その日は父兄参観であった。朝から生徒の親たちが教室の後ろに立って、
我が子の授業風景を眺めているのである。
子供たちはというと、いつもと違う教室の雰囲気に緊張していて、
うしろから見ても一目瞭然なほどにしゃちほこばっていた。
「じゃあ、次は誰に読んでもらおうかな」
国語の教科書を持った教師が、ぐるぐると通路を回る。
「そうね、観鈴ちゃん。読んで」
「は、はい」
がたん、と起立する音が教室に響いた。
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授業参観のあったその夜。ある家庭にて。
食事の最中、期せずして昼間の授業参観の話題になった。
「あの、なんていったっけ。観鈴ちゃんかな、頑張ってたね」
そう言いながら、父親は新聞から目を離そうとしない。隣の母親は聞こえよがしにため息をついた。
新聞を読みながら食事なんて、朝食じゃあるまいしと言いたげだった。
父親の発言に、子供が反応した。
「えー、そうかなー。観鈴ちゃんはなんにも出来ない子だよ?」
ぴく、と父親の眉が動いた。新聞越しにちらりと我が子を窺う。
子供は父親の微妙な変化など分かろう筈もなく、心底あきれたという調子で、
「観鈴ちゃんてば、ちょーとろくさいんだよ。みんな迷惑してるの。今日だってちゃんと読めなかったし。ずーっと黙っちゃうの」
我が子の冷たい意見に、母親は何と言っていいのか分からず、曖昧な笑顔で相づちを打つだけだ。
「詠美」
と、そのときだ。父親が新聞を畳みながら娘の名を呼んだ。
「観鈴ちゃんと友達になりなさい」
「えー」
子供は露骨に顔をしかめる。父親は娘の反応に無頓着に、
「今度、うちに呼びなさい。付き合ってみると、いろいろわかることもあるだろ」
「やだよ、そんなの」
「詠美ちゃん。パパの言うとおりにしてみたら。きっと楽しいわよ。ママね、日曜日にケーキ焼いてあげるから」
孤立した子供は仕方なく、こっくりうなずく。
「約束だからな」
父親の念押しに子供はぷぅとふくれた。そんな娘を優しくなだめながら、母親は、普段はぐうたらにみえる夫も、
言うべきときにはしっかり言う人なのだと心密かに見直した。
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ベランダで満月を見上げていると、懐かしさと共に笑みがこぼれてくる。
「なんだよ。やっと逢えたじゃないか。10年ぶりかよ? ずいぶん待たされたもんだ」
最近は1本百円のものすら珍しくないたばこを取り出し、落とさないよう大事に火を点ける。
最近は1本百円のものすら珍しくないたばこを取り出し、落とさないよう大事に火を点ける。
教師が最初に出席を取ったとき、観鈴、という名を聞いて、父親はひどく驚いた。
それは、思い出の中の金髪の少女と同じ名前だったから。
名前を呼ばれた"観鈴"はごく普通の女の子だったけれど、かつて涙を流した記憶を揺り覚ますには十分だった。
「ホント思いっきり泣いたよなぁ。ずーっと引きずったし。今にしたら馬鹿みたいだけどさ」
ふぅーと煙を吹き上げ、手すりに頬杖を付く。
あの作品は遠い昔のものだった。けれど、自分自身が三十路を超えて家族を持つようになると、
あそこに描かれた物語に、共感めいたものを強く感じずにはいられないのだった。
それは、親としての感情がそうさせるのかも知れなかった。
晴子も観鈴も、みんなほんとうに一生懸命だった。
だからこそ悲しかった。その場に居て、手をさしのべてやれないことが悲しかった。
気が付くと、手にしたたばこはずいぶんと短くなっていた。
父親は慌てて最後に一吸いし、フィルター近くまで灰になったそれを、携帯灰皿に押し込んだ。
うっすらと湿ったまぶたを指でそっと拭うと、父親はまた、優しい笑みを浮かべた。
「今度はいっぱい友達が出来るといいな。観鈴ちん」
白い月が、静かに、煌々と輝きを放っていた。