汐が死んだ。
神様と言うものがいるのなら、その人は俺にそっぽを向いているを通り越し、
嫌っているとしか思えない。
俺は大切なものを、守るべきものを2度も亡くしてしまった。
運命というものに無力な自分が情けない。
俺はもう生きる意味を失ってしまった。
渚が死んだ時は汐がいたから、頑張れた。
汐の笑顔が、何より俺の励みになった。
母がいないという逆境を越えて、明るく、そして強い子に育てたかった。
けれど汐はもういない。
あっちの世界では生前与えられなかった母の愛に包まれて、幸せな生活を送っているのだろうか。
そんなことをぼんやり考える。
―――いっそ、俺もそちらに行こうか。
汐と渚のいない世界になど、価値を感じなかった。
しかし、それは許されなかった。
死は一種の逃避だ。
汐と渚は間違いなく、その人生をまっとうできなかっただろう。
あまりに短すぎる人生。
その果てに見出したものとは何だったのだろうか。
俺は2人の死を受け止め、2人が短すぎた分、生きてゆかねばならない。
そう、理性の上では解っていたが、体は動くことを拒んでいた。
―――お前はもう十分頑張った。もういいじゃないか。このまま2人のところに行こう。
俺の中の生きることを拒んだ悪魔―それは天使かもしれない―が囁く。
こんなことは、ここのところしょっちゅうであった。
仕事にも行かず、ただ家で暗く過ごすだけの日々。
精神的に参るのも当然だった。
日に2回は早苗さんが家に来る。
俺に飯を作りに来てくれるのだ。
塾やパン屋の仕事が忙しいだろうに、合間を縫って毎日来てくれている。
そして、毎回のように励ましの言葉を投げかけてくれる。
早苗さんは強い。
娘と、孫まで亡くしたというのに、俺のようにダメにならずに、生きている。
以前、こんなことを問い掛けたことがあった。
「人は、なぜ死んではいけないんでしょうか」
早苗さんはちょっと考えて、いつもの笑顔で言った。
「悲しむ人がいるからですよ」
「悲しむ人がいない人はどうなるんでしょうか」
早苗さんは一瞬悲しそうな顔をしたが、すぐにいつもの笑顔に戻って、
「朋也さんが死んだら悲しむ人はたくさんいます。
春原さんや、朋也さんのお父さま、おばあさま、私や秋生さんだって悲しみます。
その他にも仕事場の人や、学生時代の旧友の方だって悲しむでしょう。
ですから、そんなこと言わないで下さい」
そう言った。
けれども、立ち直れなかった。
抜け落ちてしまった空白を埋めれるものは恐らくはないだろうから・・・
人は沢山の『想い』を背負う。
夢、願い、理想。
無数の『想い』が人を動かす原動力になるのだろう。
今の俺を動かしているのは渚と汐の『想い』だけであった。
自分から発せられるものはない。
汐は俺に自分の分まで生きてくれ、とは言わなかった。
だが、その『想い』が伝わる、ある形見があった。
それは薄いスケッチブックだった。
そこには汐の『想い』がニュートラルに表れていた。
俺に買ってもらった古いロボット。
オッサンと一緒に遊んだ野球の様子。
早苗さんと一緒に作ったへんてこなパン。
幼稚園で優しくしてもらった杏先生。
一緒に遊んだ友達。
そして、写真でしか見たことの無い母の肖像。
全てがなにも通してなくて、ありのままだった。
それが、俺を悲しくさせた。
しかし、それだけではなかった。
最後のページに覚えたてのひらがなで、一言だけの俺へのあまりに拙い手紙があった。
『ぱぱごめんなさい』
クレヨンの赤で書かれた、読めないような字だった。
汐は自らの死期を悟っていたのだ。
あんなに小さな体で、あまりに短い人生の終わりの予期していたのだ。
それが、どうしようもなく泣けた。
追憶の日々の中、俺はある日、親父のいる東北の故郷への旅を決めた。
俺が汐を育てると決心した場所。
親父が俺を育てる、と決めた場所。
俺たち親子のルーツがそこにある。
あそこに行けば、何かわかるような気がした。
俺は思うが早いか、すぐに支度を始めた。
手早く着替えを詰め込み、いつも持ち歩いている2人の形見を入れた。
今までの俺からは考えられない行動力だった。
早苗さんに出かけることを電話で伝え、俺は駅へ急いだ。
残り少ない貯金で切符を買い、座席に落ち着く。
電車はがらがらだった。
俺の近くには3人家族が座っていた。
しばしば聞こえる家族の談笑。
俺が夢見た家族水入らずの旅行がだぶる。
俺は、2人がいてさえくれれば、よかった。
それなのに。
嫌な事を考えて、再び鬱になるのは嫌だったので、俺は眠りについた。
夢を見た。
俺と渚が初めて会った坂の下のこと。
渚が俺に何か喋った。
あれ?
あのとき、渚は俺になんて言ったんだっけ・・・?
「お客さん」
意識が覚醒する。
「終点ですよ」
駅員が迷惑そうに告げた。
「すいません、すぐ降ります」
俺は鞄を持ってホームに降りた。
ここの景色は変わらない。
一面の花畑。
日は暮れかけている。
俺はそれを横目に見ながら親父の実家へ急いだ。
俺は古びた木造の家へに着いた。
表札は『岡崎』。
親父が生まれた家。
俺は渋い引き戸をがらがらと空けた。
「ただいま」
俺の記憶で言えば、ここに来たことは一度もないような気がしたが、自然と声が出ていた。
奥から親父の母、つまりおれの祖母にあたる史乃さんがやって来た。
「まぁ、まぁ、朋也さん。遠いところをよく来ました。
話は早苗さんから聞いてますよ。
さ、お上がりなさい。直幸も待ってますよ」
俺は促されるまま廊下を進んで、ふと感じた。
この家は温かい、と。
居間にあがると、親父がいた。
「やぁ、よく来たな、朋也」
「ただいま、父さん」
「積もる話もあるだろうが、もうすぐ夕飯だ。話はその時に」
「ああ。わかったよ」
「朋也さんが久しぶりに帰って来たんですからね、腕によりをかけて作りましたよ」
「楽しみです」
史乃さんはちゃっちゃと料理を並べ始めた。
実にうまそうである。
しばらく、ぼんやりとその光景を眺めていた。
料理はとてもおいしかった。
お袋の味、と言うべきか。
史乃さんは台所で食器洗いをしている。
俺と親父は酒を飲み交わしていた。
「父さん。話、聞いてるんだろ」
「ああ・・・汐のことは、不幸としか言いようがない」
暫く黙って飲んでいた。
「俺、どうするべきなのかな」
「なんでおれに聞くんだ?」
「父さんなら、なにかわかるんじゃないかな、って思ったんだ」
男で一つで俺と育てきった親父。
その親父に聞けば俺の道が見えるような気がした。
「おれと朋也は別の人生を歩んでる。
確かにおれが敦子を事故で亡くしたのも、おまえが渚さんを亡くしたのも、境遇が似ているがな」
ぐいっと酒を飲み干して、親父は話を続けた。
「決定的に違うのはおれはお前を死なせていない。
おまえは汐を病気で亡くしてしまった。
それが最大の違いだ。
朋也、お前は守るべきものを失ってしまった。
だから、生きる気力も欲も無くなってしまったんだよな?」
「そう、だね・・・」
この人はどれだけ俺のことを理解してくれているのだろう。
全て図星だった。
「生きる目的を失ってしまった人間が再び前に進むには何かを棄ててしまわなければいけない。
おれはそう思うよ。
おれは敦子を失って、お前と同じように途方に暮れた。
けど、まだお前がいたんだ。
俺は決めたよ。お前だけは、おれの手で育てきってみせるって。
そのためには、いろんなものを棄てなきゃならなかった。
お金、運、仕事・・・敦子への想い。
でもな、朋也。なにも本当に棄てろと言ってるわけじゃない。
敦子のことだっておれは今でも愛している。
ちょっとだけ、忘れるんだよ」
「わす、れる・・・?」
「ああ。おれもお前もそんなに器用な人間じゃない。
でもな、不器用は不器用なりにできることがあるんじゃないか。
お前は今でも汐の死を引きずっている。
渚さんのことだってお前のことだからずっと枷になってるんだろう。
だから、忘れる。前に進むために」
息を呑む。
なぜこんなに親父は俺のことをわかっているのか。
「汐と渚さんだって、お前が生きてるのが一番幸せだろう。
自殺なんかしてみろ、それこそ浮かばれない」
それを少しでも考えていた自分が情けない。
「時間が解決してくれることもあるだろう。
渚さんのときはそれでよかった。
けど、今回は違う。お前は決定的に壊れてしまった」
その言葉が胸に突き刺さる。
「これから前に進むか、このまま殻に閉じこもるか。
それは朋也の自由だ。
けどな、これだけは言える。
お前は何かを棄てなければ進めない」
そう言って親父は立ち上がった。
「酒が回ってきたよ。もう寝るな」
「父さん・・・!」
「朋也、あとは自分で考えるんだ」
そう言って寝室に行ってしまった。
「俺は・・・」
頃合を待っていたのか、史乃さんがやって来た。
「全く、直幸も一丁前に説教できるほど偉くないでしょうに」
「史乃さん、俺は、どうするべきなんでしょうか・・・」
史乃さん優しく笑って、
「朋也さん、それを決めるのはあなた自身ですよ。
ですが、わたしに言えるのは、忘れる、ということは悪いことではないと思います」
「忘れることは、悪くない・・・?」
「ええ。人は変わり続けるものです。人は全ての記憶を憶えてはいられません。
だから、忘れます。もちろん、愛した女性や娘を忘れないのは素晴らしいことだと思います。
ですが、朋也さん、渚さんと汐は何を望んでいるのか。
それをよく考えて下さい」
「渚と汐が、望むこと・・・」
「わたしに言えるのはこれくらいです。
さて、明日は早いんでしょう?早めに寝なさいな」
俺は釈然としない気持ちのまま、寝室に促された。
俺は布団の中で考えていた。
「渚と、汐の、望むこと・・・」
考えれば考えるほど頭がこんがらがる。
あと少しで答えは出そうなのに。
その少しを導き出す決定的な『何か』が欠けていた。
考えろ。
答えはきっと出るはず。
・・・
しまった、酒が回ってきた。
考えなきゃ、考えなきゃ、だ、めなのに・・・
俺の意識は遠のいた。
夢を見た。
俺と渚が出会った坂の夢。
昨日も見たような気がする。
『この学校は、好きですか』
『えっ?』
俺に言ってるのではなかった。
『わたしはとってもとっても好きです。
でも、なにもかも・・・変わらずにはいられないです。
楽しいこととか、うれしいこととか、ぜんぶ。
・・・ぜんぶ、変わらずにはいられないです』
待て、なんと言った?
『おい、渚、いまなんて・・・』
渚は振り返って微笑んで、
『朋也くんは、変わらずにあり続けるんですか?』
『・・・』
『朋也くん、つまらない日常が好きですか?』
『好きなはず無い』
『なら、答えは出てるはずです。大丈夫、わたしもしおちゃんも朋也くんのこと見守ってます。
だから、次の楽しこ・・・』
・・・
目が覚めた。
答えは、既にあったんだ。
俺は史乃さんからと親父の過去を聞いたあの景色のいい崖に来ていた。
決意は固まっていた。
一息ついて、誰もいない崖の上で俺はここにはいない2人に語り始めた。
「渚、汐。
俺さ、決めたよ。
もうちょっとさ、頑張ってみる。
お前たちがいない世界はさ、つまんないけど、俺は前に進まなきゃだめなんだよな」
返答はない。
「わかってた。
自分の世界に閉じこもって日々を過ごしてもお前たちは帰ってこないって。
でもさ、俺、お前らがいないと、頑張れなかった。
生きがいを見つけれなかった」
独白は続く。
「けどなにも、なにもかも・・・変わらずにはいられないんだよな。
渚、お前と初めて会ったときに答えはもう出てたんだ。
今まで気付かなかったなんか皮肉なもんだよな」
次の一言を言ってしまえば・・・
いや、もう決めたことだ。
「みつければよかったんだよな」
言った。
「次の楽しいこととか、うれしいことを見つければいいだけだったんだな。
俺の楽しいことや、うれしいことはひとつだけじゃなかった。
今まで以上の楽しいことや、うれしいことを見つけるのは大変かもしれない。
けど、俺、頑張ってみつけてみるよ」
答えは出会いにあった。
俺と渚の出会いは素晴らしいものだと誇れるように。
「だから・・・」
俺はこれから、2人に背く。
「俺、お前たちのことちょっとだけ、忘れるな。
俺馬鹿だからお前たちのこと背負ってると生きていけそうもない。
だから、ちょっとだけ、そう、また俺がこの場所に来て、気持ちの整理が出来るようになるまで。
落ち着いたら、きっと、きっと来るからさ。
いい・・・かな?」
風が吹いた。
「そう、か・・・ありがとう」
そう言って俺は鞄の中から2人の形見である、汐の帽子と渚の髪を束ねていたリボンを取り出した。
そして、それを海に投げた。
不思議と涙は出なかった。
俺は昇り始める。
長い、長い坂道を。
以上です。
汐エンドで、朋也が幻想世界に行かずに、そのまま残った場合、どうなるか。
朋也の苦悩と成長を書いてみました。
このSSに関して言えば、賛否は分かれると思いますが、
作者なりの答えと解釈して頂ければ幸いです。
直幸パパが妙に父親らしくなったのは、作者がこうなったらいいなぁー、という妄想です。勘弁。
このSSを読んで、なにか感じて下さったなら、嬉しいです。
感想お待ちしてます。