ザザァ…… ザザァ……
波が砂浜に打ち寄せ、また海へと引き戻されていく。
聞こえるのは波の足音。そして、遠くで歌うカモメの鳴き声。
そんな砂浜を、私は1人で歩いていた。
お母さんは仕事。往人さんもお金を稼ぎに商店街。
観鈴ちんは1人。家にいてもつまらない。だから私は海へ来た。
今日も空を映した海は青く、どこまでも広がっていた。
人気のない砂浜の上を歩くたびに新しい足跡が生まれ、そしてすぐに波にかき消されて行く。
真上にさんさんと輝く太陽は今日もぎらぎらと砂浜を照らしていて、海から吹く潮風が心地よく頬を撫でる。
今度は往人さんと一緒に来たいと思う。もし日曜日だったら、お母さんも一緒に3人で。
うん、とっても楽しそう。
誰もいない砂浜を、私はずっと歩いていく。
足に触れる、冷たい波の感触を確かめながら。
「……あれ?」
ふと、私は海岸線の向こうに何かを見つけた。
なんだろう。何だか黒っぽくて、お母さんのバイクぐらい大きくて、よく見るともぞもぞと動いている気がする。
……生き物なのかもしれない。気になる。うん、行ってみよう。
もしかしたらお友達になれるかもしれない。
「……わ」
その「もの」の正体を知った私はびっくりして、思わず口をぽかんと開けて呟いた。
でも、その驚きはすぐに感動に変わった。
「恐竜さんだ……」
そこにいたのは、本物の恐竜さんだった。
首長竜と呼ばれる恐竜さんに似ていて、首が長く、両手はヒレのようになっている。
恐竜さんにしてはちょっと小さい気がするけど、小さい方が可愛いからこれでもいいかも。
でもよく見ると、恐竜さんはピィピィと叫びながらもがいているようで、なんだか苦しんでいるようにも見える。
かわいそう。よし、もうちょっと近づいてみよう。
近くで恐竜さんを見て、苦しんでいる原因が分かった。
細い釣り糸が全身に絡まっている。
糸から抜け出そうと恐竜さんがもがけばもがくほど、釣り糸はもっと体に絡まっていく。
大変、助けてあげないと。
恐竜さんを怖がらせないように正面に回る。
突然現れた人間にビックリしていたみたいだけど、私が頭を撫でてあげるとおとなしくなってくれた。
「大丈夫だよ。今助けてあげるからね」
そう言って微笑んであげると、恐竜さんもちょっとだけ笑ってくれたように見えた。
もしかしたらこの恐竜さんはまだ子供なのかもしれない。
恐竜さんが痛くないように、気をつけながら釣り糸を解いていく。
釣り針は幸いにも刺さっていないみたい。よかった。
「……うん、これでよし」
釣り糸を全部外すと、恐竜さんの背中をそっと撫でてあげる。
初めて触る恐竜さんの体はちょっとごつごつしていて、でも温かかった。
「ありがとうございました」
………え?
「しゃ、しゃべった……?」
「はい、しゃべりましたよ。それより助けていただいて本当にありがとうございました」
私の目線の高さに合わせて、にっこりと笑いながら恐竜さんが言った。
「い、いえ。どういたしまして……」
びっくり。恐竜さんってしゃべれるんだ。観鈴ちん新発見。
「私はこの海の底の竜宮城に住んでいる首長竜です。ちょっと散歩のつもりで陸にあがろうとしたら、
人間が捨てた釣り糸に絡まってしまって……あなたには本当に感謝しています。あなたのお名前は?」
「私? 私は神尾観鈴。観鈴でいいですよ」
「観鈴さんですね。分かりました。それで観鈴さん、もしよろしければ、ぜひ助けていただいたお礼がしたいのです。
竜宮城へご招待したいのですが、私と一緒に来ていただけますか?」
「わ、竜宮城?」
「はい。私が連れて行ってあげます。それはもう、この世のものとは思えないほど美しくて楽しいところですよ」
なんだか浦島太郎みたい。本当にそんな話があるなんて、観鈴ちんびっくり。
「竜宮城……うん、行ってみたい」
恐竜さんともっと一緒にいられるし、おとぎ話みたいな世界に行けるチャンスなんてそうそう無いと思う。
「分かりました。では、私の背中に乗ってください。私の周りにいれば水中でも呼吸できるので大丈夫ですよ」
「よろしくお願いします」
飛び乗った恐竜さんの背中は思ったより大きく、乗り心地がよかった。
恐竜さんは私を乗せたまま海に向かうと、そのまま沖を目指して泳ぎ始めた。
海の中に潜ろうとしたときはさすがに不安だったけど、恐竜さんは大丈夫だよと言ってくれた。
その目は嘘を吐いている目には見えなかったから、私はそれを信じて一緒に潜った。
恐竜さんの周りは空気の球のような物で囲まれ、本当に水の中でも息が出来た。
最初は驚いたけど、水中では息の出来ない私はやっぱりホッとした。
そのまま、私たちは海の中を進んでいった。
まだ見たことも無い、夢のような世界・竜宮城へと向かって。
海の中は、まるで別の世界だった。
海上から降り注ぐ太陽の光が幾筋もの柱となって海底を明るく照らしていた。
色とりどりの魚や海草やサンゴや貝さんたちが自由に泳ぎ、揺らぎ、踊っていた。
群れをなして泳ぐ小さなお魚さんたちは、まるで一匹の大きな大きなお魚さんのように見えた。
海の中は青く、それでいてどこまでも澄んでいて、果てしなく青い世界が広がっていた。
空の青さとはまた違った青色。それでいて、空と同じようにどこまでも続いていく透き通った青色。
まるで切り取った空を私たちの世界に持ってきたかのようだった。
こんな景色をいつまでも見ていたいと思った。
どれくらい深くまで潜ったんだろう。
私たちの進む先に、大きな建物が見えてきた。
近づくにつれて次第にはっきりと見えてくる。あれがきっと竜宮城。
この青い海にはちょっと不釣合いな人工物のはずなのに、それはまるでここにあるのが当然と主張したがっているかのように、大きくそび立っていた。
竜宮城の門が静かに開き、私たちはそのまま中に入っていった。
お城の中には水のかわりに空気があるみたいで、恐竜さんから降りた私も普通に息ができた。
「私は乙姫様を迎えに行きますので、観鈴さんはここでちょっと待っていてください」
そう言って、恐竜さんは城の奥へと行ってしまった。
私はひとりで入り口に残されてちょっと寂しかったから、入り口のあたりを見て歩いた。
さっき見た海の中も綺麗だったけど、竜宮城の中もとても綺麗だった。
どこからか差し込んで来る光が、サンゴや貝殻や石で飾り付けられた壁や天井に反射して煌めいていた。
見たことも無い色とりどりの海草があちこちに飾ってあった。
そんな、おとぎ話の中でしか見たことの無い世界が目の前にあった。
「観鈴さん、お待たせしました。乙姫様がおいでになりました」
その言葉につられて、声のした方を振り返る。
そこには恐竜さんと、1人のきれいな女の人がいた。
……え? あれ? あの人って……?
「……ちっす。ようこそ、竜宮城へ」
「と、遠野さん!?」
乙姫様と呼ばれたその女の人は、どう見ても私のクラスの遠野美凪さんだった。
華やかな着物みたいな服を着ているけど、本当に顔も仕草もそっくり。
「……遠野さん? 私? 私は乙姫……乙姫は遠野さん?」
遠野さん……じゃなかった。乙姫様は、遠野さんと同じように手を頬に当てて首をかしげた。
「観鈴さん、このお方が乙姫様ですよ」
恐竜さんが慌てて乙姫様を紹介してくれた。
「あ、ご、ごめんなさいっ。私の知っている人にすごく似てたものですから、つい……」
とてもびっくりした。考えてみれば遠野さんがこんなところにいるわけないんだけれど、本当によく似ていた。
「……そうでしたか。それは気にしないのでへっちゃらです……。それより、この子を助けていただいたそうで、ありがとうございます。
お礼といってはなんですが、あなたを歓迎しちゃいますので、よろしければ心ゆくまでお楽しみください」
恐竜さんの頭を撫でながら、乙姫様がぺこり、と丁寧にお辞儀をした。
「あ、ありがとうございます」
ぺこり、と私もつられてお辞儀を返す。
「……では、こちらへどうぞ」
竜宮城の大広間。
他のところよりもひときわ豪華に飾り付けられたその場所の真ん中に、私はいた。
タコさんやイカさんが、次から次へと食べきれないほどのお料理を運んできた。
食べたことのないような珍しいお料理ばかりで、とても美味しかった。
タイさんやフグさんが優雅に舞っていた。
ヒラメさんやカレイさんが華麗に踊っていた。
サザエさんやホタテさんが笛を吹き、イルカさんが歌を歌っていた。
お魚さんたち以外にも、乙姫様みたいな綺麗な女の人たちがたくさん現れて、音楽にあわせてみんなで踊った。
その中の1人、髪の短い可愛い女の子が私の方へやってきた。
診療所の霧島先生の妹さんに似てるな、と思ったけど、今度はなんとか声に出さなくて済んだ。
霧島先生の妹さん!? なんて言ったら、また変に思われちゃうかもしれないから、危なかった。
「ねぇ、あなたも一緒に踊ろうよぉ」
その子は笑顔で私に手を差し出してくれた。
私はとても嬉しかった。
私に手を差し伸べてくれる人がいたことが、とても嬉しかった。
「うんっ」
その手を取ると、私は立ち上がってみんなと一緒に踊った。
初めてだったからあまり上手く踊れなかったけど、とても楽しかった。
最初の踊りが終わると、みんなが拍手してくれた。
拍手なんてもらったのは本当に久しぶりだったから、やっぱりすごく嬉しかった。
踊って、疲れたら休んで、お腹がすいたらお料理を食べて、みんなの踊りを見て、また私も踊って。そんなことを何度も何度も繰り返した。
どれくらいの時間が経ったかなんて関係なかった。
その瞬間があまりにも楽しかったから、時間の流れなんて気にしていなかった。
そして、時折窓から見る海の中の風景も、時間の流れなど感じさせないかのように、いつもゆったりと動いていた。
「……楽しいですか?」
休んでいた私の隣にやってきた乙姫様が、唐突にそんなことを聞いてきた。
「うん、すごく楽しい」
私は思ったままに答えた。前からずっと何かが足りない気がしていたけど、でも楽しいのは本当のこと。
「……最高?」
「うんっ、最高」
その言葉が嬉しかったのか、乙姫様は口元を緩めて、かすかに微笑んでくれた。
「……あなたさえよければ、ずっとここにいても構いませんよ」
「……え? ずっと……ここに?」
ずっとここにいる。ずっと、ここに。
いつまでも地上に戻ることもなく、家にも帰らないで、ずっと、ここに………。
そのとき、私は無くしていた記憶の1ピースを取り戻した。
私がここにいる間、かすかに感じていた違和感。楽しいけれど、でも、何かが足りない。
本当はもっともっと楽しいはずなのに。
どうしてなのか、その答えに今ふと辿り着いた。
ここにはお母さんも往人さんもいない。
竜宮城の人たちはみんな優しくていい人たちばかりだけれど、ここには私の大切な人たちがいない。
だから楽しさが半減だった。私はきっといつも心の奥底で寂しさを感じていたんだ。
私はそれを忘れてしまっていた。お母さんも往人さんもいなかったから、ずっとどこかに違和感があったんだ。
「……どうしました? 神尾さん」
「私……」
いったん思い出してしまうと、とたんに寂しさが募ってくる。
ダムが決壊して水が溢れ出すように、お母さんと往人さんに会いたい気持ちが一気に溢れてきた。
「やっぱり私、ずっとここにはいられない。帰らなくちゃ。お母さんと往人さんが待っている、私の家に」
「……そうですか」
目を伏せて、残念そうに俯く乙姫様。
ちょっと悪いことをした気もするけれど、私はもう十分に楽しませてもらったから。
それに、きっとお母さんも往人さんも心配してる。
だから、もう帰らなくちゃいけない。
私が本当にいるべき場所へと。
あの恐竜さんが帰りも送ってくれることになった。
竜宮城の入り口で、みんなが見送りに来てくれた。
「……では神尾さん。お土産にこれを」
そう言って、乙姫様がきれいな箱を手渡してくれた。この展開って、どこかで聞いたことがあるような気がする。
「もしかして、玉手箱?」
「……正解」
ということは、これを開けたら私はおばあちゃんになってしまうのかもしれない。
危ない危ない、気をつけないと。
「……決して開けないで下さい。開けたら大変なことになっちゃいますので」
「うん、分かった」
「それでは行きますよ、観鈴さん」
「うん、よろしくね恐竜さん。乙姫様も、みんなも、とても楽しかったよ。ありがとう」
「……お元気で」
「楽しかったよぉ。またねぇ〜」
たくさんのお友だちと手を振ってお別れをして、私たちは再び海の中へと進んでいった。
来たときと変わらず、海はいろいろな世界を私に見せてくれた。
竜宮城の人工的な美しさとはまた違った、この海の中の美しさは、この星が生み出した自然の神秘だと思う。
魚が群れをなし、海草がゆらゆらと揺れ、太陽の光が何本もの光の柱を形作る。
海の中には、本当に、「時間」という概念はないのかもしれない。
「では、お元気で」
私を砂浜まで送ってくれた恐竜さんが、再び海へと潜っていく。私は恐竜さんが見えなくなるまでずっと手を振っていた。
さあ、急いで家に帰らないといけない。
お母さんも往人さんもきっと心配してるから。
でも、何だか町がヘンな感じがした。
最近まで確かに空き地だったところに、赤い屋根の家が建っていた。
武田商店があったところにはコンビニができていて、どろりシリーズを売っていたはずの自動販売機もなくなっていた。
……なんだか嫌な予感がした。
急いで家に戻った。焦りと不安から、早足はやがて駆け足へとなっていった。
……そして、恐れていたことは現実になった。
私の家は無くなっていた。
外見も、表札の苗字も全然違うものに変わっていた。
呼び鈴を押そうと思ったけれど、もし中から全然知らない人が出てきて、『どなたですか?』と聞かれるかもしれないと思うと怖くて、手足がガタガタと震え、押せなかった。
そのまま私は家を後にすると、あちこちを駆け回った。
商店街だった所には大きなショッピングセンターが出来ていて、人で賑わっていた。
往人さんと2人で遠野さんと出合った駅は取り壊され、新興住宅街が出来ていた。
学校は元のままだったけれど、すれ違った生徒らしい女の子の着ている制服のデザインが変わっていた。
……私は防波堤の上に座っていた。
足を棒にして駆け回ったけれど、結局、知っている人には誰も会えなかった。
……お母さんも、往人さんも、みんな、もう何処にもいない。
頭では認めたくないけれど、目の前にはそれを認めざるを得ない事実が突きつけられていた。
浦島太郎と同じだった。竜宮城にいる間に、地上では何百年もの月日が経っていたんだ。
そう考える度に涙が溢れてきた。完全に独りぼっちになってしまった私には、それを止めることは出来なかった。
「お母…さん……往人……さん……ひっく、ひっく……」
日が傾き、辺りが茜色に染まるまで、私はただ泣き続けた。
自分のどこにこんなに涙が貯められていたんだろうと思えるくらいに泣いた。
いつしか泣き疲れ、泣き止んでいた私は、1人で海を見ていた。
「こんな時でも……どんなに時間が経っても……海って綺麗なんだ……」
空の青色を映していた海は、今は夕焼けの茜色をどこまでもどこまでも映し出していた。
私に残されたのは、楽しかったあの日々の思い出と、乙姫様からもらった玉手箱が1つだけ。
「……開けよう、玉手箱」
そう呟くと、私は玉手箱の紐を解き始めた。
おとぎ話では、浦島太郎はおじいさんになった後、鶴になってどこかへ飛んでいってしまう。
私もそうなりたかった。
悲しさも、寂しさも、切なさも、全てを忘れてはるか遠い空の向こうまで飛んでいきたかった。
そして箱が開いた。予想通り、空けた瞬間に中からは白い煙がもくもくと出てきた。
その煙に包まれた私は、まるで夢を見ているかのような不思議な気分だった。
これが夢だったらいいのにと思ったけれど、煙が晴れた後、私が見たのはさっきと同じ茜色の海と砂浜だった。
けれど、景色ではなく私自身に、さっきまでと違う点が1つだけ確かにあった。
おばあさんにも鶴にもならなかったけれど、代わりに私の背中に翼が生えていた。
翼が生えたことへの驚きも喜びも無かった。私はただ、感じるままに背中の翼を羽ばたかせ、大地を蹴った。
そして、私は飛んだ。
みるみるうちに地上は遠ざかり、空で私は風と1つになった。
上には夕日を受けて茜色に染まった入道雲。下にはどこまでも広がる大海原。
はるか遠くへ。はるかなる高みへ。
果て無き水平線の向こうにある、空と海の境界線を目指して。
辿り着く場所もわからないまま、私は風となり、大空を飛んでいった―――――。
「……おい、観鈴」
「なあに? 往人さん」
「なんなんだ、この昨日の日記は」
部屋で一緒に遊んでいた往人さんが、ちょっとあきれたように私の夏休みの日記帳をひらひらさせながら聞いてきた。
開かれたページには、私が見た夢の内容を書いた昨日の日記が大きく載っていた。
タイトルは、『観鈴ちんと海の思い出』。 わ、読むなら読むって言って欲しかった。
勝手に日記を見られて恥ずかしい……だけど、見られちゃったものは仕方が無いかな。
「あのね、昨日そういう夢を見たの」
私がそう言うと、往人さんは『はぁ……』とため息を1つ吐いた。
あれ、私何かヘンなこと言ったかな?
「あのなぁ観鈴。日記なんだから実際に起こったことを書けっ」
「え? でも、実際に夢で見たんだから、実際に起こったことだよ」
「む? ……そうなのか? いいのか? いやしかし……」
なんだか往人さんが1人でブツブツ言いながら悩んでいる。
にはは、やっぱり往人さんって面白い。
でも、もし夢が本当になるのなら。
私は往人さんと、そしてお母さんと一緒に竜宮城に行きたい。
1人じゃない。大切な人たちと一緒だからこそ、楽しさも嬉しさもどこまでも大きく膨らむから。
みんなで一緒に歌って、踊って、ご飯を食べて。
それはとても楽しく、そしてかけがえの無い瞬間。
やっぱり、こんど3人で海に遊びに行こう。
ふと、開けっ放しの窓から一筋の風が部屋に流れ込んできた。
私の前髪をそっと揺らしたその風は、かすかに潮の薫りがした。
完