482 :
楓:
その者は、俺が我が家の木戸を開けると、土間に、ちょん、と座していた。
「…………」
家には妻しかいないはずだ。もし家内にしても、ようすがおかしすぎる。
もとより家内にしては、その影は小さすぎた。
ふたまわり、いや三まわり下か。それほどに小さい。
日は落ちきり、暗い土間で黒い影の塊となって見えるそれが何者か、しばし立ち止まったあと、俺はゆっくりと近づいてたしかめようとした。
そして……。息を呑んだ。
脳が痺れた。
胸に、木刀で打たれたような痛みが走った。どくんと心の臓が揺れたのだ。
「…………エディフェル…………?!」
黒い直毛。
白い肌。
切れ長の目。
長いまつ毛。
通った小さな鼻。
それは、死んだはずの。
「エディフェル……っ!」
そうか?
果たしてそうか?
かつて何度も間近に見た。
かつて何度も口づけた。
そしていまは夢に見る。
数えるあたわぬほど。
俺が……この俺が……見紛うはずがなかった。
「エディ…フェル…」
南蛮語のような彼女らの音は、俺たちには難しい。俺の発している音は当時もいまもおそらく“えぢへる”に近い。
だが、何年かぶりに、二度とは呼べぬと思ったその拙い音を、死んだはずの思い人の名を、俺は呼んでいた。
彼女は、俺のほうを見ず、じっと座したまま前をみつめていた。
483 :
:03/10/31 11:20 ID:dgtv2ovt
ただ……。
俺は、まばたきをした。
我が目を疑ったからだ。
目の前の彼女が信じられぬからばかりではない。
身体が小さすぎる。それに、幼なすぎる。
成人していた彼女とは比ぶるべくもない、ちんまりした姿。
さらに、幼形にしても極端に小さいと思われる。
村の子らと比べても、この見た目の年で、この小ささは、少し、人間離れしている。
そして彼女には、耳があった。
あの彼女らの徴(しるし)とも言うべき、先のとがった耳ではない。
頭からぴんと立った、ふさふさと毛の生えた。
猫のような、耳──
夢か現(うつつ)か。
俺は、惑った。
起きているつもりで夢を見ているのか。
或いは気ぶれでも起こしたか。
物の怪(け)にたばかられてでもいるのか。
だが目の前のエディフェルはいっこうに消えずにその場に在り続けているし、近寄っているから、かすかに呼吸の音や胸の上下しているのまでわかる。
とても夢だとは思われない。
俺はとうとう、震えながら手を差し伸ばした。
もはや我が手で確かめずにはいられない。
だがすると、初めて『そのもの』は俺に気付いたかのように振り向いた。
忘れられるわけもないその懐かしい目線に一瞬ひるんで手が止まると、それは、するりと俺の手を避けて家に上がった。
まるで猫のよう。
猫そのもののしなやかな動き。
障子戸の隙間から室内にその姿を消しそうになったから、俺は慌てて戸を開け放った。
次の次の間に家内がいて、その家内の俺との間にエディフェルがとと……と歩いているのが見え、俺はほっとした。
484 :
:03/10/31 11:21 ID:dgtv2ovt
「お帰りなさい」
繕(つくろ)いものをしていた家内が、目を上げた。
俺は震える指を上げ、エディフェルを指した。
それは、おまえの姉だ。
「あ、この子ですか」
家内はいつもの柔らかな微笑みを浮かべた。
「今日、どこからか上がってきたんです。可愛らしいから、追い返せなくて……すみません」
「……?」
「いま、外に出しますから」
「……!?」
次に家内が言った言葉は、俺に、目以上に、耳を疑わせた。
「それにしても、きれいな猫ですよね……」
白く柔らかな昼の日差しが、黒く柔らかな毛を暖めていた。
ぴんぴんと時折跳ねる、猫の耳の、その毛を。
エディフェル──エディフェルの姿したものは、開け放たれた障子戸から、興味深そうになにかを目線で追っていた。
庭を飛ぶ、とんぼだ。
右に動けば、右を見る。
左に動けば、左を見る。
上に飛べば、顎を上げる。
近くを飛び遊ぶとんぼに、目を奪われている。
そしてもっとも近づいた瞬間、わふっ、と右手を空に走らせた。
──。
とんぼは、慌てて屋根の上に消えて行った。
狩りは、失敗したようだ。
エディフェルはまだ、屋根の上を一心に見上げている。
「また、その子を見てるのですか?」
すっと奥の襖(ふすま)が開いて、家内が顔を出した。
「ああ──」
俺たち三人──或いはふたりと一匹は、あれから、いっしょに暮らしていた。
485 :
:03/10/31 11:22 ID:dgtv2ovt
『それ』がエディフェルに見えているのは、俺だけらしかった。
家内には、猫──まったくふつうの猫としか見えていない。
村の者もみな同じだった。
きれいでございますねえ。
京(みやこ)からの下(くだ)りものかねえ。
気が強そうだね。
聞けばいろいろと言いはするものの、俺のような特別な反応を見せた者は皆無だった。
(そうか。猫に見えるのか)
ただ、猫が一匹、この小さな村の小さな屋敷に出入りしているだけ……。
だが俺にはとうてい納得はできない。
現にいまでも俺にだけは、こうしてエディフェルに見えたままだ。
しかし、もの狂いと思われるだけかと、そのことには口をつぐんでいる。
つぐんだまま、家に置き続けていた。
だが妻にだけは、あの時口にした言葉を聞かれた。
(姉さんの名前を言ってるのが、聞こえましたけど……?)
暗がりに真っ黒な影、誰かいるのかと思わせられたから、つい口走ってしまった。
すまぬ。
そんなごまかしを口にした。
納得したのか、しないのか、妻は複雑な顔をした。
それに、納得してもしなくても、その名は、妻の顔を複雑にするには充分すぎる。
妻、リネット。
星々を渡って、姉エディフェルとともに、仲間たちとともに、雨月(うづき)の山に降り立った、外(と)つ星の者。
俺の恋うた女、エディフェルを、彼女たち同族が裏切り者として殺し、また、彼女、リネットの一族を、その復讐で俺が、彼女の和議への願いに背いて皆殺しにした。
川のような血と数えるあたわぬ骸(むくろ)の果てに、ただふたり荒野に残され、末(すえ)にはなぜか寄り添っていた俺たち。
尋常な間柄ではない。
口をつぐまねば、忘れねば、いつでもその血と骸がぼろぼろと剥げ落ちてくる、そんなつがいだ。
それでも、誰かと寄り添わねば、その頃の俺たちはもう生きてすらいけなかったのだ。
486 :
:03/10/31 11:24 ID:dgtv2ovt
そんな俺がいまだにエディフェルへの思いを断ち難く持っていることは、家内も知っている。
おそらく家内を一番辛くする事実だろう。
俺は、俺の目にしているものを、言えなかった──
「おいで。おいで」
にぁ〜ん。
声を出すと、エディフェルは喜んで家内のほうに走る。足元にまとわりつく。
餌をやるせいか、それともそれとは無関係にか、エディフェルはよく家内に懐(なつ)いていた。
頭を(俺には、黒髪としか見えないが)なぜてやると、尻尾を振って、もっと、もっととせがむ。
そう。しっぽも生えている。
どうやって出ているのか、黒染めの単(ひとえ)の尻のところから、ふりふりと長いものが。
顎の下をなぜてやると、目を閉じてうっとりと微笑む。
これには、俺も思わず、顔がほころぶ。
正体知れずのものであれ、エディフェルとおなじ顔が、そんなふうに弾けているのだ。
抱き上げてやると、両手を伸ばして家内の肩に掴まり、ちょこんとその片手におさまった。
小さすぎるが、或いは家内に子が授かったらこんな感じだろうか。
「はい」
家内が近づいて来る。
俺は苦笑する。
触らせてくれようというのだ。
俺が手を伸ばすと、エディフェルはあからさまに顔をそむけて逃れようとした。
俺は、嫌がられているのだった。
こうしてもらわないと、いつもするりと逃げられて、触れることも叶わないのだ。
手を伸ばすと、温かい耳を摘まむ。
こりこりとした感触は、たしかに本物の猫のそれだった。
手を下ろすと、柔らかな黒髪の感触が指の間を通る。
それは、かつて毎夜触れたあの感触。
妻を前にしては、少し背徳的な行為に思え、俺は気後れした。
「!」
「あっ!」
びっ、とエディフェルの手が動いて、俺は手の甲に爪痕を付けられていた。
「嫌われてるな」
「まだ慣れてないだけですよ」
そうだろうか。
慣れていないだけか。
それとも……俺だからなのだろうか。
じっと傷痕をみつめながら、俺はやくたいもないことを考えていた。
慣れてくれなくてもいいかもしれない。
最近は、そんなことを思っている。
ふたり、もしくはひとりと一匹が、俺の目の前で毎日睦まじくしているその光景は、俺の中のなにかを綻ばせる。
リネットが膝を折る。
エディフェルがその上に丸くなって寝ている。
耳も寝せ、尾も丸めて、まるで無防備な姿だ。
家内は、その髪や背中を(俺にはそう見える)撫で付けてやっている。
姉妹がいっしょの姿を、かつて、俺は見ていない。
リネットが俺の前に現れたのは、エディフェルの死後。
親子のようなこの姿は、実際の姉妹とはかけ離れているかもしれないが、それでも俺は幸せなものを見ていると思った。
きっとエディフェルもリネットもこうしたかったであろう、姉妹の触れ合い。
幻像ではあろうが。
台所仕事、洗濯、井戸の水汲み。
家内が何事かするたびに、エディフェルは家内を見上げながらその少し後ろを付いて歩く。
「はい、あぁ〜ん」
家内が小鯵(あじ)の日干しを指先につまんで振ると、きゅっと見上げて落下を待つ。
落下中に空中で咥え、ぱくぱくとよく食べる。
エディフェルと同じ顔したものが残飯を食わされるのを見るのは忍びなかったが、幸い家内は俺が言うまでもなく俺たちの食と同じものを与えていた。
家内にしてみれば、家猫を溺愛しているだけのことだろうが。
488 :
:03/10/31 11:27 ID:TxEH9Ubc
ふわっと指先を下ろして日干しを近づけてやると、エディフェルは目の色を変えてちょうだい、ちょうだいとちいさな右手を必死に伸ばして振る。指の先が日干しをかする。
素直に手を下ろしてやり、今度は自分の手からまたぱくりとやるのを微笑んで見守る家内。
そんなつまらない日常の光景を見られることが、俺にはなにより貴重に思えた。
しかし、このような正体も知れないものが、そう長くは日の当たる俺たちの所に留まらないだろうことも、俺はなんとなくわかっていた。
物の怪が、俺の記憶を洗って幻を見せているのか。
俺本人が、とうとうおかしくなって幻を見ているのか。
本物のエディフェルの魂魄(こんぱく)が迷って、猫に降りたのか。
俺にはわからない。
近くの寺の僧に観てもらうという手もあるにはある。
だが、それをいまだにしないのは、やはり、もしそれで僧に祓われてしまったりしたら……という懸念。
つまりは、俺は弱いのだ。
間近のエディフェルの姿を、この儚(はかな)い幸せを、惜しがっている。
なにか裏で禍事(まがごと)がすすんでいるかもしれないのに。
心密かに姉の生き姿を楽しんでいることは、妻への裏切りに他ならないのに。
惜しんでいる。
俺たちはエディフェルのことを名前で呼んではいない。
「あれ」とか、「この子」のままだ。
最初の頃、一度家内が「そういえば、この子の名前はどうしましょう?」と尋ねたこともあった。
だがそれっきり。
俺が猫に何を見ているのか、知らずとも、家内はなにか感じているのだろう。
出会いの最初に俺が発した言葉。飼うことにした俺のこだわり。
俺は常に、つい“エディフェル”と呼んでしまわないよう、気を配っている。
穏やかに見えて、聡(さと)い家内のこと、俺の努力など、とっくに勘付かれていそうなものだ。
そうして、猫のエディフェルは名無しのまま、時を過ごしている。
ある日、ぎゃぁぎゃぁと騒ぐ声が聞こえた。
「どうした」
覗きに行ってみると、エディフェルがばんざいの格好で家内に羽交い締めにされている。
エディフェルの顔には、いくつも真新しい小さな傷が走っていた。
見ると、腕にも。足にも。
「寅とやりあったの。あーんな、おっきな……。この村の猫の大将なのにね。コラ、おとなしくなさい! いま、お薬を塗ってあげるから!」
散歩中、喧嘩に開けて、慌てて屋敷に逃げ戻って来たらしい。
俺はぷっと吹いた。
在りし日のエディフェルの戦ぶり──それは総毛立つようなものだ。
何十年と鍛え上げてきた岩のような身体の侍たちを、あの細い腕が草でも切るように他愛なく絶命させてゆく。その指一本が、業物の銘刀より楽に人を殺してのける死の先遣(や)りだ。何十という命が、彼女の一撫でで失われた。
それに比べて、このエディフェルの戦ぶりは、なんとも平和なものだ。
同じかたちをしていながら、甦ったら猫にも負けるというのが、おかしい。俺にとっては、可愛らしくて、たまらない。
「もう! おかしくないですよ」
暴れるエディフェルと格闘している家内は困り顔だ。
「待て。押さえておけ、俺がいま軟膏を塗ってやる」
おなじものを挟んでいても、俺と家内は、見ているものが違う。感じることも違う。
そうだ。妻は、知らないのだ。
笑いはしだいしだいに引いていった。
ばんざいに押さえつけられたまま、俺の指が傷口に冷えた薬を塗りつけるのを、エディフェルはもがいて嫌がった。
刺激が辛いのか、頭の上の耳が、のびたり、倒れたりを繰り返していた。
「おう。ただいま戻った」
家に入ると、あの最初の日の土間に、エディフェルがしゃがみ込んでいた。
日中は日が当たるそこはぬくく、彼女の好む昼寝場所のひとつのようだった。
俺はそっと手を伸ばした。
無駄だとわかっているのに、いつの日か家内のようにゆるりと触らせてくれるのではないかと、いつも繰り返す仕草だ。
だが、今日は違った。
俺の手は、エディフェルの髪の毛に触れていた。
向こうは、気付いていないわけではない。
エディフェルは、俺のほうをじっと見上げている。
490 :
:03/10/31 11:30 ID:TxEH9Ubc
俺の目を、じっとみつめている。
「今日は、触らせてくれるのか。姫様」
伸ばした手で、なでる。なでる。
エディフェルは、怒らなかった。避けなかった。
さらに、なでる。
ぬ〜〜…と小さく声。
それも気分が悪そうではない。
やがて、エディフェルは身を起こした。
「…………」
俺の手に、自ら近づくと、額や頭を擦りつけはじめた。
温かい。
そして毛の感触が、さらさらと心地よい。
向こうも気持ち良さそうだった。目を細めて俺の手に自らを擦り付けてくる。
エディフェルは、みずから俺との接触を求めていた。
「おまえ……」
俺はいつになくときめいていた。
調子にのって喉に手を回し、こすってやると、気持ちよさそうに首をゆっくりと振る。
エディフェルの喉は温かい絹のような触り心地だった。
俺はそのままこすり続けた。
幾時も。
幾時も。
現れてから後の、これまでを取り戻すために。
脇の下に手を回し、持ち上げた。脇の下も温かかった。
軽い重みが俺の胸から肩にかかり、一帯にそのぬくもりが染み込む。
それが、向こうから俺にひし、と抱き着いている。
気持ちいいのか、興奮したのか、エディフェルの頬も桃色に染まっていた。
俺は、静かに感動していた。
「とうとう、慣れてくれましたね」
家内が玄関まで出て来ていた。
「驚いている」
「ふふ……」
「ふふ……」
家内が、エディフェルの鼻先をつついた。
「この子だって、あなたが好きなんですよ」
俺は、どきりとした。
エディフェルは俺にも甘えてくれるようになった。
一時、そういうことはないのだろうとあきらめていただけに、驚きでもあり、また嬉しかった。
俺の足にじゃれつき、俺の手の動きを追って遊び、寝そべっている俺の背中に乗って、そこで寝付いた。
俺が背中で感じる感触は、その小さな手も、足も、まるで人間のそれだった。
そう、俺にとっては猫ではない。
仰向けになって正面から胸に抱え込んだりすると、少し危うい。
あの焦がれるほど愛した女を、唇を頬を不思議な目を、間近で正面からみつめることになる。
体温をまるごと胸に抱きとめることになる。
妻が繕いものをしている横で、過去の女と抱き合っているのだ。この行い、許されざるや。
向こうはしかし、知ったことではない。飽きたと見えて、あくびをしてにゃぁ、と鳴く。
俺のほうも、かつての滾(たぎ)るような貪りへの欲求は、湧いてこないのが幸いだった。
あまりにも小さすぎ、幼すぎるからだろうか。
保護欲から生じるもの、それしか覚えない。
かつてあれほど愛した人、二度とは会えぬ別れにはらわた引き千切られる思いだった人が、同じ姿で目の前で毎日を暮らしている。抱くことも、体温を感じることもできる。
492 :
:03/10/31 11:33 ID:TxEH9Ubc
家内は、喜んでいる。素直に喜んでいる。
俺が家内の傷と痛みを知るように、家内も俺の傷と痛みを常に慮(おもんばか)っている。
新しい家族ができて、俺が癒されてくれるなら……そう思っているらしい。
ふたりだけで傷口を癒し合って生きてゆくつもりが、思わぬ珍客の乱入があり……俺たちの喜びは、俺たちの感情は、確実に豊かになっていった。
夜になると、俺たちは三人で川の字になって寝る。
俺たちの間に、布団から小さなエディフェルが首をひょこんと出している。
夜までどこか外に遊びに出掛けていても、そのうち必ずふらりと帰って来て、布団に入り込んで来るのだ。
ふたりでやすらかな小さな寝顔を見守るのが、楽しかった。
俺は、彼女はそのうち消えてしまうのだろうと思っていた。うたかたのものなのだろうと。しかし、いまは考え方が変わった。
このまま何年も何年もいっしょに居、俺たちに子供が出来て、年老いて、その時間を皆でずっと家族として過ごせばいい。
そういうことができるような気に、変わっていた。
その日は、庭の楓が、すべての葉を燃えるような紅に染め、斜めから差す夕日を浴びて、さんざめいていた。
その日のエディフェルは、縁側にいた。
「ここにいたか」
声を掛けた。
いつもなら振りかえってとと……と走り寄ってくる。
──が、この日は動かない。
なぜか、振り向きもしなかった。
しかたなく、俺のほうから近寄っていった。
足の間にその小さな身体を挟んで、座った。
座り込み、細く白い手をついて、エディフェルは、一心に前をみつめていた。
「なにを見ている?」
にゃあとしか返ってこないのを知っていて聞いてみる。
答えはなかった。
なでてやる。
温かかった。
温かかったが、それでも、エディフェルは微動だにしなかった。
「…………」
風が吹く。
はらはらはらと楓の葉が散る。
まぶしいほどの秋の西日に包まれながら、エディフェルは沈黙を守った。
風が吹く。
ざあ……と音がして、今度は雪のように多くの葉が落ちる。
燃えるようだった。
燃えるような紅が、さらに強い西日を受けて、まるで木一本で周囲すべてを紅に染めているような錯覚をおぼえる。
それほど鮮やかな葉、または葉が。
俺たちの目の前で、次から次へと散り落ちてゆく。
エディフェルは、ただじっとその光景をみつめていた。
その日は、庭の楓が、すべての葉を燃えるような紅に染め、斜めから差す夕日を浴びて、さんざめいていた。
「あの子が……!」
家内のひどく狼狽した声に起こされた。
「あの子がいないの」
被っていた布団を起こしてみると、たしかに布団の中にはいなかった。
「昨日の明け前にもう、布団から出ていって、そのあとまる一日ご飯も食べに戻って来なくて……」
そして、昨夜は布団にも戻って来なかった。
たしかに、そんなことは初めてだった。
「私、探して来ます!」
泣きださんばかりの必死な顔で、家内は駆け出していた。
俺も、いっぺんに眠気が覚めた。
ふたりで手分けして、近所中と家中の、あいつが寄り付きそうなところを探した。
土間、炊事場、屋根裏、屋根の上、水車小屋、お堂、立ち木の上。
家も一軒一軒訪ね歩いた。
昨日のあいつの姿は、誰も見ていなかった。
なんの前ぶれもなかった。
もう会えないのか。
なにか納得するような思いと、とても承服できない思いが、同時に身を貫いた。震えが、来た。
駆け回り、走り回って気が付くと、いつの間にか家内の姿も見失っていたことに気が付いた。
「リネット! リネット!」
裏の雨戸を開けると、裏庭に肩を震わせながら家内がうずくまっていた。
激しく、嘔吐していた。
それ以来、エディフェルは二度と俺たちの前に姿を見せなかった。
リネットは、俺の子を孕んでいた。
それから三つの季節が過ぎる頃には、俺たちの痛みも、多少は癒えた。
そして、家内は俺たちの一粒種を産んでくれた。
まるまると太った赤子だった。
殺しの過去と、人の死の記憶しか手の中に残っていなかった俺たちの間に、新しい命が宿り、生まれ落ちた。
俺は、泣いた。家内も、泣いた。
ぷくぷくと脹らんだ頬は血色よく赤く、その肌は汗で湿り、体温は、触ると熱いほどだ。
指を伸ばすと、小さな手の中に掴み、ぎゅっと強く強く握り緊めて放さない。
頑丈な、生命力の塊のようだ。
昼夜なく激しく泣き、よく乳を飲み、よく眠り、くしゃみをして、熱も出した。
戦場(いくさば)のような毎日。
追い立てられるような、疲労と、焦りと、動揺と、生命力に満ちた、幸福の日々。
俺も家内も、新しい活力と感情に満ちていた。
ふたりの過去の傷に裾を引かれたまま過ごしてはいられなかった。
俺たちが一刻でも目を離したら生きてゆかれないかもしれない生き物が、家に住んでいるのだ。
あのうたたかの喜びと記憶を残してくれた猫のエディフェルのことを、いまでも、毎日考えている。
あれがなんだったのか、結局俺にはわからず終いだった。
家内にも結局話していない。
命の塊のような生き物と入れ替わるように姿を消した、死せる姿と思い出の顔を持った幽(かすか)な存在。
俺たちになにかを与えるために現れたのか。
なにかを悟って姿を消したのか。
ただ、最後にふたりでともに縁側で過ごした時間だけが、俺の頭の中に何度も何度も甦るばかりだった……
青々とした葉を付け、けして盛りの季節などではないのだが──
俺は生まれた赤子に、楓と、名を付けた。