あの事件からしばらくたった。
太田さんはたくましくも学校に復帰し、真面目な一生徒として勉学に励んでいる。
最初はみんな遠巻きに見ていた感じだったが、授業中に叫んだりしないし、言動におかしいところもないので、
誰もあのことには触れぬまま、いつしかクラスに馴染んでいた。
もちろん藍原さんも彼女の支えとなって、仲睦まじく過ごしているようだ。
時折、一線を越えているだの何だのと妙な噂も流れてくるが、僕は見てない聞いてない。
しーちゃんと透子さんの関係に似てるよね、なんて思ったりしていませんってば。
そんなこんなで季節は過ぎ、僕は進級し、クラス替えもあり、今、授業を受けている僕の隣には――、
「なに考えてるの、長瀬ちゃん?」
と、小声で囁いてくる瑠璃子さんがいるわけだ。
「あ、ううん、なんでも」
「そう?」
ふわりとした瑠璃子さんの笑顔。
僕はもう、授業中に危険な妄想に興じることはない。
瑠璃子さんは妄想の中ではなく、手を伸ばせばすぐ届く距離にいるから。
体温も息づかいも感じられるし、僕の視線に気づけば笑みを返してもくれる。
そう、瑠璃子さんは帰ってきてくれた。
元々、儚い雰囲気を持つ人だけに、また僕の妄想なんじゃないかと疑って、
髪に触れ、頬に触れ、その温かさを感じて、やっと現実だと認識したくらいだ。
帰ってくるなんて思わなかったから、僕は当然その再会を嬉しく思ったし、瑠璃子さんもそれは同じだった。
感激のあまり、思わず抱きしめてしまったことも、若さ故と理解して欲しい。
今も思い出せばはっきりと、瑠璃子さんの柔らかい感触が腕の中に――。
と、甘美な記憶に身を浸していたとき。
僕の背中に、錐のように鋭く尖ったプレッシャーが突き刺さった。
左斜め後方。僕のいる教室中央からはやや離れた、窓際最後列という誰もが羨むベストポジション。
そこには沙織ちゃんがいるのだ。
恐る恐る振り向くと、燃える怒りのオーラが、背中に立ち上っているのがはっきり見える。
愛想笑い混じりに小さく手を振ると、そっぽを向いてしまう。
その横顔も赤く染まっているのが、またかわいいのだけれども。
……説明せねばなるまい。
えー、合意の上でないとはいえ、色々してしまった僕と沙織ちゃんは――まぁ僕としては役得と思わないでも――げほごほ。
そのなんだ。電波で記憶は消したはずなんだけど、沙織ちゃんの心の奥になにかが残っていたのかいないのか、
ほどなくして僕たちは話す機会を持ち、僕も例の件があるから少し心配で、色々話したりしているうちに親しくなった。
と言っても、友達の領域を出るものではなかった……はずなんだけど。
正直、僕は女の子との接触経験が少ないから、親密さの度合いがよく分からない。
よし、沙織ちゃんとの行動の数々を思い返し、分析してみよう。
誘われて、バレーの応援に行きましたか? イエス。
学校帰りにヤクドによったりしましたか? イエス。
2人仲良く映画などを見に行きましたか? イエス。
それを世間一般ではつき合っていると言いませんか? もちろん……イエス。
しまった。
いや、むしろ困った。肯定してどうする僕。
もちろん、沙織ちゃんが彼女として不足とか不満とかそういうわけではない。
僕とは正反対の、元気で明るい前向きなスポーツ少女。
時に振り回されることもあるが、それはそれで楽しかったりもする。
と思いきや、意外と奥手で純情で、赤くなってもじもじしてたりしてるとたまらんですよ旦那。
顔ももちろんかわいい方だけど、なによりも魅力的なのはくるくる変わるその表情だ。
だけどその分、感情の振幅も激しく――。
久しぶりに屋上で瑠璃子さんと再会し、抱き合っている瞬間を、偶然沙織ちゃんに目撃されたあの時。
突如、沙織ちゃんの瞳で燃えさかった、嫉妬という名の激しい炎。
そう、あの日僕は、人生初めての修羅場を迎えたんだ。
「……えっと、月島さんだっけ?」
疑いと嫉妬と行き場のない怒りとを混ぜ込んだような沙織ちゃんの声色。
睨みつけるような視線は、瑠璃子さんの体に回された、僕の手の甲を貫いていた。
慌てて手を離すと、今度は少し困り顔になってしまった瑠璃子さんに罪悪感が。
「長瀬ちゃんのお友達?」
沙織ちゃんは瑠璃子さんのことを知っていたようだけど、瑠璃子さんは沙織ちゃんを知らなかった。
それもまた沙織ちゃんのなにかを刺激してしまったらしい。
「<<祐くん>>の……友達の、新城沙織です」
なぜか強調表現される祐くんという愛称。
だけど彼女とは断言できないところが微笑ましい。
それはもちろん、2人の間には約束も誓いも関係も、結ばれていなかったからだけど。
「そうなんだ」
瑠璃子さんは笑顔で受け流しているけど、分かっているのかいないのか。
襲いかかる怒りのオーラをさりげなく電波の壁で受け流している。
「あ、こ、こちら月島瑠璃子さん。去年、僕とクラスメートで……」
「よろしくね」
瑠璃子さんはぺこりと頭を下げた。
「……っと、よろしく」
丁寧な挨拶に、戸惑いながら沙織ちゃんも軽く一礼。
その様を瑠璃子さんは微笑みながら見ていた。まさに本妻の余裕だ。
なにせ沙織ちゃんとは、えー……口までで、しかもその記憶は沙織ちゃんの中からは消えてしまっているが、
瑠璃子さんとは完全に合意の上で、いくところまでいってしまっている。これは強い。
沙織ちゃんは瑠璃子さんが姿を消していた間に、僕と交流を深めているというアドバンテージがあるが、
やはりゼロからの再出発となってしまったのはきつい。
って、のんきに解説している場合じゃない。
無言で牽制の火花を散らす2人の間で、なにか共通の会話と言えば……僕自身のことくらいしかない。
しかしその話題をこの場で口にするのはあまりに危険だ。
僕の制服を掴んだままの瑠璃子さんに対抗するように、歩み寄り、僕の手をぎゅっと握りしめる沙織ちゃん。
よく考えたら、こういう風に手を握られるのは生まれて初めてだった。
力が籠もっているのに柔らかい、不思議な感触にぼーっとしそうになる。
すると、瑠璃子さんは触れていただけの体を微かに傾け、僕に体重を寄せた。
僅かな重みと温もりと柔らかさ。そして制服を掴む小さな手のひら。
もっと凄いことをしたはずなのに、なんでこのような状況だと、些細な接触に鼓動が高鳴るのだろう。
だがしかし、2人は僕と同じ幸せモードに突入するどころか、ますます対抗意識を燃やしているように見える。
そして2人の腕に込められた力は、心なし徐々に強くなっていっているような――。
助けて大岡越前。
――第一次修羅場大戦は、タイミング良く鳴り響いたチャイムによって中断された。
ほっとけばいつまでも続きそうだったけど、瑠璃子さんが名残惜しそうに体を離すことで、ひとまず休戦状態となる。
ほどなくして春休みに突入し、結論を先延ばしできたことにほっとしつつ、短い平穏な日々を享受する。
そして、久しぶりに学生服に手を通したその日に、新しい教室で僕は2人と再会したのだった。
その時以来、僕を挟んだ第二次修羅場大戦が開戦直前の雰囲気を維持している。
なにかきっかけがあれば思わず引き金を引いてしまいそうな、緊張感を孕んだ、オーラと視線と電波による牽制合戦が恐い。
沙織ちゃんも瑠璃子さんも、単独では気のいい女の子だと思う。
だけど――特に沙織ちゃんは、後から現れた(ようにしか見えない)瑠璃子さんに、なにかと対抗意識を燃やしている。
僕と親しげなことも、学年で群を抜く美少女だと名高いことも、いつも静かに微笑んでいることも、
どうにもこうにもなんだか良く分からないけど苛立つのっ……らしい。
ほとんど言いがかりのような感じもするが、恋する乙女の前にはどんな理屈も無力だ。
ただ沙織ちゃんなりの仁義?があるのか、僕と瑠璃子さんが話していても、そこに割り込むようなことはしない。
遠くから睨むだけで。
逆に、瑠璃子さんは何も言わないし何も求めない。ただ、時折じっと僕の目を見つめる。
動揺した僕が「な、なに?」と問い返すと、「見てるだけだよ」と言ってくすくす笑う。
ただ見ているだけでも楽しいし、そんな些細なやり取りはもっと楽しい、らしい。
そしてそんなことをしていると、沙織ちゃんからはいちゃついているようにしか見えないわけだ。
さらに、翌日行われた席替えで……今の席に収まったことが、沙織ちゃんの嫉妬の炎に盛大に油を注いだ。
レートからすれば、沙織ちゃんの席は教室中央部とトレードするに十分なものだったが、
担任が不正を許さないお堅い性格だったため、それもままならなかった。
そして、うっかり教科書を忘れたりしようものなら、もう大変だ。
ベキ。
こんな感じで、鉛筆の折れる音がする。左斜め後方から。
僕の心労は絶えない。
ただ、沙織ちゃんも、そういう風に瑠璃子さんを敵視してしまうのは、けして本意ではないそうだ。
『ホントだよ』
受話器の向こうの沙織ちゃんは、やや弱気な口調で言う。
ベッドの上でしょぼーんとしている沙織ちゃんの姿が目に浮かぶ。
不思議とこういうことは、顔を合わせるよりも、電話の方が上手く言えるものらしい。
「うん、分かってる」
『あのね……自分でも、よく分からないの。なんだか、イライラするって言うか……かーっとなっちゃって、
ああいう態度取っちゃうけど、祐くんはもちろん、月島さんのことも嫌いってわけじゃないの。
ただ、あの……』
沙織ちゃんらしからぬ、はっきりしない声。
自分でもうまく気持ちをまとめられない焦燥感とかが伝わってくる。
『えーと……だから、その……イヤな子だって、思わないでね』
「大丈夫」
むしろ沙織ちゃんの、意外に可愛らしい側面を見られたとさえ思う。
「瑠璃子さんも、沙織ちゃんのことを嫌ってなんかいないと思うよ」
『うん、いい人だよね……あたしが怒っても根に持ったりしないし』
「うん」
『あたしも、仲良くできたらなぁ、って思う』
「うん」
『美人だし』
ぐっ。危うく頷き返しかけた。
どことなく皮肉が混じっているように聞こえたのは、僕の気のせいですか沙織ちゃん。
『うん』と返していたらどうなっていたことやら。
沙織ちゃんは忍び笑いして、
『あのねあのね、それで次の日曜日なんだけど……』
バレーの試合があるから、応援に来て欲しい、というお誘いに、僕はこう答えた。
「瑠璃子さんも、一緒でいいよね?」
沙織ちゃんは、ほんの一瞬ためらって、
『……うん、もちろん』
中途半端な元気で答えた。
やっぱり色々複雑みたいだな、と思いつつ、電話を切った。
僕としては、2人に仲良くなって欲しい。太田さんと瑞穂ちゃんくらいまでとは言わないけど。
そりゃあ、どうせなら2人とも仲良くおつきあいをしていきたいという欲望もないではないが、
やっぱりクラスメートだし、仲違いするようになっては悲しい。
だけど具体的にはどうすればいいのかはよく分からない。ましてや女の子同士。色々複雑だ。
男同士だったら殴り合ったりして友情が芽生えることもあるのに。
――芽生えるか?
僕は月島さんと自分が殴り合っているところを想像し、拳で友情論を却下することにした。
なにせ友情というものに関してはもっとも縁遠い僕だ。
自慢ではないが、携帯の登録件数が極度に少ないことからもそれは窺える。
沙織ちゃん、瑠璃子さん、瑞穂ちゃん……って、あの事件関係者がほとんどなのか……。
空しくジョグダイヤルをくるくる回して……はた、と一件のナンバーに目が留まった。
あまり親しくはないけど、歳も近いし、相談にくらい乗ってくれるだろう。
「自慢?」の一言で切られるかも知れないけど。
僕は今までろくにかけたこともなかった、そのナンバーを呼び出した。
『――はい』
「あ、彰兄さん? 祐介ですけど」
『祐介君?』
電話の相手は親戚の七瀬彰さん。僕とはやや遠縁だけど、おとなしくて内向的な性格は、僕に似ている。
良くある親戚の集まりで何度か会ったくらいだけど、歳が近くて話の合う人はこの人だけだった。
恋愛とかには弱そうだけど……頼れそうな相談相手、と言うと、他に思いつかない。
『どうしたの?』
「実はちょっと相談があって……2人の女の子が、僕を巡って微妙に対立しているのですがどうしたらいいと思います?」
『……自慢なら切るよ』
「ああ、待って待って!」
僕はどういう経緯で知り合ったかをぼかしつつ、かいつまんで事情を話した。
『……やっぱり自慢じゃない』
僕もそう思います。
「いや、でも本当に困っていて……」
『僕だってそういうの疎いんだけど……』
「あ、やっぱり」
『――切っていいよね?』
「ごめんなさい、切らないで下さい」
『まったく……』
そういいつつも切らないでいてくれるのが、この人のいいところだ。
『……それで、祐介君はどっちが好きなの?』
「え?」
『だって、それが一番大事じゃない?』
言われてみれば。だけど、どっちも選べないと言うか、どっちも選びたいから仲良くして欲しいと思うわけで。
『……やっぱり切るね』
そんなこと言われても。じゃなくて。
「いや、でもとりあえず恋人づきあいとかは置いておいて、対立関係をまず解消しておきたいと……」
『だけどその対立も、祐介君がはっきりしないから起きているんじゃないの?』
ぐ。痛いところを突かれた。
彰兄さんはため息をつくと、諭すように語り始めた。
『僕の知り合いにもそういう人がいてさ、まだ破綻していないけど……やっぱり色々苦労しているみたいだよ』
はぁ、そうですか。やはり世の中そんなに甘くないみたいだ。
『二兎を追うもの一兎を得ずって言うし、どちらか一人を選んだ方がいいと思うけど……』
そうだなぁ……今はいいけど、その内エスカレートしていって、あげくに愛想を尽かされちゃったりしたら……。
『絶対に周りの人が傷つくんだからさ』
妙に感情のこもった声には、強い説得力があった。
「わかりました、考えてみます」
『うん、それじゃあ――』
電話は切れた。でも、解決策を得られたわけじゃなかった。
彰兄さんの言っていることは正しい。正しいけど……それで選べれば苦労しないから、対処法を聞いたのに。
「どっちが好き、か……」
神様、今までもてたことのない僕にとって、それはあまりに過酷な選択です。
次の日曜日。
待ち合わせていた駅前では、ちょっとおめかしした瑠璃子さんが待っていた。
暖かい色のブレザーに、ニット帽を頭に乗せている姿が凶悪にかわいい。
「今来たとこだよ、長瀬ちゃん」
見とれていたら、先手を取られた。おかげで誉め言葉を挟むタイミングまで逃す。
「あ、うん。ごめんね、待たせちゃって」
「だから待ってないよ」
瑠璃子さんはくすくす笑う。
「あ……あはは、行こうか」
「うん」
電車に乗って揺られること数駅。さして大きくもない街だが、何度か来たことがあった。
試合会場の某高校体育館は、駅から歩いて数分。
体育館にはすでに沙織ちゃん達は到着していて、練習を始めていた。
ボールが床に叩きつけられる音が、四方八方から鳴り響いていた。
僕たちが角の辺りに陣取ると、顔見知りのバレー部員と目があった。
会釈すると目を見張り、少し意地の悪い笑みを浮かべた。
えーと、すみません。
なにか誤解というか、いえ、誤解しかしようのないような状況かもしれませんが、それでも誤解してませんか?
彼女は沙織ちゃんの肩をつついて、僕たちを示した。
気づいた沙織ちゃんが手を振る。少し引きつった笑顔で。
やがて試合が始まった。
最初は僕たちがいる側が沙織ちゃん達の陣地。ほとんど背中しか見えない状況だ。
しかしこうして見ていると、ブルマというものが教育上悪いというのもなんだか分かるような気がする。
目が行きます。どうしても。どこにとか聞かないで。
「凄いね」
「え!? いや、なにが?」
「今のスパイク」
あ、なんだ。って、試合も見ずにどこを見ているんだ僕は。
なんでもこの学校は強豪校らしく、沙織ちゃん達はやや苦戦気味。
「なんだか、新城さん、あんまり集中できていないみたい」
そうだね、どうもミスが目立つし、いつもよりもジャンプが低いような気がする。
時折不安そうに、ちらりと僕たちを見るし……あ、それが原因か!?
気づいたときには遅く、沙織ちゃん達は善戦はしたものの、一セット目を落としてしまう。
ここでコートチェンジし、沙織ちゃんのサーブから二セット目が始まる……って、え?
「瑠璃子さん?」
きゅっと、僕の腕を瑠璃子さんが掴んだ。
途端、対戦チームの人達が一瞬びくりとするほどの殺意じみた闘志が、沙織ちゃんから放出される。
「どーーーーーーりゃあーーーーーーーっ!」
勇ましすぎる掛け声と共に放たれたジャンプサーブは、凄まじい勢いでネットを越え、
それでもバレー部員の本能か、きっちりコートの隅を直撃し、高く跳ねて僕のところまで飛んできた。
危うくキャッチするが、両手で挟んでいる間も、なにか凄い音を立てて回転している。
一瞬、静まりかえる場内。
その呪縛を打ち破ったのは、審判の吹いたホイッスルだった。
「効果抜群、だね」
「あはは……」
瑠璃子さん、僕の寿命が縮むんですけど。
怒りゲージマックスになった沙織ちゃんは、必殺の『火の玉スパイク』が冴えに冴え、
さらには『火の玉サーブ』も『火の玉レシーブ』も、親の敵とばかりにコートを縦横に貫いてゆく。
って、レシーブにはあんまり火の玉関係ないような。
セットごとに、沙織ちゃんから見えるように居場所を変える瑠璃子さんの策が功を奏し、終わってみれば3-1の快勝。
チームメイトは沙織ちゃんを褒め称え、瑠璃子さんも笑顔で拍手を送る。
そして僕は身の縮む思いをした。
「勝てて良かったね」
「そうだね、あはは……」
でもなんだか後が恐い、と思っていたら案の定、チームメイトの輪から抜けてきた沙織ちゃんが、据わった目つきで、
「校門で待っててね」
と、有無を言わせぬ口調で宣告した。
「はい……」
言われたとおり、校門でしばらく待っていると、チームメイトを置き去りにした沙織ちゃんが駆けてくる。
「抜け出てきて大丈夫なの?」
「いいのっ!」
沙織ちゃんは強引に僕の腕を取って歩き出した。
大丈夫かなぁ、と後ろに目をやると、みんな腹を立てるどころかニヤニヤしてこっちを見ていた。
無責任な励ましや、冷やかしの声すら聞こえる。
きっと明日には、色々噂が流れるんだろうなぁ……。
瑠璃子さんは別に奪うでもなく、自然に腕を絡ませる。
僕は引きずられるようにして、2人の美少女に連行されていった。
――さて、どうしたものか。
だが、この長瀬祐介、こんな事態を想定して、多少の策は考えておいた。
三人切りだからいけないのだ。間にもう一人挟めばクッションになって、多少は緩和されるはず。
まさか、今日の試合が偶然、彰兄さんの住む街で行われていたとはお釈迦様でも思うまい。
こうして否応なしに彰兄さんを巻き込みつつ、なんとか取り直してもらおうという作戦だ。
そんなわけでやってきたのはここ、『喫茶・エコーズ』。彰兄さんがバイトしている喫茶店だ。
両親に紹介するわけではないが、僕の身内だ、きっと沙織ちゃんも普段よりおとなしくなるに違いない。
ひょっとしたら痕の耕一×梓×かおりのような状態になって、彰兄さんが気まずい思いをするかも知れないけど。
あったあった、この店だ。
「いらっしゃいませ」
……あれ? 彰兄さんじゃない?
「えーと、すみません。こちらで七瀬彰さんが働いていると思うんですけど……」
「七瀬ですか? 今日は来ていないんですけど……なにか言づてがあるなら、承りますが」
しまった、想定外の事態だ。
「あ、なんでもないです」
くっ、不意を突いて、逃がす隙を与えまいと考えたのが徒になったか。
こんなことなら素直に話して、待っていてもらえば良かった。
拳を握って立ちつくしていると、瑠璃子さんが袖を引く。
「長瀬ちゃん、とりあえず、座ろう」
「え?」
ウェイターのお兄さんが、急に声を上げた。
「あの、長瀬って言っていたけど、彰の親戚かなにか?」
「あ、はい。長瀬祐介です。兄さんと、ここのマスターとは遠い親戚で」
「そっか。でも悪いけど、今マスターもいないんだよなぁ」
「いえ、別に約束していたわけじゃありませんでしたから」
「今日はちょっと忙しいから、俺が代わりに相手するってわけにはいかないけど……ゆっくりしていってよ」
ウェイターさんは営業スマイルとはちょっと違った笑みを浮かべ、仕事へと戻った。
さて、困った。
その日エコーズは混んでいた。
テーブル席は全部埋まり、後はカウンターに席が3つ……ただし、並んで座れる席は、2つまで。
後の一つはお客さん2人を挟んだ向こうだ。
瑠璃子さんと沙織ちゃんが、左右から僕の顔を覗き込み、無言で「どっち?」と聞いてくる。
「えぇと……2人がこっちに座って……」
「だめ」
こんな時だけ息を合わせなくても。
一緒に座るのが嫌なわけではなく、この際どっちを取るかはっきりしてほしいと瞳が訴えている。
さぁ、どうする? どうする、長瀬祐介……っ。
と、その時、座っていた女性2人組の片方が席を立ち、隣の空席に移ってもう片方の袖を軽く引いた。
引っ張られた方は、ちょっとぼけた感じで「?」と首を傾げていたが、
ようやく僕たちに気づいて「ごめんなさい」と言って、横にずれてくれた。
やたらと綺麗で印象的な2人……あれ? どこかで見たような。
一人は室内なのに、サングラスをかけていてよく分からないけど……。
「ありがとうございます」
と瑠璃子さんが頭を下げ、慌てて僕もお礼を言って座った。
はふぅ。
ピンチの後にはチャンス有りと誰が言ったのか。
「良かったね、勝てて」
「……別に、ただの練習試合だもん」
チャンスどころか、僕を挟んで飛び交う舌鋒の応酬。
「それはないよ、一生懸命応援したのに」
「ただ祐くんとくっついていただけじゃないっ!」
せっかく親切なお姉さんたちが気を利かせてくれたのに、まだまだ火種は残っていたようだ。
「うーん、作戦だったんだけど。大成功だったし」
「作戦? 大成功? なにが?」
僕は無駄にコーヒーをかき混ぜながら、なにかうまい話題転換はないかと脳細胞をフル回転させる。
「あのね……」
「なっ……そんなの応援って言わないっ!」
フォローを入れてるかのような瑠璃子さんの発言は、ますます沙織ちゃんを怒らせてしまった。
「いけない、いけない、怒らせちゃったよ」
「怒るよっ!」
「ちょっと沙織ちゃん。そんな大声出したら……」
「祐くんは黙っててっ」
「はい……」
僕、弱すぎ。
でも、沙織ちゃんは浮かせかけていた腰を落ち着かせ、うつむいて――沈んだ横顔で呟く。
「やっぱり……やっぱりね、どうしても、だめだよ。月島さんと祐くんが仲良くしてると、すごく、胸が苦しい。
二人を見ていると、嫌な気持ちがどんどん膨れあがって、おかしくなっちゃいそうだよ……。
そんな風にイヤな子になったら、祐くんに嫌われるかも……って思うのに、止められないの」
「沙織ちゃん……」
僕は、自分が沙織ちゃんをこんなに不安にさせていたなんて知らなかった。
胸が痛むけど、でも沙織ちゃんは僕の何倍も、辛かったんだろうと思う。
なにか言いたくて、でも言えなくて、自分の不甲斐なさを苦々しく思うだけ。
沙織ちゃんの手が、きゅっと胸元のリボンを掴む。
「だって……あたしは祐くんが好きだから、あたしのことも好きになって欲しい。でも……」
沙織ちゃんが真っ直ぐに瑠璃子さんを見た。瑠璃子さんはその視線を受け止め、寂しそうに笑う。
「私も、そうだよ」
「え?」
「長瀬ちゃんが、新城さんのことをいつも心配しているの見て、いつも寂しく思ってた」
「……」
「だって、私はそばにいるのに、遠くの新城さんを見ているんだもの」
――ああ、そうか。僕は確かに、瑠璃子さんがそばにいることに、安心していたような節がある。
いつも微笑んでくれているから、それだけで瑠璃子さんが満たされていると、勘違いしていたんだ。
「宙ぶらりんのままが一番辛いよね」
「――そうだね、ホント」
沙織ちゃんは泣き笑いのような表情で、同意した。
……はっ。いつの間にか2人が意気投合している。
これは僕が望んだ展開に違いない。だけど前以上に追いつめられているような気がしてならない。
これじゃ答えを出せずに、2人を泣かせている僕が極悪非道じゃないか。
だけど、2人の想いを知ってしまうと、それはそれで片方の思いを踏みにじるということが非常に困難だ。
僕は左右からの視線を感じつつも、どちらに合わせることもできないままでいた。
ひょっとしてこのエコーズは鬼門どころか大殺界クラスだったのではないだろうか……。
その時、パァンと高い音が、店内に響いた。
喫茶店全ての視線がそちらに向く。
その音は沙織ちゃんの真後ろ……さっきのお姉さん達が発したものだった。
「どうして……どうして、私と冬弥くんのこと知っていたくせに……この、泥棒猫っ!」
またパァンと平手が頬を叩く音。だが、今度はやられた方もやり返す。
「どうして、いつも……あなたのものなのよ! いつもいつも……こんな天然あーぱー娘にっ!」
男の僕でも、喰らったら吹っ飛びそうな平手が頬を直撃する。
だが、彼女は踏みとどまり、相手をきつく睨みつけ、もう一発反撃の平手。
その後はもう、無茶苦茶だった。
「地味っ!」「ブラコンっ!」「落ち目っ!」「ぽっと出!」「寝取られっ!」「高校中退っ!」
連続して響く、平手の乾いた音。その合間に挟まる罵詈雑言。
「2人とも、落ち着いて……」
ウェイターさんが慌てて2人を止めようとするが、
「どっち!」
どうやら当事者だったらしく、2人に選択を迫られる。
ウェイターさんは言葉に詰まり、そして――僕達は本当の修羅場というものを目の当たりにした。
外はすっかり暗くなっていた。
「ああは……なりたくないね」
「そうだね」
瑠璃子さんと沙織ちゃんがしみじみ頷く。
人のふり見て我がふり直せとはよく言ったもので、あの惨状を見た後では、ああはなるまいと誰しも思う。
僕だってまっぴらごめんだ。
「ねぇ月島さん。とりあえず……気持ちの整理をもう少しつけるまでは、休戦、ってことにしない?」
「いいよ。私達と言うよりは長瀬ちゃんの気持ち次第だと思うけど」
「……善処します」
「あははは。――そうだね、私も、どっちにしても、2人と気まずくなるのは嫌だし、しばらくはこのままでいいや」
「うん。それじゃ、仲直り」
瑠璃子さんが手を差しだし、沙織ちゃんは、少し照れながら、その手を握った。
僕はと言えば、両方の腕は2人に掴まれて動かせなかったので、ただ見守る。
「よかった。あのお姉さん達に触発されて、2人が大喧嘩始めたら、僕じゃ止められない」
「やだなぁ、人前でそんなことしないよ」
「そうだよ」
店内で、あの二歩手前くらいまでは行っていたような気もするけど……。
沙織ちゃんは絡めた僕の腕に頬をよせた。
「やっぱり恋人とか恋愛とか、私達にはまだ早いのかな……いつかは結論出さなくっちゃいけないんだろうけど」
「とりあえず、受験が終わるまでは、解答を保留したいな」
「うあ、そんなものもあった……」
沙織ちゃんが頭を抱える様に、僕と瑠璃子さんは笑った。
「このままこうして三人で仲良くできたら、一番いいけど……」
瑠璃子さんが星を見上げながら、しみじみと言った。
沙織ちゃんも同じように空を見上げ、同意したいのか否定したいのか、複雑な顔を見せる。
僕も同じ星を見上げながら、考えた。
……一夫多妻制を認めている国って、どこだったかなぁ。
かくして2人の間には休戦協定が結ばれ、僕の心労も軽減したはず、だったけど。
「っと」
ころんと机の上から転がり落ちた消しゴムを、瑠璃子さんが拾い上げる。
「はい、長瀬ちゃん」
「あ、ありがと」
瑠璃子さんの指が微かに触れ、くすぐったさが手のひらの上を掠めてゆく。
それだけでなんとなく幸せな気分になれる。
そんな僕の脳天気な空気を嗅ぎ取ってか、
ベキ。
今日もまた、鉛筆の折れる音が聞こえる。