駅前のわずかなスペースに一本だけある桜の下に立っている。
「桜、もうすぐ散っちゃうな・・」
満開になった時に一瞬だけ輝いて、あとは潔く散ってしまう桜の花は昔から苦手だった。どんな言葉で飾ろうとも
命が枯れていく過程と重なるように思えたからだ。
(咲いたときだけ騒がれて。あとは放っとかれたらあなたも困るわよね?)
ごつごつしたうろを撫でながら呟く。
ゴオッと轟音が響いて、少し経つと、駅から一気に人の波が吐き出される。
私は急いで振り返り、人ごみの中から彼を探す。
「いない・・・」
これで多分20回以上こうしている。別に待ち合わせているわけじゃない。今日ここを通るかどうかもわからない。
「やっぱり、無理だったかな・・・」
もうすぐあの人と同じくらいにまで伸びる髪を後ろに流す。
「おう、楓ちゃんか!」
はっとして顔を上げる。
「改札のところでもしかしたら?とか思ってたんだけどね。どうかしたの?こんなとこで。」
屈託のない笑顔が私の疲れを吹き飛ばす。
「あ、あの今日で仕事お終いですよね?だから・・あの・・・」
耕一さんは肩に提げた大きなショルダーバッグを手でポンポンと叩いてみせて
「ああ、会社勤めは、一先ず最後だね。少しずつ持って帰ろうと思ってたけど、結局最後まで机の中は手付かずだったから
この有様だよ。」
ともう一度笑った。
「私、カバン持ちます!」
私は肩に食い込むショルダーバッグを引っ張る。
「ああいいよ、そんな気にしないでさ。」
「でも・・」
私が食い下がると耕一さんはちょっと首を右に傾いで左上を見る。
悩んでるときの癖。
「よし、じゃこっちをお願いしようかな。」
ちょっと苦笑いしながら、いつもの手提げカバンを私に預ける。
受け取った取っ手が少しだけ暖かい。
駅から10分の社宅扱いのアパートが耕一さんの部屋。
階段を上がってすぐの1DK。
カチッ
耕一さんが慣れた手つきで電気をつけると、部屋はダンボールの山だった。
隅っこで申し訳なさそうに小さく畳まれてる布団だけが、ここに人が住んでいる証。
「もうずいぶん片付けちゃったんですね。」
「ああ、土日はこれと引継ぎで全部潰れたよ。」
「でも明日、引越しの業者の方も喜びますよ」
私は声だけでおどけた。
「はは、結構マメだろ?・・・あっ、けど食器も何も全部包んじゃったからな。
楓ちゃんこれからどうする?俺は外に飯を食いにいくけどよかったら一緒に行かないか?」
「・・・はい、ご相伴します。お義兄さま。」
耕一さんは口の端を少しだけ歪めて、らしくない笑いを見せる。
今年の夏、彼は私の義兄になる。
「どう?ここはね、俺が大学に入って一番最初に見つけたおいしい店なんだ」
耕一さんは魚やササミ、山菜などが色々入った雑炊をかきこむ。
「耕ちゃんもとうとう離れちゃうんだねぇ、みんなの中で最後までこっちに残っててくれたんだけど・・・」
店のおばさんが息子を見るような目で耕一さんをみつめている。
「大丈夫、大丈夫!東京来たら必ず寄るからさ、そのうちみんな集めてさ、もう一回宴会しようよ!」
「はいはい、聞くだけ聞いとくよ。調子のいい子だから。」
おばさんが楽しそうに笑う。
(愛されてるんだな・・ここでも)
たくさんの人から愛されて、そしてこれから誰よりも一人の人を愛するんだ。
「けど耕ちゃんもねぇ、美人なお嫁さん貰うって聞いてたけど・・ホントお人形さんみたいな娘を連れてきたもんだねぇ。」
「・・!」
私はびっくりしてすぐに耕一さんの顔を窺う。
一瞬ポカンと口を開けていた耕一さんは、私の視線に気づかないまま急いで否定する。
「いやいや!この娘じゃないんだ、この娘はね、俺の妹になるんだ。」
「あらら、ダメよそんな結婚前に、こんな可愛い娘とお酒のみに来ちゃ。」
「誤解だって俺がそんないい加減な事するわけないじゃん。」
耕一さんが手を大袈裟に振りながら否定する。
「分かんないわー、最近男のほうもマリッヂブルーがあるらしいから・・」
「大丈夫です!!大丈夫・・・・」
私が思わず声を上げる。
(しまった・・・)
おばさんがビックリして私の顔を見てる、な、何か言わなきゃ・・
「そう!大丈夫!大丈夫なんだよ!おばちゃん、俺ちょっとトイレね。」
耕一さんはビールを飲み干すと勢いよくコップを卓に置いて、頼りない足取りでトイレに向かった
ドアが閉まるのを見届けて、顔を前に向ける。おばさんが複雑な顔で私を見ている。
思わずコップを両手で持ったままうつむく私。
「あのさ、」おばさんが口を開く。
「あのさ、耕ちゃん、いや耕一君、困らしちゃダメよ?あの子も、家族に恵まれてこなかったからね。やさしくて綺麗な嫁さん貰う
ってすごく喜んでたんだしさ。」
「はい・・」
「あんたもね、そんなに若くて綺麗なんだしさ・・」
「はい・・・はい・・」
涙がにじんで視界がぼやけてくる。
うつむく顔の下にどんどん溜まっていく水滴をおしぼりでぬぐい続ける。
「ほら、耕ちゃんが戻ってくるよ、一回顔洗ってすっきりしといで。」
おばさんがきれいなおしぼりを一本私に渡す。
「ありがとう・・ございます・・」
私は耕一さんがドアを開けないうちに、急いでトイレに駆け込んだ。
「東京で見る雪はこれが最後ねと〜ってね。桜吹雪ってのはこのことだな。」
耕一さんが地面に落ちた花びらを掬って頭の上に放り上げる。
夜になって少し強くなった風にあおられてほとんどが遠くに飛ばされていく。
終電まであと1時間の私たちは、アパートのそばの児童公園にいた。
カシュッ
耕一さんが私のすぐ隣に座りお茶を飲む。
「明日は何時頃に出るんですか?」
「昼過ぎかな、アパートは。」
「もう簡単に会えなくなっちゃいますね」
「まあ、ちょっとね。」
困ったときに作る右頬のえくぼ。
東京に出てきて4年目、初めの1年はほとんど毎週耕一さんのアパートへ足を向けていた。
何だかんだと用を作って会いに来る私を耕一さんは嫌な顔一つせず歓迎してくれた。
私もそれが楽しくて仕方なかった。
梓姉さんから電話があったときは、一瞬気が遠くなった。
その後はずっと生返事、姉さんから何か手紙が来てたけど読まずに捨ててしまって、あとで初音から
詳しく聞かなければならなかった。
その直後に耕一さんからご飯の誘いがあったけれど、行って話を聞くのが怖くて初めて嘘をついて断った。
心配した耕一さんが来てくれたけど、楽しそうな耕一さんが辛くて、悲しくて、悔しくて、東京に出てから初めて泣いてしまった。
多分、耕一さんもそれで気づいてしまった。
三日と空けずにとっていた連絡も途絶えがちになっていき、あんなに楽しかった東京での生活が嫌になってしまっていた。
半年後に街で偶然耕一さんに出会った、会社の同僚の人と一緒だったけど笑いながら謝って私のところへ来てくれた。
本当に会いたくて、懐かしくて、嬉しくて、恋しくて、たくさん聞いてもらいたいことがいっぱいあったはずだったけど、
ただ、うなずいたりばかりしていた。
それからまた、前ほどではないけど耕一さんとも会えるようになった。
結婚まで2年以上あるという猶予期間が私の心を楽にした。
髪もそのころから伸ばし始めた。
あまり得意じゃない料理の本を買い込んで毎週のように通った。
けど、第3土曜日は特別な日、耕一さんがあの人のために用意する日。
前の日曜からレンタカーの予約やお店のチェックに忙しい。
当たり前のこと。婚約者だし、滅多に会えないし、あんなに愛しているんだし・・・
「だけど、なんで・・・私じゃなかったんだろう・・」
あの人はあんなに離れてるのに、一緒にいた時間もきっと私が追い越したのに!
ずっと前から耕一さんが好きだったのに!!
耕一さんの部屋でご飯を食べている背中を見ていると、急に抱きつきたくなる。
振り返った耕一さんに抱きしめられる自分を一瞬想像して、すぐに怖くなる。
私を困った顔で引き離す耕一さんが頭に浮かぶ。
部屋で二人きりの時、耕一さんはよくあの人の話をした。
私の淡い希望を打ち砕く、あり得ない心変わりにとどめをさす。
.
「しばらくお別れだね。」
スーツをパンパンと叩いて、耕一さんが立ち上がる。
「遊んでくれる人がいなくなって寂しいです。」
私がちょっと口を尖らせて、上目遣いで言う。
「来年帰ってくればいいさ、けど楓ちゃんをここに一人で置いていくのは心配だなぁ、
来年までにどっかの馬の骨に持っていかれそうだ。」
「ふふ、心配してくれますか?」
「そりゃ、心配するさ!」
「義兄として?」
「兄として!」
「プッ、ふふふ・・」
胸を張る耕一さんに私が思わず笑い出す。耕一さんも一緒に笑ってくれた。
さあ、終わろう。
耕一さんは次郎衛門にはなってくれなかったけど、兄さんになってくれた。
私だけエディフェルではいられない。
私はベンチの上で爪先立ちになって、桜の枝を折った。
「はい・・・餞別です」
両手でグッと前に出す。
「餞別か・・・ありがとう、楓ちゃん」
さよなら、次郎衛門 さよなら、私の中のエディフェル。