七月六日の夜。
風呂上りにしっとりと髪を濡らした志保は、窓を開けて、夜風に全身を晒していた。
昼の間はじめじめと蒸し暑く、うんざりするような熱気も、宵闇が空を覆う少しの間だけは、なりを潜めていた。
「ふぅう……」
涼やかな風をしばらく楽しんでから、志保は窓から顔を引っ込める。
ベッドにぺたんと腰掛け、ドライヤーでしっかりと髪を乾かしていく。
ショートボブの髪は、それほど苦労する事なく水分を手放す。
それでも、志保は満遍なくブラシを入れ、しっかりと乾かしていた。
ドライヤーを元あった場所になおすと、志保はちらりと机の上に目をやった。
そこには、5枚の細長い紙が乗せられている。
「……明日は七夕かぁ……」
ふぅ、と小さな溜息を漏らして、志保はごろりとベッドの上に寝転がった。
短冊に書かれた5つの願い。
それを、志保は順順に思い出していく。
「……ぱたぽ屋のレアチーズケーキが食べられますように。
……欲しかった服が手に入りますように。
……ジャーナリストになれますように。
……――――あかりと…雅史と……ヒロと……4人がいつまでも友達でいられますように……それから……」
それから―――最後の願いは……
「……っあーーーーっ、止め止め!」
やおら志保は跳ね起きると、一番端に書かれてあった短冊を掴んで、くしゃりと丸めた。
そして、部屋の隅のゴミ箱に投げ捨てる。
「…………はぁ」
投げ付けた姿勢のまましばし固まってから、志保はぱふっ、と再びベッドの上に身を投げ出した。
読み上げられなかった願いが書かれた短冊は、ゴミ箱の横にころん、と転がっている。
それを恨めしげに睨んでから、志保はぷいと目を逸らした。
ベッドの脇に置かれた携帯を手に取り、ネットに接続する。
――願いが叶う笹!
――不思議な事に、この山で取れた笹に願い事を吊るすと、それが叶うと言われています!
――どうしても願いを叶えたい!
――そんな人は、騙されたと思って是非トライしてください!
「……はー」
ちかちかと点滅する文字の下には、その笹が取れる場所の地図が書いてあった。
近い……というか、浩之達が通う高校から1、2時間ほど歩いた場所だ。
自転車を使えばもっと早くに行けるだろう。
「何でも願いが叶う笹かぁ……」
志保は携帯の電源を切ると、ぱたん、と片手をベッドの上に倒した。
(あたしの願い……願いは……)
閉じた瞳の裏側で、形にならない答えがぐるぐると回る。
「あーっ、もう!」
八当たり気味に志保はうめいて、志保は電気を消し、毛布をお腹の上に掛ける。
闇に閉ざされた視界の向こうで、追い出しても追い出しても、一人の顔が浮かんでくる。
「……ヒロの…馬鹿」
赤ん坊のように身体を丸めながら呟かれた囁きは、悪口と言うにはあまりにも切ない響きだった。
「と、ゆーわけでヒロ、あかり、雅史。付き合いなさい」
「命令形!?」
学校の終わった放課後、いつものように押しかけた志保に、浩之はいかにも不満そうな表情を浮かべた。
「お前なー、今度は一体何やらかす気だ」
「ふっふっふ、ヒロ、今日がなんの日か知らないようね」
「知ってるぞ。七夕だろ。ついでにお前の脳は、一年中エイプリルフールだって事も知ってる」
「ムキーーーっ! 誰が年間四月馬鹿よ!!」
浩之は慌てず騒がず、目の前の志保の顔を指差した。
「くわーーーっ!」
「ま、まぁまぁ志保落ち付いて……浩之ちゃんも。で、どこに行く気なの、志保?」
「ここよ、ここ」
志保がさっそく携帯を取りだし、昨日マークしていたページを3人に見せる。
「……何でも願いの叶う笹?」
「嘘くせぇ」
一言で否定する浩之に舌を出してから、志保はくいっと腰に手を当てた。
「ま、今期一番の志保ちゃん情報だし、ここは一発、その真偽の程を確かめに……」
「オレ、パス」
「僕、今日は部活があるから……」
「ごめんね、志保……でも、もう期末試験が近いから……」
「くっ!」
あっさりと断られ、志保は痛恨のうめきを漏らす。
がっくりとうな垂れたかと思いきや、すぐさま志保は顔を上げ、ぱっと浩之よ指差した。
「まーいいわ! それならヒロ、あんたの自転車貸しなさい」
「お前……それが人にモノを頼む態度かよ……」
浩之は呆れたように肩を竦め、鞄を手に立ちあがった。
そのうしろにしつこく志保が付きまとい、雅史とあかりも苦笑しながら後に続く。
「大体、あかりの自転車の方が、サドルの高さとか調度いいんじゃないのか?」
「何言ってんのよ。あかりの自転車使っちゃって、あかりが必要な時無かったら困るでしょうが」
「オレはいいのか……」
「だってヒロだしぃ」
「……絶っ対、お前には貸さん」
「えー!」
志保がぶぅぶぅ文句を言うのを見て、あかりはくすっと笑った。
「いいよ志保、私の自転車使っても」
「ダメよあかり。あんたよく自転車で買い物とか行くじゃない。それに比べて、ヒロなんか物置で埃被ってんのよ」
「え、そうなんだ」
「何でお前がンな事知ってんだ……」
思わず頭を抱える浩之に、3人は声を上げて笑った。
雅史とは校門で別れ、最後に浩之の家の前で、あかりとも別れる。
「さーてヒロ、とっとと出すモノ出してもらいましょーか」
「お前な……貸さんと言ったら貸さんぞ」
図々しく浩之の家に上がり込もうとする志保を睨み、浩之は溜息をついた。
「いいじゃないのよ、減るもんじゃなし。ケチ!」
「……」
ギロリ、と険悪な目で睨まれ、志保は思わず口を閉じた。
「や、やーね……そんなに怒らなくても……」
浩之は無言のまま、物置に近付き、中から自転車を引っ張り出した。
長い間物置にあったせいで、志保が言った通り、大分埃にまみれている。
「言っとくが、貸さねーぞ。オレが乗るんだからな」
「えー!」
「……ま、荷台ぐらいなら乗せていってやってもいいが」
「へっ?」
志保のきょとんとした瞳から目を逸らし、浩之は頬を掻いた。
「……まぁお前がそんなに言うんだし、ちょっとぐらい付き合ってやるよ」
「ホント!? やったー、ヒロもたまにはいい事するじゃないの!」
ばしばし、と背中を叩かれ、浩之は嫌そうに顔をしかめた。
とはいえ、それにはだいぶ照れ隠しが混じっていたが。
「んじゃ、さっそく出発しましょ」
「ああ……とその前に空気入れるか」
埃をはたき、タイヤに空気を入れると、自転車は見違えるほど綺麗になった。
浩之が自転車に乗ると、志保は早速荷台に跨り、浩之の身体に腕を回す。
そのとたん、ぷにゅ、と志保の柔らかい胸が背中で押し潰されたのを感じ、浩之は一瞬凍り付いた。
「よーしヒロ、出発!」
「お、お前が命令するな!」
自分が感じた感情を誤魔化すように、浩之はやけっぱちに叫んだ。
強く回された両腕と、背中に感じる志保の熱く柔らかな身体に、浩之は生唾を飲み込む。
その一方で、志保は浩之のそんな感情に全く気付く事なく、ナビ代わりに携帯の画面とにらめっこをする。
「えーっと、取り合えず駅の方とは逆に行って」
「わかった」
志保の身体を強引に思考の中から押し出し、浩之は自転車をこぐ足に力を込める。
志保のナビのまま、小一時間ほど走っただろうか。
何時の間にか住宅街を抜け、二人はようやく山の麓に辿り着いていた。
「……なんつーか……ひでぇ有様だな」
「……そうね」
山と言うよりは、小高い森、といった感じの場所に、そこはあった。
とはいえ、それは住宅地側から見た感じがそうであって、奥に入れば結構険しい山道になっている。
しかし、問題はそんな事では無かった。
あちこちに散らばるゴミ、缶、そしてタバコの吸殻。
そしてその上さらに、誰かが切り出していったのだろう、めちゃくちゃに切られた笹の無残な姿があった。
笹の森は基本的に風通しが良くなるものだが、ここはそれ以上に酷かった。
しかもふたりが辿り着いた頃には、もう何人もの人が集まって、笹をさらに切り取っていたのだ。
「お前と同じ事を考えた奴が、他にもいたって事だな」
「……」
浩之の冷たい眼差しに、志保は居心地悪げに頬を掻いた。
ここにこれだけ集まっているという事は、恐らくあのネットのHPを見た連中だろう。
「マナー皆無だな。最悪だ」
志保はまるで自分が言われたかのように、険のある浩之の言葉にビクリと身体を震わせる。
そうしている間に、奥の方から、笹を切り出したグループが出てきた。
「あー、お前らも笹切りに来たのか? けどまともなのもうほとんどねーぞ」
「そうそう、何せ一週間も前から、ここに切りに来てるやつらとかいたし」
「……」
金髪の男は吸殻を下に落とすと、浩之達に背を向ける。
「おい、待てよ」
「あ?」
呼びとめられ、きょとんとする男に、浩之は無言のまま吸殻を指差した。
「拾ってけ」
男は一瞬沈黙してから、仲間内で大爆笑した。
「っぷはーーっ、何言ってんだこいつら」
「おいおい、早く行こうぜ」
ゲラゲラ笑う彼らが、バイクで去っていくのを睨みながら、浩之は深刻な溜息を漏らす。
「……ったく、モラルの欠片もない連中だぜ」
「……ヒロ、ごめんね」
ぽつり、といきなり呟いた志保に、浩之は目を丸くした。
「何でお前が謝るんだ。悪いのはあの馬鹿どもで、お前じゃないだろ」
「それは……そうだけど。けど、あたしがこんな所に来ようなんて言わなければ、ヤな思いしなくて済んだんだし……」
しゅんとする志保に、浩之は苦笑した。
「ばか、気にするな。せっかく来たんだし、落ちてる笹でも拾っていこうぜ」
「ん」
言いながら、浩之は逆に、落ちていた吸殻を拾い上げ、やはり落ちていた空き缶に放り込む。
それにつられたように、志保も吸殻や空き缶を拾い始めた。
いきなりゴミ拾いを始めた二人を、何人かが遠巻きにクスクスと笑い始める。
けれども、志保も浩之もそんな事は意にも介さず、無言のまませっせと掃除を続けた。
やがて日が大きく傾いた頃、あらかた綺麗になった笹林を見て、浩之は大きく息を吐いた。
「ふうぅぅ……やれやれ、今日は柄にもなくボランティアなんかしちまったぜ」
「あー、腰痛い……」
近くのくずかごに空き缶を捨てに行っていた志保が、腰を叩きながら溜息をつく。
もはや、周囲に誰の人の姿も無かった。
「ちっ、蚊に噛まれた……」
ぽりぽりと腕を掻いていた浩之は、沈んだままの志保の顔を見て、ふっと笑みを浮かべる。
「こら志保、まーだ沈んでるのかよ。いつもうるせぇお前が静かだと、天変地異でも起きるんじゃないかと心配するだろ」
「んー…」
ぐりぐりと乱暴に頭を撫ぜられ、志保は不満げに唸った。
「ごめんねヒロー、なんか散々な一日になっちゃった」
「だから気にすんなって。たまにはボランティアも気持ちがいいしな」
「……そこのお2人さん」
いきなり後ろから声を掛けられ、志保と浩之は文字通り飛び上がった。
「うひゃっ!?」
「だ、誰だ!?」
目を丸くするふたりの後ろに、まるで梅干のような、しわくちゃのお婆さんが立っていた。
お婆さんはぐるりと周囲を見まわすと、ほっほっほ、とまるで怪鳥のような笑い声をあげる。
「いや、感心感心。今時の若いもんにも、お前さんがたのようなのがいるとはね」
「……別に。あんまり好きかってして、他人に迷惑かけてる奴らがムカついただけさ。
だから、ムカついたらムカついたなりに、あいつらと反対の事がしたくなったからな」
「ほっほっほ」
梅干婆さんはまたもや笑うと、ぱちりとウィンクして見せる。
「なかなか豪気な子だねぇ。わたしがあと半世紀若かったらほっとかないヨ」
(……50年前でも40過ぎじゃねーのか……)
いや、下手をすれば100歳まで逝ってるかもしれない、そんなお婆さんだった。
「にしても助かったよ。いくらわたしでも、この森全部掃除して回るのは大変だったからねぇ」
「おばあちゃんはここの近くの人なの?」
志保の問いに、梅干婆さんはにやりと笑った。
「近くと言うかね。この山は全部、わたしの土地さ」
「……へっ!?」
志保と浩之が同時に声を上げたのを見て、梅干婆さんはまたもやほっほっほ、と笑った。
「住んでるのはこの山の麓だがね。ま、先祖代々このお山を守ってきて、わたしの代でちょいと躓いちまったんだがね」
「はぁ……」
「息子は東京のでっかい会社に行っちまったし、孫はどこで何をやってるやら……困ったもんだよ」
「……」
「つまんない話しちまったね。いいもん見せてやるから、ちょいとついて来なよ」
ちょいちょい、と手招きする老婆に、志保と浩之は顔を見合わせる。
「あんたらも、願いの叶う笹とやらを目当てに来たんだろ」
「え、ええ、まぁ……」
「ほっほ、だったら運がええねぇ。何せあんたらは、“本当”の笹を見られるんだから」
「本当!?」
山道を軽々と登っていく老婆に辟易しながら、浩之と志保もその後を追った。
ゴミ拾いに加え、慣れない夜の山登りに暑さが重なって、ふたりとも汗だくになってしまう。
それほど険しくないのが不幸中の幸いだったが、時折覗く、竹だか笹だかの根が、なかなかうっとおしい。
「ほっほっほ、そんな足取りじゃ夜が明けちまうよ」
「くっ……なんつー婆さんだ……志保、大丈夫か」
「はぁ、はぁ……疲れた……」
この婆さんなら、一人で全てのゴミを拾っても、息切れひとつしないのではないだろうか、とふたりは同時に思った。
「ほら志保、手、貸せ」
「えっ……う、うん」
おずおずと伸ばされた志保の手を掴み、浩之は上に引っ張りあげる。
「ほら、もうすぐだ、志保……どうした?」
「あ、うん……なんでもない」
志保の頬が赤らんでいるような気もしたが、この汗だくな状態ではわかるはずも無かったが。
「ついたよ」
老婆の楽しげな声に、疲労困憊していたふたりは、のろのろと顔を上げる。
「………!!」
瞬間、目の前の光景に、志保と浩之は言葉を失った。
驚くほど鮮明な月明かりが、僅かに開けたその空間を、そっと照らし出す。
僅かな空間を縫って届く月光が、ぽつんと佇むその笹を、周囲の空間からはっきりと浮かび上がらせていた。
周囲の笹が少し遠巻きにしている中、その笹はまるで、森の奥に立つ貴婦人のようだった。
「これが……願いが叶う笹?」
「ほっほっほ。短冊でも何でも吊るすがいい。お持ち帰りはできないがね」
梅干婆さんの言葉に、志保と浩之は呆然とその笹を見詰める。
「……だっ、しまった! 短冊忘れた!」
「ばかねぇ。あたしはちゃーんと、こうして4枚持ってきてるわよん」
自分のポシェットから短冊を取りだし、ひらひらさせる志保に、浩之はぎりぎりと歯噛みする。
「ほっほっほ。まぁいいではないか。少し月見とでもしゃれ込めば」
用意のいい事に、何故かシートとジュースを持ってきていた婆さんに、浩之と志保は関心した。
やぶ蚊が心配ではあったが、取り合えずシートの上に座って、3人でジュースを口にする。
「ぷはぁ……あー、生き返る」
「酒でもあれば良かったんだがね、あいにくわたしはあまり飲まないんでねぇ」
「んーん、ジュースで充分よね、ヒロ。あたしたち高校生だし?」
「……まーな」
笹と月を肴に、ジュースを飲んでいる3人は、側から見るとちょいと変ではあった。
もっとも、のんびりと月見を続ける彼らの姿を目撃できるような人間は、ここにはいないのだが。
「あ…雲が出てきたわね」
「ホントだ」
月の光が時折隠れるのを感じて、志保達は空を見上げる。
「お前さんがた、どうして七夕には、曇りや雨の日が多いかわかるかね?」
何故か妙に楽しそうな老婆に、志保は目をぱちくりさせた。
「それって、何か理由があるの?」
「勿論じゃよ。お前達、七夕は、織姫と彦星、離れておった恋人が1年に一度だけ出会う日じゃぞ」
「そりゃまぁ……誰でも知ってると思うけど」
そう呟いた志保に、梅干婆さんはにんまりと笑った。
「ではの、長い間引き離されてた恋人がようやく再会できた夜……何をすると思うかねぇ、ほっほっほ」
「な、なにって……」
「な、なるほど……」
老婆の言いたい事がわかり、顔を赤くする志保と、思わず頷いてしまう浩之。
「恋人同士のせっかくの夜を、わたしら下界人が覗き見る事ほど、下世話な事もなかろう」
「……だから、隠れる為に曇りとか雨が多いんだな……」
感心したように何度も頷く浩之の脇腹を、志保が小突いた。
「というわけで、じゃ。若い二人の為に、わたしはここらで退散しようかの、ほっほっほ」
意味深な笑みを浮かべて、例の笑いをする老婆に、志保と浩之は一瞬で真っ赤になる。
「あ、あたし達はそんなのじゃないってば!」
「そうだ、誰がこいつなんかと……!」
「ほっほっほ、ほっほっほっほっほ。よいよい。初々しいのぉ。帰りは真っ直ぐ下りればよい筈じゃ。
ちなみにこのシートと懐中電灯は、山の入り口の祠の辺りに置いといてくれればよいぞ。
ではな、ふたりとも。楽しかったぞ……ほっほっほ」
どこまでも用意周到さを見せ付けながら、老婆は山を降りていってしまった。
後に残された浩之と志保は、思わず気不味げに目を逸らしてしまう。
「はぁ……なんだったんだ」
「……あ、あたし、短冊吊るそっと」
取ってつけたような事をいいながら、志保はぱっと立ちあがった。
そして、ポシェットから短冊と糸を取り出す。
「……どうでもいいけど志保、お前4つも短冊書いてきてたのかよ」
「いーじゃない別に。一人ひとつってわけでもないんだし」
「1枚ぐらい、オレに手数料として渡す気ねーか?」
浩之の言葉に、志保は一瞬思案してから、渋々、くしゃくしゃになっていた1枚を手渡す。
「それの裏に書けばいいから」
「おう。えっと、確かボールペンがどっかのポケットに……」
ごそごそとポケットを探る浩之を置いて、志保は自分の短冊を確かめる。
“ぱたぽ屋のレアチーズケーキ”…“新しい服”…“ジャーナリスト”…“友達”……
「えっ」
4枚ある。
という事は……
「ちょ、ちょっとヒロっ!」
「!?」
ありえない最悪の可能性を思い浮かべ、志保は慌てて浩之の手から短冊を奪い取ろうとする。
その瞬間、浩之は反射的に身をかわし――志保はつんのめった。
だが、志保の手にはしっかりと浩之の胸倉がつかまれていた。
「だああっ!!」
「きゃあああぁぁっ!!」
絡み合うようにして倒れ込んだ二人は、お互いの頭をぶつけ、痛みのあまり絶句する。
「っつ……うう。ってヒロどきなさいよばかぁっ!!」
「いてぇ……お前なぁ」
志保を押し倒す形で、シートの上に倒れていた浩之は、ぶつけた頭を擦りながら、半眼で睨む。
「いきなり何しやがる」
「だ、だって……そ、その短冊」
「……この短冊がどうかしたのか?」
言いながら、後生大事に手にしていた短冊の願い事に、浩之は目を落とした。
「―――――! だ、ダメッ!」
慌てて浩之から短冊をむしりとる。
が、時すでに遅かった。
「………お、お前……」
「や、やーね、ただの冗談よ、じょ・う・だ・ん。あ、あたしがあんたの事そんな風に思ってるわけないでしょ」
“ヒロと恋人同士になれますように”
くしゃくしゃに丸められた後のある短冊には、そう癖のある丸字で書かれてあった。
今まで雲に隠れていた月明かりがさし込み、すっと志保の顔を照らし出す。
「……なぁ志保」
「何よ、やぁねぇ。そんな事本気にしちゃってぇ。ばっかみたい。あんたの事なんかなーんとも思ってないんだから」
早口でまくし立てる志保に、浩之は困ったように頬を掻いた。
「……じゃあ……なんで泣いてるんだよ」
「――――っ!?」
目を見開き、志保の表情が凍り付いた。
唇を戦慄かせ、瞳を濡らしている志保を、浩之は純粋に可愛いと感じていた。
志保の瞳に浮かぶ小さな水の粒を、指でそっと拭い、浩之は静かにその顔を見下ろす。
その表情は、志保からは月明かりが逆光になって、伺う事はできない。
「……なぁ、志保」
「な、なによ……」
「キスしていいか」
耳元に囁かれた声に、志保はビクリと身体を震わせた。
「い、いいわけな……っ!」
すっ――と、なんの前触れもなしに、ふたりの唇が触れ合った。
まるで、そうする事が始めから決まっていたかのように。
志保は大きく目を見開きながら、浩之の唇を受け入れていた。
強張った体から、すっと力が抜けていく。
口付けの時にずっと目を見開いたままというのも変だとは思ったけれど、それでも志保は目を瞑れなかった。
もし目を閉じれば、これが全て夢で、目の前から浩之がいなくなってしまうような気がして。
「んっ……」
唇を重ねながら、浩之の手が志保の身体の上を撫でる。
鼻をくすぐる浩之の汗の匂いに、志保は頭の中がくらくらした。
身体の一番奥の方から、ずきんっ、と甘い疼きが駆け巡る。
ぎこちない浩之の愛撫が、余計に志保の興奮を高め、時が経つのも忘れてふたりは互いの唇を貪っていた。
相手の身体に腕を回し、何度も何度も、優しく啄ばむようにキスを繰り返す。
「……ぁ」
触れ合った時と同じ唐突さで、ふたりの唇が離れた。
そのとたん、ふたりとも夢から醒めたように、はっと我に返る。
「あ……わ、悪いっ。つい……!」
「い、いいからどいてよっ」
お互いに目を逸らしながらも、熱く火照る顔は月明かりの中で一目瞭然だった。
慌てて浩之は立ちあがると、気まずそうに志保から目を逸らす。
「悪かった、志保。つい、その……」
「もういーわよっ」
志保はわざとらしく溜息を付いて、ぱんっ、と自分のほっぺたを叩いた。
「この貸しは、今日の分の借りでチャラにしてあげるから。……じゃあ、短冊吊るして帰ろ」
と、その時志保はふと、何かに気付いたかのように、自分の腕時計を見た。
「あ、ああ―――――っ!!」
「な、なんだどうしたっ!?」
いきなりの大声にぎょっとする浩之の前に、志保は自分の腕時計を突き出す。
その文字盤に光る数時を目で追った浩之は、ぎょっと硬直した。
「……0時2分………七月八日って」
「七夕……過ぎちゃった」
呆然とする志保に、浩之もまた呆然とした顔を向けた。
「……ほ、骨折り損……」
「……はぁ……」
盛大に溜息をつき……どちらからともなく、ははは、と乾いた笑い声があがる。
果てしなく虚しい思いを感じながら、思わず、どうすればいいんだ、と浩之はうめいていた。
「まぁ、いっか……思わぬ収穫もあったしな」
「収穫?」
懐中電灯の光を頼りに山道を降りながら、浩之はちらりと背後に目をやる。
「志保の唇」
「んな…………っっっこ、こ、このばかぁっ!!」
ぼすぼす、と背中を叩かれ、浩之はけらけらと笑う。
「あーもう、どうすんのよぉっ。忘れてたけど今からじゃ終電に間に合わないし!」
「オレの家に泊まってけよ」
「ぜっったい嫌!!」
互いに怒鳴りあいながらも、志保と浩之の口元には、笑みが浮かんでいた。
ふたりに必要だったのは、ちょっとしたきっかけだったのだ。
じゃれ合いながら山を下りていくふたりを、晴れ渡った天の川が見下ろしていた。