まとまった仕事が終わり、午前中で解放される予定の金曜日。
芳野さんと公子さんが家を訪れる約束をしていた。
『いつもふぅちゃんがご迷惑をおかけしてすみません』
『いえ、汐もあれでけっこうなついているようで、助かってるとこもあるんです』
無茶苦茶言われていることは伏せておいた。
『お礼も兼ねて家にご招待したいんですけど、いかがですか?』
芳野家と俺のスケジュールを検討し、金曜日の夜に宴会をすることになった。
汐の幼稚園の都合で、場所は狭いながらも当家に変更。
『お料理作って持って行きますね』
恐縮しきりだったが、楽しそうな公子さんの笑顔で、俺も楽しみに思えた。
3時に汐を迎えに行って、家で合流する段取りだった。
ところが、細かな事務処理に手間取り、あと少し、あと少しで終わるとネバってしまい、気がつくと3時を過ぎていた。
「すみません、岡崎です。ちょっと送れましたが今から迎えに行きます」
幼稚園に電話し、事務所を飛び出した。
幼稚園についたとき、もう帰宅ラッシュは終わっていた。
汐は杏と玄関前で待っていた。
「遅くなってゴメンな」
「パパー。おかえりなさいっ」
汐が足に抱きつく。
「杏、ありがとな」
「ん。あまり遅くなるのは問題だけど、これくらいならよくあることよ」
「そっか。でも助かったよ」
しゃがんで、汐に向かい合う。
「今日はな、お客さんが来るからな。いい子にできるか?」
「うんっ。汐いいこにするっ」
「お客さん?」
「あぁ、職場の先輩が来るんだ」
「へぇ。……その人って独身?」
「残念ながら」
「あははっ、冗談よ」
「岡崎さんっ」
バカ話をしていると、後ろから声をかけられた。
公子さんだ。追いつかれてしまったようだ。
「汐ちゃん、風子が迎えにきましたー」
風子が突進してくる。こいつも来たのか。
「ちっす」
汐が言うやいなや、風子が汐に抱きつく。
「んーっ、幼稚園の汐ちゃんも可愛いですっ」
汐は風子の異常な行動にも慣れたものだ。
門の向こうで芳野さんと公子さんが待っていた。
「すぐ行きまーす」
大きな声で返事をした。
「じゃ、また来週な」
杏に言い、汐の手を取ろうとした時……。
「朋也?」
「なんだ?」
「あの人、見た事があるような気がするんだけど」
「ん? 公子さんか?」
「ううん、男の人の方」
「……」
あぁ、そうか。
「……芳野祐介、さん」
「……」
「……」
「……あの?」
「……たぶん、その」
「……」
「……」
「早く言いなさいよ、バカッ」
「おまえな……」
言い返す言葉も聞かず、杏は門へと走って行った。
門の前で立ち止まり、髪に手を当てて整える。
エプロンをはたく。
意を決して話しかけた。
「…あのっ」
声が裏返る。杏の頬は真っ赤に染まっていた。俺と汐と風子も門へと移動する。
「芳野、祐介、さんですか?」
「…えぇ、芳野です。岡崎がお世話になってます」
「は、はいっ、こ、こちらこそっ」
「……、先生、お名前は?」
「は、はいっ。藤林、き、杏と言いますっ」
「杏さん、あなたからは愛を感じます。岡崎の娘があなたを慕っていることは聞いています」
汐が首をかしげる。
「子供達の愛を育てる尊い仕事だと思います。いつまでもその愛を、…大切にして欲しい」
「は、はいっ」
公子さんは、にこにことやり取りを見つめてる。慣れているんだろうな。
すぅ。杏が深呼吸する。
「あ、あのっ、芳野さんが復帰されてとても嬉しかったです。ラブ・アンド・スパナを聞いたときは、とても感動しましたっ」
……その歌の話は聞きたくなかった。
「でもっ、あんなに幸せな歌なのに、なぜか最近この曲を聞くと泣けてくるんです。悲しくて、切なくて、どうしてなのか自分でもわからないんですけど……」
……こいつ知らないはずだよな。
「杏さん、…愛は深ければ深いほど、失ったときの絶望も大きい」
芳野さんはちらっとこっちを見る。
「しかし、愛はひとつだけとは限らない。愛を失って絶望に落ち入っても、新しい愛がまた生きる力を与えてくれる。そうは思いませんか?」
「え? はいっ、そう、思います」
「あなたは、他人の痛みを自分のことのように感じる優しい人だ。……これからもこの町に愛を分け与えてやってください」
「は、はいっ、ありがとうございます。次のCDも期待してますっ」
「ありがとう。では。…岡崎っ」
「はいっ。……じゃな」
汐の手を引いて帰ろうとしたが、
「ちょっとっ」
杏に引きずられて、みんなから離れる。
「あとで説明しなさいよっ」
小声で言う。
「わかったわかった」
俺たちは杏に見送られて幼稚園を後にした。
家について汐と俺が着替えると、すぐ宴会になった。
「「「「「かんぱーい」」」」」
汐と風子はジュース。
俺と芳野さんは一気に全部、公子さんは一気にグラスの半分近く飲んだ。
「おっ、公子さん、いける口っすか?」
「え? そうですね。人並みだと思います」
「それほど強くないだろ、公子」
「そうですか? でも今日のおビールは美味しいです」
さっそく公子さんの手料理を並べる。
「すごいっすね」
3段の重にぎっしりのごちそう。
「いえいえ、半分は切って詰めただけですよ」
お酒のアテだからそういうのが多いけど、それでも2段分は手間のかかった料理だった。
ハムやかまぼこは星の形。
ん? よく見れば卵焼きも酢の物の大根や人参も星形だ。
ひとつつまんで、
「手間かかってますねー」
「あ、それ切ったの全部ふぅちゃんなんですよ」
「へぇ〜、あいつ、……風子、料理できたんだ」
「切るだけならな」
芳野さんが何かを思い出すように言った。
あ、もう想像できました。
汐は風子にまかせる。
今日は風子に少しだけ感謝。
「んーっ、可愛い汐ちゃんが可愛いヒトデをっ。可愛さのダブルスですっ」
ヒトデ?
「岡崎さんっ」
ノリノリの公子さん。
「幼稚園の先生とは、お知り合いなんですか?」
汐の先生以上の関係か? と聞いてるんだろうな。
「杏のことっすか? 高校の時のクラスメートっす」
「そうですか……。渚さんともお知り合いだったんですか?」
「えぇ、まぁ」
「それは不利ですね……」
公子さんは独り言のように言い、そしてにっこり笑って、
「岡崎さんは、ふぅちゃんと杏さんのどっちが好きなんですか?」
「ぶぅーーーーーっ」
「ぶぅーーーーーっ」
芳野さんと俺が同時に吹き出す。
「こっ、こっ、公子さん?」
わくわくという擬音が聞こえそうな表情だ。
小さい声で芳野さんに、
「公子さん、もう酔ってんじゃないっすか?」
公子さんのグラスは2杯目だった。
「正直言うと、俺もな、付き合い程度で一口飲んだところを見たことがあるだけだ…」
「で?」
「真っ赤になってそれ以上は飲まなかった」
「……」
ちらっと風子の方を見ると、こちらの話には気づいてないようだ。
公子さんと向かい合う。
「それが今日の目的だったんですね」
「あ、…いえ、本当は岡崎さんがふぅちゃんのことをどう思ってるのか、それとなく見るだけのつもりだったんですけど…」
にっこり微笑む。
「でも意外な伏兵を発見しちゃいましたので……」
そう言えば、昔からこういう人だった。
俺と渚のことをずっと応援してくれた。
そして俺がバカやってるときも、ずっと俺と汐を見守ってくれていたんだ。
もちろん、妹の幸せも願っているんだろう。
だから本音で答えるべきだ。
俺は覚悟した。
「早苗さんやオッサンも『私たちのことは気にしないで新しい人生を考えてください』なんて言ってくれてます。
でも今は、そういうことは考えられません」
「そうですか…」
「汐、この部屋、早苗さんたち、そして公子さんや芳野さんの優しさ。
全て渚に出会えて、渚のおかげで得られたものです。
渚はもういないけど、何もかも変わらずにはいられないけど、
今はまだ、渚の思いに包まれている、そんな気がします」
気がつくと汐が横に来ていた。
「ん? どうした?」
「ふぅちゃん、うごかないの」
「え? またか?」
みんなが一斉に風子を見る。
何度か見たことがあるように、また固まってる。
「ふぅちゃん、時々あぁなっちゃうんです」
「あれ、なんなんですか?」
「なにかに感動した時、思いにふけってるみたいなんです」
「ほっといて大丈夫ですか?」
「えぇ、すぐに、えっと、すぐにじゃないかもしれませんが大丈夫です」
汐を足の上に座らせて、話を戻す。
「どういう訳か、あのとき公園で一度会ったきりの俺とこいつのことを気にしてくれて、風子はあぁ見えてとても優しい娘だと思います。
公子さん、…俺は風子をここに来させない方がいいんでしょうか?」
以前から考えていたことだ。
年頃の女の子が父子家庭に出入りするのは、冷静に考えればかなり問題がある。
「やはり岡崎さんは優しい方ですね」
公子さんの声が落ちつく。
「ご迷惑でしょうが、今しばらく好きにさせてやってくださいませんか。
退院してから、ふぅちゃんは何処へ行くにも、私がいないと行けない子でした。
でも岡崎さんのところなら、勇気を出してひとりで行けるんです。
どうか、お願いします」
「前にも言ったとおり、公子さんのお願いは断れませんよ」
「うふふ、ありがとうございます。あーあ、実は可愛い義弟が出来るかも、なんて期待してしまいました」
俺と芳野さんは見つめ合った。
俺が『お義兄さま』と口を開こうとすると、
「言うな」
先手を打たれてしまった。
「はっ」
風子が動き出す。
「汐ちゃんがいませんっ。消えてしまいましたっ」
もしかしてこいつ、話を聞いてないふりのつもりなんだろうか?
「おまえ、いつもいつも、何ぼーっとしてんだ?」
「風子、ぼーっとしてないです。どちらかというと、しゃきっとしてます」
…違ったようだ。
「あ、汐ちゃんが奪われてます。最悪です」
「ふぅちゃんっ。あなたは、もう。岡崎さん、すみません。ふぅちゃん、いつもこんな感じなんですか?」
もっとひどいとは言えないよな。
「いえ、俺も変にかしこまられるよりはこの方がいいっす」
「そう、ですか?」
「そんなことより、汐っ」
汐が上を向く。
「公子さんはな、ママの大好きだった人だ。遊んでもらえ」
汐を立たせて、
「公子さん、いいですか?」
「はいっ」
公子さんと風子と汐が固まってると、なんだか俺の家ではなく別世界のように感じられた。
芳野さんにビールを注ぐ。
「公子さんの期待に応えられなくてすみません」
「ん? いや、公子の無理を聞いてもらって、俺の方がすまないと思っている」
ビールを注ぎ返される。
「公子はこの数年、風子のためだけに生きてきたようなものだ。
風子も公子のために、ひとり立ちしようと頑張っている。
無理を言うようだが、公子が考え抜いた願いだ。
俺からもよろしく頼む」
「はい」
芳野さんも、そんな公子さんを何年も見守ってきたんだ。
なんて優しい家族なんだろう。
「あの先生、…杏先生だったかな?」
「はい?」
「あの人とは、本当に関係はないのか?」
「さっきの言葉通りっす。今はそういうことは考えられません」
「愛はひとつだけではない。あの人はそうだと答えた。岡崎はどうだ?」
「……俺もそう思います。渚がいなくても、汐がいるから生きて行けます。今はそれだけです」
「そうか、ならば…」
あぁ、俺は芳野さんの期待にも応えられないのか。
「風子にもチャンスがあるということだな」
「……」
「……」
「はい?」
どうしてそんな結論になるんだ?
「決まった相手はいない、その気もないということは、言い換えれば岡崎には無限の可能性があるということだ」
「ありません。今は汐で精一杯ですっ」
「今はそうかもしれないが、将来はわからないだろ?」
「だいたい、公子さんに『どっちが好きか』って聞かれたから答えただけで、風子も杏も、俺のことなんてどうも思ってないですよっ」
思わず声が大きくなっていた。
「岡崎……、おまえ本気で言ってるのか?」
「本気っす」
「岡崎さんは素敵な方ですよ。もっと自信を持ってください」
公子さんが汐から離れて、テーブルにつく。
「岡崎さん、以前渚さんから聞きました。『朋也さんは私に自信を持たせようとしてくれます。だからとても恥ずかしいですけど頑張りたいんです』って。だから岡崎さんも…」
「渚は、…その、本当に可愛かったから、自信を持って当然だったんです。俺とは違います」
「岡崎さんも本当に素敵ですよっ。だから自信を持ってください」
「……」
元不良で子持ちのヤモメ、前科持ちの息子。学もない。
自信なんて持てるはずもない。
でもこの人たちは、そんなこと本当に気にしてないんだ。
それだけは信じられる。
「公子さんにはかなわないっす」
「……」
複雑そうな顔の芳野さん。
「祐くんも素敵ですよ。そして、一番好きです」
「いや、俺はなにも…」
「ぷっ」
なんだか無性におかしかった。
「くくくくくっ。…あはははっ」
「笑うなよ。…風子が見ている」
「はい。……ぷっ。くくくくっ」
やばい、酔ってるな、俺。
「…岡崎、来週から覚悟しろよ」
「祐くんっ」
「……ちっ」
「あはははっ…」
それからは結構飲んだ。
「ねー、汐ちゃん、岡崎さん素敵ですよねー」
「うん、パパだいすきっ」
「汐ちゃん、風子は? 風子は?」
「んーっと。…すきーっ」
「はっはっは、俺の勝ちだな。大がついてるぞ」
「今はしかたありません。でもいつかは汐ちゃんの洗脳を解いてあげます」
「おまえなー」
「子供はヘンなのが好きですから、汐ちゃんに好かれるのも無理ありません」
「ヘンなのってなんだよ」
ぴっ、と俺の顔を指さす。
俺は無言で頭をぐりぐりと押さえてやる。
「わっ…」
ぱっと、手で払いのけられる。
もう一度手を頭に載せてやる。
再び手が伸びてくるが、それをひょいとよけて、載せ直す。
ぱっ、ひょい、ぱっ、ひょい、ぱっ、ひょい。
「わーっ」
風子は汐をひっ捕まえて部屋の角に逃げ込んだ。
「ふーっ…!」
威嚇されてしまった。
「パパ、ふぅちゃんいじめちゃダメっ」
「わーっ。パパが悪ぅございましたっ。汐っ、許してくれっ」
「なかよし?」
「……、なかよしっ」
「うんっ」
部屋中が笑い声で包まれる。
……。
…。
「……パパーっ」
んーっ。
頭が重い。でもそんなに悪い目覚めではなかった。
「汐……」
「パパ、おはよー」
「おはよ、汐」
汐を寝かせて、タクシーを呼んだとこまでは覚えている。
テーブルの上には、昨日の残り物が皿に盛られラップがかけられていた。
後でお礼の電話しなくちゃな。
風子と俺たちのやり取りを見て、公子さんは安心してくれただろうか。
かえって心配を増やしてしまっただろうか。
「えぃっ」
頬を叩き気合いを入れる。
汐とシャワーを浴び、すっきりしたところで、遅い朝ご飯。
今日はどうするかなぁ。
後片付けを終えてテレビを見ながらそんなことを考えていると……
ドンドンッ。
「入るわよっ。朋也っ」
杏が現れた。
「あーっ、せんせー」
「おはようございます、汐ちゃんっ」
「おはよーございますっ」
「よぉ」
寝転んだまま返事をする。まだ動きがニブい。
「なによ元気がないわねっ」
「悪ぃ、二日酔いだ」
「はいっ、差し入れっ」
どんっと、何やら包みをテーブルの上に置く。
「昨日のこと、しっかり説明してもらうわよっ」
あぁ、そんなこと言ってたな。
……ひょっとして連投規制?
昨日の公子さんの言葉を思い出す。
他人から見れば、俺とこいつがいい仲のように見えるんだろうか。
まぁ、腐れ縁には違いない。
「なに、ニヤニヤしてんのよ」
「ん? そんな顔してたか?」
「ちょっと汐ちゃん、むこう向いててね」
ドゲシッ。
「麗しい女性が来てんだから、さっさと起きなさいっ」
痛くて起きれなかった。
騒がしい一日になりそうだ。
そんな予感がしたが、今日は悪い気はしなかった。
[END]