世話になっているイビルにしても、頭の上がらない相手であった。
599「一枚の思い出」 4:04/10/25 08:18:31 ID:ZgsvQjcv
「因縁じゃねーよ、ちょっと喧嘩しようぜって言っただけでよ」
「それが因縁だって言うんだよ。大体エビルは仕事しているんだから、邪魔すんじゃないよ。
 どうやら元気が有り余っているようだから、あんたもちっとは女らしいことを憶えな」
「あたいはそんなの必要ねーって――いた、いたいた、耳引っ張るなって!」
「今ちょうど洗濯の手が足りなくってねぇ。あんたでも手伝いくらいの役にはたつだろ」
 彼女は問答無用で、イビルをずんずんと引っ張っていく。
「あたいに洗濯なんか任したら、全部燃やしちまうって!」
「だから加減を憶えなって話だろ」
 喧騒が遠ざかっていき、後にはぽつんと、エビル一人が残された。
 また作業に戻ろうとして、耳を引っ張られるイビルの顔を思いだし、ほんの少しだけ、微笑んだ。

「あー、ひでぇ目にあった……」
 洗濯だの料理だの、慣れないことに担ぎ出され、失敗をする度に拳を落とされ、
 逃げだそうとしては耳を引っ張られ、何とか一日を終え、ようやく夕食の時間となった。
 いや、何よりも閉口したのは、イビルの落ち着きのなさに呆れた姐さんが思わずこぼした、
「恋人でもできれば、この子も少しは女らしくなるかねぇ」
 などという一言から始まった、騒動に巻き込まれたことだった。
 イビルにしてみれば、興味ないの一言で片づく問題だが、総じてこういう話題には、誰もが首を突っ込んでくる。
 身体的には……まぁ、微妙なところもあるが、十分子供を作れる年にはなっている。
 今まで浮いた噂の一つもないだけに、話は逆に、盛り上がっていった。あらぬ方向へ暴走気味に。
 見合いなどというすっとぼけた習慣はないが、それでも余計な御世話に熱心になる人物はいるものだ。
 あいつはどうだ、今誰それはフリーだから、いや、この前誰かに交際を申し込んだとか、
 彼ならイビルとも合うんじゃないかとか、まるで興味の持てない情報を吹き込んで煽ろうとする。
 あたいはそんなつもりは毛頭ない、と言い逃れようとしても、聞く耳を持ってもらえない。
 圧倒的なおばさん方のパワーの前に、さすがのイビルも翻弄されるばかりだった。
 こんなことなら、殴って終わる喧嘩の方が百倍ましだと思う。
600「一枚の思い出」 5:04/10/25 08:19:49 ID:ZgsvQjcv
 困惑と疲労を骨の髄まで叩き込まれ、イビルは食堂のカウンターに力無い声を飛ばした。
「おっちゃーん、大盛り」
「おう、でっかくなれよ」
「うるせー」
 いつものやり取りにも元気がない。
 食事を受け取ったイビルは食堂を見回し、無言で食事しているエビルの対面に座った。
 しばらくは、かたややかましく、かたや静かに食事を詰め込んでいる音だけが響いた。
 遅れてスタートしたイビルが、エビルとちょうど同量を平らげた頃、
「……なぁ」
 ようやくイビルが口を開いた。エビルが少し、警戒した視線を返す、が。
「おまえさぁ、彼氏とか欲しいと思ったことあるか?」
 こちらも不意を突かれ、目を丸くした。
「……考えたこともない」
「じゃあ考えてみろよ。理想の男性像とか」
 エビルはしばらく悩んでみたが、あっさりと諦める。
「想像しがたいな」
「あたいもー」
 自分から持ちかけてきた話題の割には、ずいぶんといいかげんな態度だった。
 エビルは少し考え――少し、飛躍した。
「結婚でもするのか?」
「しねーよっ!」
 と、否定の声が響く前に、ざわりと場が揺らめく。
 結婚? 誰が? イビルが? エビルが? ……物好きなやつもいたもんだ。
「聞こえたぞ、こらあっ!」
 十五分ほどが、騒がしく経過した。
 ようやく喧嘩も一段落付いた頃、何発かいいのをもらって顔を腫らしたイビルが戻ってきた。
601「一枚の思い出」 6:04/10/25 08:21:01 ID:ZgsvQjcv
「ってー」
「冷やしておけ」
 避難していたエビルも戻ってきて、イビルにおしぼりを手渡した。
「おう、サンキュ」
「あまり変形しては、相手がかわいそうだからな」
 相手、という謎の単語にイビルの思考が五秒ほど空回りする。
「……ちょっと待て。相手って何の話だ」
「結婚するんじゃないのか?」
「しねーっつってんだろ!」
「そうなのか」
 相も変わらず、エビルは淡々としたものだった。そのくせ、どこかずれている。
 ほとんど元凶のくせに、今の喧嘩の原因も理由も分かってないことに、馬鹿馬鹿しくなって肩を落とした。
「……お前、変な奴だな」
 イビルはすっかり冷えた食事を詰め込みながら、行儀悪く話しかける。
「そうか?」
 エビルはきちんと口の中のものを飲み込んでから、短く返事した。
「さっきも喧嘩に参加しようとしねぇし」
「喧嘩も戦うも、私には一緒だ」
 イビルの脳裏に、昼間のやり取りが思い出される。
 明らかに普通と違う反応なのは、エビルが死神だからなのか、違う理由からなのか。
 どこか似ているのに、決定的に違うところがある相手に、イビルは興味を持ち始めていた。
「じゃあ、なんで戦かわねぇんだ?」
「必要ならば、戦うこともある」
「はっ、天使様じゃあるめぇし。必要がなくても戦うのが、魔界ってもんだ」
 今もどこかで、大きな戦から小さな喧嘩まで、様々な争いがこの世界で起きている。
 この食堂でも、ついさっきまでは喧嘩が巻起こっていた。
 それが今では、調子外れの歌や下品なジョークなどに取って代わられている。
 喧騒は、この世界の日常そのもので、起こったことに誰も驚きはしないのだ。
602「一枚の思い出」 7:04/10/25 08:21:56 ID:ZgsvQjcv
「お前には、そういうのが向いているな」
「あ?」
「激しくて、強く、熱く、綺麗な魂だ」
 エビルは食事をする手を止め、じっとイビルを見つめた。
 全てを見透かすような静かな視線に晒され、聞き慣れない誉め言葉を受け、イビルの心拍数が跳ね上がる。
「な、なに言ってんだ、おまえ」
 エビルは少し笑った。
「ここの人達は、暖かい魂が多くて、安らぐ」
 エビルの言葉と仲間達のイメージが重ならずに、イビルが首をひねる。 
「喧嘩ばっかりしているぜ」
「喧嘩できるのは、心やすいからだ」
「……よくわかんねぇ」
「気心の知れない相手と争うときは、大抵殺し合いになる。だけど、ここの人達はそうはならない。いいことだ」
 ここの住人とて、当然聖人君子でもないし、荒っぽく、時に残虐でもある。 
 ただ、どこか義賊めいたところがあるのは確かだ。陰湿でも冷酷でもない。
 エビルが変わり者というなら、イービルリングとて、十分変わり者の集団だった。
 だから、合うのだろう。
「あのよ……」
「なんだ?」
「やっぱ変な奴だ、お前」
「そうか」
 なぜかエビルは、嬉しそうにしていた。
603「一枚の思い出」 8:04/10/25 08:31:55 ID:6nV5bfFk
 そんなことがあってから、二人は親密になっていった。
 大抵の場合、イビルがエビルにちょっかいをかけるという形で。
 話をしていて盛り上がるわけではない。気があって大騒ぎするというわけでもない。
 ただ、互いにどこか気にかかる。
 時折エビルが口にする哲学めいた話は、イビルの耳には新鮮だった。
 子守歌にもちょうどいいらしく、聞きながら眠ってしまうことも多々あったが。
 妙な噂が流れるようになったのは、そのころからだ。
 顔立ちにそれほど差はない。耳もお揃いで尖っている。やや浅黒い肌に、貧弱気味なプロポーションも似てる。
 おまけに名前まで似ているとあっては、
「生き別れの兄妹かなんかか?」
 という説が流布されるのも仕方ないだろう。
「ちょっと待て、誰が兄だっ!」
「あぁ、弟だったか?」
「あたいは、女だーーっ!」
 こんなやり取りが定番化するのも、そう時間はかからなかった。
 あげく、恋人だの、禁断の愛だの、よからぬ噂が流れまくるとあっては、イビルの心が穏やかでいられるはずもない。
 だから、男に興味を持たないのだとまで言われる始末だ。
 毎日のようにからかわれては、ムキになって暴れ回り、余計に噂を煽る結果となった。
 対照的に、エビルは相変わらずだった。
 例の一件以来、仲間内での評判も良く、彼女は彼女で、この共同体の中でのポジションを確立しつつあった。
 そんな風に、二人が異色のコンビとして認知されきった頃――風変わりな旅人が訪れた。
604「一枚の思い出」 9:04/10/25 08:32:58 ID:6nV5bfFk
「画家?」
「そうらしい」
 イビルがエビルに誘われ、様子を見に行ってみると、すでに画家の周りは人だかりで一杯だった。
 大人も子供も、珍しいものが見られるとあって、仕事もほっぽりだして集まっている。
 その中心で、ごく小さな画板を手にした画家が、筆を滑らせていた。
 意外なことに、女性だった。
 手頃な石に腰掛けて、その正面に座ってかしこまっている子供達を、目の覚めるような早さで描いてゆく。
 好奇心旺盛な、そしてモデルから外れた子供達が後ろから覗き込んでいたが、その顔は一様に驚きと尊敬に満ちていた。
「ほい、できたわよ」
 差し出された絵に、モデルになっていた子供達がわっと群がり、その上から大人達が覗き込む。
 二十センチ四方ほどの小さな紙の上に、人数分の個性が、暖かいタッチで見事に描き出されていた。
「こらこら、引っ張ると破れちゃうわよ。順番に見なさい」
 そして、新たな紙を画板に重ねた。空中から、音もなく取りだして。
 たちまち次のモデル志望が、七人ほど彼女の正面に陣取った。
 ほんの少しじっとしていれば、たちまち彼女の筆は、生き生きとモデル達を描き出す。
 どこまでが画家としての力量で、どこからが魔法か分からないほどに、彼女の筆捌きは魔法じみていた。
 だが、ただ写すだけでは描き出せない、ある意味単純な魔法とは違うものが、絵から伝わってきた。
 あらかた周囲の人物を描き終わったところで、
「ほら、次のこっち来なさいよ」
「え、あたい?」
 画家に指名され、イビルが戸惑う。
「横の赤いのもね」
 イビルは戸惑いつつも興味深げに、エビルは興味はないけど拒みもしないというような感じで、正面に座り込む。
 その背後にも何人か立ったところで、画家が筆を動かし始めた。
605「一枚の思い出」 10:04/10/25 08:34:28 ID:6nV5bfFk
 エビルが横からイビルを覗き込む。
「顔が引きつっているぞ」
「え、そ、そうか?」
「そーね、青いのもっと自然にしてなさいよ。大丈夫よ。魂を吸い取ったりしないから」
 画家も苦笑して、そういった。
 たまに絵の中の人物が動くのは、その中に魂を封じられてしまったからだ、などという噂もある。
 泣き出したり、呻いたり、笑ったりする絵画は、ここではそれほど珍しくもない。
「別に、んなの怖がってるわけじゃねーよっ」
「んじゃ、もっと笑いなさいな。せっかくの記念なんだから、もったいないわよ」
「お、おう」
 そしてイビルは思い切り引きつった笑みを作り――大爆笑が起きた。
 危うく画板ごと燃やされるところだった。
 
 それから数日後――。
 縄張りの境界線近く、崖の上にイビルは一人立っていた。
 暴れ回るのが大好きな性分のイビルには向いていない、見張り役。
 退屈のあまりにあくびを噛み殺しながら、時折、懐から紙片を取りだし、眺める。
 端っこが焼け焦げてしまったので、ほとんど完成間近だったが失敗作とされた、先日の絵だ。
 その後もう一回、新しい紙にきちんとしたものを描かれたが、イビルはせっかくだからともらい受けたのだった。
 引きつっていたはずの自分の顔が、いかにも楽しげな、いたずら小僧っぽい笑顔に変わっている。
 見ている自分にまで、にやけが移りそうな笑顔だった。
 隣のエビルも、いつもより柔らかいが、らしい笑顔を浮かべていた。
 周りを囲む面々も、一様に暖かく笑い、なんだかくすぐったいような気分になる。
 絵のことなどさっぱり分からないし、興味もなかったが、あの画家は大したものだと、素直に感心した。
 今も、別の村かどこかで、他の人々の笑顔を描いているのだろうか。
 ――別の村と言えば。
 噂だと、近隣の村や共同体が潰されているという話がある。
 攻め落とすのではなく、潰す。そこにかつて村があったことが嘘のような、徹底さで。
 この近くでそれほどの非常識な力を持っているといえば――まず、デュラル家。
 今のところは一度も衝突していなかったが、このあたりではもっとも大きな勢力を誇り、
 強力なヴァンパイヤが率いる不死の軍団は、敵対する者を容赦なく滅ぼすという。
606「一枚の思い出」 11:04/10/25 08:35:48 ID:6nV5bfFk
 さすがのイビルも「ちっと手に余るかもな」と、やや消極的な考えに支配される。
 噂では、上層部は手を結びたがっているようだが、ここ魔界でそんな甘い考えが通じるものか、はなはだ疑わしい。
 同盟締結の席で刺される方が、まだ確率が高いのではないだろうか。
 いよいよそのデュラル家が、ここいらの制圧に乗り出したのか、それとも別の勢力か――。
 そんなことを考えていたイビルの背後に、人影が一つ降り立った。
「食事だ」
「おう、サンキュ」
 すっかり公認となったエビルが、名指しで指名され、差し入れを届けに来たのだった。
 二人で並んで崖の下に足をぶら下げ、昼食を取りながら、考えていた事を話す。
「……驚いた」
「なにがだよ」
「少しはものを考えていたのだな」
「……おめーも言うようになったじゃねーか」
「冗談のつもりだったのだが」
「笑えねーよっ!」
 姐さん譲りの耳引っ張り攻撃を行うが、エビルはほとんど表情を変えない。
 頭を抱え込んで首を絞めたが、やはり無反応なことに、イビルはムキになる。
 こんな風にじゃれあっているから、色々と誤解を招くのだが。
 さておき。話題を戻した。
「だが、デュラル家というのも、敵対する者には容赦ないが、身内には意外に甘いそうだ」
「本当かぁ?」
「噂だが。ここもそういう傾向があるから、手を組むのも悪くないかもしれない」
「しかしよぉ、領土に差がありすぎるぜ。下手に同盟なんか組んだら、吸収されちまいそうだ」
「そういうこともあるかもしれないな」
「って、しれっと言うなよ。あたいはごめんだぞ、そんなの」
 イビルは物心付いてからの時間のほとんどを、ここで過ごしてきた。
 住人達はがさつで荒っぽく、時に本気で殴り合ったりもするが、全員気のいい仲間だった。
 今のまま、それなりに暴れて暮らしていければ、イビルはそれで満足だった。
 自覚はしていないが、何よりも大切な場所だと言うことは、言葉にしなくても分かっていた。
 ふと、あの絵を思い出す。
 あの絵がみんなの心をあれほど打ったのは、そういう親しさや暖かさを、描いていたからかもしれない。
 家族ではないが、家族に等しい絆で結ばれていることを。
607「一枚の思い出」 12:04/10/25 08:37:25 ID:6nV5bfFk
「……そうだな」
 エビルも頷く。
 途中から加わったとはいえ、ここの空気がエビルは好きだった。
 事情を詮索もされず、真面目に働きさえすれば、無愛想な自分でも認めてくれた。
 一度だけ本性をかいま見せたときも、恐れられることはなかった。
 強さが絶対の基準だからかもしれない。だけど、それ以上に懐の深さというものがあるように思える。
 それに、今、横にいる人物。
 噂を肯定するわけではないが、たぶん、自分はこの人物が好きなのだと思う。
 あまりにも率直な物言いは、時に鋭すぎるが、心地いいものを感じた。
「なに、じろじろ見てるんだよ」
「いや、なんでもない」
「……お前、まさか」
「ん?」
 イビルの脳裏に嫌な想像が浮かぶ。
 けして嫌いな相手ではないが、こと男女関係に関しては、イビルはまだまだ子供っぽさを残していた。
「い、いや、なんでもねぇ!」
 見つめ返してきたエビルの視線に耐えきれず、慌てて目と話を逸らす。少し前のエビルと同じセリフで。
 なぜか早まる動悸を押さえていると、逸らした視線の先に、土煙が立っていることに気づいた。
「……なんだ、ありゃあ」
 立ち上がって、目を凝らす。普通の乗用生物なら、この距離から土煙など見えない。
 つまりそれは、その物体の巨大さを表していた。
 煙の隙間に、ごつごつとした、岩のような物体――巻き貝が見える。
 そして、そこを依代とした生物が、下に収まっていた。
 いわゆるヤドカリだが、そう呼ぶには足の数が際限なく多く、なにより、呆れるほど大きかった。 
 大きいと言っても、五メートルとか、十メートルとか、そういうレベルではない。
 その上の巻き貝を、砦として兼用できるほどの。
 貝殻にぽつぽつと開けられた穴は、窓であり、そこから武装した兵士達が乗り込んでいるのが見えた。
 先端はイビル達が立つ、崖の上よりもさらに上にまで届く。まさにそれは、動く要塞だった。
 巨大ヤドカリは、無数の足で地面を引っ掻きながら、半ば掘り返すようにして突き進んでくる。
 轟音と砂埃を巻き上げながら、真っ直ぐこちらに向けて、突進してくる。
608「一枚の思い出」 13:04/10/25 08:39:05 ID:6nV5bfFk
 冗談のような理不尽な存在に、唖然と見送ることしかできないイビルの頭上に、光るものが見えた。
 それが砦から放たれた矢であることを察知して、とっさにエビルはイビルの身体を岩場の影に引きずり込む。
 さらには魔法の攻撃なども加えられたが、正気に戻ったイビルとエビルは、その攻撃を何とかやり過ごす。
 見張り退治に時間をかけるつもりはないらしく、ヤドカリは二人の目の前を、恐ろしいスピードで駆け抜けていった。
 嘲るような笑いが、その中に紛れていた。
 狭い峡谷を固い殻で削りながら、本来、侵攻の障害となるべきそこを、容易くくぐり抜けてゆく。
 そこでようやく、二人はその行く先に何があるのかを思い出す。
 彼女らの、家だ。

 現在のイービルリングの拠点は、峡谷を抜けた先、盆地の中央に設けられている。
 そこまでの道のりは、途中まで上り坂になっていて、イビル達の前に悪意があるかのように立ちふさがる。
 全力で走っているのに、後ろに飛んでいく風景が、苛立つほどのろい。
 敵襲の合図は送った。だが、あの襲撃速度では、ろくな迎撃準備も取れないだろう。
 遠くに煙が上がっているのが見える。明らかに炊事のものとは違う、黒く澱んだ煙。
 せめて自分たちが着くまでは持ちこたえていてくれと、祈るような思いで走り続ける。
 息が乱れる、足が崩れそうになる、鼓動がやかましいほどに響いている。
 それでも疲労で倒れそうになる身体にむち打って、全力疾走を続ける。
 エビルも汗を飛ばしながら、イビルの後を付いてきていた。
 ひたすら走り続けて、拠点を望める崖の上にまで、ようやく辿り着いた。
 丸太組みの簡単な小屋が数十軒。住居から倉庫、穀物庫、食堂兼酒場に長の館。
 しばらくここに定住するつもりで作られた、小屋のほとんどが――倒壊し、炎上していた。
 そしてその数倍に及ぶ数の死体が、周りに散らばっていた。
 敵のものも味方のものもある。だけど数は、味方のものの方が圧倒的に多かった。
 その上に無遠慮に、あの巨大なヤドカリが、我が物顔で居座っている。
 もはや組織的な抵抗はできず、散発的に反撃する人々が、狩られ、蹴散らされ、踏みつぶされる。
 つい今朝まで笑い合っていた仲間達が、物言わぬ肉片と化してゆく。
609「一枚の思い出」 14:04/10/25 08:45:46 ID:zW2EdaaJ
 その肉片の中に、誰のものかはっきりと分かる、腕があった。刻まれた入れ墨は、主同様、動きを止めている。
 血が逆巻くような想いがした。
 無意識に絶叫し、崖から飛び降りていた。ひたすらに身体が滾るのは、全身を包んでいる炎のせいか。
 足が触れた先からなにもかも炎上し、駆けた後ろに炎の道筋を作る。
 砦から下りて殺戮と略奪と陵辱に興じていた連中に、槍を突き立て、そのまま炭にする。返り血すら、熱で瞬く間に蒸発した。
 周囲すらろくに認識できず、わけのわからないまま、見たことのない動く者を、殺し、燃やし、灰にする。
 時折叩き伏せられたが、その接触すらも反撃の炎となって、敵の武器にまとわりついて、本体まで焼き殺す。
 疲労など感じなかった。ただ怒りだけで頭が染められて。
 無尽蔵に力が湧いてくるようなのに、まだ足りないと思う。もっと強く、もっと激しく、全てを焼き尽くす力をと。
 だが、意識していなくても限界は来る。
 また一人殺し、次の敵を捜そうと振り向いた拍子に、膝が崩れ、足が滑る。
 膝をついたところに、魔法と矢が一斉に放たれた。
 矢は燃えたが、魔法までは防ぎきれず、氷塊が、電撃が、風刃が、イビルの身体を貫いた。
 噴きだした血が、蒸発せずに、地面に染みを作る。イビルの身体を包んでいる、炎が尽きていた。
 体力と魔力の最後の一滴までも、使い尽くした証拠。それを合図に、スイッチが切れたように、意識が暗くなる。
 こらえようとする意識さえ、さらに追撃を喰らって断ち切られる。
 闇に閉ざされる前に、自分を呼ぶ声が微かに聞こえた。
 炎のような赤い髪が、遮られてゆく視界の向こうで、翻っていた。

 パチパチと、薪の燃える音が、耳に優しく響く。
 いつの間にか夜になっていたのか、視界が暗い。その片隅が、揺らめく炎で赤く癒される。
 その赤さも暖かさも、イビルにとってはなじみ深いものだから。
 やけに眠い。体の芯まで疲労が残っている感じがする。このまま休みたいという思いを、意識のどこかが拒絶する。
 やらなければならないことがあるような気がする。だけど、それはなんだっただろう。
 身じろぎした拍子に走った痛みが、イビルを覚醒させた。
「つっ……くぅーーっ……」
610「一枚の思い出」 15:04/10/25 08:46:44 ID:zW2EdaaJ
 痛みに体を折った瞬間、別の所が痛む。どこが、とはっきり認識できないほど、あちこちが痛んだ。
「まだ動くな」
 もう一つの赤が、視界に割り込む。
「……エビル?」
 痛みと混濁に掻き回された意識に、少しずつ記憶が甦る。何があったのか、何をしたのか。
 気力も体力も尽きたせいか、怒りすら湧かない。ただ重苦しさだけがのしかかる。
 もっと怒るべきだと、思ってはいるのに。
 だから、無理矢理に身を起こした。
「イビル」
 咎める口調を無視して、近くにあった木の幹に爪を立て、えぐるように掴みながら、それを支えに起きあがる。
 痛みはあった。気力はなかった。だけど、無理矢理奮い起こした。
 ここで怒ることすらできなければ、自分の大切だったものが、大したものでなかったと認めてしまう。
 荒い息をつきながら、痛みを怒りの糧として、立ち上がる。崩れそうな膝を、木によりかかって支える。
 心の中を殺意一色で染めていく。空っぽになっている力を、無理矢理かき集める。
 炎が右拳を包んだ。たったそれだけ。でも、それだけで十分だった。――戦える。殺せる。
 軽く手を振って、火を散らす。ここで力を無駄遣いするわけにはいかない。
 力を振るうべき場所へと、一歩踏み出した。
「どうする気だ」
 エビルも立ち上がっていた。やはり傷だらけだが、イビルよりははるかに軽傷だった。
 表情がいつもの硬さに覆われていないのは、なんの感情に支配されているためか。
 だけど、少なくとも自分と同じ感情ではないと、イビルは感じた。それが疑念となって口に出る。
「お前が、あたいをここまで連れてきたのか?」
 エビルは頷く。
「なんで戦わなかった」
 責める口調と鋭い目つきに、エビルが戸惑う。  
「逃げ道を作るために、何人かは倒した」
「それだけか」
「……それだけだ」
 戸惑いを見せながらも、口調は相変わらず淡々としたものだった。
 その冷静さを見て、また、血がざわめいた。
 敵に抱くのと同じような、あるいはそれ以上の怒りが、エビルに対して湧き上がる。
611「一枚の思い出」 16:04/10/25 08:48:23 ID:zW2EdaaJ
「だから、なんでだっ!」
 胸ぐらを掴んで、引き寄せる。目の前にある顔が自分に似ていることを、初めて嫌悪した。
「お前を助けるためだ」
「そうじゃねぇだろっ! 仲間を殺されて、なんで怒らねぇっ! あたいを助けるより先に、やることがあるだろっ!」
「お前も私も、犬死にするだけだ」
「尻尾たたんで、負け犬人生送るよりましだっ!」
「だが……」
 この期に及んで、なおためらいを見せている。 
 自分と同じ憎悪に狩られないのが、不満だったし、ふがいないと思った。大切な人達を目の前で殺されたのに。
 ましてや、この感情をぶつける唯一の行為を犬死になどと、侮蔑されるとは。
「もういい」
 エビルの胸を、強く突き飛ばす。よろめいたエビルが、地面にへたり込んだ。
「お前があの時戦ったのも、みんなを助けるためじゃなくって、自分が助かりたかっただけかよ。
 お前みたいな薄情者、もう仲間でもなんでもねぇ」
 仲間でない、どうでもいい存在だと思ったら、殺意すら冷めた。
「一人で惨めに生きていろ」
 視界に入れるのも汚らわしいと、背を向けて立ち去る。
 と、腕が強く引かれた。まだつきまとうつもりかと振り向くと、破裂するような高い音が、耳元で鳴った。
 頬を叩かれたのだと理解するのに、少しの間があった。
「お前こそ……」
 痛みよりも怒りよりも、強く睨みつけてくる目の端から、流れている涙に目を引きつけられて。
「お前こそっ、なんで分からないっ! 同じ目にあったというのなら、お前だって、私と同じ思いに、なぜならないっ!」
 初めて聞いた、エビルの感情のこもった声。
 口調は明らかに怒りに満ちているのに、その向こうに透けて見えるのは、悲しみだった。
 逆に胸ぐらを掴まれたが、エビルはむしろ、すがるようにして、叫ぶ。
「私があの時、お前が一人で突っ込んでいったとき、どんな思いをしたのか知っているのか!?
 置き去りにされた私が、血の気の引くような思いで後を追って、倒されたお前を救い出して、
 お前が生きていたと、二人で生き延びられたと分かったとき、どれだけほっとしたか……。
 死んだ人達のことは、悲しい。悲しいけれど、もうどうしようもない。
 だけど、お前と私は生きているじゃないか……。なんで、死に急ごうとするんだ」
612「一枚の思い出」 17:04/10/25 08:50:32 ID:zW2EdaaJ
 エビルは、駄々をこねるように首を振った。
 まるで彼女らしくない。らしくないけれど、それだけに、彼女の本質が現れているようにも思う。
 触れている手から、震えが伝わってくる。思わず手を重ねると、驚くほど冷え切っていた。
 背はほとんど同じなのに、自分よりも細い肩。この細い身体で、自分を助け、逃げのびるのに、どんな苦労をしたか。
 それだけのことをする原動力となった、彼女の思い。
 エビルがどんな思いをしていたか、なんてイビルには分からない。あまりにも思考のベクトルが違いすぎる。
 だけど、痛みは伝わってくる。その痛みを上手く言葉にできず、髪に触れた。
 赤い髪は、所々血で固まっていた。
「もう、一人はいやなんだ……」
 慰めるような仕草に誘われ、呟いたエビルの言葉はか細く、不安に揺れて、迷子を思わせる。
 イビルは黙ったまま、固まった髪を揉みほぐした。
 血の塊がすりつぶされ、髪が解かれてゆくと共に、エビルの言葉が零れ出てゆく。 
「この世界は、いつも戦いに満ちていて、当たり前のように誰かが死んでいって……。
 大切な人が死ぬのは悲しいから、大切な人なんか、作りたくなかった。
 だけど、誰もいないのは、もっと寂しいんだ。結局一人でいられなくって、ここに来てしまった。
 お前が、みんながいてくれることが、嬉しくて、だけど、恐くて……。
 いつかこうなるかもしれないって、ずっと怯えながら生きていた。
 私は、それだけのことをしてきたから……」
「それだけのこと?」
 聞かないほうがいいかとも思ったが、エビルはむしろ、語ることを望んでいるようだった。
 ずっと彼女の表情を閉ざしていた呪縛から、逃れたがっているような。
「……私は死神だ。誰かを殺し、魂を奪うのが役割だと教えられ、そうして生きてきた。
 命を狩れば両親も仲間も喜んでくれたし、私もそうするのが正しいと思っていた。
 殺して、殺し続けて、いつしか戦いの場に立てば、敵と認識した全てをほぼ無意識に殺してしまえるようになった。
 殺した分だけ、誰かに悲しみや怒りを与えていると、想像することすらできずに。
 産まれたときから染まりすぎていて、自分のいる場所が狂気に満ちているなんて、思いもしなかったんだ。
 そして、当然のように、私の部族は報復を受けた。まるで……」
613「一枚の思い出」 18:04/10/25 08:51:42 ID:zW2EdaaJ
 エビルの語尾が乱れ、喉が詰まる。
「まるで、イービルリングのように、何もかも燃やされ、殺し尽くされて」
 震えを静めようと、エビルがイビルに身体を押しつけてくる。
「私が気が付いたときには、全てが終わっていた。そして、全てが失われていた。
 ただただ、真っ赤になった大地と人々と、そして私自身だけが残されて。
 何もかも失って始めて、私は自分がしてきた行為の意味に気が付いた。
 大切なものを奪われるということが、どれだけ悲しい事なのか……。
 あんな狂った場所でも、異常な人々でも、あそこは私のただ一つの居場所だったんだっ」
 吐き出し終えて、しばらく荒い息だけが響いていた。
 嗚咽の混じる息に、どう声をかけていいか分からず、髪を指で梳き続ける。
 そうしていると、少し気が落ち着いたのか、また語り始めた。
「それから、ずっと長い間、一人で生きていて、でも、一度寂しいということを知ってしまったら、
 もうそれに耐えることが出来なくって、ここの人達の優しさに、甘えてしまった。
 ずっと、このままならいいと願ったし、流れていく穏やかな時間にほっとしていたのに、
 やっぱり私は、戦いの場になると何もかも殺して、そして、みんなを、死に引き込んでしまうんだ……」 
 ようやく、エビルは顔を上げた。あまりにも真っ直ぐに見つめられて、目をそらせない。
「でも、お前は生きている……。お前だけは、死なないで欲しい。
 臆病者と呼ばれようが、薄情者と蔑まれようが構わない。
 これが私のエゴだって言うことは分かっている。でもっ……」
 また崩れそうになる紅玉の瞳を、見つめ返しながら、イビルは答えた。
「だめだ」
 けれど、突き放すのではなく、抱え込む。エビルが砕け散ってしまわないように。
 頬を触れあわせながら、耳元に強く囁く。
「お前の言い分は分かったけど……あたいはだめだ。
 あそこはあたいにとって、かけがえのない場所だ。
 イービルリングから名前を与えられたあたいには……恩とか、借りとか、そんな言葉では言い尽くせない思いがあって、
 その分、同じだけの量の、恨みや怒りがある。
 あいつらをこのままにしておいたら、あたいはあたいでなくなっちまう。
 自分自身を失って生きるのなら、死んで何もかもなくなっちまったほうが、マシだ」
614「一枚の思い出」 19:04/10/25 08:53:34 ID:zW2EdaaJ
 今度は、エビルがなにも言えなくなった。
 二人の考えは合わない。全くの正反対と言ってもいいほどに。
 だけどこの上なく、理解はできる。
 止められない。イビルはきっと死んでしまう。どうしようもない未来に、胸が締め付けられる。
 また涙が流れ出しそうになるところを、イビルの声が救った。
「だから、一緒に来いよ」
 え? と顔を上げた先に、表情の選択に困って、苦笑したようなイビルの顔があった。
「寂しい顔して一生泣きながら生きるくらいなら、一緒に来い。
 そんな思いをするくらいなら、死んで何もかもなくしちまえ。
 一緒に、死んでやるから」
「イビル……」
 空っぽになっていた胸が、熱くなった。ぶっきらぼうでも、乱暴でも、やはり、熱い魂の色。
 その熱さは、ただそばにいるだけで、いつも自分を暖めてくれていた。
 言われたことは思いもよらなかったが、答えるのに迷いはなかった。
「お前と、一緒に行く」
「いいのか? お前、本当は誰も殺したくなんかないんだろ?」
「誰かを守るためなら戦える。それに……もう、こんな風に泣くのは嫌だ」
「あたいも、こんな思いをするのは、二度とごめんだ……」
 最後に、一つだけ。
「一日だけ、待ってくれ。今日は、戦えない。心も、身体も……」
「……分かったよ」
 イビルは妥協した。
 たった一日。それくらい弔いが遅れるのは、勘弁してくれるだろう。
 そうと決めると、一気に疲労がぶり返して、イビルは木を背にしたままずり落ち、
 しがみついているエビルも、それに倣った。
 手を離したら、勝手に死んでしまうとでも思っているのだろうか。
 エビルはよほど安心したのか、そのまま眠り込んでしまう。
 ――怪我人の上で寝るか、普通? 
 そうは思ったが、この空の下で、仲間と呼べるものが互いだけなら、こうして一つでいることが自然なようにも思えた。
 やがてイビルも、エビルの体重を感じながら、心地良い眠りに落ちていった。
615「一枚の思い出」 20:04/10/25 09:08:06 ID:jhWmbiK0
 翌日。再び夜。
 森の木々に身を潜ませながら、例の要塞が望める位置に、二人はいた。
「少し、考えてみた」
 エビルはやっぱりそれが素なのか、いつも通りの淡々とした表情と口調に戻っていた。
「私達のように、運良く生き延びた仲間はおそらくいるだろうし、捕まっているものもいるだろう。
 それらを探すのもいいが、血気盛んな連中だ。派手に一暴れすれば、この機に乗じようと、寄ってくると思う。
 砦自体は堅固で倒すのは難しいだろうが、兵士の質は、あまり良くない。
 私がイビルを連れても、なんとか突破できたくらいだ。
 まずはあの砦に潜入し、内部から火を点け、騒ぎを起こす。仲間が捕まっていたら、解放し、一緒に戦う。
 上手く混乱に乗じれば、砦を落とせるかもしれない」
 イビルは呆れたように呟いた。
「……昨日のお前は、どこいっちまったんだ?」
「あ、あれは……」
 途端、赤面する。どこもかしこも真っ赤になったエビルが、平静を装おうとする様は妙におかしい。
「まー、そんな感じのお前の方が、頼りになるな。あたいは突っ込んで玉砕しか考えていなかったし」
「それは困る」
「わーってる。あたいだって死にたいわけじゃねーからな」
 ただ、死んでも叶えたいことがあるだけだ。
 あの要塞は、未だ彼らの家の上に鎮座している。それを見るだけで、抑えようのない怒りが沸き立つ。
 殺された人々の顔を思いだし、胸に刻み込む。死ぬ最期の一瞬まで忘れないように。
 今にも飛び出したい衝動を抑え続け、細い三日月が、ようやく真上に上った。
「よし、いこうぜ」
「ああ」
 二人は静かに、駆けだした。
616「一枚の思い出」 21:04/10/25 09:08:50 ID:jhWmbiK0
 その三日月が、照らす別の影。
 二つは長身の女性。一つは小柄な少女。もう一つは、岩の塊のような老人。
 イビル達とは逆側の崖の上に立って、例の要塞を見下ろしていた。
「あらま、困ったもんねぇ」
 紫色の長髪が、ゆるい風になびいていた。
「どうします? もう同盟とか、無意味っぽくなっちゃいましたけど」
 その傍らに立っているのは、例の画家だった。
「でもね、私の領地の目と鼻の先で好き勝手されて、放っておくのも度量が狭いと思わない? ねぇ?」
 少女は同意するどころか、返事すらしない。ただじっと、眼下を見つめている。
「あんなデカブツ、ただの山賊が持つにしては、分不相応だし、どこかの国が、嫌がらせに送り込んだものね。
 ちょうどいいから、同盟相手を潰した敵として、処理するわ」
「それで晴れて、ここも領地に組み込もうって寸法ですか」 
「まぁ、遠からず、そうなる運命だったわけだし。大義名分もあるわ、名声も上がるわで、一石二鳥よね」
 そこで初めて、老人が口を開いた。
「では、領地に戻って、戦力を整えますか?」
「そうねぇ……」
 僅かに逡巡すると、状況の方が変化した。
 砦の各所から、火の手が上がったのだ。
「どうもそんな暇はないみたいね。せっかくだから、便乗しましょ」
「御意」
「はいはい」
「……」
 三者三様の返事が返ってくる。
 紫の女性が軽く手を翻すと、闇の色をしたマントが広がり、四人を包み込んだ。
 女性が軽く地を蹴ると、もう空には一つ分の影しかない。
 やがてその影も、闇の中へと落ちて溶け込んでいった。
617「一枚の思い出」 22:04/10/25 09:09:38 ID:jhWmbiK0
 二人の襲撃は、予想外に、順調に進んでいた。
 エビルの鎌は、音もなく見張りを無力化し、イビルの炎は、騒ぎの中に混乱を引きだしてゆく。
 狭い通路の中で炎が渦巻けば、大概のものは狼狽する。
 その隙をついて、二人の槍が、鎌が、敵を蹴散らしてゆく。
 弧を描くエビルの鎌が、周りを薙ぎ倒し、イビルの槍が、急所を見つけてそこを貫く。
 共に戦うのは初めてなのに、まるで生まれて以来の戦友であるかのように、二人の息は合っていた。
 そして予想以上に、敵は弱かった。こんな奴らごときに、と悔しく思うほど。
 内部を攪乱すれば、脆いだろうという、エビルの予想は当たっていた。
 また、火を点けたことで宿主であるヤドカリが暴れ出したことも、混乱に一役買っていた。
 だが期待していたような、援軍は来ない。囚われている仲間も見つからない。あるいは捕らえられてなどいないのか。
 弱くても数はいる。中の構造も掴めず、闇雲に移動しているせいで、焦りと疲労が、刻一刻と募ってゆく。
 イビルのふさがっていない傷から、血と痛みがにじみ出始めているのが分かった。
「ちぃっ……」
「イビル、こっちだ」
 煙に紛れ、物陰に潜んで息を整える。
 何人殺したか憶えていないほど、たくさん殺した。鎌が血で濡れて重くなるほどに。
 たった二人でやったにしては十分すぎる戦果だが、イビルは満足していない。
 全て殺すか、殺されるか。それが終わりだと分かってはいるが。
「よし、いくぞ」
 僅かに休んだだけで、またイビルは飛び出そうとする。
「あ、イビル、まだ……」
 もしかしたら、エビルは少しだけ、生きたいと思ってしまったかもしれない。
 その躊躇いが、エビルから鋭さを僅かに奪っていた。普段なら気づいていたかもしれないのに。
 イビルの足が、床に沈んだ。
「わっ!?」
 エビルは逃れようとしたが、遅かった。
「っ!!」
 床がそのまま泥土のようになって、二人の足を飲み込んで、捕らえた。束縛魔法の一種。
 いまさら背後から詠唱が聞こえた。冷たい戦慄が背中を走る。
 二人の中央で光球が膨らみ、弾けた雷が、二人の全身を引き裂いた。
618「一枚の思い出」 23:04/10/25 09:10:43 ID:jhWmbiK0
 一度崩れると、後はどうしようもなかった。溜まっていた疲労と、傷と、新たに与えられた傷が、力を奪う。
「っくしょう……」 
 自分で思っていたよりも、はるかに弱々しい声だったことに、イビルは舌打ちしたくなる。
 まだこんなにいたのかと呆れるほど、ぞろぞろと敵が出てくる。
 自分もろとも全員焼き尽くしてやりたいのに、首を掴んで持ち上げられても、炎の欠片すら出なかった。
 下卑た顔が、笑っている。腹の傷をえぐられても、痛みに呻くのが精一杯で、唾を吐きかけてやる体力もない。
 こんな奴に殺されるのか……と睨みつけた男の顔が、怪訝な、そしていやらしい笑いに変わる。
「おい、こいつ、女だぞ」
 嘲るような歓声が起こった。言葉の意味に気づいて暴れようとするが、力がまるで入らない。
 無遠慮な腕が、胸元から一気に服を引き裂こうとしたとき、
「ええーっ、それほんとぉ?」
 心底残念そうな、場違いな女の声が聞こえた。
「あー、もうっ。ちょっと小生意気そうな男の子を調教できる楽しみにありつけるなら、
 こんなむさ苦しいところに来た甲斐もあったかな、って思っていたところだったのに……どーいうこと、それ!?」
 いつの間にか現れた四つの影に、誰も手を出せず遠巻きにしている。
 絵筆を抱えた画家に老人、無垢な少女に、美貌の女性。
 かなり奇妙な取り合わせだが、不思議と威圧感があった。
「ルミラ様。目的見失ってるって」
「だって、戦場にも一輪の花って必要じゃないの」
 そう力説している女の名に、周囲がざわめく。
 ルミラという名前は、このならず者達にも聞き覚えがあった。
「ルミラ・ディ・デュラル……?」
 誰かが呟いた。
「ご名答」
 ウインクついでに軽く返ってきた返事に、戦慄が湧き起こった。
 この地一帯を支配している、デュラル家の当主、ルミラの名は、遠くまで知れ渡っている。
 名門、デュラル家の名もさることながら、主に美貌と美少年好きと、恐るべきヴァンパイヤとしての戦闘力と。
 そのルミラが、なぜここに?
「それじゃ、他の適当に始末しちゃって」
 それが答えだった。
619「一枚の思い出」 24:04/10/25 09:12:45 ID:jhWmbiK0
 まるでちょっとそこのゴミ拾っておいて、と言うような軽い口調に、唖然とする間もなく三人が動き出す。
「フンッ!」
 老人が全身の筋肉に力を込めた。ミシミシと音を立てて、固い筋肉がふくらんでゆく。
 はち切れんばかりの園両腕を目の前に突き刺し、空間を割り開くと、その狭間から、騎士の鎧が現れた。
 ガシャリと擦れる音を立てて展開した鎧は、扉を閉ざすような勢いで、老人をその中に飲み込んだ。
 分厚い金属の塊が、瞬く間に分厚い老人の筋肉を覆い尽くした。
 ほんの一瞬で、重装の鎧騎士と化した老人は、軽く腕を一振りした。
 その一撃は、体格だけなら老人の一・五倍ほどある熊によく似た獣人を、身体ごと壁にめり込ませ、
 拳がめり込んだ分の血反吐と内臓を空中にばらまかせた。
「バベルはそのまま、この暴れている生き物、止めてきてね。歩きにくいったら」
「御意」
 バベルと呼ばれた老人は、重々しい音を立てて歩き出す。
 向かってくるのは主に、彼より体格の大きな、無謀で知能の足りない魔物だったが、
 それらをことごとく、その拳で粉砕しながら、真っ直ぐに進んでいく。
 遮る者は、敵であろうと壁であろうと、例外なく砕かれて。
 歩みはゆっくりとしたものであるのに、誰もその後を追おうとはしなかった。
 対照的に、この場に残ったのはひ弱そうな女性三人。
 中でも小柄な朴訥な少女は、いかにも与しやすそうに見えた。
 ルミラの部下の一人とはいえ、これならばと、一人が巨大な斧を振りかざして撃ちかかる。
 はたしてその一撃は、あっけないほど簡単に、その少女を粉砕した。
 木片とバネと細い鋼線が飛び散った。
 人形の少女を砕いて、その男は意気を上げるが、だが、その木片が浮き上がった。
 ばらまかれた無数の鋭い部品が、唖然とする男の周囲で回転する。
 小型の竜巻が生じた後には、元通りに組上がった人形の少女が男のいた場所に組み上がり、
 肉片と骨と血液とが、代わりに周囲にばらまかれた。
 きりりと首を軋ませて、少女が次の対象を探す。次の呪詛返しの対象を。
「さて、お次は私の番かしらね」
 画家が当然のように、絵筆とパレットを手に取った。
620「一枚の思い出」 25
 あまりに違和感のあるその態度は、戸惑いと戦慄を呼び覚ます。
 彼女は赤と紫をその筆に乗せて、パレットの上で混ぜ合わせた。
 不気味に彩られた色彩が、あるグロテスクなものを描いてゆく。
「ほいと」
 そこに画家は手を突っ込んだ。パレットを貫通しているほど深く。
 だが、手の先は抜けてなどいない。ちゃんと、赤と紫の中に潜り込んでいる。
 そして、なにかを引きずり出した。
 途端、苦悶の叫びが周囲に満ちる。彼女を囲んだ兵達が、胸を押さえて苦しんでいた。
 彼女がそれを投げ捨てると同時に、兵達の身体が地にくずおれた。
 血にまみれたその物体は、赤と紫の混じり合った心の臓。
 兵士達は血の一滴も出していないのに事切れて、画家の右手だけが無傷なのに血にまみれていた。
 さすがのルミラも顔をしかめる。
「えぐいわねー」
「芸術ですよ、芸術」
「これがぁ?」
 と、二人が談笑している傍らで、残った兵士達が殺し合いをしていた。
 魅了の瞳に覗かれて、誰が敵とも味方とも分からずに。
 軽く二十人以上が、ほんの一瞬でルミラに支配され、操られていた。
 なにげなくやってはいるが、これ以上ないほど効果的に、しかも効率のよい、殺戮。
 イビル達とは異なる次元の、力がそこにあった。
 明らかに異質な戦場を、散歩するような気楽な表情で二人が歩いてきた。
「赤いのに青いのじゃない。久しぶり」
 画家が軽く手を振った。
「あらメイフィア、知り合い?」
「前に下見に行ったじゃないですか……同盟組むのに信用できる相手か、調査するためにって」
「あぁ、そういえば」
 ぽんとルミラが手を打った。
 自分たちが血反吐を吐いて倒れているのに、なんでこんなに簡単にと、悔しく、情けなく思う。
 格が違うのが分かってはいても、許せなかった。何よりも、無様な自分自身が。
「余計なこと……するんじゃねぇ」