「やはり、直接拳を交えるしかないようだな!」
「ふっ、望むところよ」
「ええー!? お、落ち着いてよ。ど、どうしよう宮沢さんっ」
「困りましたねえ」
「この人だけ落ち着いてるよっ。ね、七瀬さん。深呼吸した方がいいよ。はぁーってしてよ」
「はぁぁーーー!!」
「なんか違うー!!」
「くっ、なんという気合いだ。相手にとって不足はないな!」
もはや誰にも止められず、ついに魔法少女対シンデレラの激闘が始まった。
拳と拳、蹴りと蹴りが交錯する中、雪見が悲しそうな瞳で呟く。
「空しいものね…。けど、いつかはこうなる展開だった気がするわ」
「雪ちゃん、それシンデレラじゃないよ」
しかし留美の拳は、しょせんは浩平に血反吐を吐かせる程度である。
幾多の不良たちをなぎ倒し、春原の顔面を変形させる智代の蹴りには及ばなかった。
「きゃぁぁぁーー!!」
車田正美風に吹っ飛び、頭から床に激突する留美。
「がはっ…。ど、どうやらあたしの時代もこれまでのようね…」
「すまない…。これも時代の流れと思って諦めてくれ」
「はっ! でも喧嘩が弱いってことは、あたしの方が乙女らしいんじゃあ?」
「し、しまった! 試合に勝って勝負に負けるとはこのことかぁっ!」
「やった! 最強ヒロインとかストリートファイターとか色々つけられた汚名も、これであんたにプレゼントよっ!」
「そんなぁっ! 待ってくれもう一度戦おう! わざと負けるから!」
「醜い争いだよ…」
「あのー、ちょっといいですか?」
収拾がつかなくなっている中を、有紀寧が軽く手を挙げる。
「最初から気になってたんですけど、七瀬さんはどこで話を聞いたんですか? 坂上さんが女の子らしいって」
「どういう意味だ宮沢さん…」
「いえ、少し気になっただけですよー」
留美はきょとんとして、起き上がりながら答えた。
「そりゃあインターネットよ。乙女が集まる乙女のサイトに書き込まれてたのよ。『蔵等高校の坂上智代は宇宙一女の子らしいぞ』って」
「そうなんですかー」
「誰がそんなこと書いたんだろうね」
誰がそんな大ウソ書いたんだろうね、とは誰も言わなかったが、そんな雰囲気が場に漂う。
その沈黙に耐えかねたように、智代がゆっくりと崩れ落ちた。
「す、すまないっ…。つい出来心でっ…!」
「自作自演かい!」
「だって…だって誰も私のことを女の子らしいって言ってくれないんだもん!」
『だもん、じゃねーよ。なの』
「実際女の子らしくないんだから仕方ないじゃない」
「雪ちゃん、本当のこと言っちゃ悪いよ」
「うわぁぁぁぁぁん!!」
「あ、坂上さん!」
ドレスを翻して泣きながら駆け去る智代。
それを、留美は必死で追いかけた。自分の姿を重ね合わせるように。
ドレス姿のシンデレラは、屋上の隅にうずくまっていた。
瑞佳や有紀寧たちが扉の影から見守る中、留美はゆっくりと近づいていく。
「笑え、笑ってくれ…。私はもう坂上智代であることに疲れてしまったんだ…」
「あほっ、笑ったりするわけないでしょ。あたしにも気持ちはわかるもの…」
「え…」
「世間の偏見って悲しいわよね…。あたしもお淑やかで優しい女の子なのに、なぜか世間では漢女なんて根も葉もないことを言われてるわ…」
「……」
「何よ瑞佳その顔はっ!」
「な、何も言ってないよ〜」
こほんと咳払いして、留美は智代の肩に手を添える。
「だけどあたしは諦めないわよ! リボンをつけて、本当の乙女になるんだって決めたんだから。こんなところで立ち止まってられないわよ」
「七瀬さん…」
「だから…さ、あんたも泣き言いわないで、もう少しだけ頑張ろうよ」
「ありがとう…。あなたのその根拠のない自信が羨ましいぞ…」
「誉めとらんわっ!」
智代は立ち上がり、とても女の子らしい顔で留美と握手した。
「もう、勝負をする意味はないな」
「そうね。そもそも戦うこと自体乙女らしくないような気もするわ」
「そんなの最初から気付いとけっちゅーねんー」
ことみのツッコミはとりあえずスルーされる。
「悲しいの…」
「わかってもらえたようですね。二人とも」
そしていつもの柔らかな笑顔で、二人の近くへ歩いていく有紀寧。
「二人は誰よりも女の子らしい女の子です。だって、女の子らしくなろうと努力するその姿こそが、真の乙女の証なんですから…」
「そ、そうか?」
「そう言われればそんなような気が」
「そうですよー。お二人の素晴らしさはわたしが一番よく知っています。ですから二人とも、今のままのあなたたちでいいんですよ」
後光の差すような有紀寧の笑顔に、感激の涙を流す乙女たち。
「ああ…!」
「ゆきねぇ様…!」
「なんか洗脳されてるー!」
「くすくす…これで二人ともゆきねぇ教の信者です」
【ゆきねぇ教】もっともらしい説教とまったりした雰囲気で、不良共すら虜にする宗教。危険度A。
「な、七瀬さんもう帰ろうよっ! それじゃお邪魔しましたー!」
「あたしは乙女〜、あたしは乙女よ〜フフフ」
「また来てくださいねー」
ゆきねぇ様がハンカチを振る中、かくして遠方からの来客は元の学校へ帰っていった。
そして…
「というわけで、あたしの乙女修行の旅は終わったのよ」
「みゅ?」
「ね、前より少し変わったと思わない?」
「うー…たくましくなった」
「そんなこと言うのはこの口かぁっ!」
「みゃーーーっ!!」
「七瀬さん七瀬さんっ」
一方生徒会室では。
「どうだみんな、七瀬さんと同じ髪型にしてみたんだ。とても女の子らしいとは思わないか?」
『こわっ!』
「…もう一度…言ってみろ…」
『ひぃぃぃーーっ!!』
真の乙女への道は、どちらも険しいようだった。
(完)
えー、今から投稿します。
Kanonで、『戦い』がお題の11レス予定。
タイトルは「サラマンダー殲滅」。
健全なる男子高校生といえども、風吹きすさぶ真冬の昼休みには、暖房の効いた教室でダラダラ過ごすのが自然である。
なおかつ、健全なる男子高校生ともなれば、会話の内容は女と乳と尻に集約されるのが道理である。
時に解り合い、時に高め合い、彼らは共に成長していくものだ。
だがしかし。時にそれは、譲れないテーゼの衝突にも繋がるのであった。
まぁ、よーするに。
舞と香里の乳の大きさで揉めた祐一と北川が、どうにかして優劣を決さんと校庭に立っているだけ。
「マジありえねぇ……」
気の毒なのは、たまたまその場に居たという理由で連れ出された斉藤だった。
どちらの胸が大きいかなんて、どっちも大きいんならそれでいいじゃん、大人になろうよ、と彼からすれば至極真っ当な意見を述べていたつもりだった。
ああそれなのに、お前の目は節穴かとか、いやいやトップとアンダーの差は美坂が、とか、じゃあお前あの胸で挟めると思うのかとか、それどころか胸で肩たたきされたことあるぞとか、こっちなんか横になると余りの重さに横にずれてくんだとか、それもう垂れてんだよとか。
あっという間に議論の方向はぶっ飛んで、じゃあ勝負に勝った方のが美乳かつ大きいってことで、と2人納得していたのであった。
空っ風が体にしみる。本格的に寒い。だいたい勝負って意味わかんねぇ。
斉藤は何度も心の中で叫んだのだが、ドーパミンの放出過多な血走った眼を前にしては、遠慮がちに吐息を漏らしてみるのが精一杯。
対峙する二人の周りで、健気にホームベースと一塁ベースとバットとグローブとボールを用意していた。
太陽が頂点に達する。
ホームベース付近で入念にストレッチする北川と、のんびり歩いて塁間を往復する祐一。果たして、この時勝負は既に決していたのであった。
「規則正しい呼吸、飛び散る汗、跳ねる双乳。アグレッシブな舞にしか生じ得ないこの健康美も理解できないなんてな。残念だよ」
「……もう俺達に言葉は不要と言ったはずだ」
北川はバットを構える。とうに心は静寂。ただ香里の豊胸だけが頭を占めている。
「勝負あるのみか。それも良かろう」
グローブとボールを持って、祐一はマウンドに向かう。愛すべき不器用な剣士への想いにかけて、負けられない試合だった。
「ルールをもう一度確認しようか。審判!」
己の運命をなし崩し的に受け入れた斉藤が、ホームベースの後ろに立って、厳かに宣言する。
「相沢の投げた球を、北川が打つ。カウント2−3からの一球勝負。一塁でセーフになれば北川の勝ち。アウトになれば相沢の勝ち。細かいルールは通常の野球規則に準ずる。いいな?」
「ああ、俺に不満はない」
「こっちもいいぜ」
一見、バッター側が明らかに有利なように思えるルールだったが、祐一には勝算があった。
つまり、北川はアホの子なので、どんなクソボールでも目一杯フルスイングすることだ。たぶん、頭の高さに投げてもバットが動くのではなかろうか。
対戦相手を正確に把握していたがゆえに、持ちかけた野球ルール。死角は無い。
一陣の風が、つとマウンド上に舞う。それに合わせるようにして、祐一はボールを握る。あとは適当なところに投げれば勝ちだ。勝利を確信した瞬間になって初めて、祐一は北川の顔を直視した。
それこそが、祐一の落ち度であった。
十の机上の論理は、一の実戦によって覆される。そんなことは百も承知していたはずなのに。
北川は、笑っていた。嘲笑するように、堪えきれぬように、満面の笑みが顔中に広がっていた。
「な、なぜだ……」
どうしてあいつは笑っているのだ。思わず祐一の口から呟きが漏れる。自分の作戦は完璧なはずだ。あいつはどうしようもない扇風機バッターで、どんな球でも全部振る――全部、振るだと?
「ま、まて、ちょっとタイムだ」
「ふざけるな!」すかさず北川が吼える。闇に息を潜めていた獣が、勇躍して襲い掛かる獰猛さに似ていた。若干顎も長くなった気がする。「勝負に入ってからの中断を認めるのか審判・・・っ!?」
「勝負を宣言してからの中断は一切認められない」黒服の斉藤が無表情に言う。
「待て、何も勝負をしないなんて言ってない。ただ、」
「中断は、一切認められない」
ザワザワ・・・ザワザワ・・・と樹々がざわめく。祐一は自分の犯した大きなミスに、殴られるような思いだった。
「ふふふ、そうさ相沢。この勝負は野球ルール。振り逃げも当然オーケーってことだ」
「ばかな、ばかな・・・っ。そんなものが許されるわけあるか・・・っ!」
「ここにいる黒服がなにも言ってこないってのが、何よりの証拠・・・。つまり、奨励はしないが、禁じられてはいないってこと・・・っ。この勝負は気付いた者勝ちってわけだ・・・っ!」
祐一の目から、ボロボロと涙がこぼれる。
振り逃げありだなんて、最初から一塁が約束されたようなものではないか。こんなのは、あんまりだ。こんなのは、フェアな勝負じゃない。こんなのは、こんなのは……。
その時だった。それまで黒子に徹していた斉藤が、不意に歩き出した。戸惑う二人を尻目に、悠然と体育倉庫からグローブを取ってくる。
「……斉藤?」
北川の声が、初めて揺れた。舞台への乱入者に、どう対処すれば良いのか解らなかったのだ。
「斉藤……?」
祐一の声も震えている。だが、それは歓喜を予感してのものである。
「ふふ」ホームベースの後ろに腰を落ち着けて、斉藤は微かに笑った。「投げてこいよ、相沢――俺も川澄先輩持ちだ」
「斉藤っ!」
孤独な漂流者が船影を見つけた時のように、祐一は両腕を空に投げ上げて感情を爆発させた。状況は、ここに一変したのである。
「そんな、嘘だ……」
対する北川は、未だ目の前の現実を呑み込めない。認めたくないという意識が、彼の理性をストップさせていた。
「ははは、時代の風は舞に吹いているんだよ!」
祐一の高笑いで、彼の呪縛はようやく解ける。しかしそれは、彼の体をグラウンドに投げ出すものでしかなかった。
「お、おんどぅる……裏切ったのかーっ!」
「ふん。裏切るも何も、俺はお前の味方だと言った覚えはないがな」
「う、う、う、嘘だどんどこどーん!」
舌が思うように動かない。ロレツの回らない自分の台詞を、北川はまるで遠い世界で発せられた異界の言葉のように感じた。
「さあ、立て北川。ここまで俺を追い詰めた貴様に敬意を表して、最高の必殺技で葬ってやろう」
泥のような風の唸りを引き摺って、祐一が振りかぶる。それに追い立てられるようにして、北川はのろのろとバットを振り上げる。
再び静寂。もはや誰の目にも勝負は明らかであるようだった。斉藤は敵であるはずの北川の、哀愁漂う後姿に憐憫すらも覚えた。
「いくぞ――魔速竜覇球!」
神の如き力が体中に漲るのを知覚しながら、祐一は己の必殺技を斉藤のミット目掛けて叩き込む。
次の瞬間。
軽い金属音と共に、ボールは、緩やかに、しかし遥かな高さをもって空に舞い上がっていった。
さて、一方その頃。ドゥルガー静香(82・♂)さん宅にて。
閑静な住宅街に佇む瀟洒な一戸建て。独り暮らしの彼は、本日も居間で午睡に揺蕩っていた。
夢に見るのはいつも同じだ。太陽の熱射線。ジャングルに時たま静謐が訪れると、決まって不気味な怪鳥の影が現れた。そして、銃声音。
まるでタイプライターみたいだな。俺物書きだからこの音懐かしいよ。
そう笑った同胞は、真っ先に撃たれて死んだ。戦車を奪おうとした日本軍とたった一人で戦って、手も、足も、ゴミクズのようになった。一緒に生きて帰るんだと誓った自分は、振り返ることもせずに逃げたというのに。
――1944年、夏。その年、彼は戦車兵だった。
中米から移民してきた日系3世であったがために差別され、カリフォルニアでは収容所に送られる寸前であった。星条旗に生きる矜持を見せようとして軍隊に入営した彼だったが、なんのことはない、そこでも扱いは同じだった。
それでも、いつか日系の汚名を晴らせる日が来るだろうと、訓練に励んだ。ようやく念願叶い、激戦区であった東南アジアの最前線に派遣されたけれど、彼が属する小隊に与えられた旧式戦車は一週間もしないうちにスクラップになった。
もとより戦力になど計算されていなかった。日系ばかりが揃った己の部隊が、大隊からは「エンプティ・セット」――「空集合」と呼ばれていたことを知ったのは、ジャングルで散り散りになる折、同僚が捨て鉢気味に呟いたときだった。
「そう呼ばれたってしょうがないよな、所詮俺らはコウモリなんだしさ」
それでは。
今まで、自分がやってきたことは全て無駄だったのか。教練も反吐も傷痕も、同胞の死も、全て空っぽだったのか。
そうして、彼の心の中の、何かが折れた。理想を失った彼は亡羊とジャングルを彷徨い、一ヵ月後に味方に保護された。小隊で生き残ったのは、彼だけだった。
今でも、夢に見る。いつも同じだ。
終戦後アメリカに住まなかったのは、彼なりの同胞に対する墓標であったのかもしれない。肉親も存命しておらず、未練はなかった。
彼はうっすらと目を開ける。代わり映えのしない天井。安穏とソファーに横たわっている自分を認識する。
ふと、窓の外から聴こえた何かの羽音が、少年時代を過ごしたコスタリカで見た、ウオクイコウモリを思い出させる。飛ぶ哺乳類であり、なおかつコウモリでありながら魚を食す半端者の種。
それにも拘らず、彼らはまるで自分達のレーゾンデートルを信じて疑わないかのようで、そのセックスはひどく原始的で荒々しかった。
あの頃、彼らの傍らで釣りをしていた自分には、彼らが半端であるという意識などなかったはずだ。それが今や、自分の出生を自嘲するまで堕ちた。
ならば、一体どうすればいいのだ? 一体何をすれば、当時のような誇りを持てるというのだ? 誰でもいいから教えてほしい。
節くれ立った手で顔を覆い、呻き声を洩らす彼の耳に、なんだか若干大きくなった羽音、というか何かが風をかき分けてくる飛翔音。
まぁ要するに。野球ボールが、窓ガラスぶち破って突っ込んできましたとさ。
話は戻る。
しばらく3人は呆然と球の行方を見守っていたが、やがて、北川の瞳に光が戻った。
「や、やったーっ!」
稚児のように飛び跳ねて、まだ見ぬ香里の胸の名誉を守った祝福のダンスを舞う。
「嘘だろ……」
祐一と斉藤はぽつりと呟くが、その意味合いは大きく異なっていた。
「つーか、両手投げってどうなのよ」
斉藤は脱力してホームベースにへたり込む。祐一は割合ショックを受けているようだが、あの投げ方で本当に勝つつもりでいたらしいことの方がショックである。あとネーミングセンス。
死角はない、とかぶつぶつ言っていたけれど、あいつが死角なのではないだろうか。
昼休みの無為に過ぎていった時間を斉藤は呪ったが、途中ノリノリだったのであまり文句も言えない。
とりあえず、共に戦った仲間として慰めの言葉でもかけてやろうかと、マウンドに立ち尽くす祐一に歩み寄る。うなだれた背中を叩き、顔を覗きこんで斉藤はぎょっとした。
そこに、悪魔がいた。
祐一はにたりと醜悪な笑みをこぼしていた。肩を落としていたのは、そのためだったのか。しかし何故、今になって? 勝負の行方は誰の目にも明らかなのでは――。
「ルールを思い出してみろ」悪魔がそっと囁いた。
斉藤は言われるままに反芻する。
「カウント2−3からの一球勝負、相沢が投げて北川が打つ、野球ルールに準じる」
「違うな。一つ、大事な要素が抜けている」
「……一塁でセーフになったら北川の勝ち?」
「そうだ。一塁でセーフになったら、だ」
祐一は依然チェシャ猫笑いを崩さない。そんなことを言ってもボールはなくなってしまったのだし、後は悠々北川がベースを踏むだけではないか? 斉藤は訳が解らず、振り返る。
そうして、異変に気がついた。
ベースラインを歩く北川の肩が目に見えるほどに左右に震えている。彼から流れ出た脂汗で地面に染みができていた。一塁まで残り半歩。だが、その半歩こそが、ゼノンのパラドックス、決して詰められない半歩だった。
「くくく……我が必殺技は球にあらず!」ついに祐一の抑えきれぬ哄笑が風に乗って響き渡る。「貴様が柔軟運動など馬鹿げたものをやっている間に、勝負はついていたのだよ」
「ど、どうしたというんだ!?」
慌てて斉藤が北川に駆け寄り、そこで彼は全てを悟った。
ベースには全面香里の写真が貼られていた。微笑む香里、照れる香里、悲しそうな香里、ふくれた香里。もっともそれは北川ビジョンの話であって、斉藤からすれば全部仏頂面の、被写体となることに明らかに嫌悪を催している顔にしか見えないのだけれど、ともかく。
「大変だったなぁ、それ全部貼るのは」
「この偏執狂め……」
勝ち誇った祐一の声が北川の自尊心を刺激する。けれど、彼は反発することはできない。
これはただの写真に過ぎない――付け加えるなら、胸の大きさを比較するために彼らが無理やりポロライドで撮った写真である――。そんなことは先刻より理解している。
だが、香里の写真であるという一点のみで、北川にとってそれはただの写真ではなくなる。
こんな愛くるしい香里を、自分の足で汚していい法があろうか? そもそもこの勝負は香里の名望を保つために始まったものである。ここで写真を踏みにじるようなことがあっては、それこそ本末転倒。
そう、たとえ世界を敵にまわしても、自分だけは香里を守ってみせる! 彼女の笑顔のために!
血の涙を流しながら、北川は仁王立つ。自身のプライドを捨ててまで、彼女のために生きる。それこそが真実の愛。学名ストーカー。
「俺には踏めない……」
祐一の笑い声を背景に、北川は静かに天を仰ぎ、
「俺の、負ぶぐわぁ!?」
体ごと吹っ飛んだ。
「――え?」
事態の急変についていけず、祐一は息を呑んだ。当然、彼の発声器官は音など発していない。それなのに、未だ止まぬこの笑い声は一体どこから。
「ダメだぜ北川、漢の勝負にギブアップはないんだ」
「……どういうことだ、斉藤」
答えは一つしかなかった。北川を蹴り出した斉藤が、にこやかにコンサートを引き継いでいた。
祐一の目がすっと細まる。
「いやいや、俺は感動したんだぜ。相沢と北川、お前らの戦いに。だからさ、俺も、譲れないもんを思い出した」
「巨乳アンド美乳認定権を俺と争うと言うのか? ……ふ、ふふふふ」
「何がおかしい」
祐一は、内ポケットからゆっくりと写真を取り出すと、一塁ベース上に置いた。
「胸の大きさを比較するのには、当然両者の写真が必要だよな。馬鹿め、俺が所有しているのが香里のものだけだとでも思っていたのか」
舞の写真を、屋外、しかもベースの上に放置することは、彼女を守るためだとはいえ断腸の思いである。祐一は傍目には平静を装っていたが、その実、先程の北川に勝るとも劣らない苦しさを味わっていた。
「なるほどな、それでこの余裕か」
「香里よりも大きいことが判明した今、我らが高校における巨美乳最優秀候補であるところの舞の、しかもこの秘蔵裸Yシャツ写真はとても踏めまい」
「って既成事実にすな!」北川が顔だけ勢い良く跳ね起きる。
「負けただろ」
「まだ勝負は終わってないっ」
想い人の写真を挟んで戦う2人のやり取りに顔をしかめて、斉藤はため息をつく。
「ふぅむ。どうやら根本的なズレがあるようだ」
その、祐一と北川の熱き思いが収束している一塁ベースを、ぐしゃり、と。
斉藤は何の躊躇いもなく、踏みにじった。
「バカなーっ!」
今度こそ本心からの悲鳴の二重奏があがる。ぐしゃりぐしゃりと斉藤が足を動かすたびに、彼らには自身の血管が切れていくように思えた。
「お前、ま、舞で、舞が、舞を、なんてことをーっ!」
「かかかかか香里の顔が、顔がぁぁっ!!」
「くだらん。全くもってくだらない」
阿鼻叫喚の地獄絵図を心底不愉快そうに眺めながら、斉藤は吐き捨てるように言う。
「胸の大きさ? そんなもの、どっちだって大きいんだからいいじゃないか。五十歩百歩なんだ。もっと大人になれよ」
語尾に含まれた微妙なニュアンスを、まず祐一が察知し、次いで北川もその意味を感じ取った。
「お前、まさか――」
「掌に全部入ってしまうくらい小さな胸を、女の子自身が小さいって気にしてる胸を、こう、こう、こうするのが楽しいんじゃないか」
「ひんぬー派だったのかっ!」
「俺が相沢を支持したのは、単に川澄先輩の胸をよく知らなかったからだ。写真を見た今となっては吐き気がするな」
「ぐ……な、なんたる侮辱」
地団太を踏む祐一と、さっきの勝負がウヤムヤになりそうで復活しかけの北川、それに第三軸な概念を颯爽と顕現させた自分に陶酔中の斉藤。
彼らはこれから始まるはずの大いなる戦いの予兆に意識が奪われて、誰一人として気付いていなかった。
例えば、斉藤が未だ一塁ベース上に足を置いていること。
例えば、教室であんな大声で勝負勝負と騒いでいたら、みんな注目するに決まっていること。
ていうか、そもそもポロライド写真いきなり撮った時点で虎の尾の上でタップダンスを踊っていたこと。
ずーっと前から、コールタールのようにどす黒いオーラが辺りを渦巻いていること。
「こうなりゃバトルロイヤルだ、香里のバスト85をかけて!」
「そんなないだろ、せいぜい83だ」
「どっちにしろ気持ち悪い!」
これっぽっちも気付いていなかった。3人ともバカなので。
後に目撃者が語ったところによると、まるでハリウッド映画のサラマンダーを、リアルタイムに見ているような感じだったとか。
ついでに。
「て、敵襲じゃあああああっ!」
ボールの真珠湾奇襲攻撃にボルテージが上がっていたドゥルガー静香さん、庭に着弾した3体のボロキレのようなものに、久方ぶりにハッスル。
彼は自分の生き甲斐(復讐)を発見できたようです。
めでたしめでたし。
「……あのさ、舞。いやね、こういう文章をね、インターネットに流すのはどうかと思うんだけど。ほら、一応公共な場だから。うん。――いやマジホントごめん反省してますだから目ん玉抉るのはやめて痛いっ」
今から投稿させて頂きます。
ONE
『雨』と『友達』がお題。11レスです。
タイトルは「夕焼けロマンチック同盟」です。
「私は、そうですね。……雨が、嫌いでした」
たぶんそれは、懐かしむような声だった。
低いわりにはっきりとして聞きとりやすい。かといって明るすぎず、早すぎず、遅すぎずの。つまり言うなれば、まったりとしてコクのある、こう、まるで大人しい雪ちゃんのような声だった。
あっ。べつに雪ちゃんが大人しくないなんて言っているわけじゃないんだよ? と、胸の裡で言い訳しておく。地獄耳だなんて思ってないからー。読心術が使えるんじゃないかって思うことはあるけど。
って、それはさておき。えーと。
名前なんだったっけ、なんてようやくすこしだけ考える。わたしはこんだけ話していて今さらながら、思い出した。
そうそう。茜ちゃんだ。浩平君と一緒にいたときに挨拶をした憶えがある。
今、わたしたちは、燃えるような夕焼け空の下、屋上でふたりっきりなのだ。
キスはしない。女の子同士だから。
でもロマンチックな雰囲気が醸し出されたなら、流されるのも楽しいような気がしないでもない。
さて。どうしてこんな状況になったのか、遡ってみよう。
いつものように。放課後、夕焼け空の下にいた、そのとき。
屋上のドアがあまり騒がしくなく開いた。浩平君じゃないな、とわたしは気付いて、控えめな、錆ついた音色に耳を傾けていた。きぃぃ。いったい誰だろう。今日は……雪ちゃんに追っかけられるようなことはしてないはずだ。たぶん。
ドアの開く音。性格はこんなところにも出るものだ。なにも足音だけじゃなくて。
数歩、近づいてきた。わたしに向けて、ぺこりと礼をしたらしい。そのあとに声をかけてくる。
「――すみません、こちらに浩平来てませんか」
「うん? 浩平君のお友達?」
「……はい」
「それで、浩平は」
一瞬躊躇ったのは、なんだったんだろう。友達じゃない、って否定じゃないし。いやいや友達どころか、彼女が浩平君の恋人だったりしたら……あ、ちょっと嬉しいかもしれない。
変かな、わたし。
ま、いっか。類は友を呼ぶ、とよく言うのだし。
彼女は(わたしも、この時点ではまだ名前を思い出してないんだけど)とりあえず浩平君と親しい誰かみたいだったから、友達の友達。友達の友達はやっぱり友達。というわけで、わたしも友達ということになるんじゃないかと思うのだった。まる。
にこにこしながら答えた。
「たぶん来てないと思うよ。そこらへんに隠れてなければ」
「そこらへんというと」
「たとえば……ドアの裏とか、パイプにしがみついているとか、かな」
「いないみたいです。……ありがとうございました」
まあ、これだけで終わる話ではあったのだ。
わたしが引き留めなければの話、だったんだけど。
ちなみに放課後であるからして、もちろん、さっさと浩平君が帰ってしまった可能性は否定できない。
だけど、今日は来そうな予感がしていたのだ。こんな良い風が吹いている。ちょっとだけ寒いけど、だからきっと素晴らしい夕焼け日和なのだ。浩平君がそれを見たなら、来ないわけがないくらいの。そしてわたしのカンはよく当たる。浩平君のことなら特に。
よく当たるから、今日もきっと屋上に来る。
彼がここに来るってことは、この子はこの場所で待っていたほうが、浩平君を探すにもすれ違わなくて効率が良いと思う。
とまあ、こんなふうに、雪ちゃんばりに明確な理屈をつらつらと語ってみる。だけど、なんだか、あまり信用していない雰囲気が漂ってきた。
そう思って、雪ちゃんの極悪さもそれに手振り身振りを交えて語ってみる。彼女はくすりと声を漏らして笑ってくれた。ちょっとほっとした。
ごめん雪ちゃん。演劇部部長の真の姿を、またひとり罪もない女の子に伝えちゃったよ……。でも、許してくれるに違いない。
何故なら、雪ちゃんは雪ちゃんだからだ。
――あれ?
「よく分かりました」
「分かってくれたんだ。良かった」
「はい。雪ちゃんという方のことが、すごく好きなんだと、とても」
「うん。雪ちゃんのことは好きだけど、……ってそうじゃなくって!」
「羨ましいです」
「えっと。何がかな?」
ふふっ。
聞こえてきた彼女の笑い方をあえて表現しようとすると、こんな感じだった。楽しそうな声。何気ない、いたずらっぽい微笑みといった風。
「そうやって、素直に好きって言えることが」
「どうして?」
「私にも友達がいるんです。けど――」
滔々と語る彼女。その友達というのは、なかなか奔放な子のようだった。説明というか、その武勇伝を聞いた感じ、浩平君女の子版。
んん……えと。この学校の生徒じゃないのに、入り込んでいる、と。
人物像が形になってくると、その子とは、一昨日くらいに話したような気がしないでもなかった。たぶん澪ちゃんと食堂で偶然出会したときだろう。わたしはカレー。澪ちゃんはうどん。一緒のテーブルについて食べていたのだ。
途中に誰も介してないから、会話を成立させるのにも一苦労だった。うんうん。大変だったけど、これも良い思い出になると思えば、悪くない。
「もしかして、詩子ちゃん?」
「知ってるんですか」
聞き返す瞬間、凄い勢いで空気が凍り付いた。
「詩子、何かご迷惑をおかけしませんでしたか」
労せず思い出せる。柚木詩子と名乗ったあの子は、澪ちゃんとわたしの通訳係を買って出てくれたのだ。まあ、まともな会話が成立したかどうかはともかく。
「ううん。それどころか、ちょっと大変だったことを手伝ってもらっちゃったよ。詩子ちゃんって実は良い子だね」
「……良かった」
そう呟いてから、また、固まった。一呼吸、間が空いた。
「あの。今言った、実は、っていうのは」
「……えっと」
わたしも一呼吸。置いて。考えて。
「なんとなく、浩平君みたいな子だったよ」
主に行動などなど。
「やっぱり何かしたんですね……ごめんなさい。詩子、決して悪気はないんですが」
呆れのような信頼のような、不思議な感情の混じった声。それでだろう。さっきの彼女の話にも、なるほどなるほど、とわたしはひどく納得する。
何故なら、その口調は、よく耳にする誰かさんの言い方にそっくりなのだった。
「そういえば、浩平君。遅いね」
「来るんでしょうか」
「大丈夫。それは安心していいと思うよ。いつ来るのかまでは分からないんだけどね。そうそう。ところで、浩平君にどんな用なのかな」
「昨日、見知らぬ路地を抜けたら、とんでもなく美味しいパフェを出す喫茶店を見つけた、と」
「とんでもなく?」
「はい。とんでもなく、だそうです」
「つまり……デートかな」
「違います」
即答だった。きっぱり。
「じゃあ、浩平君が連れていってくれるって約束してくれた?」
「そういうわけでもないです」
「そうなんだ」
「はい」
そこで一端、会話がとぎれる。
沈黙。風がびゅうびゅうと空から降りてきて、わたしたちの真ん中あたりを吹き抜けてゆく。やっぱり肌寒いかもしれない。時期的には、そろそろ暖かくなりはじめのころなのに。
しばらくこうしてぼけっと突っ立っていると、寒かった風が弱まっていくのを感じられた。彼女も目の前あたりで動かないまま、考えていた以上に付き合いが良かったようだった。
「……ね」
先に近づきながら口を開いたのは、わたしの方だった。喋っているほうが楽しいからと。
「浩平君の話でもしよっか」
でも、よく分からない会話の糸口を見つけてしまったっぽい。
しかし。浩平君について、かよわい女の子ふたりがこんなふうに屋上でふたりきり。頭を突きつけ合わせて、あーでもない、こーでもないと語るというのは……
と思ったけど、それはそれで楽しいかも、などと思い直す。
ちなみに、いつの間にか、頑張ればキスできる距離になってたりする。それに気付くと、もうひとつのことに気付いた。彼女、風よけになってくれる位置に移動していた。
それでつい口をついて出たのは、
「なぜかは分かんないんだけどね、浩平君の知り合いって、みんな優しいんだよ」
「浩平は変ですから」
わたしたちも変なんだけど、と続けてしまいそうになって、ぐっとこらえる。
すごく言いたかったけど。がまんがまん。
「まあ、浩平君が変だってことは否定できない、かな」
「……私たちもきっと、どこか変です」
わたしは、何秒か、言葉に詰まった。
答えに窮していると、彼女は真摯な声で先を続ける。歌うように、そっと。
「でも、普通です。やっぱり、どこにでもいる女の子なんです」
「そうかもしれないね。……だけど」
「だけど?」
さっきと違い、今度はすっと言葉が出てきた。
「みんな、変だからこそ……ひとと話すのが、こんなにも面白く感じるんだって思うよ」
誰もが普通なのだ。どんな苦しみであっても、自分だけの苦しさなんてもの、誰もがそれぞれに持っているのだ。それこそ変な気分だった。忘れていたわけじゃないのに。分かっていたはずなのに。
自分と他人という存在が同じものではないという、ただそれだけのこと。
それを悲しいと思わなくてもよかった。孤独を感じる必要なんて、なかったんだ。人間はみんな、だからこそ、ひたすらに触れ合うことを求めるんだから。
さみしさは、理解できる。
言葉を交わすことから。手を繋ぐことから。ぬくもりを知ることから。すべてはそこから始まるのだ。
「ね。変なもの同士、仲良くしよう?」
「そうですね。……それも、いいかもしれません」
「じゃあ、新しい友人に」
「乾杯、しますか?」
「飲み物はないんだけどね」
「持ってます」
がさごそと、四次元ポケットならぬ学生鞄から、ひとつの魔法瓶が出てきたらしい。なんともノリが良い。用意も良い。きっと詩子ちゃんに鍛えられたのだろう。動揺の無い様子が頼もしいくらいだった。
「お昼の残りなので、量はそんなにありませんが。どうぞ」
「お茶かな」
「十分です」
「うん、そうだね。それじゃ――」
そこで、乾杯、とやりたかったのだけれど。
とりあえずカップというか、魔法瓶の蓋がひとつしかないので、代わりばんこに飲むことになった。
「……盃を交わしてるような気がするよ」
「気にしないほうがいいです」
というわけで、気にしたら負けらしい。
のどを鳴らしてこくこくと盃を――もとい、蓋コップを干す。彼女が仕舞うのを見計らって、お願いしてみた。
「とっくに気付いてたと思うけど、わたし、目が見えないんだ」
「はい。気付いてました」
「それでね、もし良かったら、顔をさわらせてくれないかな」
「かまいません」
浩平君にもやったことだけれど。彼女に触れて、知りたかった。
こうして知ることが、わたしには、きっと何より大切なことだった。
快諾を受けて、ゆっくりと手を伸ばす。……これじゃ本当にキスするみたいだ。妙なことを考えてしまい、がらにもなく、わたしのほうが恥ずかしさに顔を赤らめてしう。でもしっかり堪能した。
思った以上に、素敵な顔だった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
さらりとした受け答え。こういうお願いにも慣れているようだ。そのせいか、詩子ちゃんに親近感が。でもまあ、心配する側される側は異なるかもしれないけれど。
「そうだ。今日の夕焼け、綺麗かな?」
「そうですね。……とても」
「どのくらい?」
「泣きたくなるくらいに」
淡々とした答え方。微笑ましいくらいに、正直な声。
「そっか。ロマンチックだね」
「……どうでしょう」
「いのち短し、恋せよ乙女。なーんて歌、思い出しちゃったよ」
そのとき。バタン、とドアが思いっきり開かれた。
「あのっ、ここに折原きてませんか!?」
ほら。こんなに違う。ドアの開き方。足音。その他もろもろ。
「……七瀬さん」
「あ。里村さん。どうも。それで……折原は、ここにはいないのよね?」
「はい」
「ありがと。それじゃ、お邪魔しましたっ」
だだだだだ。と激しい足音。また凄い勢いで閉まるドア。鉄扉だから余計に音が響き渡った。
遠ざかっていく七瀬さんとやら。やがて気配が階下へと消えて、もう何も聞こえなくなる。
「――浩平がなかなか現れない理由が分かりました」
「彼女に追われてる?」
「みたいです」
「うーん、困ったね」
「そうでもないです。とりあえず、まだ校内にいることだけは分かりましたから」
「えっと。どうしてかな」
「七瀬さんのことだから、靴箱くらいは確認しているはずです」
「外には出てないってことだね」
「はい。たぶん、逃げるのに疲れたか、落ち着いたらここに来ると思います」
もう少し時間が経つと暗くなってしまって、夕焼けが見られなくなる。
もったいないなあ、って思う。
仕方ないから、話を続けることにした。
「……ねえ、乙女といえばさ。浩平君は白馬の王子様、って感じじゃないよね」
「子供です」
「だけど好き?」
「……さあ。どうでしょう」
はぐらかされた。
これもまた、素直に好きと言えない、ということなのかもしれない。
案外、本人には率直に言えちゃったりもするのかもしれない。
乙女心は難しい。
わたしにだって、乙女心は分からないのだから、これはもう相当に難しいに違いないのだ。
「あの……」
わたしは先を促した。彼女が先に口を開いたから、邪魔したくなかった。
「夕焼け、好きなんですか」
「うん。すごく、好きなんだ」
それこそ、泣きたくなるくらいに。
何も映らない目を向けた。空は焼けているのだろう。真っ赤な光をほんの少し感じることが出来る。赤い世界。オレンジ色の高い空。雲は色鮮やかに染まっている。赤に紫、橙に加えて、夜の紺も混じり始める時刻。
彼女は好きなものを挙げようとして、口籠もった。やがて、おずおずと言葉にした。
「私は、そうですね。……雨が、嫌いでした」
そして、冒頭へと戻り。彼女の名前を思い出す。
茜色の空を想像しながら、茜ちゃんへ、ゆっくりと問いかけた。
「雨が?」
「はい。長いあいだ、傘を差し続けていたんです。もうすぐ晴れると信じながら」
深いところは分からなかった。
分からないように、話しているのだ。お互いに事情は知らない。誰もが自分だけの苦しみを持っていて、それは簡単に他人に見せびらかすようなものではないのだ。
いつか話してくれる日がくるのかもしれない。なんて、思いながら、聞いていた。
「でも、最近になって、雨のことがそんなに嫌いじゃなくなったんです」
で、理由。思い当たるフシ。ひとり。ピーンと来た。
「もしかして浩平君のせい?」
「もしかしなくても、浩平のせいです」
浩平君のおかげと言わないあたりが、言い得て妙だった。
ふと気付けば、茜ちゃんの抑揚のなかった口調も、どこかあたたかいものに変化していた。
「わたしも、あんまり好きじゃなかったかもしれない」
「雨が、ですか。どうして」
「雨の日は夕焼けが見られないから。……目が見えなくても、嫌なものは、理屈じゃなく嫌なんだろうね。そういうふうに感じちゃうってことは、不思議かもしれないけど」
「なるほど」
「嫌いなものって、どういうキッカケがあれば好きになれるのかな」
「好きになった気がすれば、もう大丈夫です」
「気のせい?」
「かもしれませんけど」
そんな会話をしていたおかげだろうか。
もうちょっとの時間だけ、陽が落ちきらないといった夕焼け空のこちら側で、いきなり雫が落ちてきた。息をのむ音。身じろぎひとつしない茜ちゃん。
雨の音色。それはたしかに雨だった。でも、夕陽はそのまま、真っ赤に輝いているのだ。
「お天気雨…。なんだか、嘘みたいなタイミングです」
見上げると顔を叩く雨粒たち。いくつも、いくつも。濡れることもかまわずに、わたしたちはここでぼうっと立ちすくんでいた。少しくらい濡れるのは、もう気にならなかったのだ。
「どうです? 好きになれそうですか?」
「……うん、そうだね」
まったくもって不似合いな組み合わせだ。たった一瞬の出来事だったらしく、あの雨は、すぐに向こうの方へと通り過ぎていってしまった。だけどわたしたちはちゃんと知っている。覚えたし、忘れることもないだろう。雨の中でも、やっぱり夕焼けは綺麗なのだ、と。
雨も去り、ちょうど夕陽も沈みきったころ、階段を駆け上ってくる浩平君の足音が聞こえてきた。
それを聞いているだけで楽しかった。茜ちゃんも、吹き出すのをこらえているみたいだった。耐えられたのは何秒くらいだったんだろう。
ふたりして、大きく声を上げて、目に涙すら溜めて、笑った。嬉しくて、あんまり嬉しかったから。
そして力一杯ドアを開けた浩平君の、きょとんとしたその顔が、ただ、たまらなく愛おしかった。
えっと、終了報告がありませんが、投稿させていただいてもよろしいでしょうか…?
以上です。
>>543-553 「夕焼けロマンチック同盟」でした。では、ありがとうございましたー!
連投規制かかってたんです……ごめんなさいです。
では。
あ、そうだったんですか。
こちらこそ自分の都合で無茶言って申し訳ないです…。
えっと、それでは今から投稿させていただきます。
ONEの長森END後のSSで、テーマが『もしも』。
タイトルは「Ifにもならない可能性」です。
「なあ」
「うん」
「オレ、帰ってもいいか?」
「だめ」
「そこをなんとか」
「なんともならないよ。というかこれ、浩平の仕事だよ?」
「オレは承諾した覚えはない!」
だんっ、と強く机を叩いて主張する。このままの勢いで押しきれば、あるいは…
「でも、決まっちゃったことだし」
しかし瑞佳は冷静だった。オレとの付き合いが長いせいか、全く動じた気配がない。
「それに稲城はどうしたんだ? あいつ、確かオレの相方だったはずだぞ」
「それは…」
言いよどむ瑞佳。最初は理由も聞かずに流したが、なにか事情でもあったのか?
「二人のほうがいいでしょ、って気を回してくれて…」
「…そうか」
「…」
「…」
以前のオレならここで否定の言葉なりなんなり出てきたのだろうが、今は違う。
実際オレと瑞佳は、まあ、その、なんだ。
世間一般で言う所による友達の数ランク上の関係な訳で、オレとしても長森と二人っきりになるのはやぶさかでもない。
むしろ歓迎する気持ちも少なからず存在するのは認める必要があるのだろうが、それとこれとは話が別だ。
「いや、長森。それは稲城に…」
「浩平」
咎めるような声と視線。ああ、そうか。オレは一つ咳払いして言い直す。
「いや、瑞佳。それは稲城にごまかされてるだけで…って、人の顔見て笑うとは失礼な奴だな」
恐らく憮然とした表情を浮かべているであろうオレに対し、軽く頭を下げながらもますます笑みを深くする瑞佳。
「ごめんね。照れた浩平があまりにも可愛くって」
「くっ」
名前を呼んだぐらいで照れるはずないだろう。中学生でもあるまいし。お前、一体オレをいくつだと思ってるんだ?
そう突っ込みたいのはやまやまだなんだが、あまり強く言うのも大人気ない。今日の所は勘弁しておいてやろう。
と思って近くにあった紙束を掴んだのだが、
「浩平、顔が赤いよ?」
「夕日が目に染みたんだよ!」
少しからかうような瑞佳の口調に、ついムキになって反論してしまう。
…むう、おかしい。あのときは普通に呼んでいられたのに、何で今はこんなにこっぱずかしいんだ?
クール&ビューティーを地で行くオレが台無しである。とりあえず今は話題を変えないと。
「それで、そっちは人数分揃ってたのか?」
「うん。枚数もちゃんとあったよ」
内心、あからさま過ぎるかとも思ったのだが、瑞佳もそれ以上続ける気はなかったのか、すぐさまオレの話しに乗ってくれた。
「浩平の方は?」
「オレのほうも一応、な」
とんとんとん、と手に持った紙束を打ちつけて整え、机の上に投げ出す。
まあ数のチェックだけは早々に終わってたからな。問題はその後だ。
「しっかし未だに納得できん。オレがなんで卒業文集の編集なんざしなきゃならんのだ?」
「そういう決まりなんだから仕方がないよ」
オレの激昂を苦笑いしてやんわりとたしなめる。でもオレには納得できない。
「クラス全員が一年間で必ずなにかしらの委員につく義務がある。これはわかる。
卒業文集制作委員は稲城だけだった。まあこれもわかる。だからってついこの間帰ってきたばかりのオレを任命するか?」
そう。オレはあちらの世界から帰還してまだ一ヶ月も経ってない。
なのに髭の奴がHR中に「んあー、折原はなんの委員にも就いてなかったな?」とか余計なことを言い出し、その後の民主主義に疑問を呈したくなるような数の暴力に押し切られ、オレは強制労働へと駆り出されることになったのだ。
「だけど佐織、浩平が来るまで一人で頑張ってたんだよ?」
「その間は瑞佳が手伝ってやってたんだろ?」
「うん、だから今度は浩平の番。これで二人とも同じだよ」
なら一番損をしているのは瑞佳じゃないか。お前はもう別の委員をしてたのに。そう言おうと思い、途中でそれが意味を成さないことに気付いてやめた。
コイツは昔からこういう奴だったんだ。なんの特にもなりゃあしないことを嬉しそうにやって。一時期ずっとオレから嫌がらせされてたのに、それでも変わらず世話を焼いて。
「…変なミシンとかツボは買うなよな」
「買わないよっ」
オレの優しさに溢れかえった忠告を、瑞佳は力いっぱい否定してみせた。
「だけど今時『もしも〜』なんてお題もないよな」
机に置いた原稿用紙をぱんぱん叩きながら、瑞佳に問いかける。
「そうかな? 書きやすくて良い題目だと思うけど」
困った目でオレを見ていた瑞佳は、オレの手にそっと自分の手を重ね、原稿用紙から遠ざけた。
「瑞佳はなにを書いたんだ?」
実はもう知っていたりするのだが、瑞佳がどう答えるか興味があったので、知らない振りをして聞いてみる。
「えーっと、『もしも動物が話せたら』だったかな」
迷うそぶりも見せずにあっさりと答えられた。…少しは隠すと思ったんだが。こうも普通に返されると、面白くも何ともないな。
「中身には全然自信がないんだけどね」
そう続けて、はにかむように笑う。でも見た感じ、読み手を意識した面白い読み物だったとは思うけどな。卒業文集としては少し違う気もするが。
「浩平は?」
「オレ?」
…しまった。人に聞いたら聞き返されるのは当たり前じゃないか。マズい、非常にマズいぞ。
「企業秘密だな。配布当日まで期待に胸を膨らませて待ってるがいい。きっと驚くこと受け合いだぞ」
うむ。それだけは自信が持てる。しかし瑞佳はオレの台詞に頬を膨らませると、
「そんなのずるいよ。わたしは答えてるのに…。いいもん。勝手に探して読むから」
こんなときだけ有限実行、すぐさまオレが担当した原稿の束を探り始めてしまった。
やばい。このままではバレてしまう。何とかしないと――
そうだ!
「なあ、瑞佳」
「…」
無言。でもこちらに注意を払っている様子は感じられる。
「七瀬がなに書いたか知りたくないか?」
「七瀬さん?」
答え、しまったとばかりに顔を背ける。
「おう、七瀬。あいつ隠しながら書いてただろ? たぶん瑞佳も内容知らないんじゃないか?」
「そうだけど…」
戸惑うような気配。お、揺れてるか?
「でも、本人が隠してるのに聞くのは悪いよ。それに、配布当日わかることだし」
「オレの分は悪くないのか?」
「だって、浩平だもん」
理由にならない理由を答え、再び紙の束に向き直る瑞佳。
こうなったらこいつはテコでも動かない。後は時間の問題か。
オレは瑞佳を懐柔するのを諦め、手近にあった原稿用紙をぱらぱらとめくる。
物語仕立てのもの。自分の体験談。将来への展望を交えたもの。
様々な世界がそこにはあった。そしてそのうちの一つ。一見なんでもないようなタイトルのものが、不思議とオレの目を惹いた。
『もしも、あの人が居てくれたら』
執筆者は里村。本人の人柄を反映させるような硬質で、流麗な文体。
だがそれだけだ。特筆すべき点はなにもない、はず。なのに何だ?
この奇妙な胸騒ぎは――
「浩平」
「おわっ」
目と鼻の先にまで迫った瑞佳の顔に、驚いてのけぞる。どうやら知らず知らずのうちに入り込んでいたらしい。
「それ、里村さんの?」
「…ああ」
さりげなさを装って放り出したのだが、あっさり見つかったようだ。隠すと余計に怪しまれそうな気がしたので、素直に認めておく。
「ふーん、そうなんだぁ」
何故だか少し不満そうだ。勝手に里村の文集を読んだことを責めているのか?
「なんだ、お前も読みたかったのか。なら最初っから言えばいいのに」
「ううん、違うもん」
「ほら、『もしも動物が話せたら』。編集前だから破ったりするなよ」
「これ、わたしが書いたやつだよっ」
そんなやり取りをしながらもオレは、得体の知れない焦燥感に駆られていた。
こんなことを聞いても仕方がないのはわかっている。わかってはいるのだが…
「なあ、瑞佳」
「ん?」
「これからちょっとヘンなことを聞くけど、いいか?」
「浩平はいっつもへんだよ」
瑞佳はそう答えながらも、オレの声色が変わったことに気付いたのだろう。
佇まいを正し、オレの言葉を聞く姿勢に入った。
「もしオレが…」
「うん」
「オレが…」
「浩平が?」
途中、やっぱり別の話にしようかとも思ったが、瑞佳の真剣な視線に後押しされ、そのまま先を続ける。
「もしオレが…帰ってこなかったら、瑞佳はどうするつもりだったんだ?」
オレの言葉に、瑞佳は一瞬体を硬直させ、そして、微笑みながら――微笑みながら?
答えた。
「考えてないよ」
いや、考えてないってお前。
「だって浩平、帰ってきてくれたよね?」
「それはそうなんだが…」
オレが聞きたかったのはそういうのではなくて、
「それとも、帰ってこないつもりだった?」
「それは絶対違うっ」
即座に否定する。
「だよね。だから考えてなかった。戻ってくるって知ってたから。それがいつになるかはわからなかったけど」
…あー、まいった。自分で聞いといてなんだが、こういう時ってどう反応すればいいんだ?
「浩平、だらしない顔してるー」
「幻覚だっ」
知らず知らずのうちに顔が緩んでいたらしい。意識して顔を引き締める。
元よりオレと瑞佳は好き放題言い合える間柄だったが、瑞佳側からオレに対してはどこかしら遠慮のようなものがあった。
最近はそれが徐々に薄まってきているようだ。喜ぶべきかどうか悩むところだが。
「浩平こそ」
「ん?」
悪戯っぽい瑞佳の顔。あれはまたろくでもないことを聞くつもりだな。
「もしわたしが彼氏作ってたら、どうしてた?」
「それはないな」
明らかに冗談とわかる口調。だがオレは一刀のもとに切り捨てる。
「どうして?」
「なんせ瑞佳はオレにベタ惚れだからな」
それだけは自信がある。
「浩平、しょってるんだー」
「違うのか?」
真顔で聞き返すオレに、
「違わないよ」
オレの目を見つめて、瑞佳が答えた。
がらがらがらっ
「あんたたち、差し入れ持ってきたわよ〜…って、あれ? お邪魔だった?」
と、コンビニの袋を提げて飛び込んできた稲城が、室内の微妙な空気を読み取ってか引きつった表情を浮かべる。
「邪魔だな」
「浩平っ」
思った通り口にしたのだが、瑞佳にそれを咎められた。
「でも折角だから手伝っていってくれ」
「折原らしいわね。もちろんそのつもりよ」
苦笑しながら、机の上に袋の中身を並べ始める。
「あ、そうだ」
その途中で何かを思い出したのか、ペットボトルを握ったままオレに向かって指を突きつけてきた。
「なかなか器用だな」
「どういたしまして…じゃなくてっ。折原、あんた卒業文集出してないでしょ」
「そうだっけ?」
「そうなのよっ」
とぼけてみたが無駄だったようだ。先ほどのやり取りですっかりそのことを忘れていた瑞佳も、一緒になって非難の視線を向けてくる。
「浩平、それはまずいよと思うよぉ…」
「ほら、髭からあたしまで注意されてるんだからねっ。まだ書いてないのならここで書きなさい!」
完成するまで帰さない、との決意がひしひしと伝わってくる。となるとここは、
「おお、そうだ」
「なによ」
「昨日家で書き上げたような気がする。ちょっと見に行ってくるな」
「あ、待ちなさいっ」
逃げの一手しかあるまい。
答え、教室から駆け出そうとしたのだが…
「折原、どこに行くんだ?」
「髭っ」
まるで計ったかのようなタイミングで髭が現れた。
…もしかしてこれは?
瞬間的に頭に浮かんだ人物に振り返ると、案の定してやったりとの表情を浮かべてほくそ笑んでいた。
こいつ、さっき思い出したフリをしてたのは演技だったんだな!
「こら稲城、卑怯だぞっ」
「はいはい、わかったからさっさと書きなさい」
「瑞佳からもなんとか言ってくれっ」
「浩平、頑張ってね」
「んあー、ちょうど進路指導室が空いてたからそっちでやってみるか?」
オレたちのやり取りをどこ吹く風、髭はマイペースに言い放つと、オレの首根っこを掴んでズルズルと引きずり始めた。
間に合わねえ……(;´Д`)
今から投稿致します。
『You never need me.』
To Heartの志保メインです。
突然、寂しくなった。
ベッドの上からあたしは目覚し時計を引き寄せる。
午前2時47分、真夜中だ。
眠いのにあくびも出やしない。
頭の中がぐるぐる回り続けて、おかしくなってしまいそうだった。
枕を抱えて縮こまって、毛布を頭からかぶり直して、
それでも考えつくのはやっぱりあいつの事…。
あたしがあいつと出会った頃から、もう何年も経ってる。
その時は別に意識しなかったし、友達が一人増えたくらいにしか思わなかった。
でも、今ならついさっき起こった事のように思い出せる。
耳を澄ませば、そこにあいつが――
今ここにあいつがいたら、なんて言うかな…。
笑うかな、まず。
『なにやってんだ?また新しいギャグでも考えたのか?』
『なーに真剣な顔してんだよ、変なもんでも食ったか?』
…こんなとこね。
そのあと絶対、
『お前らしくねーぞ、そんなの』
って来るのよね。
ふふ、その位の推理なんてあたしにしたら軽いもんよ!
…そうだよね、あたしらしくないよね、こんなの。
あたしはいつも笑ってて、バカなことやってみんなも笑わせて。
うるさいとかやかましいとか、悪く言われても構わなかったわ。
だって、そうやって今までやって来たんだから。
それであたしは満足できたし、みんなもとりあえず喜んでくれたから。
でも。
あたしを憎からず思ってくれたのは、長い付き合いだもん、分かってた。
でも、あたしをあいつは必要だと思ってくれてた?
『必要』って難しいから、あたしはいつもそれが出来なかった。
自分のやり方じゃそうなれないのは、なんとなく分かってたのに。
もしあたしがいなかったら、あいつは寂しい日々を過ごしてたの?
きっと、それはない。
それならそれで、どうにかやって来たはずだし。
…じゃ、あいつにとってあたしって、なんだったんだろうね。
――わかってる。あたしは、あかりにはなれない。
あいつの腕の中で眠るには、あたしは……
あたしは……
あたしは……
だから、忘れてやるんだ。
この気持ちを…そうね、ガラスの瓶にでも詰めちゃおうかな?
それで、海に流してやるんだ。
図書室で助けてくれたときも、二人でカラオケに行ったときも、
一緒にゲーセンに行ったときも、…あいつの家に行ったときも、
あたしの中に生まれた気持ちをみんな、捨ててやるんだ。
あたしの中のあいつを、捨ててやるんだ。
そして、明日から何もなかったみたいにまた学校に行って。
いつものように騒いでやるんだ。
みんなを集めて、その中心にあいつを巻き込んでやるんだ。
あたしの中のあいつを、捨ててやるんだ。
あいつが別にそんなことどうでもよくても。
CLANNADのSSです。
春原×風子という反体制的なボンバヘッなので注意。
テーマは無理やり全部突っ込みました。
タイトルは「北風と太陽」
〜プロローグ〜『If』『友達』『相談』『キス』
もしも、あの時、「友達」でなく「恋人」と言えていたなら。
もしかしたら、岡崎さんの横に立っているのは、渚さんでなく風子だったのかもしれないのでしょうか?
でも、いいんです。 風子は我慢の出来る子です。
大好きな二人が幸せになるんです。
風子はもう、そういうのには慣れてます。
おねぇちゃんのときとは違って、少しだけ心が痛みましたが、大丈夫です。
でも、たった一つだけ心配なんです。
「風子はいつもみたいに笑えているでしょうか?」
二人に気づかれてはいないでしょうか?
二人の幸せを邪魔していないでしょうか?
それだけが、心配なんです。
「いつもより頭悪そうな笑い方だと思う」
「最悪ですっ」
相談する人間を完膚なきまでに間違えました。
いくら他所には仲良し四人組で通っているとはいえ、実際は仲良し3人組+1ヘタレ(岡崎さん談)。
気の迷いとはいえ、組外のヘタレに相談するなんて、つまらない時間を過ごしてしまいました。
あかんべぇをくれて立ち去ってあげようとすしましたが。
「で、ナニ悩んでるわけ?」
面倒そうに、そう言いました。
気の迷いとはいえ、それでも相談したのは。
こういうふうに本気の相談には真剣に考えようとしてくれるからだと思います。
「あ、まさか、生理が今頃来たとか?」
「最悪ですっ」
でも基本的に馬鹿です。
578 :
北風と太陽2:04/10/25 07:16:01 ID:31sG+ktS
「ふぅん、あの二人がキスしてるとこを見ちゃった、かぁ…ってキスぅぅぅ!? 岡崎と渚ちゅわぁんが!?」
結局話してしまう風子も風子だと思いますが、それでも頭の悪い反応にため息をつきます。
「そんな馬鹿な! 渚ちゃんは僕のほうに心を傾けていたはずじゃぁ!? 岡崎と僕とじゃあ曙とエスパー伊東を乗せた天秤ぐらい圧倒的な差があったはずだよ!?」
「後半部分は風子もまったくもって同意です」
「だろ!?」
あまりにも噛みあいません。
「ま、友達二人がくっついちゃうってのはお子様にはショックだよな、元気出せよ」
自分は足に来るほどショックをうけてるくせに、そんなことを言います。
そっくりそのままお返しする上に、見当違いです。
「いいんです、風子は大人ですから、我慢するんですっ」
「…そっか」
言い切る風子に対して、何故か春原さんは頭を撫でようと手を伸ばしてきました。
うざいので払いのけます。
ちょっとむっとしたかと思うと、すぐにへらっと表情を緩め、わけのわからないことを口から垂れ流しました。
「ちなみに僕、今フリーなんだけど」
「断じてお断りですっ」
あまりの即答に春原さんが一瞬停止します。
「そ…そんな!? 人がせっかく勇気を出して幼女趣味まで暴露したのにっ!?」
「最悪ですっ!!」
すこーん。
放り投げたヒトデが春原さんの頭部に刺さります。
悶絶する春原さんを置いて風子は立ち去りました。
でも。
ヒトデはお礼に置いていく事にしました。
ちょっとだけですが、言い争ってたら、気も晴れましたから。
きっと、本当に笑って二人を祝えるはずです。
嘘でも、強がりでも、できるはずです、風子はそうしたいんです。
どうか、お姉ちゃんたちみたいに二人も幸せになりますように。
〜幸せな二人〜『花』『プレゼント』『嘘』
赤い薔薇が100本。
他の人間がやっても笑い話のタネにしかならないであろうそんな贈り物も、芳野祐介という男にはよく似合った。
「ありがとう、ございますっ」
期待以上の満面の笑顔を浮かべる妻に、少々照れながら呟く。
「いや、なんだ、そんなに喜んでもらえるとは正直思ってなかった」
「そんなことないです、女の子なら、みんなこういうのには憧れるとおもいます」
微笑む彼女の台詞に、祐介の動きが止まる。
「いま、なんていった?」
「え、そんなことないって…」
「いいや、その後」
「女の子ならみんなこういうのに憧れる、ってとろこですか?」
取り落とされた。
薔薇が。
地に。
広がる。
祐介は叫ぶ。
「う、嘘だっ! こんな可愛い人が女の子のはずがないッ!」
芸能人時代の思い出、美しい低年齢アイドルのほとんど、いや、全ては女装美少年だった事実。
水色の時代は彼の価値観に多大なる歪を与えていたのだろう。
ツッコミを通り越して同情の涙すら零れそうになる。
「で、でも生えてるんだろう?」
「それは、大人ですから」
セクハラもいいところな質問にも対応。 まさに大人の女性。
祐介はほっと胸をなでおろす。
「じゃあ、大丈夫だ! 付いてるならいける!」
公子はきょとんとした表情を浮かべたかと思うと、全てを悟り、ため息とともに告げる。
「付いてません」
「!?」
膝から崩れ落ちる祐介。
立ち直れないほどのショック。
公子はそんなにもショックを受ける夫が、もっとショックだった。
後日。
追い討ちをかけるかのように彼を待っていたのは。
彼の一番愛した花の名を持つ雑誌の廃刊のお知らせ。
芳野祐介は自分の部屋へ行き2時間ねむった…
そして……
目をさましてからしばらくして愛読書が死んだことを思い出し……
泣いた…
公子はそんな下衆な涙を流す夫に、もっと泣けた。
〜津軽海峡冬景色〜『雨』『海』『旅』
彼女の心象風景を例えるなら。
土砂降りの風雨を呼ぶ台風。
断崖絶壁に荒れ狂う北の海。
絶望の二文字が良く似合う彼女ではあったが。
それでも彼女は彼を愛していたから。
だから。
気がつくと、おねぇちゃんがカバンに荷物を積めていました。
「んーっ、おねぇちゃん、なにしてるんですか?」
「…ちょっと、旅に出ようかと思ったの」
「どこですかっ?」
するとおねぇちゃんは、ちょっとだけ困ったような顔をして言いました。
「タイか、モロッコ、かな」
意外です。おねぇちゃんはもっとよーろっぱとかそういうところに興味があると思っていました。
「なんでタイとモロッコなんですか?」
「安いところと、有名なところだからね」
何故か疲れた顔で微笑むおねぇちゃん。
心配ですが、でも大丈夫。
きっと旅行で元気になってくれるはずですっ!
だから風子は笑顔で見送りました。
「いってらっしゃいですっ!」
〜仁義無き戦い〜『サッカー』『戦い』『風』
「あれ、誰ですか?」
「春原」
脳が、理性が、岡崎さんの答えを受け付けません。
もう一度聞いてしまいます。
「あれ、誰ですか?」
「春原」
目の前にいるのは、きらきらした爽やかな笑顔で無邪気にボールを蹴る男の子。
「おかしいですっ!」
「春原がおかしいのは今に始まったことじゃないだろ」
「それはそうですがっ」
思わず納得しかけますが、それでも目の前の現実が信じられません。
「春原さんは、もっとこう、なんていうか、ドブ川が腐ったような色の目をしてるはずですっ!」
「いつもどーりしてるだろ」
「岡崎さんの目は節穴ですっ」
確かに、サッカーボールを蹴る春原さんの目は輝いています。 きらきらと、つい魅入ってしまいそうになるほどに。
あれです、風子、昔聞いたことがあります。
いつも元気で明るいいい子の北風と、ぎらぎらとうざったいだけの太陽が、旅人の好感度で勝負する話です。
がんばった北風ですが、いつもは駄目駄目な太陽がふと見せた温かみという意外性だけで旅人を騙しきるっていうお話です!
うろおぼえですが、たぶんそんなのだったと思います。
奇しくも春腹さんは名前に「陽」の字。
そして風子は名前に「風」の字。
きっと、これは北風と太陽の代理戦争で雪辱戦。
ガチでステゴロなんですっ!
負けません!
風子はナイフを握り締めました。
ナイフを後手に、決意を胸に、ゴール傍に待機します。
春原さんがシュートを決めて自分酔いしている隙に。
てててと駆け寄り。 えい。 ぐさ。 ぷしゅう。 サッカーボールがみるみるうちにしぼみます。
しばしの沈黙ののちに。
「あ…アンタなにしてるんですかぁぁぁっ!?」
いつものヘタレ口調で春原さんが叫びました。
よかった、ボールがないといつものドブ川が腐ったような色の目に戻りましたっ。
「安心ですっ」
「アンタわけわかんないっすよぉっ!」
「あぁあ、学校の備品を。 弁償だな春原」
「僕がっすか!?」
「お前が悪いし」
「どこがだよっ!?」
「頭」
膝から崩れ落ちるいつもの春原さんに心から安心してしまう風子でした。
〜ガムテープが生んだ奇跡〜『料理・食べ物』『耳』『卒業』『お願い』『初め』『桜』
「美味しいです、美味しいですっ」
お母さんの新作パンが、こういってなんですが、珍しくとても美味しかったのでついつい食が進みます。
「ん、渚、美味そうなもん食ってるな」
と、お父さんも横から一つつまむと、難しい顔をして「…美味い」と呟きます。
その呟きとほぼ同時に、お父さんからは見えない場所にお母さんが顔を覗かせました。
声が聞こえたのか、とても嬉しそうな顔をしています。
「なぁ、渚、どこで買ってきたんだ、コレ?」
お母さんがこけました。
「違います、これはお母さんが焼いたんですよ」
「む?」と、お父さんはカレンダーを睨むと。
「渚、今日は4月1日じゃないぞ?」
いつものように駆け出していくお母さんとお父さん。
一人残された私は、こっそりとその新作パンをもうひとつだけつまむことにしました。
とても美味しい、特に耳のところが美味しいそのパン。
それは、パイ生地みたいなサクサクした食パンでした。
だから、きっと名前は。
「パイパンっ」
渚が時を止めた。
「渚、いまなんてった」
「ぱいぱんですっ」
「俺、今一番食べたいものを言って元気出せっていったよな」
「はい、だからぱいぱんですっ」
真剣な顔をして言った渚は、止める暇もなく坂を上っていったわけで。
俺は途方にくれるわけで。
「春原、協力してくれ」
「で、そこでなんで僕なんすかっ!?」
「大丈夫、ちょっと下の毛を剃ってガムテで一物を尻側に張るだけだ! 男という醜い殻からの卒業だ!」
「あんた熱でもあるんじゃないですかっ!?」
「ハッピーバースデー春原子!」
「あんた悪魔っすかっ!?」
まぁ、なんといわれようが女装をさせるわけで。
「おおい、渚ぁ、連れてきたぞ!」
「? 誰ですか、その女の子は?」
「よし、下を脱げ春原子!」
「あんたド外道っすかぁ?!」
「早くしろや! こちとら剃毛は初めてなんでちょっとドキドキしてるんだぞ!?」
「ひぃぃぃ! なんで息が荒いんだぁぁぁぁ!!」
「脱げーーー!!」
「と、朋也くん、なにしてるんですかーーー!?」
「あはは、そっか、勘違いかー」
「もうっ、朋也くんはうっかりさんです」
あっさりと誤解は解けた。 おかしいと思ったんだよな、最初から。
「あんたら、ほんとに、ほんとーに、鬼っすか…」
ズラはおろか、女子制服まで着せられて泣き崩れる春原はこのさい放置である。
と、風子が通りかかる。
春原を認識すると。
手で口を押さえ、おもいっきり指差して。
大爆笑。
と、おもいきや。
「か…可愛いですっ!」
意外すぎる台詞だった。
「お前、やっぱ趣味変な」
こっちのツッコミも聞こえないのか、風子は呟いた。
「…ま、負けません!」
なんにだ。
女装っ子の、匂いがする――
芳野祐介は、学校の前で足を止めたが、頭を振り、すぐに立ち去る。
一瞬とはいえ足を止めたのは、愛する人が傍にいなくて寂しかったからかもしれない。
〜人生は長い長い道を行くが如く〜『走る』『夏だ!外でエッチだ!』『えっちのある生活』
そのころ古河夫妻は。
町内を駆け回り、その距離もなんと20kmを超えようとしていた。
ハーフマラソンのある生活っていいね!
「良くありませぇぇん!!」
夏だ!外でハーフマラソンだ!
「誰に向かって叫んでるんだ早苗ーーー!!」
〜春と修羅〜『復讐』『動物』『絶体絶命』
両手一杯のおみやげと一緒に、おねぇちゃんが町に帰ってきました。
ので、ユウスケさんと一緒に空港まで迎えにいったのですが。
「生やしてきました」
それがおねぇちゃんの帰国第一声でした。
なにを、と聞いてもおねぇちゃんは微笑むだけで答えてくれません。
ユウスケさんは鼻血を流しながらケダモノのように狂喜乱舞するばかりです。
んーっ、風子、蚊帳の外ですっ。
「で、次は祐くんの番だね」
ユウスケさんの乱舞が止まりました。
「祐くんのことは好きだけど、わたしも男の子より女の子のほうが好きなの」
おねぇちゃんは微笑みながら淡々と続けます。
「いってらっしゃい、タイかモロッコ」
真っ赤だったユウスケさんの顔が面白いほど鮮やかに青に染まっていきます。
困っているユウスケさんにお姉ちゃんは微笑みながら助け舟を出します。
「まぁ、それはともかく、とりあえず祐くん」
本当は風子にはよくわかりませんがおねぇちゃんは優しいですから、それはきっと助け舟だったんだと思います。
「お尻、出しなさい」
んーっ、やっぱり風子よくわかりませんっ!
もっと大人になればわかるんでしょうか?
いつかはきっと知りたいと思います。
大人の恋というものを。
――そして時が流れる。
〜エピローグ〜『家族』『夢』『結婚』
「もっと家族がほしいですっ」
唐突な、嫁の爆弾発言。汐を撫でる手を止める。
しばし考えた後。
「――それはなんだ、つまり浮気して来いってことか」
「絶対駄目です」
頬を膨らませて言う渚がちょっと可愛い。
「まぁ、でも、ほら、アレだしなぁ」
「でも、でもですね、家族がたくさんいたほうがやっぱり楽しいですっ」
「だからってアレだしなぁ」
言葉を濁す。 言葉にしなくても渚も自分の体のことはわかっているのだろう。
更なる爆弾発言を重ねる。
「だから、しおちゃんは早く結婚しましょう!」
汐がきょとんとした顔で母を見る。
それ以上に俺の顔は呆然としていることだろう。
「…お前はどこまでアホの子なんだ」
「失礼ですっ! きちんと計画しました! 準備も万端ですっ!」
「準備ってなんだよ」
「無論、しおちゃんの結婚相手です!」
そう言って、玄関へと手を向ける。そこに立っていたのは。
「渚、ちょっと正座しろ」
「え、え?」
「お前は冗談でも気の迷いでも発作でもなんでもいいけど、なんでよりにもよって汐にアレを宛がおうなんぞ考えるんだええ?」
「と、朋也くん、久しぶりに本気で怒ってますね!」
「あたりまえだぁ! このアホの子っアホの子っ!」
「ひ、酷いですっ! 他に頼めそうな男性がいなかっただけなのに!」
「じゃあお前は他に頼めそうな男がいなかったらアレに古河パンのレジをまかせるのか!?」
「そんな、お店が潰れます!」
言い争う俺たちに向けて、ソレはそっと呟いた。
「あの、僕、もう帰っていいっすかね?」
そもそもこんな用で来るなよこのロリコン。
と、勢い良くドアが開く。
その乱入者は荒げた息を整えると、堂々と宣言した。
「し、しおちゃんは風子のですっ!」
アホの子が増殖してしまった。
「わぁ、ふぅちゃんが家族になってくれるのは嬉しいです! しおちゃんをよろしくお願いします!」
アホ嫁が加速していく。
「日本の法律を忘れるな、このアホっ」
「じ、じゃあ春原さんの名義を借りて仮面夫婦を」
「戸籍上俺があいつの父親になるっていうのか? 死んでも御免だ」
「あんたら本人目の前にしてよくそれだけ言えますねぇ…」
泣きそうな目で春原が呟くがスルー。
「名案を思いつきました!!」
アホ毛を逆立てんばかりに叫ぶ嫁。
どんなアホ意見が飛び出すことやら、見守ることにした。
「じゃあ間を取って、春原さんとふぅちゃんが結婚しちゃえばいいんですよ」
本末転倒も生易しい素敵論理展開。
さも名案だと誇らしげに胸を張る我が嫁に、暖かく声をかける。
「ナホ」
「な…なほ?」
「渚のアホ、略してナホ」
「ひ、酷いです朋也くんっ!?」
「お前の頭がな」
渚のアホ提案に、思わず顔を見合わせる二人。
しかし、それも一瞬。 気まずさに顔を背けると、同時に叫ぶ。
「ろ…ロリータに欲情できるか!」
「最悪です、最悪ですっ、最悪ですっっ!」
その後の収拾が付くはずもなく。
投擲されるヒトデ。
他人から見たらイチャついているとしか思えない生ぬるい夫婦喧嘩。
叫ぶヘタレ。
更に飛ぶヒトデ。
喧騒の中。
汐だけがその呟きを聞いていた。
太陽の光のように優しい、北風のように切ない囁きを。
「…ぷち最悪ですっ」
きっと明日も明るく楽しいいい天気。
きっと太陽は暖かく。
きっと優しい風が吹く。
すみません、十五分ほどもらえますか。
すみません、お待たせしました。タイトルは、「一枚の思い出」。結構長いです。
イビルとエビルの話です。どっちかというと、イビルよりな話です。
なんか連続でいくつもイビエビと書いてあるので、ややこしいです。
エビルは海老だから赤い方。イビルはイビだから青い方と憶えると、分かりやすいそうです。
それでは、投稿します。
その少女には名前がなかった。
少女、と言うにはもしかしたら語弊があるかも知れない。
何しろ胸は平らで、言動はがさつで、おまけに実年齢は不詳で少女と呼んでいい歳なのか分からない。
ついでに悪魔だった。
悪魔の少女は孤独だったが、魔界を彷徨ううちに、イービルリングという一種の共同体に拾われる。
普通なら、食い扶持が増えるだけの子供など、見捨てられるか弄ばれるかするだけだが、ここは数少ない例外だった。
少女は服を与えられ、食物を与えられ、居場所と仲間を与えられた。
戸惑う少女をよそに、仲間達は遠慮なく、やや乱暴気味な暖かさをプレゼントする。
そしてもう一つ。
少女はイビルという名前を与えられた。
「てきとー」
少女は真っ先に、その名前に文句を付けた。
もう一人、似たような境遇の少女が、大分遅れて入ってきた。
イビルよりも胸はあり、物静かで、年の頃はイビルと同じように見えたが、いつも一人きりだった。
少女は死神だった。
死神は死と魂を司るものとして、魔界でも忌み嫌われている。
本来なら死神は、同族だけの小集団で行動するのだが、なぜかその少女は集団から離れ、この共同体にいた。
あるいはその集団そのものが、死の手に絡め取られてしまったのだろうか。
死神の少女の名はエビルといった。
イービルリングと名前は格好を付けてはいるが、ならず者の集団である側面に、代わりはなかった。
縄張りを巡って他の共同体と争い、時に勝利し、時に敗北して放浪し、時には傭兵となる。
拡大すれば、国になることもある。あるいは国に飲み込まれ、あるいは滅ぼされる。
そんな、典型的な魔界での生き方を実践していた。
イビルは闘えるようになったと判断される前から、勝手に戦場に飛び出しては暴れ回っていた。
最初こそ窮地に陥りもしたが、一度手柄を立てると、次の戦いからは正式に戦列にくわえられた。
炎と槍と、それらを組み合わせた力を持って、イビルは暴れ回った。
エビルは静かなものだった。
なんで戦わないんだと問い詰めても、「命を奪うのは好きじゃない」と、
およそ魔族らしくも、死神らしくもないことを口にした。
真面目に働きはするので誰も文句は言わなかったが、イビルにはそれが気にくわなかった。
――が、ある日、主戦力が戦いの場に出ている隙をつかれ、後方に残された非戦闘員達が襲撃された。
僅かな護衛が蹴散らされ、誰もが死を覚悟したとき、初めて彼女はその刃をかざした。
冷たい輝きを放つ大鎌が、静かな軌跡を描き、いくつもの死をその場に積み上げた。
主戦力が帰還したとき、エビルは数多の屍を背景に、朱色の髪を返り血で、いっそう赤く染めて立っていた。
喝采と感謝をその身に浴びながら、なお、彼女は無言でいた。
そんなことが起こっても、エビルは相変わらずだった。
その日も一人で、木の根に寄りかかりながら、果実の皮を剥いていた。
誰かと協力してなにかするよりも、一人でできる仕事を任せた方が、効率がよかった。
刃物の扱いはさすがに大したもので、瞬く間に裸になった果実が山になっていく。
次のを籠から取ろうとしたところで、別の手が、横からそれをかすめ取った。
皮も剥かずにそれにかぶりついたのは、イビルだった。たちまち顔をしかめる。
「……すっぺぇ」
「砂糖漬けにするんだ。そのままでは食べるのに向かない」
「先に言えよ」
「言う暇がなかった」
イビルはかじりかけの果実を投げ捨て、エビルを見下ろした。
エビルは気にせず、ひたすら皮を剥き続ける。と、うつむいていた視界が、急に明るくなった。
訝しげに見上げると、炎の線が、イビルの胸の前に水平に伸びていて、その中から鋼鉄の槍が現れる。
慣れた調子でイビルはその槍を軽く回すと、エビルの喉元に突きつけた。
「なぁ、あたいと勝負しろよ」
「……なぜだ?」
「弱い奴が戦わないのはしょうがねぇさ。だけどな、強いくせに、そのことを隠していたっていうのが気にいらねぇ。
ついでに、お前が本当に強いかどうか、確かめたい。それだけだ」
もう一つ。
イビルとエビルはどこか似ていた。
時に比較され、女の魅力の差でからかわれ、少なからず意識している相手ではあった。
だが、ライバル意識のようなものを自分が感じているのに、エビルは気にしている様子もない。
それがまた、腹立たしい。
無視されるのは嫌いだし、無視することもできない相手だった。
だから、喧嘩という、イビルにとって一番分かりやすいコミュニケーションを持ちかけた。
本気で殺したいとか、叩きのめしたいとかいうわけではない。
認めるためには、それなりの儀式が必要というだけだ。
儀式を行うためには、先の騒動は、イビルにとってはちょうどいいきっかけだった。
なのに、エビルは手にしたナイフの先で、槍の穂先をのける。
「そんな理由では、戦えない」
相も変わらずの、何を考えているのか分からない、気のない表情で。
「はぁ? ただの喧嘩だろ、つき合えよ」
「無理だ」
「なにが」
エビルはじっと、手の中の短い刃物を見つめた。そこに映った自分の顔は、髪も、瞳も、血の色をしていた。
嫌になるほど、赤い。
「私は、殺すことしかできない」
口調に込められたものがあまりにも頑なで、敵意以外の興味がイビルの中に生まれる。
「それってどういう――」
不意に、衝撃がイビルの頭上を襲った。
「ったーーーーっ!」
「こらイビル。エビルに妙な因縁つけているんじゃないよ。困ってるだろ」
イビルに拳をお見舞いしたのは、恰幅のいい、見た目は中年の女性。
絶え間なく動いている両腕に巻き付いた入れ墨以外は、人間となんら変わらない。
が、生死をかけた戦闘ならともかく、日常生活において、彼女に逆らおうとする者はここにはいない。
彼女はイービルリングの家事全般を取り仕切り、『姐さん』と呼ばれ、敬われ、恐れられている人物なのだから。
拾われた頃からさんざん世話になっているイビルにしても、頭の上がらない相手であった。
「因縁じゃねーよ、ちょっと喧嘩しようぜって言っただけでよ」
「それが因縁だって言うんだよ。大体エビルは仕事しているんだから、邪魔すんじゃないよ。
どうやら元気が有り余っているようだから、あんたもちっとは女らしいことを憶えな」
「あたいはそんなの必要ねーって――いた、いたいた、耳引っ張るなって!」
「今ちょうど洗濯の手が足りなくってねぇ。あんたでも手伝いくらいの役にはたつだろ」
彼女は問答無用で、イビルをずんずんと引っ張っていく。
「あたいに洗濯なんか任したら、全部燃やしちまうって!」
「だから加減を憶えなって話だろ」
喧騒が遠ざかっていき、後にはぽつんと、エビル一人が残された。
また作業に戻ろうとして、耳を引っ張られるイビルの顔を思いだし、ほんの少しだけ、微笑んだ。
「あー、ひでぇ目にあった……」
洗濯だの料理だの、慣れないことに担ぎ出され、失敗をする度に拳を落とされ、
逃げだそうとしては耳を引っ張られ、何とか一日を終え、ようやく夕食の時間となった。
いや、何よりも閉口したのは、イビルの落ち着きのなさに呆れた姐さんが思わずこぼした、
「恋人でもできれば、この子も少しは女らしくなるかねぇ」
などという一言から始まった、騒動に巻き込まれたことだった。
イビルにしてみれば、興味ないの一言で片づく問題だが、総じてこういう話題には、誰もが首を突っ込んでくる。
身体的には……まぁ、微妙なところもあるが、十分子供を作れる年にはなっている。
今まで浮いた噂の一つもないだけに、話は逆に、盛り上がっていった。あらぬ方向へ暴走気味に。
見合いなどというすっとぼけた習慣はないが、それでも余計な御世話に熱心になる人物はいるものだ。
あいつはどうだ、今誰それはフリーだから、いや、この前誰かに交際を申し込んだとか、
彼ならイビルとも合うんじゃないかとか、まるで興味の持てない情報を吹き込んで煽ろうとする。
あたいはそんなつもりは毛頭ない、と言い逃れようとしても、聞く耳を持ってもらえない。
圧倒的なおばさん方のパワーの前に、さすがのイビルも翻弄されるばかりだった。
こんなことなら、殴って終わる喧嘩の方が百倍ましだと思う。
困惑と疲労を骨の髄まで叩き込まれ、イビルは食堂のカウンターに力無い声を飛ばした。
「おっちゃーん、大盛り」
「おう、でっかくなれよ」
「うるせー」
いつものやり取りにも元気がない。
食事を受け取ったイビルは食堂を見回し、無言で食事しているエビルの対面に座った。
しばらくは、かたややかましく、かたや静かに食事を詰め込んでいる音だけが響いた。
遅れてスタートしたイビルが、エビルとちょうど同量を平らげた頃、
「……なぁ」
ようやくイビルが口を開いた。エビルが少し、警戒した視線を返す、が。
「おまえさぁ、彼氏とか欲しいと思ったことあるか?」
こちらも不意を突かれ、目を丸くした。
「……考えたこともない」
「じゃあ考えてみろよ。理想の男性像とか」
エビルはしばらく悩んでみたが、あっさりと諦める。
「想像しがたいな」
「あたいもー」
自分から持ちかけてきた話題の割には、ずいぶんといいかげんな態度だった。
エビルは少し考え――少し、飛躍した。
「結婚でもするのか?」
「しねーよっ!」
と、否定の声が響く前に、ざわりと場が揺らめく。
結婚? 誰が? イビルが? エビルが? ……物好きなやつもいたもんだ。
「聞こえたぞ、こらあっ!」
十五分ほどが、騒がしく経過した。
ようやく喧嘩も一段落付いた頃、何発かいいのをもらって顔を腫らしたイビルが戻ってきた。
「ってー」
「冷やしておけ」
避難していたエビルも戻ってきて、イビルにおしぼりを手渡した。
「おう、サンキュ」
「あまり変形しては、相手がかわいそうだからな」
相手、という謎の単語にイビルの思考が五秒ほど空回りする。
「……ちょっと待て。相手って何の話だ」
「結婚するんじゃないのか?」
「しねーっつってんだろ!」
「そうなのか」
相も変わらず、エビルは淡々としたものだった。そのくせ、どこかずれている。
ほとんど元凶のくせに、今の喧嘩の原因も理由も分かってないことに、馬鹿馬鹿しくなって肩を落とした。
「……お前、変な奴だな」
イビルはすっかり冷えた食事を詰め込みながら、行儀悪く話しかける。
「そうか?」
エビルはきちんと口の中のものを飲み込んでから、短く返事した。
「さっきも喧嘩に参加しようとしねぇし」
「喧嘩も戦うも、私には一緒だ」
イビルの脳裏に、昼間のやり取りが思い出される。
明らかに普通と違う反応なのは、エビルが死神だからなのか、違う理由からなのか。
どこか似ているのに、決定的に違うところがある相手に、イビルは興味を持ち始めていた。
「じゃあ、なんで戦かわねぇんだ?」
「必要ならば、戦うこともある」
「はっ、天使様じゃあるめぇし。必要がなくても戦うのが、魔界ってもんだ」
今もどこかで、大きな戦から小さな喧嘩まで、様々な争いがこの世界で起きている。
この食堂でも、ついさっきまでは喧嘩が巻起こっていた。
それが今では、調子外れの歌や下品なジョークなどに取って代わられている。
喧騒は、この世界の日常そのもので、起こったことに誰も驚きはしないのだ。
「お前には、そういうのが向いているな」
「あ?」
「激しくて、強く、熱く、綺麗な魂だ」
エビルは食事をする手を止め、じっとイビルを見つめた。
全てを見透かすような静かな視線に晒され、聞き慣れない誉め言葉を受け、イビルの心拍数が跳ね上がる。
「な、なに言ってんだ、おまえ」
エビルは少し笑った。
「ここの人達は、暖かい魂が多くて、安らぐ」
エビルの言葉と仲間達のイメージが重ならずに、イビルが首をひねる。
「喧嘩ばっかりしているぜ」
「喧嘩できるのは、心やすいからだ」
「……よくわかんねぇ」
「気心の知れない相手と争うときは、大抵殺し合いになる。だけど、ここの人達はそうはならない。いいことだ」
ここの住人とて、当然聖人君子でもないし、荒っぽく、時に残虐でもある。
ただ、どこか義賊めいたところがあるのは確かだ。陰湿でも冷酷でもない。
エビルが変わり者というなら、イービルリングとて、十分変わり者の集団だった。
だから、合うのだろう。
「あのよ……」
「なんだ?」
「やっぱ変な奴だ、お前」
「そうか」
なぜかエビルは、嬉しそうにしていた。
そんなことがあってから、二人は親密になっていった。
大抵の場合、イビルがエビルにちょっかいをかけるという形で。
話をしていて盛り上がるわけではない。気があって大騒ぎするというわけでもない。
ただ、互いにどこか気にかかる。
時折エビルが口にする哲学めいた話は、イビルの耳には新鮮だった。
子守歌にもちょうどいいらしく、聞きながら眠ってしまうことも多々あったが。
妙な噂が流れるようになったのは、そのころからだ。
顔立ちにそれほど差はない。耳もお揃いで尖っている。やや浅黒い肌に、貧弱気味なプロポーションも似てる。
おまけに名前まで似ているとあっては、
「生き別れの兄妹かなんかか?」
という説が流布されるのも仕方ないだろう。
「ちょっと待て、誰が兄だっ!」
「あぁ、弟だったか?」
「あたいは、女だーーっ!」
こんなやり取りが定番化するのも、そう時間はかからなかった。
あげく、恋人だの、禁断の愛だの、よからぬ噂が流れまくるとあっては、イビルの心が穏やかでいられるはずもない。
だから、男に興味を持たないのだとまで言われる始末だ。
毎日のようにからかわれては、ムキになって暴れ回り、余計に噂を煽る結果となった。
対照的に、エビルは相変わらずだった。
例の一件以来、仲間内での評判も良く、彼女は彼女で、この共同体の中でのポジションを確立しつつあった。
そんな風に、二人が異色のコンビとして認知されきった頃――風変わりな旅人が訪れた。
「画家?」
「そうらしい」
イビルがエビルに誘われ、様子を見に行ってみると、すでに画家の周りは人だかりで一杯だった。
大人も子供も、珍しいものが見られるとあって、仕事もほっぽりだして集まっている。
その中心で、ごく小さな画板を手にした画家が、筆を滑らせていた。
意外なことに、女性だった。
手頃な石に腰掛けて、その正面に座ってかしこまっている子供達を、目の覚めるような早さで描いてゆく。
好奇心旺盛な、そしてモデルから外れた子供達が後ろから覗き込んでいたが、その顔は一様に驚きと尊敬に満ちていた。
「ほい、できたわよ」
差し出された絵に、モデルになっていた子供達がわっと群がり、その上から大人達が覗き込む。
二十センチ四方ほどの小さな紙の上に、人数分の個性が、暖かいタッチで見事に描き出されていた。
「こらこら、引っ張ると破れちゃうわよ。順番に見なさい」
そして、新たな紙を画板に重ねた。空中から、音もなく取りだして。
たちまち次のモデル志望が、七人ほど彼女の正面に陣取った。
ほんの少しじっとしていれば、たちまち彼女の筆は、生き生きとモデル達を描き出す。
どこまでが画家としての力量で、どこからが魔法か分からないほどに、彼女の筆捌きは魔法じみていた。
だが、ただ写すだけでは描き出せない、ある意味単純な魔法とは違うものが、絵から伝わってきた。
あらかた周囲の人物を描き終わったところで、
「ほら、次のこっち来なさいよ」
「え、あたい?」
画家に指名され、イビルが戸惑う。
「横の赤いのもね」
イビルは戸惑いつつも興味深げに、エビルは興味はないけど拒みもしないというような感じで、正面に座り込む。
その背後にも何人か立ったところで、画家が筆を動かし始めた。
エビルが横からイビルを覗き込む。
「顔が引きつっているぞ」
「え、そ、そうか?」
「そーね、青いのもっと自然にしてなさいよ。大丈夫よ。魂を吸い取ったりしないから」
画家も苦笑して、そういった。
たまに絵の中の人物が動くのは、その中に魂を封じられてしまったからだ、などという噂もある。
泣き出したり、呻いたり、笑ったりする絵画は、ここではそれほど珍しくもない。
「別に、んなの怖がってるわけじゃねーよっ」
「んじゃ、もっと笑いなさいな。せっかくの記念なんだから、もったいないわよ」
「お、おう」
そしてイビルは思い切り引きつった笑みを作り――大爆笑が起きた。
危うく画板ごと燃やされるところだった。
それから数日後――。
縄張りの境界線近く、崖の上にイビルは一人立っていた。
暴れ回るのが大好きな性分のイビルには向いていない、見張り役。
退屈のあまりにあくびを噛み殺しながら、時折、懐から紙片を取りだし、眺める。
端っこが焼け焦げてしまったので、ほとんど完成間近だったが失敗作とされた、先日の絵だ。
その後もう一回、新しい紙にきちんとしたものを描かれたが、イビルはせっかくだからともらい受けたのだった。
引きつっていたはずの自分の顔が、いかにも楽しげな、いたずら小僧っぽい笑顔に変わっている。
見ている自分にまで、にやけが移りそうな笑顔だった。
隣のエビルも、いつもより柔らかいが、らしい笑顔を浮かべていた。
周りを囲む面々も、一様に暖かく笑い、なんだかくすぐったいような気分になる。
絵のことなどさっぱり分からないし、興味もなかったが、あの画家は大したものだと、素直に感心した。
今も、別の村かどこかで、他の人々の笑顔を描いているのだろうか。
――別の村と言えば。
噂だと、近隣の村や共同体が潰されているという話がある。
攻め落とすのではなく、潰す。そこにかつて村があったことが嘘のような、徹底さで。
この近くでそれほどの非常識な力を持っているといえば――まず、デュラル家。
今のところは一度も衝突していなかったが、このあたりではもっとも大きな勢力を誇り、
強力なヴァンパイヤが率いる不死の軍団は、敵対する者を容赦なく滅ぼすという。
さすがのイビルも「ちっと手に余るかもな」と、やや消極的な考えに支配される。
噂では、上層部は手を結びたがっているようだが、ここ魔界でそんな甘い考えが通じるものか、はなはだ疑わしい。
同盟締結の席で刺される方が、まだ確率が高いのではないだろうか。
いよいよそのデュラル家が、ここいらの制圧に乗り出したのか、それとも別の勢力か――。
そんなことを考えていたイビルの背後に、人影が一つ降り立った。
「食事だ」
「おう、サンキュ」
すっかり公認となったエビルが、名指しで指名され、差し入れを届けに来たのだった。
二人で並んで崖の下に足をぶら下げ、昼食を取りながら、考えていた事を話す。
「……驚いた」
「なにがだよ」
「少しはものを考えていたのだな」
「……おめーも言うようになったじゃねーか」
「冗談のつもりだったのだが」
「笑えねーよっ!」
姐さん譲りの耳引っ張り攻撃を行うが、エビルはほとんど表情を変えない。
頭を抱え込んで首を絞めたが、やはり無反応なことに、イビルはムキになる。
こんな風にじゃれあっているから、色々と誤解を招くのだが。
さておき。話題を戻した。
「だが、デュラル家というのも、敵対する者には容赦ないが、身内には意外に甘いそうだ」
「本当かぁ?」
「噂だが。ここもそういう傾向があるから、手を組むのも悪くないかもしれない」
「しかしよぉ、領土に差がありすぎるぜ。下手に同盟なんか組んだら、吸収されちまいそうだ」
「そういうこともあるかもしれないな」
「って、しれっと言うなよ。あたいはごめんだぞ、そんなの」
イビルは物心付いてからの時間のほとんどを、ここで過ごしてきた。
住人達はがさつで荒っぽく、時に本気で殴り合ったりもするが、全員気のいい仲間だった。
今のまま、それなりに暴れて暮らしていければ、イビルはそれで満足だった。
自覚はしていないが、何よりも大切な場所だと言うことは、言葉にしなくても分かっていた。
ふと、あの絵を思い出す。
あの絵がみんなの心をあれほど打ったのは、そういう親しさや暖かさを、描いていたからかもしれない。
家族ではないが、家族に等しい絆で結ばれていることを。
「……そうだな」
エビルも頷く。
途中から加わったとはいえ、ここの空気がエビルは好きだった。
事情を詮索もされず、真面目に働きさえすれば、無愛想な自分でも認めてくれた。
一度だけ本性をかいま見せたときも、恐れられることはなかった。
強さが絶対の基準だからかもしれない。だけど、それ以上に懐の深さというものがあるように思える。
それに、今、横にいる人物。
噂を肯定するわけではないが、たぶん、自分はこの人物が好きなのだと思う。
あまりにも率直な物言いは、時に鋭すぎるが、心地いいものを感じた。
「なに、じろじろ見てるんだよ」
「いや、なんでもない」
「……お前、まさか」
「ん?」
イビルの脳裏に嫌な想像が浮かぶ。
けして嫌いな相手ではないが、こと男女関係に関しては、イビルはまだまだ子供っぽさを残していた。
「い、いや、なんでもねぇ!」
見つめ返してきたエビルの視線に耐えきれず、慌てて目と話を逸らす。少し前のエビルと同じセリフで。
なぜか早まる動悸を押さえていると、逸らした視線の先に、土煙が立っていることに気づいた。
「……なんだ、ありゃあ」
立ち上がって、目を凝らす。普通の乗用生物なら、この距離から土煙など見えない。
つまりそれは、その物体の巨大さを表していた。
煙の隙間に、ごつごつとした、岩のような物体――巻き貝が見える。
そして、そこを依代とした生物が、下に収まっていた。
いわゆるヤドカリだが、そう呼ぶには足の数が際限なく多く、なにより、呆れるほど大きかった。
大きいと言っても、五メートルとか、十メートルとか、そういうレベルではない。
その上の巻き貝を、砦として兼用できるほどの。
貝殻にぽつぽつと開けられた穴は、窓であり、そこから武装した兵士達が乗り込んでいるのが見えた。
先端はイビル達が立つ、崖の上よりもさらに上にまで届く。まさにそれは、動く要塞だった。
巨大ヤドカリは、無数の足で地面を引っ掻きながら、半ば掘り返すようにして突き進んでくる。
轟音と砂埃を巻き上げながら、真っ直ぐこちらに向けて、突進してくる。
冗談のような理不尽な存在に、唖然と見送ることしかできないイビルの頭上に、光るものが見えた。
それが砦から放たれた矢であることを察知して、とっさにエビルはイビルの身体を岩場の影に引きずり込む。
さらには魔法の攻撃なども加えられたが、正気に戻ったイビルとエビルは、その攻撃を何とかやり過ごす。
見張り退治に時間をかけるつもりはないらしく、ヤドカリは二人の目の前を、恐ろしいスピードで駆け抜けていった。
嘲るような笑いが、その中に紛れていた。
狭い峡谷を固い殻で削りながら、本来、侵攻の障害となるべきそこを、容易くくぐり抜けてゆく。
そこでようやく、二人はその行く先に何があるのかを思い出す。
彼女らの、家だ。
現在のイービルリングの拠点は、峡谷を抜けた先、盆地の中央に設けられている。
そこまでの道のりは、途中まで上り坂になっていて、イビル達の前に悪意があるかのように立ちふさがる。
全力で走っているのに、後ろに飛んでいく風景が、苛立つほどのろい。
敵襲の合図は送った。だが、あの襲撃速度では、ろくな迎撃準備も取れないだろう。
遠くに煙が上がっているのが見える。明らかに炊事のものとは違う、黒く澱んだ煙。
せめて自分たちが着くまでは持ちこたえていてくれと、祈るような思いで走り続ける。
息が乱れる、足が崩れそうになる、鼓動がやかましいほどに響いている。
それでも疲労で倒れそうになる身体にむち打って、全力疾走を続ける。
エビルも汗を飛ばしながら、イビルの後を付いてきていた。
ひたすら走り続けて、拠点を望める崖の上にまで、ようやく辿り着いた。
丸太組みの簡単な小屋が数十軒。住居から倉庫、穀物庫、食堂兼酒場に長の館。
しばらくここに定住するつもりで作られた、小屋のほとんどが――倒壊し、炎上していた。
そしてその数倍に及ぶ数の死体が、周りに散らばっていた。
敵のものも味方のものもある。だけど数は、味方のものの方が圧倒的に多かった。
その上に無遠慮に、あの巨大なヤドカリが、我が物顔で居座っている。
もはや組織的な抵抗はできず、散発的に反撃する人々が、狩られ、蹴散らされ、踏みつぶされる。
つい今朝まで笑い合っていた仲間達が、物言わぬ肉片と化してゆく。
その肉片の中に、誰のものかはっきりと分かる、腕があった。刻まれた入れ墨は、主同様、動きを止めている。
血が逆巻くような想いがした。
無意識に絶叫し、崖から飛び降りていた。ひたすらに身体が滾るのは、全身を包んでいる炎のせいか。
足が触れた先からなにもかも炎上し、駆けた後ろに炎の道筋を作る。
砦から下りて殺戮と略奪と陵辱に興じていた連中に、槍を突き立て、そのまま炭にする。返り血すら、熱で瞬く間に蒸発した。
周囲すらろくに認識できず、わけのわからないまま、見たことのない動く者を、殺し、燃やし、灰にする。
時折叩き伏せられたが、その接触すらも反撃の炎となって、敵の武器にまとわりついて、本体まで焼き殺す。
疲労など感じなかった。ただ怒りだけで頭が染められて。
無尽蔵に力が湧いてくるようなのに、まだ足りないと思う。もっと強く、もっと激しく、全てを焼き尽くす力をと。
だが、意識していなくても限界は来る。
また一人殺し、次の敵を捜そうと振り向いた拍子に、膝が崩れ、足が滑る。
膝をついたところに、魔法と矢が一斉に放たれた。
矢は燃えたが、魔法までは防ぎきれず、氷塊が、電撃が、風刃が、イビルの身体を貫いた。
噴きだした血が、蒸発せずに、地面に染みを作る。イビルの身体を包んでいる、炎が尽きていた。
体力と魔力の最後の一滴までも、使い尽くした証拠。それを合図に、スイッチが切れたように、意識が暗くなる。
こらえようとする意識さえ、さらに追撃を喰らって断ち切られる。
闇に閉ざされる前に、自分を呼ぶ声が微かに聞こえた。
炎のような赤い髪が、遮られてゆく視界の向こうで、翻っていた。
パチパチと、薪の燃える音が、耳に優しく響く。
いつの間にか夜になっていたのか、視界が暗い。その片隅が、揺らめく炎で赤く癒される。
その赤さも暖かさも、イビルにとってはなじみ深いものだから。
やけに眠い。体の芯まで疲労が残っている感じがする。このまま休みたいという思いを、意識のどこかが拒絶する。
やらなければならないことがあるような気がする。だけど、それはなんだっただろう。
身じろぎした拍子に走った痛みが、イビルを覚醒させた。
「つっ……くぅーーっ……」
痛みに体を折った瞬間、別の所が痛む。どこが、とはっきり認識できないほど、あちこちが痛んだ。
「まだ動くな」
もう一つの赤が、視界に割り込む。
「……エビル?」
痛みと混濁に掻き回された意識に、少しずつ記憶が甦る。何があったのか、何をしたのか。
気力も体力も尽きたせいか、怒りすら湧かない。ただ重苦しさだけがのしかかる。
もっと怒るべきだと、思ってはいるのに。
だから、無理矢理に身を起こした。
「イビル」
咎める口調を無視して、近くにあった木の幹に爪を立て、えぐるように掴みながら、それを支えに起きあがる。
痛みはあった。気力はなかった。だけど、無理矢理奮い起こした。
ここで怒ることすらできなければ、自分の大切だったものが、大したものでなかったと認めてしまう。
荒い息をつきながら、痛みを怒りの糧として、立ち上がる。崩れそうな膝を、木によりかかって支える。
心の中を殺意一色で染めていく。空っぽになっている力を、無理矢理かき集める。
炎が右拳を包んだ。たったそれだけ。でも、それだけで十分だった。――戦える。殺せる。
軽く手を振って、火を散らす。ここで力を無駄遣いするわけにはいかない。
力を振るうべき場所へと、一歩踏み出した。
「どうする気だ」
エビルも立ち上がっていた。やはり傷だらけだが、イビルよりははるかに軽傷だった。
表情がいつもの硬さに覆われていないのは、なんの感情に支配されているためか。
だけど、少なくとも自分と同じ感情ではないと、イビルは感じた。それが疑念となって口に出る。
「お前が、あたいをここまで連れてきたのか?」
エビルは頷く。
「なんで戦わなかった」
責める口調と鋭い目つきに、エビルが戸惑う。
「逃げ道を作るために、何人かは倒した」
「それだけか」
「……それだけだ」
戸惑いを見せながらも、口調は相変わらず淡々としたものだった。
その冷静さを見て、また、血がざわめいた。
敵に抱くのと同じような、あるいはそれ以上の怒りが、エビルに対して湧き上がる。
「だから、なんでだっ!」
胸ぐらを掴んで、引き寄せる。目の前にある顔が自分に似ていることを、初めて嫌悪した。
「お前を助けるためだ」
「そうじゃねぇだろっ! 仲間を殺されて、なんで怒らねぇっ! あたいを助けるより先に、やることがあるだろっ!」
「お前も私も、犬死にするだけだ」
「尻尾たたんで、負け犬人生送るよりましだっ!」
「だが……」
この期に及んで、なおためらいを見せている。
自分と同じ憎悪に狩られないのが、不満だったし、ふがいないと思った。大切な人達を目の前で殺されたのに。
ましてや、この感情をぶつける唯一の行為を犬死になどと、侮蔑されるとは。
「もういい」
エビルの胸を、強く突き飛ばす。よろめいたエビルが、地面にへたり込んだ。
「お前があの時戦ったのも、みんなを助けるためじゃなくって、自分が助かりたかっただけかよ。
お前みたいな薄情者、もう仲間でもなんでもねぇ」
仲間でない、どうでもいい存在だと思ったら、殺意すら冷めた。
「一人で惨めに生きていろ」
視界に入れるのも汚らわしいと、背を向けて立ち去る。
と、腕が強く引かれた。まだつきまとうつもりかと振り向くと、破裂するような高い音が、耳元で鳴った。
頬を叩かれたのだと理解するのに、少しの間があった。
「お前こそ……」
痛みよりも怒りよりも、強く睨みつけてくる目の端から、流れている涙に目を引きつけられて。
「お前こそっ、なんで分からないっ! 同じ目にあったというのなら、お前だって、私と同じ思いに、なぜならないっ!」
初めて聞いた、エビルの感情のこもった声。
口調は明らかに怒りに満ちているのに、その向こうに透けて見えるのは、悲しみだった。
逆に胸ぐらを掴まれたが、エビルはむしろ、すがるようにして、叫ぶ。
「私があの時、お前が一人で突っ込んでいったとき、どんな思いをしたのか知っているのか!?
置き去りにされた私が、血の気の引くような思いで後を追って、倒されたお前を救い出して、
お前が生きていたと、二人で生き延びられたと分かったとき、どれだけほっとしたか……。
死んだ人達のことは、悲しい。悲しいけれど、もうどうしようもない。
だけど、お前と私は生きているじゃないか……。なんで、死に急ごうとするんだ」
エビルは、駄々をこねるように首を振った。
まるで彼女らしくない。らしくないけれど、それだけに、彼女の本質が現れているようにも思う。
触れている手から、震えが伝わってくる。思わず手を重ねると、驚くほど冷え切っていた。
背はほとんど同じなのに、自分よりも細い肩。この細い身体で、自分を助け、逃げのびるのに、どんな苦労をしたか。
それだけのことをする原動力となった、彼女の思い。
エビルがどんな思いをしていたか、なんてイビルには分からない。あまりにも思考のベクトルが違いすぎる。
だけど、痛みは伝わってくる。その痛みを上手く言葉にできず、髪に触れた。
赤い髪は、所々血で固まっていた。
「もう、一人はいやなんだ……」
慰めるような仕草に誘われ、呟いたエビルの言葉はか細く、不安に揺れて、迷子を思わせる。
イビルは黙ったまま、固まった髪を揉みほぐした。
血の塊がすりつぶされ、髪が解かれてゆくと共に、エビルの言葉が零れ出てゆく。
「この世界は、いつも戦いに満ちていて、当たり前のように誰かが死んでいって……。
大切な人が死ぬのは悲しいから、大切な人なんか、作りたくなかった。
だけど、誰もいないのは、もっと寂しいんだ。結局一人でいられなくって、ここに来てしまった。
お前が、みんながいてくれることが、嬉しくて、だけど、恐くて……。
いつかこうなるかもしれないって、ずっと怯えながら生きていた。
私は、それだけのことをしてきたから……」
「それだけのこと?」
聞かないほうがいいかとも思ったが、エビルはむしろ、語ることを望んでいるようだった。
ずっと彼女の表情を閉ざしていた呪縛から、逃れたがっているような。
「……私は死神だ。誰かを殺し、魂を奪うのが役割だと教えられ、そうして生きてきた。
命を狩れば両親も仲間も喜んでくれたし、私もそうするのが正しいと思っていた。
殺して、殺し続けて、いつしか戦いの場に立てば、敵と認識した全てをほぼ無意識に殺してしまえるようになった。
殺した分だけ、誰かに悲しみや怒りを与えていると、想像することすらできずに。
産まれたときから染まりすぎていて、自分のいる場所が狂気に満ちているなんて、思いもしなかったんだ。
そして、当然のように、私の部族は報復を受けた。まるで……」
エビルの語尾が乱れ、喉が詰まる。
「まるで、イービルリングのように、何もかも燃やされ、殺し尽くされて」
震えを静めようと、エビルがイビルに身体を押しつけてくる。
「私が気が付いたときには、全てが終わっていた。そして、全てが失われていた。
ただただ、真っ赤になった大地と人々と、そして私自身だけが残されて。
何もかも失って始めて、私は自分がしてきた行為の意味に気が付いた。
大切なものを奪われるということが、どれだけ悲しい事なのか……。
あんな狂った場所でも、異常な人々でも、あそこは私のただ一つの居場所だったんだっ」
吐き出し終えて、しばらく荒い息だけが響いていた。
嗚咽の混じる息に、どう声をかけていいか分からず、髪を指で梳き続ける。
そうしていると、少し気が落ち着いたのか、また語り始めた。
「それから、ずっと長い間、一人で生きていて、でも、一度寂しいということを知ってしまったら、
もうそれに耐えることが出来なくって、ここの人達の優しさに、甘えてしまった。
ずっと、このままならいいと願ったし、流れていく穏やかな時間にほっとしていたのに、
やっぱり私は、戦いの場になると何もかも殺して、そして、みんなを、死に引き込んでしまうんだ……」
ようやく、エビルは顔を上げた。あまりにも真っ直ぐに見つめられて、目をそらせない。
「でも、お前は生きている……。お前だけは、死なないで欲しい。
臆病者と呼ばれようが、薄情者と蔑まれようが構わない。
これが私のエゴだって言うことは分かっている。でもっ……」
また崩れそうになる紅玉の瞳を、見つめ返しながら、イビルは答えた。
「だめだ」
けれど、突き放すのではなく、抱え込む。エビルが砕け散ってしまわないように。
頬を触れあわせながら、耳元に強く囁く。
「お前の言い分は分かったけど……あたいはだめだ。
あそこはあたいにとって、かけがえのない場所だ。
イービルリングから名前を与えられたあたいには……恩とか、借りとか、そんな言葉では言い尽くせない思いがあって、
その分、同じだけの量の、恨みや怒りがある。
あいつらをこのままにしておいたら、あたいはあたいでなくなっちまう。
自分自身を失って生きるのなら、死んで何もかもなくなっちまったほうが、マシだ」
今度は、エビルがなにも言えなくなった。
二人の考えは合わない。全くの正反対と言ってもいいほどに。
だけどこの上なく、理解はできる。
止められない。イビルはきっと死んでしまう。どうしようもない未来に、胸が締め付けられる。
また涙が流れ出しそうになるところを、イビルの声が救った。
「だから、一緒に来いよ」
え? と顔を上げた先に、表情の選択に困って、苦笑したようなイビルの顔があった。
「寂しい顔して一生泣きながら生きるくらいなら、一緒に来い。
そんな思いをするくらいなら、死んで何もかもなくしちまえ。
一緒に、死んでやるから」
「イビル……」
空っぽになっていた胸が、熱くなった。ぶっきらぼうでも、乱暴でも、やはり、熱い魂の色。
その熱さは、ただそばにいるだけで、いつも自分を暖めてくれていた。
言われたことは思いもよらなかったが、答えるのに迷いはなかった。
「お前と、一緒に行く」
「いいのか? お前、本当は誰も殺したくなんかないんだろ?」
「誰かを守るためなら戦える。それに……もう、こんな風に泣くのは嫌だ」
「あたいも、こんな思いをするのは、二度とごめんだ……」
最後に、一つだけ。
「一日だけ、待ってくれ。今日は、戦えない。心も、身体も……」
「……分かったよ」
イビルは妥協した。
たった一日。それくらい弔いが遅れるのは、勘弁してくれるだろう。
そうと決めると、一気に疲労がぶり返して、イビルは木を背にしたままずり落ち、
しがみついているエビルも、それに倣った。
手を離したら、勝手に死んでしまうとでも思っているのだろうか。
エビルはよほど安心したのか、そのまま眠り込んでしまう。
――怪我人の上で寝るか、普通?
そうは思ったが、この空の下で、仲間と呼べるものが互いだけなら、こうして一つでいることが自然なようにも思えた。
やがてイビルも、エビルの体重を感じながら、心地良い眠りに落ちていった。
翌日。再び夜。
森の木々に身を潜ませながら、例の要塞が望める位置に、二人はいた。
「少し、考えてみた」
エビルはやっぱりそれが素なのか、いつも通りの淡々とした表情と口調に戻っていた。
「私達のように、運良く生き延びた仲間はおそらくいるだろうし、捕まっているものもいるだろう。
それらを探すのもいいが、血気盛んな連中だ。派手に一暴れすれば、この機に乗じようと、寄ってくると思う。
砦自体は堅固で倒すのは難しいだろうが、兵士の質は、あまり良くない。
私がイビルを連れても、なんとか突破できたくらいだ。
まずはあの砦に潜入し、内部から火を点け、騒ぎを起こす。仲間が捕まっていたら、解放し、一緒に戦う。
上手く混乱に乗じれば、砦を落とせるかもしれない」
イビルは呆れたように呟いた。
「……昨日のお前は、どこいっちまったんだ?」
「あ、あれは……」
途端、赤面する。どこもかしこも真っ赤になったエビルが、平静を装おうとする様は妙におかしい。
「まー、そんな感じのお前の方が、頼りになるな。あたいは突っ込んで玉砕しか考えていなかったし」
「それは困る」
「わーってる。あたいだって死にたいわけじゃねーからな」
ただ、死んでも叶えたいことがあるだけだ。
あの要塞は、未だ彼らの家の上に鎮座している。それを見るだけで、抑えようのない怒りが沸き立つ。
殺された人々の顔を思いだし、胸に刻み込む。死ぬ最期の一瞬まで忘れないように。
今にも飛び出したい衝動を抑え続け、細い三日月が、ようやく真上に上った。
「よし、いこうぜ」
「ああ」
二人は静かに、駆けだした。
その三日月が、照らす別の影。
二つは長身の女性。一つは小柄な少女。もう一つは、岩の塊のような老人。
イビル達とは逆側の崖の上に立って、例の要塞を見下ろしていた。
「あらま、困ったもんねぇ」
紫色の長髪が、ゆるい風になびいていた。
「どうします? もう同盟とか、無意味っぽくなっちゃいましたけど」
その傍らに立っているのは、例の画家だった。
「でもね、私の領地の目と鼻の先で好き勝手されて、放っておくのも度量が狭いと思わない? ねぇ?」
少女は同意するどころか、返事すらしない。ただじっと、眼下を見つめている。
「あんなデカブツ、ただの山賊が持つにしては、分不相応だし、どこかの国が、嫌がらせに送り込んだものね。
ちょうどいいから、同盟相手を潰した敵として、処理するわ」
「それで晴れて、ここも領地に組み込もうって寸法ですか」
「まぁ、遠からず、そうなる運命だったわけだし。大義名分もあるわ、名声も上がるわで、一石二鳥よね」
そこで初めて、老人が口を開いた。
「では、領地に戻って、戦力を整えますか?」
「そうねぇ……」
僅かに逡巡すると、状況の方が変化した。
砦の各所から、火の手が上がったのだ。
「どうもそんな暇はないみたいね。せっかくだから、便乗しましょ」
「御意」
「はいはい」
「……」
三者三様の返事が返ってくる。
紫の女性が軽く手を翻すと、闇の色をしたマントが広がり、四人を包み込んだ。
女性が軽く地を蹴ると、もう空には一つ分の影しかない。
やがてその影も、闇の中へと落ちて溶け込んでいった。
二人の襲撃は、予想外に、順調に進んでいた。
エビルの鎌は、音もなく見張りを無力化し、イビルの炎は、騒ぎの中に混乱を引きだしてゆく。
狭い通路の中で炎が渦巻けば、大概のものは狼狽する。
その隙をついて、二人の槍が、鎌が、敵を蹴散らしてゆく。
弧を描くエビルの鎌が、周りを薙ぎ倒し、イビルの槍が、急所を見つけてそこを貫く。
共に戦うのは初めてなのに、まるで生まれて以来の戦友であるかのように、二人の息は合っていた。
そして予想以上に、敵は弱かった。こんな奴らごときに、と悔しく思うほど。
内部を攪乱すれば、脆いだろうという、エビルの予想は当たっていた。
また、火を点けたことで宿主であるヤドカリが暴れ出したことも、混乱に一役買っていた。
だが期待していたような、援軍は来ない。囚われている仲間も見つからない。あるいは捕らえられてなどいないのか。
弱くても数はいる。中の構造も掴めず、闇雲に移動しているせいで、焦りと疲労が、刻一刻と募ってゆく。
イビルのふさがっていない傷から、血と痛みがにじみ出始めているのが分かった。
「ちぃっ……」
「イビル、こっちだ」
煙に紛れ、物陰に潜んで息を整える。
何人殺したか憶えていないほど、たくさん殺した。鎌が血で濡れて重くなるほどに。
たった二人でやったにしては十分すぎる戦果だが、イビルは満足していない。
全て殺すか、殺されるか。それが終わりだと分かってはいるが。
「よし、いくぞ」
僅かに休んだだけで、またイビルは飛び出そうとする。
「あ、イビル、まだ……」
もしかしたら、エビルは少しだけ、生きたいと思ってしまったかもしれない。
その躊躇いが、エビルから鋭さを僅かに奪っていた。普段なら気づいていたかもしれないのに。
イビルの足が、床に沈んだ。
「わっ!?」
エビルは逃れようとしたが、遅かった。
「っ!!」
床がそのまま泥土のようになって、二人の足を飲み込んで、捕らえた。束縛魔法の一種。
いまさら背後から詠唱が聞こえた。冷たい戦慄が背中を走る。
二人の中央で光球が膨らみ、弾けた雷が、二人の全身を引き裂いた。
一度崩れると、後はどうしようもなかった。溜まっていた疲労と、傷と、新たに与えられた傷が、力を奪う。
「っくしょう……」
自分で思っていたよりも、はるかに弱々しい声だったことに、イビルは舌打ちしたくなる。
まだこんなにいたのかと呆れるほど、ぞろぞろと敵が出てくる。
自分もろとも全員焼き尽くしてやりたいのに、首を掴んで持ち上げられても、炎の欠片すら出なかった。
下卑た顔が、笑っている。腹の傷をえぐられても、痛みに呻くのが精一杯で、唾を吐きかけてやる体力もない。
こんな奴に殺されるのか……と睨みつけた男の顔が、怪訝な、そしていやらしい笑いに変わる。
「おい、こいつ、女だぞ」
嘲るような歓声が起こった。言葉の意味に気づいて暴れようとするが、力がまるで入らない。
無遠慮な腕が、胸元から一気に服を引き裂こうとしたとき、
「ええーっ、それほんとぉ?」
心底残念そうな、場違いな女の声が聞こえた。
「あー、もうっ。ちょっと小生意気そうな男の子を調教できる楽しみにありつけるなら、
こんなむさ苦しいところに来た甲斐もあったかな、って思っていたところだったのに……どーいうこと、それ!?」
いつの間にか現れた四つの影に、誰も手を出せず遠巻きにしている。
絵筆を抱えた画家に老人、無垢な少女に、美貌の女性。
かなり奇妙な取り合わせだが、不思議と威圧感があった。
「ルミラ様。目的見失ってるって」
「だって、戦場にも一輪の花って必要じゃないの」
そう力説している女の名に、周囲がざわめく。
ルミラという名前は、このならず者達にも聞き覚えがあった。
「ルミラ・ディ・デュラル……?」
誰かが呟いた。
「ご名答」
ウインクついでに軽く返ってきた返事に、戦慄が湧き起こった。
この地一帯を支配している、デュラル家の当主、ルミラの名は、遠くまで知れ渡っている。
名門、デュラル家の名もさることながら、主に美貌と美少年好きと、恐るべきヴァンパイヤとしての戦闘力と。
そのルミラが、なぜここに?
「それじゃ、他の適当に始末しちゃって」
それが答えだった。
まるでちょっとそこのゴミ拾っておいて、と言うような軽い口調に、唖然とする間もなく三人が動き出す。
「フンッ!」
老人が全身の筋肉に力を込めた。ミシミシと音を立てて、固い筋肉がふくらんでゆく。
はち切れんばかりの園両腕を目の前に突き刺し、空間を割り開くと、その狭間から、騎士の鎧が現れた。
ガシャリと擦れる音を立てて展開した鎧は、扉を閉ざすような勢いで、老人をその中に飲み込んだ。
分厚い金属の塊が、瞬く間に分厚い老人の筋肉を覆い尽くした。
ほんの一瞬で、重装の鎧騎士と化した老人は、軽く腕を一振りした。
その一撃は、体格だけなら老人の一・五倍ほどある熊によく似た獣人を、身体ごと壁にめり込ませ、
拳がめり込んだ分の血反吐と内臓を空中にばらまかせた。
「バベルはそのまま、この暴れている生き物、止めてきてね。歩きにくいったら」
「御意」
バベルと呼ばれた老人は、重々しい音を立てて歩き出す。
向かってくるのは主に、彼より体格の大きな、無謀で知能の足りない魔物だったが、
それらをことごとく、その拳で粉砕しながら、真っ直ぐに進んでいく。
遮る者は、敵であろうと壁であろうと、例外なく砕かれて。
歩みはゆっくりとしたものであるのに、誰もその後を追おうとはしなかった。
対照的に、この場に残ったのはひ弱そうな女性三人。
中でも小柄な朴訥な少女は、いかにも与しやすそうに見えた。
ルミラの部下の一人とはいえ、これならばと、一人が巨大な斧を振りかざして撃ちかかる。
はたしてその一撃は、あっけないほど簡単に、その少女を粉砕した。
木片とバネと細い鋼線が飛び散った。
人形の少女を砕いて、その男は意気を上げるが、だが、その木片が浮き上がった。
ばらまかれた無数の鋭い部品が、唖然とする男の周囲で回転する。
小型の竜巻が生じた後には、元通りに組上がった人形の少女が男のいた場所に組み上がり、
肉片と骨と血液とが、代わりに周囲にばらまかれた。
きりりと首を軋ませて、少女が次の対象を探す。次の呪詛返しの対象を。
「さて、お次は私の番かしらね」
画家が当然のように、絵筆とパレットを手に取った。
あまりに違和感のあるその態度は、戸惑いと戦慄を呼び覚ます。
彼女は赤と紫をその筆に乗せて、パレットの上で混ぜ合わせた。
不気味に彩られた色彩が、あるグロテスクなものを描いてゆく。
「ほいと」
そこに画家は手を突っ込んだ。パレットを貫通しているほど深く。
だが、手の先は抜けてなどいない。ちゃんと、赤と紫の中に潜り込んでいる。
そして、なにかを引きずり出した。
途端、苦悶の叫びが周囲に満ちる。彼女を囲んだ兵達が、胸を押さえて苦しんでいた。
彼女がそれを投げ捨てると同時に、兵達の身体が地にくずおれた。
血にまみれたその物体は、赤と紫の混じり合った心の臓。
兵士達は血の一滴も出していないのに事切れて、画家の右手だけが無傷なのに血にまみれていた。
さすがのルミラも顔をしかめる。
「えぐいわねー」
「芸術ですよ、芸術」
「これがぁ?」
と、二人が談笑している傍らで、残った兵士達が殺し合いをしていた。
魅了の瞳に覗かれて、誰が敵とも味方とも分からずに。
軽く二十人以上が、ほんの一瞬でルミラに支配され、操られていた。
なにげなくやってはいるが、これ以上ないほど効果的に、しかも効率のよい、殺戮。
イビル達とは異なる次元の、力がそこにあった。
明らかに異質な戦場を、散歩するような気楽な表情で二人が歩いてきた。
「赤いのに青いのじゃない。久しぶり」
画家が軽く手を振った。
「あらメイフィア、知り合い?」
「前に下見に行ったじゃないですか……同盟組むのに信用できる相手か、調査するためにって」
「あぁ、そういえば」
ぽんとルミラが手を打った。
自分たちが血反吐を吐いて倒れているのに、なんでこんなに簡単にと、悔しく、情けなく思う。
格が違うのが分かってはいても、許せなかった。何よりも、無様な自分自身が。
「余計なこと……するんじゃねぇ」