>>483 なんか、ワイドショーのインタビュアーみたいな
質問だなw。
あんな批評を真に受けるなよ。
AIRの某批評とか返って気持ち悪かった。
488 :
名無しさんだよもん:04/07/11 21:06 ID:0z8yDiJ0
>>484 俺は日本国民が少しでもいいから視野を広げる結果になるなら
それはそれでいいと思うけどね。
あの内容じゃ無理だろ。
セカチューみたいに、内容無くても一般受けする話でもないし。
真に受けるべきなのか否か、いやそもそも真に受けるとはどういうことなのか、
とは問わないことにするけれど、笠井の解説が公になるに先立って、
ファウスト創刊号において以下のような対談があったことは取り上げておくべきだろう。
笠井:これは『月姫』、『空の境界』と共通する設定ですけれど、「死の線が視える」と
いう特殊能力を主人公は持っていますよね。この「死の線が視える」という設定は、
死が生の向こう側にあるのではなく、日常のいたるところに拡散し、瀰漫していると言
う事だと思うんです。ここで提示される「生と死」の対立の仕方が面白い。つまり、死が
絶対性の彼方にあるものではない、自分の周りのいたるところにある。そういう認識を
伝奇小説的に設定したものが「死の線が視える」なんだな、と。
奈須:その設定自体は元々、死の線が視える殺人期の話だった頃の『空の境界』にあ
るものでした。発表准は『月姫』が先ですが、設定事態はそれ以前からあったんです。
この「死の線が視える」殺人鬼の設定は、人はなぜ狂うのか? 我々の常識からは生
まれない殺人気がなぜ存在するのか? という疑問から考えたんです。それはつまり
思考回路を狂わすくらいの外的要因があるのだろう、と。たとえば被害妄想のようなもの。
これを突き詰めて、自分に害を及ぼし、自分を殺そうとするものが視覚的にとらえられ
てしまう・・・・・・そんな人間が居たとしたらまず狂うだろうと。そこで、狂人がそういう能力
を持つのではなくて、能力を持ったがゆえに狂った、というコンセプトで考えたのが「死
の線」なんですよ。いわれてみるとこれはまさに「死が身近にある」という概念がそのま
ま形になったものですね。
491 :
名無しさんだよもん:04/07/11 21:36 ID:3d/wEMSD
(続き)
笠井:それは僕の『哲学者の密室』のテーマとも通じるわけです。ハルバッハは死を絶
対的なものと見なして、それに直面することで人間は正しく生きることが出来るという立
場でしょう。そのハルバッハ哲学を信奉する人間が色んな事件を引き起こすわけです
けれど、最終的に探偵役が到達するのは「死はどこにでもある」、すなわち無意味な死
がこの世に溢れているという認識ですね。「矢吹駆シリーズ」も少しは深化しているわけ
で、そういうテーマの点では『空の境界』と通じるところがあります。
奈須:実は・・・・・・先ほどお話したように、『月姫』や『空の境界』の原型となった「死の線
が視える」殺人鬼の話を考えついたときに、僕はそれを一回お蔵入りにしたんです。当
時は主人公を善人にしてヒーローを描くことを目指していましたから、快楽殺人者が主
人公として搭乗すると著しく矛盾する。どんなに恰好よく描いても行い自体が矛盾して
いますから、絶対に嘘だ。そう思ってずっと眠らされていた設定を掘り起こしたのは、笠
井さんの『哲学者の密室』を読んだからなんですよ面白い作品にはいくつも出会って
いますが、物書きとして転機を迎えたのはまさにこの瞬間でした。『哲学者の密室』で
展開される死に対する認識にはガツンと頭をうちのめされました。そこで、この考えに
もとづいて、今あの話を書き直せば成功するんじゃないだろうか。そうおもって書いたの
が『空の境界』なんですよ。
実は・・・・・・
よするに笠井は奈須に、奈須は笠井に同族を感じてしまっているわけだよ。
で、東浩紀だが、彼が麻枝准に同族を感じる事は無いだろう。
つまりそういうことさ。
笠井自体たいした小説書いてないし(一般に受けるかという点で)、このひと批評は趣味だって言ってるから、私情がバリバリで書いてるに決まってる。
直訳:笠井「僕のテーマに似てるね」
茄子「うん。影響受けたから」
同族感じるどころか『存在論的、郵便的』の著者なら蔵は全否定してもおかしくない、
否、哲学者・批評家としての姿勢を貫くならばするべきだった、
にもかかわらず蔵に耽溺している東はもはやただの儲、そうだ、奴は完全に堕落してしまったのだ、
みたいな噂話を小耳に挟んだのだけれど、どうして全否定してもおかしくないのか、
思想に疎い初心者にもわかるように優しく解説して欲しいな、知識のある方。
499 :
名無しさんだよもん:04/07/11 23:25 ID:+vJntYdp
月姫の方は大友克洋や押井守からも好評だけど
AIRは正直どんな著名人に受けるかな・・・
>499
情報元はどこやねん
>>499 もう少し自分を持て。
俺は押井の大ファンだが、押井守の好きなものが全部好きなわけじゃない。
ほんとにやったかどうかも怪しい著名人の意見より、自分自身でものの良し悪しをつけろよ。
ほんとに面白いと思ったんなら他人の意見ばっかりに影響されずに自分の意見をここに書け。
502 :
499:04/07/12 00:32 ID:iELF/vSg
いいじゃん。
日本人ってのは有名人著名人に弱いんだから。
スピルバーグやルーカスなら無理でも
押井や大友クラスだったら
さりげなく自然に言えば聞いた人を「へぇ〜」と
思わせられるかも知れないw
>502
それって、単なる「嘘つき」ですよねぇ!!
この場合、ただの馬鹿だろ。
別にいいじゃん、嘘つきでも。
騙された人がどっかで同じコト他人に言って
その噂が広まればオタクの地位があがる。
最終的には「本人は否定してるがキムタクはアニメ好き」って
噂を日本全国に流すんだ。
世代交代してヲタが一般化しちゃうほうが先な気がする・・・。
スピルバーグやルーカスはともかく、キムタクに認められても嬉しくないなあw
どうでもいいけ、浅田彰は何かアニメ見るたびに「押井の方が面白い」って言ってるな。
その押井に認められた型月は・・・・・・とは言いませんがねw
それにしても「空の境界」は売れてるなあ。
こうなると第二第三の奈須を目指す同人物書きが沢山出るんだろう。
仲間内で作った美少女ゲームが大好評、噂を聞きつけた編集者・作家・批評家の目にとまり、
「これは凄い」と並々ならない評価を受け、
昔書いた同人小説まで、大手出版社から、中学時代からの友人を挿絵師にして出版してもらう、と。
結構な事だ。
あの売れ方は、突然変異的なもので、ビジネスモデルに
なるとは思えねー。知らんけど。
なったらいいなとは思う。
売れてるラノベは変なのばっかだって。
最近の売れ筋タイトルとかひくのばっかだし。
語ってることの本質が軽いが、もんじゃ焼きのように薄く薄く伸ばす才能は凄い。
簡単なことを迂遠に回りくどく言いまわすから、上辺だけはそれ系の作品と似てる。
見分けがつかない奴にはつかない。
最近流行った小説というと
「本を読まない連中にウケた」
というイメージしかない。
最近に限らず流行ってそういうものだろ。
以前、ネットで空の境界って読んだけど、売れる感じじゃなかったけどなあ。
今、売れてるんなら凄いんだろうね、出版を企画した人、偉い。
この「死の線が視える」殺人鬼の設定は、人はなぜ狂うのか? 我々の常識からは生
まれない殺人気がなぜ存在するのか? という疑問から考えたんです。それはつまり
思考回路を狂わすくらいの外的要因があるのだろう、と。たとえば被害妄想のようなもの。
これを突き詰めて、自分に害を及ぼし、自分を殺そうとするものが視覚的にとらえられ
てしまう・・・・・・そんな人間が居たとしたらまず狂うだろうと。そこで、狂人がそういう能力
を持つのではなくて、能力を持ったがゆえに狂った、というコンセプトで考えたのが「死
の線」なんですよ。いわれてみるとこれはまさに「死が身近にある」という概念がそのま
ま形になったものですね。
上記を見るときのこはちゃんと考えている本物(ちょっと殺人衝動がわかるサイコ)
なんだけど、ネタで使って超能力みたいにしたり、意味を殺すとかメタ的な使いかたしたり
そういう意味のない突飛さが受けたりするんだよなー。
言ってることって、ニュースとかで専門家風情が大昔から言い続けてる半ば一般常識レベルの概念。
内容も既存のラノベのある作品らに酷似してるし。
セカチューとか見ても分かる通り、他人のネタやコンセプト、下手すりゃ内容もそのまま持ってきても、今の小説はやったもん勝ちで売れてしまってるもんな。
きのこは狂人扱った映画見た方がいい。
>>519 レインマン・・・ってあれはタイプが違うな。
つーか自閉症だし。
笠井:僕が『月姫』をプレイしたときに注目したのが、これが伝記作品だということなんです。
ジャンル市の整理になりますけど、ソノラマ文庫などでSF作家の手によるジュブナイル、例
えば学園小説の伝奇物などが書かれていた先行時代を経て、八十年代に入ってから角川
ノベルズ、ノンノベルを中心にいわゆる『伝奇ブーム』が起こりました。栗本薫さんの『魔界水
滸伝』と僕の『ヴァンパイヤー戦争』が同時期にスタートして、二年後くらいに夢枕縛、菊地
秀行がノンノベルからノベルス界にデビューし一般読者にブレイクした。それ以外にも藤
川桂介の『宇宙皇子』、永井康孝『凄ノ王伝説』。伝奇ファンタジーを含めると富野由悠季
の『オーラバトラー戦記』などがありましたね。
ところが九〇年代に入ると、ジャンルの勢いがぱたっっと落ちてしまった。八〇年代と同じ
スタンスで九十年代も書き続けたのは菊地秀行、ファンタジーまで広げると田中芳樹だけで
すね。そこでなぜ八〇年代伝奇の勢いがなくなったのかを考えてみると、八十九年に昭和
天皇が死んでいる、これが象徴的な曲がり角だったのではないか。
というのも、八〇年代伝奇の基本的なコンセプトは、光の都に対して魑魅魍魎が跋扈す
る辺境を対置するような対立構造で組み立てられたものが非常に多い。天皇家の祖先で
あるアマテラスに対してスサノオ、出雲神話を置き(『凄ノ王伝説』)、もう少し時代が下ると
都を荒らした酒呑童子(『手天童子』になって、更に下ると平将門(『帝都物語』)になったり
する。都、あるいは天王星に対する逆賊の系譜をヒーローに物語を駆動していく事、これ
が伝奇小説のトレンドだった。昭和天皇は前半生では血みどろの闇の帝王だったわけで
しょう? この迫力が敵の側にあるとき、逆賊の戦いは輝いた。この歴史的記憶を、戦後
生まれも親の話から刷り込まれているけど、今の天皇になるとヒールとしての魅力はゼロ
ですよね。伝奇小説を支える圧倒的なヒールが居なくなった事と伝奇ジャンルの失速は
関係があると僕は考えています。国枝史郎辺りから始まる日本の伝奇小説は根本的な組
み替えをやらないと今後は駄目なんじゃないだろうか。
(続く)
522 :
名無しさんだよもん:04/07/13 06:36 ID:P4g7qxG+
(続き)
ところが、菊地さんだけは例外的に「天王星―魑魅魍魎」とは無縁なんですね。ヨーロッ
パだと伝奇小説は「キリスト教―ヴァンパイア」になるわけだけど、菊地さんの作品もこの
図式に当てはまるところがあって、国枝以来の日本の伝奇小説の流れを意識しなかった
ために昭和の終わりの影響も少なかったのかもしれない。また、僕は『月姫』をプレイした
あと、気になって書店のライトノベルの棚を物色してみたのですが、その領域では二十一
世紀になってもヴァンパイアが比較的生き延びている。そればかりか、学園伝奇に分類さ
れる小説も結構多い。どうやら中学生、高校生のあいだでは、吸血鬼もの、魔女ものが依
然読み継がれているようですね。
奈須:読み継がれているとは思うんですけど、物語としてのスケールは落ちていると思うん
ですよ。笠井さんの『ヴァンパイヤー戦争』という吸血鬼ものの骨子は、支配文明と共存文
明の対立じゃないですか。「文明―文明」の重みがあって、若者が壁にぶつかって挑戦す
るというロマン主義の図式がある。そんな風に八〇年代の伝奇ものの内部には絶対越え
られない巨大な壁があって、それに立ち向かう個人が脈々と書かれていた。けれど現在の
伝奇もののヴァンパイアは、飽くまでも「個」オンリーなんですよ。実際の吸血鬼の伝承や
膨大な資料からは切り離されている。
武内:
武内:もはやそれらはゲームの中にしか存在しないというか・・・・・・。
奈須:現実から来はなされた、キャラクターとしてのヴァンパイア。それと主人公の対決に
なると、やはり「個―個」、一対一なんですよ。「個人―国家」ではない。その図式は今か採
算の仰ったように八〇年代伝奇「以降」の流れに沿って生まれたものだと思いますね。自
分の書くヴァンパイ野もそのタイプなので、偉そうにいうのもおこがましいのですが。
524 :
名無しさんだよもん:04/07/13 06:59 ID:P4g7qxG+
笠井:奈須さんには『空の境界』という伝奇小説がありますよね。これは『月姫』の製作以
前に「竹箒」というホームページに連載されていたものですが、『月姫』発表後に上下二冊
で自費出版され、同人ショップでベストセラーになりました。来春には講談社のベル図から
出版される予定ですね。この作品が僕にとって非常に面白かったのは、小説としての出来
ばかりではなく、意識的かどうかはわかりませんが、九〇年代における伝奇小説の失速を
踏まえ、かつ通過した上でかかれたところが感じられたからです。
伝奇小説の重要なテーマに、超越性の領域、外部の領域がある。簡単に言うと、伝奇の
ヒーローは「悟りの境地」に達する欲望をどこかに秘めている。ヴァンパイや―戦争』のヒ
ーローである九鬼孝三郎の場合だと、エロティシズムを探求して別世界に突き抜けたいと
いう超越性の欲望が彼を駆動している。奈須作品では「悟りの境地」に達する事が「魔術を
極める」事に対応していますよね。
ところが『月姫』、特に『空の境界』において顕著なのは、そう言う古典的な伝奇ヒーロー
が悪役として登場してくる点です。例えば最大の敵で荒耶宗蓮がまさにそうですね。『空
の境界』では超越性、外部に突き抜けたいという欲望によって駆動されているキャラクター
は悪役で、そいつが出現してきたがために普通の高校生がいろんな事件に巻き込まれて
しまう。要するにヒーローの位置が逆転している。これが最大の新しさなんですね。
奈須:そうですね。語り手と主人公の逆転というか。
主人公は自分の環境を守ることが精一杯・・・・・・広い視野を持つのではなく、外部に関
心が無い、という点も含めてですが・・・・・・という、より読者に近い立場で描かれ始めている。
で、ある意味カラに閉じこもった主人公に世界を語るのは、既に“突破した者”になるの
は必然なワケです。
笠井さんの仰ったとおり、八〇年代の伝奇の主人公がそのまま九〇年代以降の伝奇
の敵役、強大な壁として出現する。だってもう“突破した”人たち、いうなれば卒業した先
輩なワケですから(笑)
問題はそういった逸脱した超人との邂逅が救いではなく戦いになるのは“和”を乱すも
のへのスタンスが変わっていたからではないかな、と
笠井:八十九年に昭和天皇が死んだ後、九十五年にはオウム真理教事件が起きて、伝
奇はもう一度パンチを浴びてしまった。これには僕の『矢吹駆シリーズ』も無関係ではあ
りえません。破きかけるは「悟りの境地」を目指す人物ですから。最終的に麻原的なもの
を乗り越えた矢吹をかけるかどうか・・・・・・それが僕の現在進行形の過大なんですね。社
会が麻原を経過してしまった後では、根源の場所を目指すキャラクターが素直に善だヒ
ーローでありうるわけが無いんです。荒耶というキャラクターはそういうことを象徴してい
るわけです。
奈須:『空の境界』という小説には、両儀式という存在を癒すことによって救いが書けるの
ではないか、というシンプルなコンセプトがありました。一般社会から隔たりがある式を一
般社会の側から癒そうとする黒桐幹也。これに対して、荒耶宗蓮は式と同じ領域から式
を解脱させようとする存在である、そういう対立構図を考えていたんです。
だから笠井さんの仰るとおり、荒耶は非常に重要なキャラクターなんです。この小説は
そもそも「竹箒」で連載を始めたときのタイトルが『空の境界式』で、ホームページ上での
発表は第五章の『矛盾螺旋』で終わっているんです。なぜなら『空の境界式』は荒耶の
物語で、荒耶の話が終わったらそれでおしまいなんですよ。ですから本にするにあたって
は、式と幹也という二人の登場人物のために残り二話を載せたものを、当初のタイトルか
ら「式」を抜いて『空の境界』として発表したんです。
(続く)
(続き)
考えてみると荒耶は本当に『空の境界』の主人公で、逸脱したい、突破したいと思いなが
らその思いをついに果たせなかった存在です。でも彼はその思いをきっと一生涯追い求め
ていくんだ、ということを書いたつもりです。彼の望みはこの社会では果たされない。しかし
彼は飽くまでもその望みを追い求める。その先に救いがあるかどうかは読者に判断しても
らおうと。・・・・・・もし仮に荒耶に対する巨大な敵が居たなら、彼は物語の主人公になれたと
思っています。
笠井さんのご指摘にあるように、八〇年代伝奇と九十年代以降の伝奇のコンセプトの違
い、それが荒耶というキャラクターには明確に出ているのかもしれません。倒すべきは何か、
解決するべきは何か、という問題がシフトしているんです。今の僕らはやは「『個」の、自ら
の、救いといって大きければ「行き先」に関心がある。でも八〇年代伝奇は「個」の生き方じ
ゃなくて文明、人類、人間というものの「行き先」を主止めていたと思うんですよ。この二つ
の違いは大きいですね。
笠井:というようなことを含め、講談社ノベルス版として新たに出版される『空の境界』は、二
十一世紀における伝奇小説復活のきっかけになるのではないかという予感がします。
つまり奈須きのこ、『空の境界』が売れたのは時代の必然だったっぽいわけさ。
物事には必ず原因が存在するのだから、この世に起こってる事は全て必然だろうが。
笠井潔って京極夏彦のこと嫌いなのかな、
その存在を完全に無視しちゃってるみたいだけど……
結局、仲良し同士の称え合いなのか。
「先方は笠井なんて知らないだろうし」と思って臨んだ対談で、お互いに評価しあえて、
そののちに仲良し(?)みたいだから、その逆のパターン、「仲良し→称え合い」に比べれば問題ない。
対談の前にそれなりに相手のことを知っておくのは
当たり前のことであるんだけどな。
「初めてお会いしましたね。あなたは何を書いている人なんですか?」
「あなたの作品はまだ読んでないのでなんともいえないんですよ」
じゃ話にならないからね。
日記に比べたらマシな褒め方だ。
日記はそもそもプレイしたかどうかすら怪しい褒め方してるし。
笠井ってWEB日記書いてるのか?