神尾観鈴のがおがおすれっど#12

このエントリーをはてなブックマークに追加
6771/6
夕方。昨夜、観鈴の傍にいたことが、遠い昔に思えた。
観鈴から離れることを決意して、立ち上がる。
納屋に置いておいた荷物の一部を取りに行く。
納屋の中。
間歇的に襲う激痛に、バランスをくずす。棚に身体をぶつけてしまった。
「何をやってるんだろうな…」
バラバラと落ちてきた古ぼけたキャンプ用具。小さな封筒がはみ出していた。
何気なく、手を伸ばす。几帳面そうな、字。
静かに、封をあける。
6782/6:03/08/05 06:38 ID:+0J4of6J
「観鈴へ

これを読んでいるあなたはいくつなのかしら。
ひょっとしたら、ずっと先、あなたの子どものために用意してるときにみつけていたりして。
って、すぐにみつかっちゃったら恥ずかしいね。

キャンプなんて、あなたははじめてね。
一緒に寝ながら、あなたは、どうしてみすずの名前はみすずっていうの?
って聞いたわね。今日教えてあげたことは、たぶん今のあなたには難しかったと思うから、ここに書いておくね。

観桜(かんおう)ということばがあるの。お花見のちょっと難しい言い方なんだけどね。
観鈴は、それをまねしたの。鈴を見て楽しむこと。わたしが考えたんだけど。
鈴はみてるだけじゃつまんないよ。ならさないと楽しくないよ。
ってあなたはいったわね。そうね。
昔ね。わたしの友達に、耳の聞こえない子がいたの。
でも、その子はとても鈴が好きだった。
一度だけ、その子に聞いてみたことがあるの。どうして鈴が好きなのって。
その子はこう答えてくれた。
子どもたちや動物が、鈴が鳴っていて喜んでいるのをみると、とても楽しくなるからって。
観鈴。
自分が楽しいとき、楽しいと思うのはとても大切なこと。
でも、誰かが楽しいときも、一緒になって笑ってあげて。
誰かが悲しいときは、助けてあげて。
そうすれば、きっとあなたも、みんなも、幸せになれるから。
6793/6:03/08/05 06:39 ID:+0J4of6J
そうしたら、あなたはいったわね。
じゃあ、みすずもおかあさんのお友達に教えてあげるよ。
今、鈴がなってるよって。とても楽しいよって。わたしが楽しいと思ってること。
そのお友達に教えてあげる。
ねぇ、お母さん、わたし、みすずって名前大好きって。

観鈴。あなたはとてもやさしい子。わたしの宝物。

あなたにも子どもが生まれたら、すてきな名前をつけてあげてね。
そうね。「鈴音」ってどうかしら。ふふ、冗談よ。
あなたの子どもの名前は、あなたの大好きな、ずっと一緒にいる人と
きめなさい。きっと、すてきな名前になるわ。

もう遅いから、今日はこのへんで。明日起きられないからね。

お母さんより」
6804/6:03/08/05 06:40 ID:+0J4of6J
…観鈴。…観鈴。
嗚咽だけをくりかえす。
観鈴といたい。観鈴と生きていきたい。3人で、生きていきたい。
涙が涸れるまで、納屋にいた。

静かに立ち上がる。
ひょっとしたら、もう一度、全てをやり直すこともできるかもしれない。
さっき誓ったように、今出て行けば、観鈴も、俺も、良くなるのかもしれない。
だけど、今ここにいる俺に、もう観鈴のそばから離れることはできない。
観鈴が俺を。俺が観鈴を忘れて生きていくなんて、耐えられなかった。
荷物と、人形。納屋においておく。
母親の願いに背を向けて、ただ、観鈴という夢のなかにいることだけを願った。
6815/6:03/08/05 06:40 ID:+0J4of6J
夕暮れ。観鈴の部屋が、赤く染まっている。
「観鈴」
「往人さん」
今、俺の前にあるもの。それだけしか、いらない。
笑顔で答える。
「…子どもの名前って、決めてるか」
「…」
ぽかんとしている観鈴。やがて、真っ赤になる。
「…や、やだ。…往人さん、気が早すぎるよ…」
そういえば、観鈴が恥ずかしがる顔って、はじめてだな。新鮮だ。
「どうした、そういうことをしたんだから、早くはないぞ。
 あと10ヶ月しか、ないんだ」
「も、もぅ…」

男の子。女の子。人数。名前。見せてあげたいもの。食べさせてあげたいもの。
飽きることなく、話し合う。
観鈴のしょうもない意見に、俺が突っ込む。
俺の無茶な意見に、観鈴が抗議する。

本当に幸せそうな顔で、生まれてもいない俺達の子どものことを話す観鈴。
それをそばで見ていることが、ただ、本当に幸せで。
だから、少し眠くなる。
…そういえば、観鈴の怒り顔はまだみたことないな。
観鈴…先に寝るから。
明日、また意地悪なことをするから、怒って見せてくれよ。
でも、おまえが怒っても、ちっとも怖くなさそうだけどな。
あ、そういえば、がおって口癖は直せよ。
子どもにうつっちまったら、2人も叩くのは大変だからな…

「もぅ、往人さんから恥ずかしい話をしておいて、
 どうして先に寝ちゃうかなぁ。…バカ」
6826/6:03/08/05 06:44 ID:+0J4of6J
今日も空は青い。
多分、明日も。明後日も。
まだ、夏だから。

人の気配。
口にするのが億劫で、頭の中だけで挨拶をする。
それに答えてくれるように、静かな声がする。

「まだ起きないのかな。寝ないで考えたのに。
 ねぼすけなお父さんだね… そら」