「あぅ……何なのよぅ、これ」
あたしは湯船の中で悩んでいた。
何が何だかさっぱりわからない。
記憶をさかのぼってみるが、祐一に鈴を買ってもらった日、あの丘で祐一と、その……痛くて恥ずかしくて、でも何だかすっごく嬉しい事があって。
その次の日、ぴろがいなくなって、一生懸命探してから…あれからどうなったのか。おぼろげながら覚えてる事はあるんだけど夢の中みたいではっきりしない。
ただ、アマノって名前になんだか温かいものを感じる。そして、祐一や名雪や秋子さんと一緒にいるのがとても嬉しかった。
『お母さんと一緒に遊びましょうね』
秋子さんがあたしにそう言っていた気がする。だからなのかあたしも秋子さんの事を『お母さん』って呼んだ記憶がある。
だけど、そのとき秋子さんはすっごく悲しそうな顔をしていた。どうしてなんだろう?
よくわからないけど、帰ってきてからはやっぱり秋子さんは『秋子さん』としか呼べない。
あたしにそう呼ばれた秋子さんは寂しそうだった。でも、お母さんって呼んだらそれはそれで悲しい顔をするかもしれない。どうすればいいんだろう?
ほかにも、どうすればいいのかわからない問題はたくさんある。
夢の中みたいなぼんやりとした記憶は、マンガで見たベールを祐一にかぶせてもらって、すっごく幸せで、それが風で飛ばされて悲しくて、鈴の音がなる中、背中から祐一に抱きしめられている温かい感触で終わっている。
それからは真っ暗でなんにも見えなくて…ひとりっきりになった。
とっても長い時間だったような気がするし、逆にあっという間だったような気もする。
それから突然、温かい日差しで意識がはっきりとした。
目を開けると、ぴろがいた。
そして、祐一がいて、泣きながら抱きついてきた。なぜか、ちっとも嫌じゃなかった。
しばらく祐一に身を預けていたら、頭の上に誰かの手が載った。
優しくなでなでしてくれる手の持ち主は……見覚えがある長い黒髪の女だ。
脳裏によみがえるとてつもない恐怖。
祐一を驚かせようとしたあたしに剣で切りつけてきた物騒な女だった。
「って、何よぅ、年下だからって馬鹿にしてるのっ?」
「………ただ、そうして欲しいかなって」
「思わないーっ!」
前にもしたようなやり取り。
そのあと祐一に怒られた。
なんでも、あの女はあたしの恩人らしい。
よくわからないんだけど、あたしはしばらく消えてしまっていたそうだ。
あたしが真っ暗なところにいる間、祐一はあたしがいない寂しさを紛らわすために、あの女と一緒に化け物の退治をしていたらしい。まるでマンガみたい。あたしも混ぜて欲しかった。
でも、祐一にとってあたしは邪魔者だと思ってたのに、いなくなったら祐一は寂しがってくれた。
それを考えると胸の中に温かいものが広がる。
あの女には不思議な力があって、その力であたしを助けてくれたんだそうだ。
だけど、素直に感謝はできない。
あいつは、とんでもなく余計なことをしでかしたのだから。
あのあと、帰る途中で風に飛ばされたベールを見つけた。
祐一が止めるのも聞かず木に登り、枝に引っかかってるベールを回収した。
恥ずかしい、何だか悔しい、でも嬉しい、色々な温かい想いと共にあるベール。あたしの手で取り戻したかった。
ベールは何のためにあるか、あたしは知っている。それを祐一があたしに被せてくれた。それが意味するのは…。
ベールを手にとって、嬉しくてがっしりと抱きしめたとき、あたしはある事をすっかり忘れていた。
自分の体を支える事を。
当然ながらあたしはあっさりと木から落ちた。
こうしてあたしは泥まみれになってしまい、帰るなり秋子さんの驚きと喜びの声もそこそこにお風呂に直行する事になったのだ。
せめて入浴剤を入れて湯を不透明にしてしまいたいのだが、残念ながらそんなものはなく、お湯ごしにあたしの体が否応なく目に入る。
「あぅ〜、どうすればいいのよぅ……」
困っていたとき、玄関のドアが開く音が聞こえた。
「真琴っ、真琴っ! 帰ってきたって本当!?」
慌しい足音と共に声が近づいてきて更に扉が開いて……。
「真琴っ!?」
名雪だった。なんかあたしが名雪から名前で呼ばれるのって初めてのような、懐かしいような不思議な気持ちだ。
名雪のあまりの剣幕に頭の上に乗ってたぴろは驚き、名雪と入れ違いに逃げ出した。
「わっ!?」
上半身を引っ張られ、あたしの胸が湯船に潰される……名雪に抱きつかれてる?
お湯で濡れるのも構わず、名雪はあたしの体を抱きしめ、離さない。
「真琴……真琴ぉ」
「ちょっと、名雪? 何で泣いてるの?」
「えっ……?」
あたしの言葉に、名雪はきょとんとしていた。
「真琴……喋れるの? 言葉わかるの?」
「え? 喋れるけど、わかるけど、どうしちゃったの?」
名雪は、一旦離していたあたしの体をまたきつく抱きしめてきた。
「ごめんね、冷たくして。初めは真琴がここにいられるように味方してたのに、そのうちおかあさんや祐一を真琴に取られたように感じちゃったの」
「えっ?」
「そのことを謝りたくて、本当は妹ができたみたいで嬉しいんだよって、大好きだよって言いたくて、でも、そう思ったとき真琴はもう言葉わからなくなってたから伝えられなかったの」
言葉がわからない? 記憶があいまいな時期はそうなってたんだろうか。そういえば、あの頃あたしがどんな会話をしていたのかよくわからない。
でも、あたしが名前を言えることがとても嬉しかった記憶がある。そして、最後にあることを願い、祐一がそれをかなえてくれた事も覚えている。
「真琴が消えちゃった日、学校の中庭で一緒に雪だるま作ったの覚えてる?」
「雪だるま? そういえば、なんとなく」
「あの時、最後まで笑顔でいようと頑張って、送り出すまで堪えて、でも真琴と祐一がいなくなったらもう駄目だった。涙が止まらなかったの」
雪だるまを作ってるとき、確かに名雪は笑顔だった。だけど、すっごく悲しそうだった。楽しくないのかなと不思議に思ってた記憶がある。そういうことだったんだ。
「祐一が好きなのはわたしじゃなく真琴だけど、またこうしてここに来てくれて、一緒にいられるようになって嬉しいよぉ……」
え? ということは名雪も祐一の事が好き? あたしが祐一を取っちゃったのに、それなのにあたしと一緒にいられることを嬉しいって言ってくれるの?
胸の中に温かいけど切ないものが広がる。
それなのに名雪の手があたしの頭に伸び、撫でてくれた。
ぴく
「あれ?」
「わ、だめ、そこ触らないで!」
名雪の手を払いのけ、縮こまる。
あの丘で目覚めたときからずっと続いていた違和感。あたしにはそんなのついてるはずがないのに、なぜか懐かしさを感じさせる出っ張り。
あの女がしでかした、とんでもなく余計なことだった。
「あたし、川澄っていう不思議な力を持った女に助けてもらったらしいんだけど、そのとき付けられてたの。『ただ、そうしたほうが可愛いかなって』なんてわけの分からないこと言ってた」
「本当、かわいい耳〜」
「あぅ…そんなこと言われても嬉しくないわよぅ…」
名雪は頬を赤く染めて、とろんとした表情であたしをじっと見つめ、頭に生えたキツネみたいな耳をいじり始めた。くすぐったい。
それにしても、頭触ってようやくこの耳の存在に気付くなんて…あたしが戻ってきたのがそれだけ嬉しくって目に入らなかったのかな?
よく見ると、目が少し潤んでいる。
「やめてよぅ…くすぐったい」
「わ、しっぽもついてるんだ」
「え? ちょっと、見ないで!」
慌ててお尻を押えて隠そうとする。だがバランスを崩してひっくり返ってしまった。
どうにか体勢を立て直して咳き込みながら顔を拭うと、名雪は目をまん丸に見開いてあたしの下半身を凝視していた。
「真琴? そ、それって……」
「あ、あぅ……」
あの川澄って女がやらかした余計なことは、この狐みたいな耳やしっぽだけではなかった。
あの夜、あの丘で祐一に入れられたもの。固くて、熱くて、痛くて、怖くて、恥ずかしくて、でも嬉しくて、気持ちいいものをもたらしたもの。
でも、女であるあたしにそんなのついてるはずがないのに。
耳やしっぽと違って懐かしくもなく、ただひたすらに違和感を感じた。
「真琴が赤ちゃんみたいになってたとき私がお風呂入れてあげてたけど、そんなのついてなかったよね?」
「あぅ…これも、あの川澄って女がつけたんだって。これまた『ただ、そうしたほうが可愛いかなって』なんてわけの分からないこと言って。やっぱりあいつ…アブナイわ…」
名雪があたしをお風呂に入れてくれたという話で、おぼろげながらその光景が脳裏に浮かんだ。
ほっそりとした体、むちっと引き締まったふともも、ぷるんと揺れる胸。優しくあたしの体を撫でてくれる手。
温かい気持ちと共に、なんだか体が熱く火照って、ウズウズしてきた。なんだろう? この気持ち?
「…って、きゃ!」
なんだか股間の出っ張りが張り詰めた感じがしたと思ったら、大きくなって上を向いた。あの夜の祐一についててあたしに入ってきたアレみたいに。
「わ、元気」
名雪はのんきにそんなことを言う。
「あうぅ…変だよぅ…こんなの」
これじゃ祐一にも嫌われるかも知れない。そんなの嫌だ。
「本当、可愛いよ…」
「…え?」
名雪の瞳にはなんだか獣みたいなギラギラとした光が宿り、息も荒くなってきた。
「真琴……すっごく可愛いよぉ……抱きしめたいよぉ……」
「…あの、ちょっと、名雪?」
もう既に思いっきり抱きしめられたんだけどってそうじゃなく、あの夜の丘で、あたしにあんな事をしたときの祐一みたいだった。
なんだかすっごく怖い、祐一以上に。どうにかして大人しくさせないと。
たとえば…そうだ、あたしのこと妹みたいって言ってたから、こう言ったら喜んで優しくしてくれるだろうか?
「な、名雪……お姉ちゃん?」
あたしも、名雪のことがそんな感じに思えてきたから、そう呼んでもいいよね?
「……真琴?」
何かが切れる音が聞こえたような気がする。もしかして馴れ馴れしいって怒ったのかな? あの時秋子さんの事を『お母さん』って呼んで悲しい顔をされたのもそういうことなんだろうか?
などと、とっさにあれこれ考えを巡らせていたら……
「いやっほーぅ! 川澄最高ー!」
そう叫んだ名雪は濡れてるはずの服をポンポンと一気に脱ぎ捨て、平泳ぎみたいな体勢で飛び掛ってきた。
「まぁ〜ことちゃぁ〜ん♪」
「…きゃあああああああああああぁぁぁぁぁぁーーーーっっ!!」
残念ながら、バネ仕掛けのボクシンググローブは手元になかった。